ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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ツーッと、頬に一筋の涙が流れた。目を瞑って、その流れていく感覚にじっと集中した。慰めと励ましを偲ばせる温かい涙が、乾いた頬の上を緩やかに滑っていく。
――しかし、いったい何の涙だったのだろう?
目をゆっくりと開き、空を見上げる。晴れ空。海岸線より望む。
晩夏と初秋をちょうど区切る、ぽかぽかして凄しよい一日。半袖のセーラー服でちょうどよいと思える気温と湿度。やや汗ばむ熱気と、涼しい、落ち着かせる秋風。太陽の光は最早、地面から照り返してこず、ただ地面の上でたゆたうばかり。
グスンと洟をすする。涙の跡を指の背で拭う。
そして濡れた指を見て、やはりいぶかしい思いに駆られる。
空――盛夏にはあれほど近かった入道雲で一杯の空が、今では高くなってしまったものだ。しみじみと、季節の移ろいを感じる。空青の海を、雲の群れが悠然と泳いでいく。
あぁ――
わたしは追い風を背に受ける。それほど強さのない、柔らかい追い風。しかし髪はその流れにのってなびき、頭に被っている制帽は危うく飛んでいってしまいそうになる。
ズキズキと痛む感じがする。胸の中だ。息が苦しくなるほどではないが、確かに痛いと感じる。
目を瞑り、片手でセーラー服の胸のところを握り締める。
――痛みの手触りがない。痛みは胸の奥にあるようだ。
「大丈夫か」
――そう尋ねる声がする。ぼんやりと、回想の遠いところから。
晃ちゃんの声だ。
「アリシア、アリシア」
粘り強く呼びかけ続ける晃ちゃんは、わたしの肩に手を置き、軽く揺さぶる。
わたしは小さくしゃがんで、嗚咽を漏らして泣いている。どこだろう? たぶん、公園かどこかの、隅っこだ。人目の届きにくい。木か何かの物陰。じめじめしてまた冷やかで、わたしは出来ればいたくなかった。だが、そこにいないといけなかった。
「アイツ等はいなくなったよ」
――自分では釈然としないが、なぜか目立つらしいわたしは、いじめっ子のターゲットに度々なり、毎度心身共に傷付けられていた。わたしが気に入っている自慢の長い髪が気に障るのか、よく引っ張ったりして、いたずらされた。
「……ウッ、ウッ」
「わたしがやっつけてやった」
「……ごめんね、晃ちゃん」
「お安い御用だって。謝る必要なんかないよ」
肩を掴むその手が優しい。顔を殴ったり髪を引っ張ったりすることのない手だ。温情に満ち溢れた愛おしい感触がした。
ニカッと笑いかける、キャップを斜めに被った晃ちゃんの笑顔が、涙が滲んでよく見えない。
だが、ぼんやりとは見える。へっちゃらだと彼女は意地を張って見せるが、わたしと同じように、体のあちこちに痛々しい青アザを付けている。激しく格闘したのだ。
彼女だってわたしと同様、痛いだろう.
悲しいだろう。ヒトの中に潜む悪魔に怯えただろう。だが、彼女はわたしの肩にある手を引き、今度は乱れた髪に触れる。直してくれるみたいだ。
その健気さに、目の前がより一層、ぼやけて不明瞭になる。
――目を開くと、わたしは、茫漠たる空間の広がりを感じた。波の音が失せ、耳には風のささやきが微かに聞こえるばかりだった。わたしを囲む全体は清々しいライト・ブルーに染まり、白いもやもやがゆっくりと大きい円を描いて廻っている。足踏みをすれば、強い反発と弾力を感じ、歩こうとすると、ぎこちない恰好になる。
不思議だったが、なぜか安らぎを感じる空間だった。ひょっとすると、空を飛んでいるのかも知れない。ふと、気付いたら、頭の制帽がなくなっている。
「アリシア?」
幼い声がした。わたしに呼びかけている。声のあるじは一片の雲の向こうにいるようだ。だが、その影にまぎれて見えない。だが、雲は段々と薄くなっていき、遮っている展望を開く。
「この帽子は、お前のものだろう?」
幼い頃の姿なのに、まるでずっと馴染みだったようにフランクにしゃべりかける彼女は、白い帽子を差し出す――わたしの失くした制帽だ。
歩くのは危ないと制止する前に、制帽はふわりと宙に舞い上がってクルクルと翻り、風の流れに乗って飛んできて、わたしは即座に構えなければ、うっかり取りこぼしてしまうところだった。
「ありがとう、晃ちゃん」
そう礼を述べた時、彼女はさっきより遠くに退いたように見えた。ただでさえ小さい彼女が、更に見えにくくなった。
――どうして苦しい時、決まって彼女はそばにいてくれるんだろう。
問いかけてみたい気がしたが、反面そうするべきではないと制止する自分がいた。
わたしは沈黙した。
すると、晃ちゃんは踵を返して、手を上げ、別れの言葉を告げた。
わたしも手を上げて、返した。晃ちゃんは、見えなくなった。
ふと、周りを巡る雲が、動きを止めたかと思うと、ストンと落下し、そして跳ねた。
わたしはびっくりしたが、その短い間に、最初にいた海岸線に戻っていた。
日の光が弱くなって、また影法師が引っ張られたように伸びていた。
手に制帽を持っていた。わたしは空いている方の手で、胸をポンと叩いてみる。すると、その衝撃が表から裏へ――胸から背中へ、スッと貫通した。その間に違和感はなかった。前まであったはずの痛みは、取りあえず治まったようだ。
――回想と、そして空想じみた境域で出会った幼馴染であり、親友である彼女の昔の姿を見て、懐かしい思いに駆られるのは自然のことだった。
そういえば、あの頃の話――わたしが惨めで、たくさんこっぴどい目に遭った頃の話は、彼女としたことがない。いい思い出ではないので、意識して封印していた。
だが、やっぱり口にしない方がいいのかも知れない。あの頃のことは、いわば古傷に似通っていて、わざわざ見せないといけないものではない。折に触れて、ズキンと痛むものだ。しかし古傷には、彼女の優しさが癒してくれた跡がじんわりとまだ命脈を保っている。
その嬉しさ、愛しさが、わたしの口を軽くしようとするが、わたしは努めて自制する。
――また涙が流れる。一筋だけ。頬を温かさを伴って伝っていく。
安心させるが、同時に、微かに悲しくもさせる涙だった。
わたしは今度は、拭わなかった。涙は頬をずっと伝うと、顎に移り、喉を下りていく。
――初秋の風が吹き抜ける。涼しい、心地よい物寂しい風。
その風が、涙を乾かしてくれるだろう。
――わたしの、安らぎであり、望みだった。
(終)