ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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ピピピ……
何かの電子音が聞こえた。最初その音は小さく、節度があり、何か伝えようとするようで、だけど主張が激しくなく、余り気にはならなかった。
ところが、その電子音は、だんだんと音波を強くし、やがてけたたましく、鬱陶しくなり、ベッドに横たわる
6時30分。朝だ。
目覚ましを止めた手で、額に触れる。いささかヌルヌルする。洗顔したい気分だった。
真夏だというのに、部屋に差し込む光の色が鈍い。
アリシアは眠たい眼でそばのカーテンをめくり、外を窺った。
やっぱり、空が曇っていて、地面がしっとり濡れている。
雨だ。
ベッドを出、バルコニーに通じる窓辺に寄る。ドレープ・カーテンを開き、レースをめくると、バルコニーの低い手摺に引っかけたプランターの花々を見下ろす。それぞれ心なしかしゅんとしている。雨が憂鬱なのだろうか。いくら夏とはいえ、ずっと雨ざらしにすると腐ってしまう。後で屋内に入れておこう。そうアリシアは考えた。
ヘアバンドでアップにした髪を固定し、洗面台で、顔を洗う。洗顔せっけんをよく泡立て、全体的にやさしく撫でるように洗う。そして流し、タオルで水気を拭き取り、改めて額に触れる。ヌルヌルした感触は、なくなっていた。
アリシアはその流れで、バルコニーに出、息が詰まるほどモワッとした生ぬるい湿気の中、プランターを部屋の中に移した。バルコニーには一応、屋根はあるのだが、完全に雨水を防いでくれるわけではないし、また夏の雨の日は、湿度が高いので、図々しい雑草とは違って細やかに配慮される必要のある草花にとっては決していい環境ではない。放置してもひとりでにすくすく育ってくれるのであれば、わざわざ気を回したりしない。
屋内に避難させた、湿気で乾いていない黒々とした土と、雨露の付いた花を見、アリシアは、よいことをしたと、一抹の満足感を覚えたのだった。
*
「おはよう」
自宅より職場であるARIAカンパニーを訪れたアリシアは、迎え入れてくれた後輩に挨拶した。
「おはようございます。アリシアさん」
名は水無灯里という。桃色の髪の女の子で、まだ半人前(ペア)だ。
「蒸し暑いわね」
湿気と汗で髪を濡らしたアリシアは、閉じた傘を傘立てに収めて言う。
「はひ。今日は特に」
「雨だものね」
「アリシアさん、これ」
灯里は、タオルを差し出す。気を遣って用意してくれたようだ。
「あらあら。ありがとう」
アリシアはタオルを受け取ると、その白く清い繊維を見下ろし、少しの間考えた。
「――?」
後輩は、釈然としない風に、その間、きょとんとしていた。
「灯里ちゃん」
アリシアは顔を上げる。
「はひ」
「ちょっと、シャワーを浴びたいわ。さすがにベタベタして気持ち悪いから。お風呂、使えるかしら?」
「お風呂――あっ」
灯里はハッとする。
「使えることは使えますけど、ちょっと自分のものが置きっぱなしになってるんで」
「構わないわ」
「分かりました。すぐに沸かしますね」
「ううん。シャワーだけでいい」
「シャワーだけ」
「うん。このタオル、使わせて貰うわね。ありがとう」
一通りのやり取りを終えると、アリシアは浴室に向かい、灯里はまだ残っている雑務に取り掛かった。
洗面所をかねた更衣室で、服を脱ぐ。汗ばんで汚れた服。ARIAカンパニーで洗濯しようかと思ったが、乾かすだけにしておこうとアリシアは諦めた。
シャワーはバスタブと共に壁際にあるので、バスタブに入る。水が湯に変わるまでしばらく待ち、数秒経って温かくなりだすと、頭のてっぺんより浴びた。
ベタベタした汗が流されていく感覚がすこぶる気持ちよ、アリシアは思いがけず「ハァ」、ととリラックスした様子で発した。
「アリシアさぁん!」
と、外より呼び声がする。
「はぁい!」
シャワーを止める。
「何か要るものはありますかぁ!」
「ううん、特に――」
そう、言いかけたところで、アリシアは言い淀んだ。
シャワーのノブを締めきれなかったせいで、水滴がポツポツ雨だれのように足元に滴っている。
「アリシアさぁん」
「灯里ちゃぁん」
「はひぃ」
「何か冷たい飲み物を用意してくれると嬉しいわねぇ。後、着替えと。ラフでいいから」
「分かりましたぁ」
声を張って少し疲れた一方で、甲斐甲斐しい子だなぁ、と、灯里に対してアリシアは胸温まるものを感じると、再びシャワーを浴び、残りの汚れを流し、さっぱり爽快感を得るまで続けた。
シャワーを止め、サッと体と髪の水気を手でぬぐい落としたり絞ったりすると、タオルを取り、《さて》、と考えた。
《今日は雨。ゴンドラは漕げない。何して過ごそうか? いろいろとやることはあるけど》
タオルより漂ってくる洗濯洗剤の香りが心地よい。花の芳香がし、何となく自宅で雨宿りさせているプランターのことが思い出される。
《取りあえず、上がってから考えよう。冷たい飲み物を飲んで》
アリシアは、上がることを灯里に伝えると、バスタオルで体を拭いて下着を身に付け、Tシャツを着、ホットパンツを履いた。両方とも、灯里が用意してくれたものだ。
蒸し暑い真夏の雨のネオ・ヴェネツィア。
その一日は、まだ始まったばかり。
(終)