ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.96「夜闇の果てに」

***

 

 

 

 雨だった。

 

 したたかに長々と降る陰雨だった。

 

 わたしは傘を差して通りを歩いていた。

 

 オレンジ・ぷらねっとへの帰り道。

 

 陰気臭い雨に、人々は誰も彼も、しけた面持だった。

 

 冷たい雨だった。

 

 凍えるほど、冷たい雨だった。

 

 傘を後ろへと傾けて、空を見上げると、雨雲の広がりの中に、抜けているところが見えた。

 

 すでに暗かったが、空の天井ははっきり見えた。

 

 雨はじき止むのかなぁ、とぼんやり予期してみたり。

 

 でも、雨傘を踏む雨の足音は未だにしとしとと続く。

 

 朝は薄曇りだったが、昼に近くなって降り出した。

 

 乾いていた地面はあっという間に濡れ、水路を往く舟の姿はだんだんと少なくなっていった。

 

 雨が砕けたしぶきをひつこく浴びているから、ブーツに水が浸み込んできて、靴下まで濡れて気持ち悪い。

 

 早く帰りたい。

 

 オレンジ・ぷらねっとの部屋に帰って、濡れた靴下を脱ぎ捨てて、着替えて、さっぱりした部屋着で、ふかふかのベッドに大の字になりたい。

 

 あったかいココアが飲みたい。

 

 お気に入りの少女漫画を読んで、束の間の妄想を楽しみたい。

 

 そしてウトウトして、すっかりくつろいだ気分でうたた寝したい。

 

 ――そういう展望を思い描いて、すっかり夢現(ゆめうつつ)だったわたしは、我に返り、目の前を見渡す。

 

 ひとりだった。

 

 わたしはひとり、ぽつんと街路に佇んでいた。

 

 週末で、しかも遅い時分で、あまつさえこの悪天候だ。

 

 人足は自然、少なくなる。

 

 たとえ用事があるにしても、今日やっつける必要がないのなら、別の日に繰り延べるだろうと思えるくらいには、今日の天気はひどいものだった。

 

 スゥ、と息を飲む。

 

 何だろう。何だろう。

 

 わたしは頓にそわそわしだした。

 

 何かわたしを不安にさせるものがそばに、あるいはわたし自身の内にあるようだった。

 

 視野を広く目前に広げる。

 

 見渡す限りの夜闇。

 

 点灯する街路灯が照らす範囲には、雨の降り落ちる細かい無数の軌跡と、人気のないビルの空恐ろしい壁。

 

 千客万来の観光都市、ネオ・ヴェネツィアにも、こういう一面があるのだ。

 

 冷え切った空気。喜びもなく終わっていく一日。全てを拒絶する闇。

 

 わたしは、心細いが気丈に照る明かりを伝うようにして歩いた。

 

 そうしてサン・マルコ広場に辿り着く。

 

 天気がよい日中は、夥しい観光客でごった返す広場は、雨夜の今は辺りを払って物寂しく、水を打ったように静かだ。

 

 そびえ立つ鐘楼の影が、雨の中にぼんやりと滲んでいる。

 

 星間連絡船の離発着を管理する管制塔がかろうじて明るく、微かにひと気を知らせる。

 

 凍えるくらい寒かった。

 

 わたしは思わず身震いした。

 

 季節は秋もいよいよ深まろうとする頃だった。

 

 太陽が遠ざかって夜が早くなり、薄着では過ごしにくくなった。

 

 ぽかぽか暖かく、くつろいで安らげるマイ・ホームを想像する。

 

 柔らかいベッドや、おいしい食べ物や、アテナさんのちょっと間の抜けた顔を思い起こす。

 

 わたしの帰る場所。帰るべき場所。帰ってよい場所。

 

 アテナさんは、待っているだろう。

 

 わたしは今、そのそばを目指して足を運んでいる。

 

 オレンジ・ぷらねっとへ。

 

 用事をすませてびしょ濡れで帰ったわたしを、アテナさんはきっと、やれやれと呆れて迎え入れてくれ、濡れた体を拭くのにタオルを持ってきてくれたり、温かい飲み物を用意してくれたり、気遣いの言葉をかけてくれたりするだろう。 

 そういうイメージが、容易に思い描かれた。

 

 ところが、何か反発するものを感じた。

 

 抵抗だった。

 

 急激に――あるいは以前より――自信がなくなり、自分に対するあらゆる善意や配慮に対して、気後れを感じるようになった。

 

 そういう温かく優しいものは、卑しいわたしなんかには似つかわしくないのでは、という疑雲が、尻込みする自意識を源にして、もくもくと湧いて起こった。

 

 胸が苦しい。

 

 当たり前だったはずのマイ・ホームが、にわかに疑わしく、よそよそしい無関係のものに感じられてくる。

 

 わたしのものだったものが、わたしには相応しくないものに思えてくる。

 

 どうして。どうして。

 

 誰もいない広場にたった一人ぼっちで佇んで、みずからを苛み、行き先を失って、途方に暮れる。

 

 わたしなんて、いない方がいいのかも知れな――しまいには、いよいよそういう疑念まで生じてくる。

 

 だが、分かっている。

 

 よく分かっている。

 

 わたしは、弱い。

 

 だから、拠り所が欲しい。

 

 アテナさんが恋しい。灯里先輩が、藍華先輩が恋しい。

 

 目の前は見渡す限りの夜闇。

 

 だが、その限りない虚無に溶け込んでいくには、わたしはまだ弱かった。甚だしく弱かった。弱く、若く、希望にすがっていたかった。

 

 目前の闇の先に、わたしは明るみを見出す。

 

 アテナさんの明るみ。ふるさとの、友達の、家族の、生活の明るみ。生きることの悦び。

 

 雨はじき止む。

 

 そういう希望に、わたしは新たに一歩を踏み出す。

 

 

 

(終)

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