ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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――何だか、不思議だった。
空の色が、紫だ。夕方だから、夕焼けなんだろうけど、ぼんやりぼやけた感じの、赤っぽい紫。
春も進んで、昼日中は暑くなった。ずっと冬用の制服を着ていたが、そろそろ衣替えしようかと考えるほどだった。長袖から、半袖へ。水先案内人の仕事は水辺のものだから、晩秋から冬にかけては凍える辛さがあったが、この辺りの時期から、快適になってくるし、お客さんの数が増えてくる。書き入れ時だ。
気合いを入れなくちゃ、と、みずからを奮い立たせようとしてみるが、イマイチ、力が入らない。
――とにかく、不思議だった。
わたしは、ARIAカンパニーの屋根裏部屋にいて、クローゼットに、その日乾かした衣類をしまい込んでいるところだった。よく晴れたので、衣類はよく乾き、サラサラのその表面から立ち上ってくる洗剤の香りを嗅ぐと、ほのかにうっとりとする。クローゼットには夏用の制服が吊り下がっていて、一瞥して、その場所を確認する。
部屋の円窓を通る夕日が、壁にぼんやりとその影を投じ、ユラユラと揺れている。赤っぽい紫の淡い光が、気付かないほど微かに、より明るくなったり、より暗くなったりする。時々その上を、小鳥の小さい影がよぎる。
わたしは、カゴの中の洗濯物を全てクローゼットに収めると、円窓のそばにあるベッドまで向かい、その上にのり、窓辺に背中をぴたりと付けて三角座りした。
そしてはすかいの壁に映るまるい夕日の影をじっと見つめる。
――あれ? わたし、そういえば……
記憶の片隅に何かその存在を主張して光るものがあった。今わたしが凝視している情景と、その記憶の内に潜む断片とが、互いに呼応し合っているようだ。
――この感じは、初めてじゃない。前に一度……?
わたしはしばらく目を閉じて瞑想し、そしてゆっくりと開けた。
紫の空には、三日月が浮かんでいる。
そしてわたしの目は、あるはずのない箱型のテレビの、消えた暗い画面が反射する夕日にまぶしさを覚える。
――幼い頃のわたし。あの時、いくつだったろう……。
◇
お母さんとお父さんは出かけてしまった。お母さんは買い物へ、お父さんは、朝からの仕事で、帰ってくるのは、夜だ。早い夜だったり、遅い夜だったりする。
買い物に随行しようと思ったが、やめた。お母さんに付いていったところで、特別何をするわけではないし、お菓子をゲットしさえしてしまえば、後は無用だった。
それに、今日は――春と夏の間のある日なんだけど――とても過ごしよい日和だったので、何となく、家にいて、開放した窓からの風を浴びて、うっとりとしていたかった。
夕焼けの色が、紫だった。余り見たことのない空の色に、わたしは魅了され、目を奪われた。
わたしの家は丘の上の方にある。街との間を往来するのに、坂道の上り下りがあって、その点が大変だと、お母さんがぼやいていた。だが、見晴らしがいいので、わたしは気に入っていた。
四角い縦長の窓の向こうに、照明を灯した数多の家々の並びがあり、その粒のように小さい照明が、無作為に散らばっていて、一見すると、蒸し暑い夏の夜、川辺で眺めたホタルの群れを思い起こさせ、わたしの気持ちをロマンチックにする。
窓のすぐ外に植木があって、その木に茂る群葉が、わたしの部屋の壁に、夕日を背後に影絵を映して、風が吹いたりすると、ユラユラと揺れる。
わたしは視線を落とし、箱型のテレビを見た。そのわきには、ゲーム機とそのコントローラがある。――ゲームはそれほど好きじゃなかった。何だか、やっているとせっつかれる感じがして、疲れるから。
――窓から、空を彼方まで見晴るかす。夕空の紫の上に、陰翳の濃い雲の灰色が点々としている。紫の空は、下は太陽で赤っぽいが、上の方は、夜の闇に覆われて、濃紺だ。
その遠くまでの景色が、その遠望が、わたしに、何か希求するよう、促してくる気がした。
男の子じみていて、最初は抵抗を感じたが、その希求が
――旅だった。どこかへ行きたいと思った。
だが、ちょっとした旅ではダメだった。行ってすぐ帰ってくる旅では満たされなかった。何か自分を抜本的に変えてくれるものを、彼方に認めたのだった。別に今の自分が腐っているわけではないし、今いる環境が悪いということは決してない。だが、これから成長し、大人になっていく過程を考えると、今という地点から堅実に歩んでいける地続きの将来ではなく、ずっと遥かに遠くまで跳躍して渡る、そういう将来が望ましかった。
――性根が、そういうものだったのだと思う。ひとと一緒じゃイヤだという、天邪鬼的気質があったんだろう。――それに、そもそもわたしは、ちょっとひととは違うところがあって、馴染まない関係に苦労することがしばしばあったし、かといって迎合しようと努力したところで、疲れてしまうのだった。
玄関の開く音がした。
お母さんが帰ってきたみたいだ。
すると、まだまだ幼稚だったわたしの意識は、遠い将来と異境から、目先のおやつへとせっせと移行してしまうのだった。
◇
夕空は依然、紫だった。上の方は夜の紺色で、下の方は夕日の赤。
――最早、不思議ではなかった。
今のわたしは、あの頃、ふるさとにいて、将来への展望に目を注いでいたわたしと、ほとんどぴったり重なっていたのだ。
わたしをして不思議に思わせたのは、ムズムズとさせる既視感のある印象で、紫の夕焼けを目の前に、今と過去が期せずしてオーバーラップしたのだった。
――わたしは、旅をした。遥かなる旅。
そこに溶け込めないことの多い環境にある自分をみずからの意志で引き上げ、異境に転じさせる。
その試みは、たぶん、うまくいったのだと思う。マン・ホームからアクアへ、子どもから成人へ。遊びから仕事へ。
だんだんと空が暗さを増していく。空の紫の赤みが、その程度に比例して薄まっていき、最初は青く、そして、次第に黒っぽくなっていく。
記憶が、水平線の彼方へ沈んでいく。
だが、なくなるのではない。
ひとまず、眠りに就くだけだ。
甘い混沌の中で……。
(終)