ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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――某月某日
暑い日だった。桜が花びらを落として青葉を茂らせる春も終わりという頃の一日。
ARIAカンパニーの屋根裏部屋でベッドでじっと横になっていると、階下に聞こえる物音に、アリシアさんがせっせと動いている様子を思い浮かべたり、一方で静けさが勝つと、アリシアさんが出かけたか、ないしは事務仕事に切り替えたか、などと推測したりした。そして自分がいたずらに時間を潰し、惰眠をむさぼっているという感じがして、良心の呵責に、気が滅入ることがあった。
傷の具合は、ネオ・ヴェネツィアの古い医者に診て貰った。傷口を入念に消毒されたが、特に麻酔などの処置がなかったので、ずいぶん痛かった。未だに思い出すと、背筋が凍るほどだ。
後に残るズキズキとした痛みで、堪えるだけで相当の体力が消耗する。
さて、親指そのものは確かにダメージを負って不自由だったが、それ以外はまったく健康だったので、ある程度休養してしまうと、所在なく感じるようになりだした。元気さを持て余していたのだった。
ある日わたしは、病院へ行くという通例のルーチンに出かけ、診察と治療を済ませ――何せ、毎日のことなので、あっという間に終わってしまう――真新しいガーゼを親指に巻いて貰うと、ネオ・ヴェネツィアの一隅にあるロープウェイ乗り場へと向かった。
乗り場は海辺にあって、二台の
ゴンドラが吊り下がる索道をずっと目で追っていくと、ある巨大なる影にぶつかる。その影は宙に浮いていて、その様はまるで、山がまるごとプカプカしているみたいで――要するに、
わたしは窓口でチケットを買うと、ゴンドラの手前に立つ係の人に渡して切って貰い、箱型のその中に乗り込んだ。平日の真昼間なので、客数は少なく、のびのび出来た。
発進のアナウンスがされると、扉が閉まり、ゴンドラが動き出す。特に揺れたりはしないが、風の強い日はちょっと危うそうに思える。初夏の晴れ空を上に向かって、ゴンドラは鈍足で安全に進む。
車掌などはいなくて、警備を兼ねた乗組員が一人いるだけで、初老に見える彼は、専用の椅子に座って、退屈なのか、気怠そうにボーッとしている。
わたしは、ロープウェイの駅が、周りの街並みと共に下へ遠ざかっていくのを見下ろすと、より彼方まで遠大に見えるようになった海原と、低くなって近付いた空とを見た。そしてこの空を自由に飛び回る鳥が羨ましいと思った。わたしは不自由だった。親指をガーゼでくるみ、生活の大半を片手で過ごさなければいけないので、その不自由さは顕著だった。
やがてロープウェイが果てまで到着する。浮島の駅に下りる。駅からは高所からの絶景が望めるが、高所恐怖症を患う人にはずいぶんと辛いと思われる眺めだった。風が強く、見下ろせば地面まで吸い込まれそうになる。
今頃アリシアさんは、どうしているだろう? 手でひさしを作り、目を細めてARIAカンパニーのある方にじっと目を凝らす。海上にあるので、見つけることはたやすい。が、余りに遠く、その位置以上のことを肉眼で窺うのは到底無理だった。
最初、暁さんが浮島で働いているので、会いに行こうか、などと思ったが、気乗りしなかった。特に目的はなかった。ただ屋根裏部屋でじっとしているのが嫌だったので、ちょっと足を伸ばしたに過ぎなかった。
見晴らしのよい島端に来ると、その場にしゃがみ込んで、ため息と共に両手で頬を持った。あずまやではないが、似た感じで、屋根だけある休憩所といったところだった。
所在なさは変わらなかった。ただ場所が変わっただけだった。
ガーゼの親指をサムズアップの恰好で目の前に突き立てる。空の青に、白いガーゼ。触れるとまだかすかにジンジンする。治るまで後どのくらいだろう?
わたしは親指を下ろす。
何だか寂しかった。
誰かにそばにいて貰いたかった。
――自分で進んで一人になっておいて、筋の通らないことを言う、と自分に呆れた。
だが、本意だった。
藍華ちゃん? アリスちゃん?
違う気がした。
わたしが寄り添いたいと欲する影は、影だけで、実像を持っていなかった。
その影は、わたしの切望するものの漠然としたイメージ未満の、文字通りのシャドウであって、ちょっと年上で、背がずっと高くて、手が筋張っていて、出来れば短髪でっていう……要するに、わたしが憧れとする男性なのだった。
その手に触れたい、楽しく話がしたい、ぎゅっとハグされたい、怪我した時にはいたわって貰って、その安らぎに幸せを感じたい、などと願う相手なのだった。
そばでは浮島から排出される水が滝となって、ずっと下の海まで流れ落ちている。
わたしは茫漠たるイメージの内に、憧れの影をじっと見つめる。だが、見えるのはせいぜい後ろ姿だけだった。
――仮に、そのイメージに適う人が存在したとしても、きっとわたしは、生来のシャイというか、物怖じしやすい傾向が災いして、結局その後ろ姿を眺めるだけでドキドキして、それ以上の発展は望めないという気がする。否、確信さえする。
すると、わたしは無性に悲しくなり、苦笑いをこぼした。
ダメだ、わたし。考えすぎ。悲観しすぎ。
――浮島で縮こまってくよくよ物思いに耽るわたしは、さっき浮島のロープウェイの駅より見下ろした下の家々などより、ずっと小さいに違いない。
――暑い日だった。しかし、高所は涼しいどころか、むしろ肌寒いくらいだった。
まだ痛む親指。
早く治ってくれるといいなぁ。
(終)