ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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――ねぇ、今から海に行かない?
――えっ?
昼間の海水浴でたっぷり羽目をはずしてクタクタだというのに、彼女はまだ遊び足りないのだろうか。
「いいけど」、とわたしは答える。「もうすぐ日暮れだよ?」
「大丈夫だって、真夏の日脚は長いんだから」
空調のよく効いた室内は冷涼だ。シーリング・ファンがそれほど速くない回り方で周り、エアコンから送り出される冷気を室内にうまく循環させている。日暮れとはいえ、外は依然、湿気を帯びた熱気で充満していて、ただ立っているだけでも汗が出てくる。
――わたしたちは、海辺のホテルの上階の部屋にいた。それぞれ個別のベッドにあられもない恰好で寝そべっている。ARIAカンパニーのギャレットのベッドよりうんと質のよい柔らかいベッドで、なんというか、最早埋もれてしまいたくなるほどだ。
「藍華ちゃん、元気だね」
「灯里が大人しすぎるのよ」
「そうかなぁ」
うつ伏せのわたしは、枕に頬を押し付ける。そして今頃ネオ・ヴェネツィアのみんなはどうしているだろうかと思いを馳せる。
「ほら、夕日がおいでって呼んでる」
広い窓から見える、彼方のオレンジ色の光を指さして、彼女が嬉しそうに言う。
「藍華ちゃんって、意外とロマンチストだよね」
「恥ずかしいセリフ禁止!」
室内灯はまだ付けていなかった。薄暗くなってきたから付けようと思いかけていたところだった。――帰ったら付けよう。これから出かける。
鏡台がひとつしかなかったので、わたしは、まず藍華ちゃんに譲り、その後に簡単に髪を整えた。海水浴の後に軽くシャワーで流して、乾かしただけなので、あまり綺麗ではなかったが、ちょっとの間の散歩に行くだけなので、特に気にする必要はなさそうだった。
「ひょっとしたら、いい人に出会うかも知れないよ」
藍華ちゃんがニヤニヤして言う。
「からかわないでよ。きっと、いないよ」
「何でそう思うのよ」
「さぁ、根拠はないけど……」
「ないんでしょ」
「ないよ」
藍華ちゃんが自分のベッドに座り、鏡越しにわたしを見ているように思う。視線を感じる。
「ただ――」とわたし。「今こういう風に、ラフだから、期待しないのがいいと思って。相手があんまりステキだと、自分がみすぼらしいのが申し訳なく感じちゃうから」
「勝てない博打はしないってわけね」
「よく分かんないけど、そういう感じだと思う」
行きたいなら一人で行けばいいのに、と冷やかに思う自分がいたが、そういう利己心は決して表に出さないようにしていた。確かにフカフカのベッドで、甘やかされたネコのように過ごしていたいという気持ちはあったが、かといって、友情をなおざりにするわけには行かなかった。
わたしたちは同僚で、友達なのだ。
ブラシでといた髪を手でそっと撫でる。うん。変に跳ねたりするところはない。すごく地味にまとめたけど、恋人とデートするわけじゃないし、取りあえずはこういう具合でオーケー。
わたしは振り返り、藍華ちゃんとアイコンタクトを取った。わたしたちは互いに頷き合った。
部屋を出、施錠し、フロントで鍵を預ける。
ホテルのエントランスを出ると、客待ちのタクシーの乗務員とフロントガラス越しにたまたま目が合い、何となく会釈した。
舗道とは別にある、緩い勾配の、シュロの木が点々と植わる芝生の坂道を下る。
外は思いのほか、蒸し暑さは和らいでいた。汗が出ないことはないが、鬱陶しいほどではなく、じっと我慢出来ないことはなかった。
車の通る道路を、隙を見て渡る。
向こうに、風に葉の揺れるヤシの並木が、白い防波堤に隠れて見える。
階段を下りると、砂浜だ。踏み始めはフワッとしてヤワいが、あっという間に踏み固められてカチッとした感触をサンダル越しに伝える。
夕日の方へ段々と近付くに従って、藍華ちゃんの気分が高くなっていくのを、そばでうっすらとわたしは感じ取っていた。
それまで他愛のない話に花を咲かせていたわたしたちは、砂浜に下りると、夕暮れの海辺の風情に圧倒されて、無駄話をやめた。
藍華ちゃんは欣喜雀躍した風に、身軽に波打ち際まで駆けていった。わたしはその後を追うでもなく、ただゆっくりと歩き続け、彼女の遠ざかっていく後ろ姿と、その長く伸びる影法師の彼方に、優しい夕日の眼差しを、手でひさしを作って見つめるのだった。――スキニーの七分丈のジーンズと、ボーダーのTシャツ。かわいいと思う一方で、わたしと言えば、ノースリーブのだぶついた子供じみたワンピースだ。小さい劣等感に、苦笑いがこぼれる。
――やがて藍華ちゃんに追いつく、振り返る彼女は、やっぱり嬉しそうに、満面の笑みで、何か饒舌に語るでもなく、その陰翳が濃いが、明るさに満ちた表情で、万感を表現し、伝えた。わたしは受け止め、彼女と同じくらい、嬉しい気分になった。
「今何時くらいだろう?」とわたし。
――わたしたちは、波打ち際に沿って並んで歩いていた。波打ち際は緩いカーブを描いて遠くまで続いている。
「さぁ、腕時計は?」
「部屋に置いてきちゃった」
「ホテルを出て、十分も経ってないんじゃない? ――何? 用事でもあるの?」
藍華ちゃんが、気遣う素振りを見せる。
「ううん」とわたしは首を左右に振る。「夕暮れなのに、夕暮れじゃないくらい明るいから、時計と見比べたくてね」
「まぁ、そうね。日陰にいたら時間相応と思うけど、こういう風に脚の長い夏日に照らされていたら、ほとんど夜なのにおかしい、明るすぎるって、思うわね」
「散歩って、意外といいものだね」
「でしょ? 気晴らしになるし、運動になるし、いいことずくめよ」
「また、こうして歩きたいなぁ」
「歩けるよ」
「本当?」
「うん。だけど、今度は、灯里とじゃないかも知れない」
「えっ――」
わたしは立ち止まる。
少し先に行った藍華ちゃんが、振り返る。風が断つ。彼女の着るボーダーのTシャツと短い髪が、微かに揺れ、またなびく。
「わたしたちは女の子なのよ。本当は、こういうところは、恋人と歩くのがいいのよ」
「恋人……」
「勿論、友達だって大切だけどね」
「……」
わたしは、ドキドキして、はにかむことがせいぜいだった。
手を伸ばし、藍華ちゃんの手を握る。
彼女は何を言うでもなく、小首を傾げるだけ。その仕草が、何とも言えず可愛く、そしてなぜか、泣きたくなった。
「藍華ちゃんって――」
「うん」
「藍華ちゃんって、ロマンチストだよね」
今度は、『恥ずかしいセリフ、禁止』、というお決まりの文句は出なかった。
夕日が――長く続いた一日の光が、ようやく消えようとしている。明るい空全体が、今や陰に覆われている。
永遠と思われた空の青が、沈んでいく。
(終)