ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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小箱より一本、ヒュッと、手首をスナップさせて取り出す。
クッションの柔らかい椅子にゆったりと腰掛けるわたしは、しみじみその、指に挟んで持つ一本に見入る。おいしく、かぐわしい一本。白いその一本は、そう、他でもない、タバコだ。
今は亡くなったが昔名を馳せたロックスターが好んで吸っていたという銘柄のタバコ。わたしはそのロックスターが好きだった。ファンだったのだ。
「あらあら、あんまり吸うとよくないわよ、晃ちゃん」
……やれやれ、かいがいしい奴だ。
こいつとは幼馴染で、ずいぶん長い付き合いだが、ずっと変わらない。芯があるという感じ。
槌で打っても折れない恐ろしく堅い芯が。
思うにこいつには、人生を生きていく上で、頑強な意志があるのだろう。きっと、そうだ。人間というのは、多くいい加減なもので、風見鶏だ。こいつはだが、風見鶏ではなく、風に左右されない確固とした視野を持っている。そしてその視野で、自分にしか見いだせないものを見出したのだ。
「あぁ、分かってるよ」
しかし、わたしとて、事情はおんなじだ。わたしも、しっかりとした意志でもって、今この時、一服しようとするのだ。その意志は誰にも阻ませたくない。わたしの二つの眼は、白いうっとりとさせる一本を凝視しているのだ。
わたしは、ポケットより安っぽいライターを取り出し、ギザギザのやすりを指で勢いよく回す。
奴が笑顔に呆れを滲ませるのが分かる。まぁ、どう思われようが別に構うことはない。
やすりが発火石と摩擦して、ボッと火が立ち、火影が揺れ動く。何とも麗しいひと時だ。タバコを吸う時より、ひょっとするとライターで火を灯す方が、味わい深いかも知れない。愛煙家にとって、火を灯す瞬間というのは、ひとつの儀式なのだ。
手で火を囲い、すでに口に咥えているタバコの先端を焙る。
火が付く。煙が立って、香ばしい香りが広がる。
フゥゥゥ……
ひとくち分の煙を吸い、吹く。煙は薄暗い照明の店内に薄まって広がっていく。ネオ・ヴェネツィアのとある隠れ家的バー。元々、店内は喫煙者が結構いて、入店した時点ですでにもうもうとしていた。禁煙などというものとは、この店は無縁だった。
「なぁアリシア」
頭がスーッと冴える快感を覚えて、わたしはほとんど無意識に、頭上の薄暗いシャンデリアをぼんやり見上げ、呼びかける。アリシアは小首を傾げてわたしの語りを待ち受ける。
「お前は、人生何歳まで生きたい?」
「人生?」
アリシアは目を大きくして耳を疑う様子だ。
「さぁねぇ……」
こいつが答えを考え込んでいる間、わたしは手元の旨い煙を吸い、吐き出し、都度、先端に溜まった灰を灰皿に落とす。
目下に燃えるタバコの火。じんわりと赤く、まるで火山で煮えたぎる溶岩のようだ。触れればやけどするに違いない。だが、麗しい色だ。とても麗しい色。どうも火の色というのは、魅力的でしょうがない。
「やっぱり、ゴンドラに乗れなくなった時かしら」
「そうか」
答えた時は、ちょうど灰を灰皿に落とすタイミングだった。
タバコを咥え直すと同時に、アリシアをじっと見つめる。すると、あることが気付かれる。
「お前」とわたし。「顔、赤いぞ」
「あらあら」
指摘されて、気色悪いくらいにっこりとして両手で頬を持つ。こいつのそばにあるのは、アルコール。それも結構キツイのだ。
わたしは失笑する。
「お前も、よくないぞ」
「え?」
わざとらしいきょとんとした反応。本当は聞こえたくせに。
「酒」
「あぁ」
「自分のことを棚に上げるんじゃない」
「まぁ」
また、わざとらしい反応。驚いた様子だが、しょせんフリに過ぎない。
「でも、タバコよりは害が少ないと思うわよ」
昔とおんなじだ。こいつは変わらない。したたかなところも、あの頃とおんなじ。
まだ分別の付かないガキの頃、意地の悪い年長の連中に、恐喝まがいの蛮行を受けたことが度々あった。わたしはその頃は今では考えられないほど大人しく、ひよわで、引っ込み思案だった。そのため、自分より上背のある相手に凄まれると、ほとんど泣き出してしまいそうになるほど、当時のわたしは怯みがちだった。
だが、その時、幼馴染は相手を退散させた。それもにこやかに。戦わずして勝つというのは兵法の究極の奥義と聞くが、奴はその奥義を知っていたのだろうか。わたしが後方に退いて恐る恐る見守る先で、幼馴染が二三、口を交わすと、相手は興覚めしたように、わたし達の前より去った。
一体どういう手段を用いたのだろうかと不思議に思うと同時に、ひどく感謝したものだ。今では同等、伯仲の間柄だが、昔はわたしにとって、アリシアはわたしのきょうだいとか、保護者じみたところがあった。わたしより優等で、どこか、憧れさせるところがあった。今となっては、微笑ましい思い出だ。
時間が過ぎ、ウエイターが慇懃にわたし達のテーブルをほとんど片付け、残ったのは茶だけ。周りにいる客達は、あたかも印象派の絵のように不明瞭だ。
タバコは燃え尽きた。短くなったタバコが灰皿で山と折れ曲がっている。小箱の中はすっかり空だ。ライターも冷たくなった。
甘い混迷がわたしの頭をめぐりめぐる。程度は違うがアリシアも、陶酔境にいることだろう。
「ねぇ晃ちゃん」
「うん」
「さっきの質問だけど」
「うん」
「やっぱり、答え、変えるわ。訂正」
やれやれ、あんな質問。わたしの酔狂だったというのに。
わたしは、聞くともなしに耳を傾ける。
「人生、晃ちゃんが死ぬまで」
「……」
「晃ちゃんが、死ぬまで、生きたいわ」
……思わず、口元が緩む。
わたしは言葉を返さない。ただ俯いて、感慨に浸るだけ。
ハァ、とシャンデリアに向かってため息を吐く。今度は煙ではない。
ある日の夜のことだった。料理も酒も味がよく、サービスも行き届いたとあるバーでの夜。気心の知れた幼馴染とのくつろげる夜。
その夜は、わたしの吸うタバコのように、とても素敵なものだった。
(終)