ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
***
しんと静まり返った夜。すやすやと寝息が聞こえる頃。濃紺を湛えた海の上、水先案内を営む会社が浮かぶようにある。ARIAカンパニーである。
今はずいぶんと遅い。そのため、会社の窓に照明は見えなかった。
海と同じように、広大な空。夜の空。無数の星が瞬き、そして大きく膨張した雲が流れていた。雲はたくさんの水分を含んでいるようだった。そして雲、そのもやもやとしたスモークに、星によく似た光が、それも微かな光が、キラキラと光っているように見える……
◇
消灯された室内。微弱な光明がARIAカンパニーの屋根裏部屋を、寒気立つような青白さで、夢のように染めていた。星の薄明りだった。
真っ白な寝衣が、星々が落とすその妖しい青白さの中で、美しい輝きを帯びていた。
彼女はベッドの上にいた。新米の水先案内人だ。灯里は、布団をコートのようにまとって、ベッドのそばのまるい窓に向かって、外を眺めていたのだ。
窓はよく磨かれていた。ガラスは、新品のような光沢を持っており、そしてあまりにも清いので、その面は、鏡と同様の性質を有していた。
窓を境にして、二人の灯里が対面している。ある方はくっきりとした実像。他方は儚げな透明さを帯びた虚像である。
《すっかり、寒くなりました》
灯里は、ハァ、と窓ガラスに息を吐いた。すると、凍り付いたガラスの一部が、淡い結露で白く曇り、灯里の虚像はその分掻き消えた。しかし、程なく結露は失せ、消えていた灯里の一部が元に戻ってくる。面白いような、また面白くないような、自然現象を用いたあどけない戯れだった。
《冬になった、ということです》
灯里は憂わしげに目を細め、物思うように俯けた。
――そんな様子が、ARIAカンパニーの窓より窺われる。目を瞑って、俯いている灯里の姿。寂寞とした闇夜の風景を映し、その物悲しい風情を帯びた小窓の奥で、じっとしている少女の姿は、哀れな囚人のように、見えなくもない。
水中に頑丈な脚によって立っている社屋。海は盛んに波立ったが、揺動する気配は微塵もしなかった。
屋根裏部屋のベッドの上で、果然灯里は、目を閉じている。まるで、眠ってしまったかのように。
ふと、シャンシャンと、複数重なった鈴の音が、響いてきた。
「……!」
その音に、はっとして灯里は顔を上げ、目を開いた。
星空の青白さの中で、寝ずにじっと外を眺めている、布団をまとった灯里。
その瞳には、細かい煌めきが映っていた。目を凝らさなければ見えないほど、その煌めきは細かかった。そして天使の衣のように、純白だった。
「雪」
ぽつりと呟く灯里。彼女は、青白さの滲む薄暗い部屋で、ベッドの上で、何かの存在を予期するように、外へと、ぼんやりした視線を投げている。
******************
こざっぱりとしたダイニング。調理台のところでは、新米ではない熟練の水先案内人が、エプロン姿でいる。アリシアだ。
彼女は、機嫌よさそうに、鼻歌を歌って、前かがみの姿勢でティーポットを傾け、ふたつのカップに茶を淹れているところだった。
「さて」
茶を淹れ終わり、ポットを調理台に置くと、アリシアは上半身を立て、窓の方に首をひねって目を向けた。彼女は、青白い朝方の空と、海と、雪の降っている様を見た。
「寒そうね」
空に太陽はあるに違いないが、何となく、ないように、その時は思えた。
アリシアは、感慨深げに目を細めた。
「とても、寒そう」
その言い様は、べつだん寒いのが嫌というわけではない、というように聞こえた。
シャンシャンと、多重の鈴の音。耳ざわりのよい、可憐な音。
アリシアは、思い人の腕に抱かれる時のように、うっとりした風に目を淑やかに閉じ、「まぁ」、と、感嘆するように言った。
「冬の音が――」
◇
テーブルの上にあるカップの茶が、白い湯気を立てている。カップはふたつ。
アリシアは、灯里と向かい合ってテーブルに着いていた。それぞれ異なる姿勢でおり、アリシアは、両肘を机上に突いて、手を組み合わせているが、灯里は、小心翼々とした感じで、両腕を突っ張ったようにして、手を腿に置いて、目線を落としているのだった。
机上には、カップだけでなく、先ほどのティーポットと、シュガーポットと、菓子の詰まった小さなバスケットがあった。用意は万端整っていた。
「冬が来ましたね」、と話題を持ち掛ける灯里。
「えぇ」 アリシアは無難に応じる。
「今年はどれくらい、雪、積もるんでしょうね」
問われたアリシアは、考えるように目を上にやり、「そうねぇ」と言った。
「あんまり多く積もると、雪掻きが大変になるわね」
上にやっていた目を戻し、苦笑して見せるアリシア。
その答えと表情に、灯里は顔を上げ、穏やかな微笑みで応じた。
「そうですね」
アリシアと灯里が対面して着くテーブルの彼方にある広い窓には、その窓には決して収まることのない無限大の冬の景色が、窓に切り取られて、いわば編集された形で映っている。寒々とする青白い空。絶えず降り続く白の結晶。ひんやりとした風のささやき。
ダイニングの壁に、カレンダーが掛かっている。そしてそのカレンダーは、現在が冬季の真っ只中であることを示しているのだった。
***
すっかり積雪して白くなった、水路に沿う道。
水路の反対側には石造りの建物が所狭しと立ち並んでいる。道には人通りがあり、みんな傘を差していて、時折、傘のビニールより、雪の塊が滑り落ちていた。
灯里も例外ではなく、傘を持ってきて、差していた。雨よりはマシだが、それでも雪に塗れて濡れたり、服を汚したりするのは嫌だった。
テクテクと歩いている灯里は、ふと立ち止まると、気分を害したように眉をひそめた。
手を鼻に当て、ぎゅっと目を瞑る。
「――ッ!」
くしゃみが出た。あまりひどいものではなく、済んでしまうと、灯里は目を開き、鼻より手を離した。
《ホント、すっかり寒くなりました》
くしゃみの後間もなく、突風が一陣吹き荒ぶ。鋭い音と共に、吹雪が巻き起こる。
すると、灯里は再びぎゅっと瞑目し、縮こまるようにして、傘を胸に抱え、冬の轟きを切り抜けようと試みた。そして冬の轟きはあっという間にしずまった。
本当に止んだのか疑るような仕方で、ゆっくりと、灯里は目を開き、辺りを見回した。人通りのあった道。あったはずの道。ところが、今や無人と変わっていた。
シャンシャンという鈴の音。
灯里はきょとんとする。
《また……》
謎の音に心当たりでもあるのか、彼女は水路の方に目を向けると、アーチ型の小橋のそばにある細い階段を降り、水路の際まで行った。
水路の水は澄んでいた。
灯里はかがんで俯き、その水を覗き込んだ。
《アクアの、冬》
雪の降り込む水路の水面に、灯里が映り込んでいる。夜のしじま、あの部屋で窓ガラスに向かっていた時と同一の感じがした。強い既視感が彼女に萌した。
灯里は、ハァ、と、息を吐いてみた。だが、息は水路に向かうどころか、白く凍った途端、瞬く間に上昇して消え失せた。
何となく面白くない感じを覚えた灯里。だが、彼女は再び、反射的に片手で鼻を抑え、目を瞑った。
「――ッ!」
何の変哲もないくしゃみだった。寒さの悪戯だった。灯里は鼻より手を下ろし――鼻が少し赤くなっていた――目を開き、空を仰いだ。
傘のビニールと骨、建物の最上部が見える。そしてその彼方には雪雲が流れているのだった。雪雲は白く発光する微小な粒を無数にはらんでいた。全ては大小様々だった。ある粒は大きく光り、他のある粒は小さく光っている。
灯里は口元を緩ませ、感慨深げに、目を瞑った。
《ネオ・ヴェネツィアの、冬》
そして目を開き、雪のじぶんに向かって舞い降りてくる神秘的な様に、拝むような心地で見入った。
――ダイニング。調理台のそばで、丁寧な手付きで食器を磨くアリシア。
ふと、はっとして首を捻り、窓の方を向くと、驚いたような表情を見せ、そして喜ばしそうに微笑んだ。
「まぁ」
窓の外では、青空より、無数の煌めきが、光の欠片が、降っているのが見えた。
――灯里は歩いていた。辺りには人通り。そしてみんな、傘を差して歩いていた。
(終)