ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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──快い日和だった。
日差しはそこそこ強く、照らされれば暑かったが、同時に風がよく吹いていたので、暑さと涼しさが程よく混ざり合い、外にいると、思わず気持ちよさに、笑顔になるのだった。
昼下がりだった。
わたしは、狭い水路を一人、ゴンドラで進んでいた。
片手に手袋をはめた半人前のわたしには、まだ操船のすべに習熟してはいなかった。細長い舟の舳先の辺に立って、オールで漕ぐのだ。水を掻く力加減を誤ると、水圧に負けて姿勢が崩れる。最悪、落っこちて水路にドボンと行ってしまう危険性がある。たまにそういう事故の話を小耳に挟むことがあるが、船乗りとしては、決して誇らしいことでないのは当然で、恥ずべきこととされている。初め、まったくの素人だった頃はよくひっくり返って晃さんに呆れられたものだが、今はある程度慣れて、ちょっと傾いたとしても、リカバリーさせる作法を心得ている。──とはいえ、お客さんを乗せて舟の重みが変わると、動きも変わってしまうので、その辺りがまた難しかったりする。
「あの時は水着だったんだよねぇ」
凪いだ水面に映る、重畳たる住宅街の影に挟まれて細長くなっている空模様を見下ろして、懐かしさと共に呟く。
「絶対ひっくり返って濡れるから」
わたしは、漕ぐのをやめて、水路のわきの日陰にゴンドラをとめ、ステップに腰を下ろしていた。太腿に肘を突き、両手で頬を支えるという恰好だった。
「懐かしいんだか、おかしいんだか」
はにかむべきか嘲笑うべきか、よく分からずに悩む。
水面を雲が流れる。住宅の屋根から屋根へ──反映の中で──飛行していく。
「まぁ、慣れちゃうもんだよね。やっていく内に」
ハァ、と、わけもなくため息を吐くと、前髪を指先で摘まんで向こう側に引っ張り、毛流れを、何となく気になって確かめる。
──よくない癖で、やめるように晃さんに言われた。自分で意識しない内に、前髪をいじくる癖があるようで、仕事中でも、やってしまう。だけど、強風で乱れたりしたらどうするのか、乱れた髪は身だしなみの点でよくないだろう、と聞くと、髪を整えるのといじくるのとはてんで違うと、快刀乱麻を断つが如く、断じられた。わたしは納得せざるを得なかった。
「何でもそう」
──やらなければ、何でも無理だと諦めてしまいがちだが、いざやってみると、最初は確かに拙劣だが、継続すると、じょじょに巧くなっていく。
わたしは、どうだろう? 水先案内人として。
さっきまでガイドの説明をそらんじて、とりあえず初めから最後まで、自分でがんばって組み上げたセリフを言い淀まずに行けたし、ゴンドラの操縦だって、これといった課題はないはずだった。後は実地でやっていって、慣れていくだけだった。
だけど、何となく不安にさせる何かがある気がした。ひょっとすると、その何かは、その真相を暴いてしまえば、わたしを絶望させたり、悄然と達観させたりするものかも知れない。
──水面に細長く横たわる空は明るいが、太陽は見えない。建物の壁などに差す影の傾き方で推測出来はするが、それまでだった。
灯里と後輩ちゃんを思い起こす。彼女等二人とは、互いに属するところを異にするが、友達で、同僚で、そして切磋琢磨し合うライバルだった。
「灯里はいいけど、後輩ちゃんは……」
オレンジ・ぷらねっとの彼女は、将来を嘱望される水先案内人見習いで、わたしは一目置いていた。
わたしの暗いイメージの中にあって、わたしが展望を見いだせずオロオロしている一方で、後輩ちゃんは泰然自若としていた。才能に恵まれた彼女は、両手共、手袋だが、すでにわたしたちの目標とする高みの地点まで、道を用意されているように思えた。
──ひっそり侮ってはいるが、ゴンドラを逆走させる灯里だって、いずれ一皮剥けて進化する可能性を持っていた。
わたしは、どうだろう……。
水のしっとりとしたにおいが、鼻腔を満たす。
わたしはかぶりを振って、自分に言い聞かせる。
「やめよう。不毛だ」
わたしは立ち上がったが、その時ゴンドラが、水路の波動と共にやけにグラついて、わたしをイライラさせた。
だが、目を瞑って深呼吸し、苛立ちでザワつく心を研ぎ澄ます。心臓の音が聞こえ、胸の内にドクンドクンと縮んだり膨らんだりするその拍動を感じる。
目を開け、向かう先──住宅街の間の細い数ロの出口を望む。
オールを取り、水に差し、掻く。ゴンドラがゆっくりと進み出し、最初不安定だった動きが安定し、軌道に乗る。
ちょっと肌寒かった。日の温もりを求める気持ちが、わたしに先を急がせた。
──水着で水遊び同然だった頃とはもう違うのだ。
頭の内では種々の不安要素がぐるぐると巡ってわたしを攪乱したが、こうしてゴンドラに乗っていると、不思議とその不安の渦は消え、すっきりとするのだった。
──きっと、だいじょうぶ。
わたしの内にそっと届いた声。もちろん、自分の呟きではあったんだけど、なぜかその呟きは、多声的で、自分からのものであると同時に、誰かからのものであり、誰かがわたしの声に重ねて励ましてくれているように響いた。
灯里に、後輩ちゃん。晃さんに、アリシアさんに、アテナさん。
わたしのよく知る、みんなの声だった。
(終)