ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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板張りの部屋は、無人で、静けさに満ちていた。
広い天窓があり、陽気に照る晴天の午前の日が、その窓枠を通って差し込むことで、部屋の中に同じ形の影を成している。
天井の面が斜めになっているその部屋は、見たところ、屋根裏部屋のようだ。
隅には、上に座ることが出来るほど大きいクッションと、今は消えているデスクランプの置かれた簡易の書棚がある。
書棚にあるのは、ネオ・ヴェネツィアの年表や、占星術の入門書や、地誌や、雑誌など、様々だ。日記と思しき大学ノートがあったりして、この部屋の住人のマメさが窺い知れる。
ベッドのシーツはよく整えられて、カバーはきちんと折りたたまれている。可愛らしい動物のぬいぐるみがあるのは、寝る時の寂しさ・心細さを紛らすためなのだろうか。
階段を上ってくる足音の後、扉が開く。
白い制服を来た、桃色のロングヘア――耳の辺で金のリングで束ねている――の少女が入って来、書棚のところまで向かうと、クッションの上に座り、被っている白い制帽を脱いで机上に置いた。そしてデスクランプを付け、書棚より一冊――占星術の本などではなく、真面目くさった本のようだ――取り出すと、読み始めた。
少女はしばらく黙然と読書に集中し、必要に応じて、日記用ではないノートにメモを記入したりした。
その間、部屋は果然、おおむね静かで、聞こえる音と言えば、せいぜい彼女が姿勢を調整する時の服とクッションが擦れる音や、ページをめくる紙の音だけであった。後は、海の波や、小鳥の鳴き声などの環境音だった。
――また、階段を上って、屋根裏部屋まで近付いてくる足音。
コンコンと、ノックの音。
「入っていいかしら」
「はひ。どうぞ、アリシアさん」
返事がすると、扉が開く。
姿を見せたのは、ブロンドのロングヘアの少女。桃色の少女より、年上のようだ。
彼女は――勿論、家政婦などには見えない――トレーを運んで来、その上には、芳香のする熱い飲み物と、軽食がのっている。
「精が出るわね。灯里ちゃん」
アリシアは、灯里のもとへ行くと、そう言った。
「座学はあんまり得意じゃないんですけどね。物覚えが悪いですから」
「あらあら」
二人は和気藹々と談じた。
「灯里ちゃん、これ」アリシアはトレーを灯里のそばに置く。「食べてくれるかしら? お店で買ってきたんだけど」
「わぁ、
灯里は嬉しそうに目を輝かせる。
「えぇ、中身はイチゴと生クリームなの。おいしいわよ。わたしはさっき食べちゃった」
「すごく嬉しいです。ありがとうございます」
アリシアはにこやかに返すと、「じゃ、置いとくわね」、と言い、部屋を出ていった。
灯里は書籍とノートをひとまず閉じてしまうと、トレーを正面に、軽くお腹を満たすことにした。
味わおうとする前に、彼女は端末を持って来、カメラ付きのそれでトレーの上の写真を一枚撮ると、簡単にメッセージをしたため、筆まめに文通する親しい遠くの知人に送信した。
幸せそうに甘いものを口にする灯里は、わきの窓の方を向いて、そこより見える海と空を眺めた。快晴の初夏の一日で、空は澄んで明るく、海はキラキラと美しい煌めきを帯びていた。
甘いマリトッツォに、ストレート・ティーはよく合った。アリシアの気遣いに灯里は謝意を感じた。
全部食べ終わると、灯里は少しだけ勉学の続きに手を付け、その後、デスクランプを消灯し、制帽をかぶり、空の食器ののったトレーを持って、屋根裏部屋を出た。
部屋はしばらくの間、再び無人の静寂となった。聞こえるのは海鳴りと鳥の声ばかり。時々飛行する小鳥のシルエットがよぎる天窓の影は、時間の経過と共に、ゆっくりと傾いたり、歪んだりし、空は長い間青かったが、やがて、とうとう褪色し、翳りを帯び、橙色になってきた。
――扉が開くと、笑顔がなくくたびれた様子の灯里が戻って来、脱いだ制帽を片手に、ベッドの上に、背中から大の字になった。
「ふぅ」と天井に向かってため息。
ノックの音がし、「灯里ちゃん」、という呼び声がし、アリシアが半開きの扉から顔を覗かせると、中に入ってきた。
灯里は半身を起こして姿勢を正し、アリシアに応じる恰好になった。
「お疲れさまね」
「たくさん練習してきました。藍華ちゃんと、アリスちゃんと」
「合同練習ね」
「はひ。いい天気だからはりきっちゃいましたけど、とっても暑かったです」
「今日はカンカン照りだったものね」
灯里は、横目で書棚の、しまわずにおいた書籍とノートをチラッと見た。そしてまだ頑張ってやろうと目論んでいた勉学に対して、億劫がる思いがした。
「今夜は、どうする? 夕食、自分で作れそう?」
「あぁ……」
訊かれた灯里は、困惑した苦笑いを浮かべる。疲れた彼女は、余力はそれほどないようだった。
「よかったら、わたしが作るけど」
「お願いしても、よろしいですか?」
へりくだった態度で、灯里がこわごわ尋ねると、アリシアはにっこりと笑った。OKのようだった。
「すみません」
灯里は感謝を述べるつもりで謝り、アリシアに夕食を頼むことにした。
灯里は、しかしアリシアが、恩着せがましいことをしたりする者ではなく、本当の善意で、夕食の支度を申し出てくれたことが分かっていた。だから、気に病んだり、悔んだりすることは全然なかった。
ベッドの灯里は立ち上がり、書棚を片付けると、暗くなってきた部屋の照明を付け、そして少し迷った後、再びベッドに戻り、背中から大の字になった。
日が差し込んでいた天窓は、今は星影が映り込んでいわば小さいプラネタリウムになっていた。
書棚のわきの窓から見える空と海は、揃って濃紺で、至極、平静だ。
だんだんと下の階からお腹のすくにおいが上がってくる。耳をすませば、お鍋の湯が沸き立つ音や、包丁がまな板を打つ音が聞こえる。灯里は、アリシアが料理しているシーンを想像する。
そしてうんと伸びをすると、手伝おうと思い立ち、ベッドから勢いよく跳ね起きると、階下へ下りていった。
――板張りの部屋はまた、無人の静寂に包まれる。
屋根裏部屋。水無灯里――まだ見習いの水先案内人が下宿するこぢんまりとした部屋。
灯里が脱いだ白い制帽は、今はベッドの上のぬいぐるみが、被っていた。
(終)