ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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オルトレマーレ・ベイは、ネオ・ヴェネツィアの南東に位置する。
特に漁業に適していることはなく、また割と街より離れたところにあり、交通の便が悪いので、足を運ぶひとは少ない。
そういうわけで、大小の魚を巡って生態系が激しく循環することや、土地開発によって元々の自然が損壊され、改造されることがなく、いわばバージンの状態で存在しているわけで、オルトレマーレ・ベイは、ある意味では稀有のロケーションとなっている。
透明度の高いターコイズの海水。湾の両脇に腕をゆるやかに伸ばす陸地に青々と生い茂る南国の樹木。その中を優美に吹き抜けるやわらかい潮風。
それ等すべては、幸いなる哉、にんげんの干渉をほとんど受けず、活力に満ち溢れ、みずみずしいきらめきを思う様放って、折に触れては、旅に疲れて迷い込むようにやってきた者をやさしく抱擁し、そして帰してやるのだった。
*
オレンジ・ぷらねっとの見習い水先案内人、アリス・キャロルは、文房具店を訪れていた。
蒸し暑い真夏日、その夕方だった。
ショートスリーブの白いシャツ。首元には蝶々結びの赤いリボン。斜め格子縞のスカート。
褐色の
立っているだけで汗が出てくる熱気より、エアコンの効いた涼しい屋内に入ると、何かホッとしてくるようだった。
求めているものが、全然めずらしい品ではないので、アリスはすぐに油性ペンを陳列ケースに見つけ、夥しくあるその内の一本を手に取った。両端ともペン先になっており、片方は太く、片方は細いのだった。
財布から小銭を要る分だけ取り出し、レジ・カウンターに向かう。
コレください、と、ペンを渡し、お会計。
アリスはその時、伏し目がちだったが、ふと何となく目線を上げ、レジを担当する店員の向こう側に目を遣った。
なんてことはない。ただの壁だった。
ところが、その壁に、額縁に入った景色が飾ってあるのだった。絵ではなく、写真のようだった。
アリスは、ぼんやりとその写真に焦点を合わせた。
店員が金額を告げる。
アリスが金銭を渡す。
……。
彼女の制服のように白い額縁に入った、タテ・ヨコ、二十センチほどの写真。向かって右の窓ガラスより差し込む日射しが反射して、少し目がくらむようだった。
豁然と開けた海。それも、飛び切り明るく澄んだ、さざ波を境に光と陰が鱗のように綾を織りなす海。空より水面に向かって
写真の右端の方には、彼方に向かってカーブして伸びる、ヤシやトベラの木が鬱然と茂った陸地。
――そして、それぞれ同じように白い、セイルを張った一艘のヨット。湾を離れようとしているのだろうか、ヨットは遠くを
アリスは写真の全容を眺め、胸が締め付けられる思いだった。
その写真を眺めることは、強い印象が伴った。その写真には、夏という季節のエッセンスが詰まっているようだった。夏という季節の、味の強いひとしずくが、したたっているようだった。
*
オルトレマーレ・ベイは、静粛に佇み、まるで何かを待ってでもいるかのようだった。
日照りに乾けば雨が、荒天に水が
影法師の傾きが、だんだんとズレていき、またその長さを増していく。
時間がゆうべに移ろっていく。
だいだい色の夕日がオルトレマーレ・ベイの砂浜に差し、もぬけの殻の小さい灯台が翳りを帯びて、いくぶん不気味に見え始めた頃。
一層の小舟が、ちょうど湾の入口に差し掛かった。高々とセイルを張ったヨットだった――白いヨットだった。
ヨットは、入口の真ん中辺に来る前にセイルの張りを弱め、推力を失って減速し、やがて停止に近い状態となって、陸の方をどういうものかと窺うようだった。
張りのなくなったセイルは最早風を孕むことがなくなり、風にバタバタと弄ばれ、はためいた。
夜が近くなり、深い闇に染まった海の上を、夕日の光線が一直線に走り、そしてその先には、ヨットがあった。その光景は、まるでヨットが、湾の内側へ、陸の方へ、夕日が差す方へ、導かれているようだった。
しかし、ヨットはプイとそっぽを向いた。
再びセイルをパンと張ると、舵を切って、湾を去っていった。
後には、ただ夕日が差し伸べた光の道だけが残っていた――。
*
新しいノートの名前欄に、名前を記入しようとして、インクが出なかった。
『アリス・キャロル』
クラスメイトに貸して貰おうと思ってはみたが、何となく、気重だった。
名前欄にペンを走らせたが、空白を埋められず、半ば滑稽に、半ば空しく思い、机のノートを見下ろしていた。
授業の終わりだった。先生が教材をしまい、周りの子たちはひと時の解放感に浮かれ、快活にしゃべっていた。
帰りに文房具屋さんへ寄っていこう……。
アリスはそっと寿命の尽きたペンと、無記名のノートを片付けると、心のメモ帳にそう予定を書き込んだ。
学校が終わるまで、まだ数教科、耐え抜かないといけなかった。
*
オルトレマーレ・ベイは眠りに就いたようだった。
辺りはほとんど真っ暗闇で、海も空も、群青色ではなくなった。灯台は空恐ろしく立っており、幽霊でも住んでいるようで、また、絶えず押し寄せる波の音は、眠りに就いた湾の深い呼吸のようだった。
そしてオルトレマーレ・ベイは、夢を見ていた。あの静かに去っていった白いヨットの夢だ。
*
ありがとうございました、またお越しください。
機械的に言われたその挨拶の余韻が終わらない内に、釣銭と真新しいペンを手に店を出たアリスは、再び暑さへと戻り、ゆうべになって尚したたかに照る太陽を手でひさしを設けて見上げた。
ほとんど閉じた目に見える夕日は、周囲いっぱいに光を放射している。
いよいよ目が刺激にショボショボしだして、閉じてしまったアリスは、目蓋の裏に、あるビジョンが浮かび上がってくるのが見えた。さっき、ぼんやりと文房具店のレジの向こうに眺めていた風景のビジョンだ。
澄んだ海。明るい空。木々。さざ波の文様。そして、白いヨット。
あの白いヨットは――
ひさしの手を下ろし、歩きだしてすぐ、アリスは思った。
あのヨットは、遠くにあった。遠くにあって、何だか、夢見るようだった。まるで、あそこに浮かんでいて、だけど、ホントウは、存在していないっていう風に。
美しい一帖の夏の景色の中に、さっきの店員の挨拶のように、空々しい一艘のまぼろしめいたヨット。
不思議に、神秘的に思う気持ち。不可解で解けない印象。一抹の疑懼。
アリスは、立ち止まり、後ろを振り返った。まだ店よりさほど遠くへは離れていない。
と、思ったが早いか、文房具店の前に店員が現れ、ひっかけ棒でショーウィンドウのシャッターをガラガラと閉めた。文房具店だけではなかった。近傍に軒を争っているその他の店も、同様に店じまいをし始めた。何となれば、夕方なのだ。
アリスは索然とするようだった。
彼女のポケットには、ジュースも買えないくらい少額のお釣りと、インキがたっぷりで字が濃く書けるペン、そのふたつに加えて、ほつれてほどけない、曖昧模糊とした感情が、余分に入っているのだった。
(終)