ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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雨だった。
したたかに長々と降る陰雨だった。
わたしは傘を差して通りを歩いていた。
オレンジ・ぷらねっとへの帰り道。
陰気臭い雨に、人々は誰も彼も、しけた面持だった。
冷たい雨だった。
凍えるほど、冷たい雨だった。
傘を後ろへと傾けて、空を見上げると、雨雲の広がりの中に、抜けているところが見えた。
すでに暗かったが、空の天井ははっきり見えた。
雨はじき止むのかなぁ、とぼんやり予期してみたり。
でも、雨傘を踏む雨の足音は未だにしとしとと続く。
朝は薄曇りだったが、昼に近くなって降り出した。
乾いていた地面はあっという間に濡れ、水路を往く舟の姿はだんだんと少なくなっていった。
雨が砕けたしぶきをひつこく浴びているから、ブーツに水が浸み込んできて、靴下まで濡れて気持ち悪い。
早く帰りたい。
オレンジ・ぷらねっとの部屋に帰って、濡れた靴下を脱ぎ捨てて、着替えて、さっぱりした部屋着で、ふかふかのベッドに大の字になりたい。
あったかいココアが飲みたい。
お気に入りの少女漫画を読んで、束の間の妄想を楽しみたい。
そしてウトウトして、すっかりくつろいだ気分でうたた寝したい。
――そういう展望を思い描いて、すっかり
ひとりだった。
わたしはひとり、ぽつんと街路に佇んでいた。
週末で、しかも遅い時分で、あまつさえこの悪天候だ。
人足は自然、少なくなる。
たとえ用事があるにしても、今日やっつける必要がないのなら、別の日に繰り延べるだろうと思えるくらいには、今日の天気はひどいものだった。
スゥ、と息を飲む。
何だろう。何だろう。
わたしは頓にそわそわしだした。
何かわたしを不安にさせるものがそばに、あるいはわたし自身の内にあるようだった。
視野を広く目前に広げる。
見渡す限りの夜闇。
点灯する街路灯が照らす範囲には、雨の降り落ちる細かい無数の軌跡と、人気のないビルの空恐ろしい壁。
千客万来の観光都市、ネオ・ヴェネツィアにも、こういう一面があるのだ。
冷え切った空気。喜びもなく終わっていく一日。全てを拒絶する闇。
わたしは、心細いが気丈に照る明かりを伝うようにして歩いた。
そうしてサン・マルコ広場に辿り着く。
天気がよい日中は、夥しい観光客でごった返す広場は、雨夜の今は辺りを払って物寂しく、水を打ったように静かだ。
そびえ立つ鐘楼の影が、雨の中にぼんやりと滲んでいる。
星間連絡船の離発着を管理する管制塔がかろうじて明るく、微かにひと気を知らせる。
凍えるくらい寒かった。
わたしは思わず身震いした。
季節は秋もいよいよ深まろうとする頃だった。
太陽が遠ざかって夜が早くなり、薄着では過ごしにくくなった。
ぽかぽか暖かく、くつろいで安らげるマイ・ホームを想像する。
柔らかいベッドや、おいしい食べ物や、アテナさんのちょっと間の抜けた顔を思い起こす。
わたしの帰る場所。帰るべき場所。帰ってよい場所。
アテナさんは、待っているだろう。
わたしは今、そのそばを目指して足を運んでいる。
オレンジ・ぷらねっとへ。
用事をすませてびしょ濡れで帰ったわたしを、アテナさんはきっと、やれやれと呆れて迎え入れてくれ、濡れた体を拭くのにタオルを持ってきてくれたり、温かい飲み物を用意してくれたり、気遣いの言葉をかけてくれたりするだろう。
そういうイメージが、容易に思い描かれた。
ところが、何か反発するものを感じた。
抵抗だった。
急激に――あるいは以前より――自信がなくなり、自分に対するあらゆる善意や配慮に対して、気後れを感じるようになった。
そういう温かく優しいものは、卑しいわたしなんかには似つかわしくないのでは、という疑雲が、尻込みする自意識を源にして、もくもくと湧いて起こった。
胸が苦しい。
当たり前だったはずのマイ・ホームが、にわかに疑わしく、よそよそしい無関係のものに感じられてくる。
わたしのものだったものが、わたしには相応しくないものに思えてくる。
どうして。どうして。
誰もいない広場にたった一人ぼっちで佇んで、みずからを苛み、行き先を失って、途方に暮れる。
わたしなんて、いない方がいいのかも知れな――しまいには、いよいよそういう疑念まで生じてくる。
だが、分かっている。
よく分かっている。
わたしは、弱い。
だから、拠り所が欲しい。
アテナさんが恋しい。灯里先輩が、藍華先輩が恋しい。
目の前は見渡す限りの夜闇。
だが、その限りない虚無に溶け込んでいくには、わたしはまだ弱かった。甚だしく弱かった。弱く、若く、希望にすがっていたかった。
目前の闇の先に、わたしは明るみを見出す。
アテナさんの明るみ。ふるさとの、友達の、家族の、生活の明るみ。生きることの悦び。
雨はじき止む。
そういう希望に、わたしは新たに一歩を踏み出す。
(終)