ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.82「覆水は盆に……」

***

 

 

 

 初夏に入ってからけっこう長い。朝晩はまだしつこく肌寒くて、防寒しないといけないくらいだけど、昼間は打って変わって暑い。じっとしていても汗が出るほどで、この時期は本当、体温調節が難しいと感じる。

 

 朝、出かける時は、冬用の長袖で外出し、暑くなったら、夏用の半袖に着替えるというやり方で対処しているが、わずらわしい。

 

 それより何より、今日、いつもの灯里と後輩ちゃんとの合同練習の後、ちょっとしたことがあった。

 

 合同練習は、灯里のドジや、後輩ちゃんの当てこすりなどがあって、平常通りに運び、それなりの面白味と充実感と共に終わった。

 

 二人と和やかに別れた夕方、あるいは夕方になる少し前、例の如く気温が高く、暑かったので、わたしは住宅街の間の、ひと気がなくひっそりした水路に入り、壁際にゴンドラを付けて一休みしていた。

 

 事前に自販機で買ったペットボトルの飲み物で涼感を得、油照りの曇り空をつまらないと思う気持ちで、ボーッと見上げていた。

 

 目線を下ろし、凪いだ水路の面を見つめると、やはり曇っており、清水の煌めきこそあれど、彩りがなく、やっぱり、思わずため息を吐き捨てたくなるほど、退屈に感じてしまうのだった。

 

 ――まさか、声をかけられるとは思わなかった。

 

「すみません」

 

 何となれば、一人だったのだ。水路にひと気はなかった。少なくとも、わたしはひと気を感じなかった。静かに、涼しく、束の間の孤独を満喫していた。

 

「――。」

 

 ペットボトルの残りが少ないのを見て、一気に飲み干そうか、チビチビ惜しんで飲むか、(いたず)らに考える。

 

「失礼ですが」

 

 ――何か聞こえるなぁ、とはぼんやり思っていた。

 

「わっ」

 

 意表を衝く形だった。

 

 声は背後にした。振り返ると、わたしはレンガの壁の白い鎧戸の開いた窓の方に、首だけ出してわたしを窺うひとの姿を見た。

 

 男のひとだった。そして一目で、わたしは――わたしの悪い癖なんだけど――うっとりして、しばらく応答が出来なかった。

 

 長くはないが、サラッと流れる髪。キリッとした眉に、明るい、真面目と言うべきか、ひたむきっぽい瞳。

 

 好感の持てる男性だった。年齢はわたしよりやや上だろうか。

 

 惚れっぽいわたしは、しかし品を作るなどといった手管に長けているわけではなく、ただ胸をときめかせて、驚いた風のギョッとした目付きで、相手を見返すばかりだった。

 

「はい」

 

 思い出したように、慌てて髪を触って整える。

 

「突然で悪いのですが、乗せて貰いたいと思いまして」

 

「はぁ――って、わたしのゴンドラに?」

 

「えぇ、そうです」

 

 わたしは首を左右に目が回るくらい振って、また両手もダメだという風に振った。

 

「ダメですか?」

 

 相手は怪訝そうに眉をひそめる。

 

「申し訳ないですけど、わたしは――」

 

 ――水先案内人で、道半ばの見習いで、まだ実際にひとを乗せる許可がないことを、懇切に説明した。好ましい男性の要望に応じられないという遺憾の意があったので、わたしはしゅんと沈んだ。

 

 彼はひょっとすると、わたしが彼のリクエストに沿えなかったことに対して、怒るか、不機嫌になるかして、わたしは心底辛い思いを嘗めることになるかも知れないと危ぶんだ。

 

 ところが、彼は困ったようにはにかんで、「そうですか」、とあっさり諦めた。

 

「ごめんなさい。本当に」

 

「いいえ、いいんですよ。急にお願いしたぼくに非があるんです」

 

「だいじょうぶですか? 何か外出のご用事があるんじゃ……」

 

「えぇ、まぁね。けど、いいです。歩くなり、何なりして行きます」

 

 わたしの心では、水先案内人の決まりごとを破って乗せてあげようかという悪い誘惑が、甘い香りでわたしを引き付けたが、わたしは強いて、あくまで決まりごとを守るという意志を堅く貫いた。

 

 話が長くなってくると、彼は窓から身を乗り出し、両腕を窓枠に組む恰好になった。すると、彼がTシャツを着ているのが見えるのだった。

 

 途中、ちょっとした沈黙が下り、何となく気まずい雰囲気になった。わたしは、自分だけでなく、相手まで同じ風に感じているのが分かって、ムズムズした気持ちになり、我慢出来ず、こう言った。

 

「「暑いですね」」

 

 期せずして、発言がハモった。

 

 わたしは、意外の念に打たれたが、彼もまた、同じようだった。

 

 気まずい雰囲気が打って変わって和やかに転じたが、わたしはうまく笑えず、にやけた顔になった。彼はじょうずにスマイルして見せた。アリシアさんのように柔らかいスマイルだった。

 

 わたしは、彼がそこに住んでいるのかと訊き、彼はそうだと答えた。建物は、アパートメントのように見えた。

 

 雑談はしばらく続いた。特に言葉を言い淀むことはなく、スムーズだった。

 

 わたしはしかし、自分の顔がだんだん――暑さとは別の要因で――赤く火照ってくるのが分かり、居心地の悪さを感じ始め、自分の好意とは裏腹に、そそくさと暇乞いを告げ、その場を後にした。

 

 幸せというか、満足感というか、とにかくそういった喜ばしい、ウキウキさせる感情は、ある程度持続したが、その後一転して、喜びが後悔の念に厳しく糾弾され、せっかくの出会いに、名前さえ聞かず、自分で一方的にピリオドを打ってしまったことに、沈んでしまうのだった。

 

 そういう素直になれない自分や、恋に焦って空回りしてしまう自分が、あまのじゃくで、不器用で、垢抜けなくて、嫌だった。

 

 わたしは、帰り道の水路で、自責と改悛の念に悲しくなり、急にわきにゴンドラを止めたりして、甘酸っぱい哀感に、あの好ましい男性の相貌を思い返して浸った。

 

 だが、空を仰いで、曇り空の雲が割れて澄んだ青色が微かに見えた時、何となく救われる気がした。

 

 明日、灯里と後輩ちゃんに話そう。聞いて貰て、スッキリしよう。

 

 そう意気込むと、わたしを沈ませる重々しい感情は、その重みが削がれ、わたしはちょっとだけ、楽になれるのだった。

 

 

 

(終)


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