朝色小夜曲   作:芦野

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chapter1

1

人は変わる。

朝起きたときのわたしと夜眠るときのわたしは今日一日分違うわたしになっている。

変わらないこと、変わらないもの、変わらない人。そんなものはどこにもないのにどうして人はわたしを変わったと責め立てるのだろう。

永遠という言葉は幻想でしかないのに人は変わらないものをなぜ求めるのだろう。

今でもわたしの胸の中にあの言葉が心の底に沈んでいる。

「だってあなたも変わったでしょ?」

 

 

わたし、朝倉百合《あさくらゆり》は決して友達が多いわけではない。まあ、だからといって日々の生活にさほど不便を感じている訳でもないし、人付き合いに気を使うぐらいなら家で寝ていたいというのが偽らざる本心だ。

そんなよく言えば穏やかな、悪く言うなら平々凡々な高校生活を送っていたわたしに突然選択肢が突きつけられたのは、高校3年生の5月末のことだった。

「ふー」

「ひゃあっ!」

ホームルームの時間にまどろんでいたわたしの耳元に息が吹きかけられる。

「まーた寝てたの? もう、今の時間の話って今年の文化祭について説明があったから聞いといた方がよかったんじゃないの?」

いきなりの小言。わたしにわざわざ説教をしにくるのは桜井真央《さくらいまお》、彼女以外にいない。わたしと真央はいわゆる幼なじみで、今も家が隣同士だ。

「去年も一昨年も文化祭はあったし別にいまさら説明なんて」

「今年は私達3年生だから下級生を引っ張らなきゃいけない立場だよ、それに」

「あーもう分かった分かった、分かったからその辺にして」

お説教が始まる流れを察知したわたしは降参だ、というようにひらひらと手をあげた。

そして、お説教が始まりそうになるときは言い訳をするよりもこういうふうにさっさと降参してしまう方が楽だということをよく分かっている。

「もう本当に百合は……うちのクラスは展示制作と劇の発表と2つのグループに分かれることになったから、6月の中頃までにクラスの中で分かれて決めて名簿出すようにって言ってたよ」

「ふーん」

適当な返事をして、わたしは真央から視線を外した。

「ねえ、百合はどうするつもりなの?」

「別にどっちでもいい」

「それもだけど、そうじゃなくて……」

「……?」

わたしにはいつも思ったことを遠慮なく言ってくる真央がこんなふうに口ごもるのは珍しい。

思わず外していた視線を真央に戻した。

「百合、急にどこかに行ったりしない?」

「……」

突然の真央の問に適当な答えでも本当は何か返した方がいいのだろうけど、()()があるわたしにはその適当な答えすら思いつかなかった。

「最近の百合を見てると心配になるの。今度は私に何も言わないでいなくなったりしないでね、ちゃんと約束して」

「……うん」

真央の震えた声を聞いて、わたしはそれ以上何も言えなかった。

「約束だよ。じゃあもう授業始まるから席戻るね」

そう言って真央は自分の席に戻っていった。 わたしはまた、真央をあのときみたいに傷つけてしまうのだろうか。

本当は今すぐにでも、どこかに行ってしまいたいし消えてしまいたい気分だなんて、あんな表情をしている真央に言ってはいけないって分かるのに、つい口にしそうになってしまうのはどうしてだろう。

授業が終わると逃げるようにわたしは教室から出た。駆け足で階段を降りて下駄箱でローファーに履き替えて校門をくぐる。

幸い誰にも捕まることなく家に着くと、制服のままソファーに倒れ込む。

「疲れた……」

思わず今の心境を表す言葉が漏れる。

「うーん」

ソファーに寝転がったまま軽く伸びをしたら、急に眠気に襲われる。制服を床に脱ぎ捨ててからわたしは目を閉じた。

夢の中で今までわたしに起きたことが次から次へとフラッシュバックしてくる。

風の音、今よりもずっとずっと高く感じていた空、花の香り、色鮮やかだった小さいころの思い出。

心の底をマドラーでかき混ぜられたように沈んでいたたくさんの記憶が蘇る中でわたしはプールで溺れかけたときに似た息苦しさを感じていた。

……あの頃のわたしが今のわたしを見たらきっと失望するだろう。だけど過去のことはどう頑張ってもかえることはできない。

走馬灯のように駆け巡る思い出。あの日々は今のわたしにとって遠くなったはずなのに昨日のことよりもはっきりと、そのときの自分の心境まで蘇ってくる。

「……」

目が覚めると薄着で眠っていたとは思えないほど体全体に汗をかいていた。

シャワーを浴びてグラスに冷たい紅茶を注ぐ。

窓を開けると朝の少し冷たい風がリビングに入ってきた。

「ふう……」

しばらく外の風に当たっていると、少し気分が晴れてきた。

「ふわぁ……」

今の顔を鏡で見たらものすごくだらしのない顔をしてるんだろう、と自分でも分かるほど大きなあくびをしていつもよりも一時間ぐらい早く制服に着替えて家を出た。

わたしはいつも朝、学校に行く前に同じコンビニによって買い物をしていく。

だけど今日はつもよりかなり時間があるから、少し離れたコンビニまで歩いて行くことにした。

そのコンビニは個人がしている店で、品揃えも普通のコンビニとは違って面白い。

これまでもわたしは時間があったらこのコンビニにわざわざ行くことがあった。

「いらっしゃいませー」

中に入ると少し眠そうな店員の人の声が聞こえた。わたし以外には客が誰もいないのでゆっくりと商品を見て回る。

色々と迷ってから結局わたしがいつも買う、ココアとメロンパンを選んでレジに持って行く。

「249円です、はいちょうどですね。ありがとうございましたー」

お釣りを受け取るときに店員の人が結構可愛いことに気づいた。モデルでもやってそうなスラッとしたスタイルで、ポニーテールがよく似合っている。

ネームプレート見ておけば良かった。外に出てから軽く後悔しつつもわたしは学校に向かった。

多くの生徒が登校してくる時間よりはかなり早く学校に着いたからか、校内はいつもと違って静かで居心地がいい。

教室に行ってもまだ鍵は開いてないだろうし、わざわざ職員室まで鍵を取りに行くのはめんどくさい。時間を潰すためにわたしは図書室に向かった。

校舎の端にある図書室は日当たりがあまり良くないせいか、結構肌寒く感じる。

それでも、わたし以外誰もいない空間でゆっくりと本を読むのはとても気分がよかった。こうやってまた図書室に来てみるのもいいかもしれない。

……朝にものすごく弱いわたしにはなかなか難しいだろうけど。

ふと時計を見ると朝のホームルームが始まる15分前になっていた。

ちょうどきりがいいところまで読んだし、読書を切り上げて教室に戻ろうと思って椅子から立つ。すると、突然誰かから声をかけられた。

「あ、朝倉さん。図書室に来るなんて珍しいね」

誰だろう、聞き覚えのない声だ。

振り返って顔を見ても、その声の主が誰だか分からなかった。わたしと同じ色のリボンをしているから同学年なんだろうけど。

「えっと、あたし橘。橘綾子《たちばなあやこ》 」

橘……? そういえばそんな名前の生徒がクラスにいたような気がする。

「あ、ああ橘さん」

「去年もその前の年も、3年連続で同じクラスだったのにひどいなぁ、そんなに影薄いかなあたし?」

顔と名前を覚えていないことをごまかそうとしたけれど、ダメだった。

「いや……その、わたしあんまり人の顔とか名前覚えないタイプで」

橘さんは3年連続で同じクラスだったのに、名前を覚えられてないことが不満そうだった。少し怒ったような顔をされるとなんだかわたしが悪いことをしたような気分になる。

「そんな気はしてたけど、朝倉さん、桜井さん以外のことは眼中に無いって感じがしてたし、本当べったりだもんね〜まるで付き合ってるみたい」

「えっ!?」

思わず声が裏返ってしまった。確かに距離感は近いかもないけど、流石に付き合ってる程ではないと思う。

「あれ違った? でもあたし朝倉さんが桜井さん以外の人と喋ってるのを見た記憶あんまりないけどなぁ」

「……確かに」

ぐうの音も出ない。実際に真央以外とほとんど話したことない。

「あっはは、意外と朝倉さんって面白い人なんだね、もっと冷たいかと思ってた」

そう言って明るく橘さんは笑う。

快活そうな表情と高い位置でまとめられた髪が印象的で、どちらかといえば目立ちそうな彼女のことすら全く覚えていないのは、さすがにまずい気がしてきた。

「ね、せっかくだから堅苦しく呼ばないで気軽に呼んでよ。あたし、さん付けとかで呼ぶのも呼ばれるのも苦手だし……ね?」

「そう言われても……急にはちょっと」

「橘でも綾子でも綾ちゃんでもなんでもいいよ〜。あっそうだ、あたしはなんて呼べばいいかな?」

「えっ、別に好きに呼んでもらって……」

「おっけーじゃ、また教室でバイバイ」

そう言うと橘さんは走って行ってしまった。

 

2

わたしが通う私立三間桜(さんげんざくら)高校は、やけにイベント事全般に気合が入っている。何もしたくないわたしにとっては正直煩わしい。

 

「えーというわけで今年の球技大会の種目は、ドッジボール、バスケットボール、ソフトボール、サッカーに決まった。チーム分けをこの時間と次の現国の時間を使って決めるから、とりあえずよく話し合うようにな、いいか絶対優勝目指して、一学期最大の思い出にしよう!」

おー! と、担任の声に合わせて男子達が声をあげて一斉に席を移動し始める。この暑苦しい団結感。クラス替えのときから嫌だったけど、ますます嫌になる。というかこいつらどんだけ行事好きなんだ。

それはそうとして、さっきからこっちをチラチラと見てくる視線を感じる。いったいなんだろう。

辺りを見回していると、真央がこっちに歩いて来た。

「百合、今年はサボらないように見張るからあたしと同じ種目ね」

「あーはいはい」

反射的に嫌だと、言おうとして思い出した。

というのも、去年わたしは真央と違うクラスだった。だけど、真央はわたしがサボっている教室を見つけて押しかけて来て……あのときの怒りっぷりは今でもはっきりと覚えている。

一時間ぐらいこっぴどく叱られたうえに来年の球技大会はちゃんと参加することを約束させられたのだ。

「ところで百合はどの競技がいいの?」

「ドッジボール」

「うーんじゃあ私もドッジボールでいいかなあ」

「そこの二人ちょっといいかな?」

どうするかまとまろうとしていたときに、横から声をかけられた。

「あのさ、もしよかったらバスケちょっと助けてくれないかな?ちょうどあと2人足りなくてさ」

「げっ……」

思わず声が出てしまった。

「その反応は流石にひどいなぁ、ボクをなんだと思ってるのさ」

声の主は晴海詩音《はるみしおん》。一応知り合いではあるんだけど……あまりいい思い出はない。

わたしは中学生2年生の途中までバスケ部に入っていて、晴海も同じバスケ部だった。つまりかつてのチームメイトだ。

わたしが部活をやめてからは特に話す機会はなかったのだけれど、偶然同じ学校にわたしがいると知った晴海は、熱心にわたしをバスケ部に誘ってきた。

例えば放課後に教室に押しかけてくる。勝手に入部届けを出そうとする、それ以外にもあの手この手で猛プッシュをかけられて、正直うっとうしいとかいうレベルじゃなかった。

晴海が本格的に部活に打ち込むようになり、勧誘はやんだのだけど、3年生になって同じクラスになってからはまた勧誘に来るようになった。

「で、引き受けてくれる?」

「嫌」

「えっ即答!?」

目を見開いて驚く晴海。なぜあれだけ嫌がっていたわたしが引き受けると思ったのか。

「今ドッジボールに決めたところ、人が足りないなら他をあたって」

「いやさあ、実はさっき確認したんだけど、女子の人数的に何人かは二種目出ないと行けないみたいでさあ……お願い!」

両手を合わせながら拝むように晴海はわたしに頭を下げる。どうしてここまでするのだろう、相変わらず晴海の熱心さはどこから来るのか理解できない。

「私は別にいいと思うよ、久々に百合がバスケするところ見てみたいし」

にまぁと悪い笑みを真央は浮かべる。

「そもそも人数が足りないなら運動部の誰かを誘えばいいじゃない。なんでわざわざ……」

「百合だからわざわざ誘ってるんだよ。キミ以上にこのクラスにバスケが上手い人ボクは見たことないもの」

恥ずかしげもなく、晴海はこういうことを言うのだ。まっすぐわたしを見てくるまなざしは全く変わっていなかった。

「買いかぶるのはあんたの勝手だけど、嫌なものは嫌。わたしはやらない」

そう言って机に突っ伏す。これ以上話すことはないという意思表示をして、晴海が諦めるのを待つ。

しばらくそうしていると、晴海は誰かに呼ばれていったようだ。

「ねえ、晴海さん行っちゃったけど、良かったの?」

「ただでさえめんどくさいのに種目まで増えたらやってられない」

顔だけを真央に向けて答える。

「またそんなこと言って……晴海さん悲しそうにしてたけど」

「あいつはそんな簡単に傷つくようなタイプじゃないし」

「久々に百合がバスケしてるとこ見てみたいってのは私も晴海さんと変わらないよ。百合かっこよかったし輝いてた」

「……」

バスケの話が出るたびに嫌な思い出が思い出される。

「あーもうそうやってすぐ机に突っ伏して、ほら起きなさい」

「やめて、やめてって」

真央は突然脇腹をつついたあと私の脇をくすぐりだす。

「ほらほら〜体を起こさないとやめないよ〜ふふっ。本当に百合って脇触られると弱いよね。」

「いい加減くすぐるのやめてって!」

「ん〜どうしよかっなあ」

身をよじりながら必死に抵抗しても的確にわたしの弱いところを執拗に刺激してくる。

「はぁ……はぁ……」

「ご、ごめんつい、百合……大丈夫?」

「なにあれ」

「えろーい」

「あの2人やっぱり付き合ってるのかな」

周りのざわつきがこっちにまで聞こえてくる。顔をあげなくてもクラス中の視線がわたし達に注がれていることが分かった。

「保健室行ってくる」

教室の雰囲気に耐えられなくなったわたしは保健室に逃げ込むことにした。

歩いていてもなんだか体が弛緩して力が入らない。真央にここまで本気でくすぐられたのはいつぶりだろう。

「あっ……いた」

気が抜けたところで今度は階段を踏み外して足をくじいてしまった。

「なんなのもう……」

思わず恨み言が口をついて出る。さっきの晴海のことといい何だか今日はあまりよくないことが続けて起きる気がしてきた。

「あら?こんなところで貴女《あなた》は何をしているの?」

上から声がしてカツカツと靴の音がする。長い黒髪をなびかせて颯爽と階段を降りて来たのは整った顔出ちの女子生徒だった。どこかで見たことのある顔……そういえば生徒会長か何かで名前は確か椿原花恋《つばきはらかれん》とかだったっけ。

「気分が悪くなったので保健室に……」

「あらそうなの。もしよかったらわたくしが付き添いましょうか?」

「い、いえ大丈夫です」

気分が悪いのは嘘じゃないけれど、わざわざ誰かに付き添ってもらうほどではない。

「うふふ、そう言わずに」

そう言うと椿原はわたしの肩を抱いてきた。

「ちょっと……大丈夫ですって」

「足首、痛めてるんじゃないかしら?もし、違うなら無理強いはしないけど……階段を降りるのすら辛そうに見えるわ」

「……お願いします」

「うふふ、構わないですわ」

肩を支えられ階段を降り、廊下をゆっくりと歩いて保健室の前に着く。

「ありがとう」

「お礼なんていいわ。ここに用事があるのは一緒だし」

がらりと扉を開けて椿原は保健室に入っていく。わたしもそれに続いた。

「また生徒会長様はサボり……と思ったらあんただけじゃないんだ。そっちの子はどうしたの?」

「ちょっと足をくじいて……」

「分かった、そこ座ってちょっと待ってて」

養護教諭に促され椅子に座る。

「少し押すよ、痛かったら言ってね……どう?」

「大丈夫です」

「了解。ほいほいっと……はいこれで冷やしてしばらく座って安静にしておいてね」

「ありがとうございます」

氷が入ったビニール袋を足首にあてる。ひんやりとした感覚が広がってきて気持ちいい。

「じゃあ先生は少し用事で出て来るから授業終わっても痛みが引かなかったらそこにある電話でかけてきてね、じゃあ」

そういって養護教諭は急いで外に出ていった。

「足、大丈夫?」

「ああ……はい、大丈夫です」

ねえ、といいながら椿原はわたしの隣に座ってきた。

「貴女が噂の朝倉さんよね。一度お話したいと思ってたの」

「は……はあ、噂になった覚えはないんですけど」

なんでこんなに距離が近いんだ。

「うふふ、噂通り……綺麗な顔してるわ」

「ちょ……ちょっと」

鼻が触れそうになるぐらいまで顔が近づく。表情といい、声だったり思わず飲まれそうになるような雰囲気を彼女はまとっている。

「ねえ、いいかしら」

椿原はそういってさらに体を寄せてきた。

「ちょ……ちょっとちか……」

近すぎる距離に耐えられず、手で押しのけてしまった。

「あら残念、結構ガード堅いのね」

「……」

少しムッとしたような顔を作って椿原を見る。

「うふふ、ごめんなさいね。少しからかいたくなってしまいました」

「からかいたくなったって……」

「ええ。ところで朝倉……いえ百合さんって今お付き合いとかしてる人とかいるんですか?」

「……はあ?」

思わず真顔になってしまった。おとなしくなったと思ったら今度は何を聞いてくるんだ。

「例えば……桜井さんとか」

「付き合ってない! いったい誰がそんなこと」

わたしと真央はいったいどんなふうに見られているのだろうか、今更ながら少し心配になってきた。

「あら? いつも2人でいて、ときおりいちゃついているって聞いたら普通はそういう関係なのかって勘繰ってしまうものじゃない?」

「……だから付き合ってない……」

「うふふ、貴女って結構表情豊かなのね。話していて飽きないわ」

「……そうですか」

わたしが呆れながらこう言うと同時に授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。

足もどうやら大丈夫みたいだし教室に戻るか、そう考えて座っていたソファーから立ち上がる。

「あら、もう帰るの?」

「生徒会長さんはこんなところで油売ってていいの?」

「生徒会長なんて名前だけ。お父様がここの理事長と仲が良いらしいらしくて気づいたらなってただけよ。それに授業なんて出なくても進路も何もかも決まってるのに今さら何もする気が起きないわ」

「……」

さっきまでとは違う突然の吐き捨てるような言葉に何も言えなかった。

「ごめんなさいね、突然変なこと言ってしまって……よかったらまたお話しましょう、貴女なら歓迎するわ」

「考えておきます」

寂しげな顔をする椿原にわたしは曖昧な返事を返すことしか出来なかった。

そのまま保健室を出る。足首を軽く伸ばしてからわたしは階段を上っていった。

 

3

また、見たくもない夢をみていた。

この世に生まれたからには誰しもなにかしら生きる意味がある。

そんな言葉を耳にしたことは一度や二度じゃない。そのフレーズを聞くたびにわたしは思う。

もし、生きる意味を見失ったらどうすればいいの?

「誰でもそういう気分になることがあるよ」

「あたしなんて3日に1回は死にたいって思ってるよ」

返って来た答えは無責任で軽薄なものばかりだった。

他人に解決を求めることが愚かしいと理解してもなおわたしはこんなことを聞いてしまった。

──そんな自分にますます嫌気がさす。

「疲れてるんじゃない?しばらくゆっくりしたらいいんじゃない」

そうか、疲れているのか。立ち止まって自分を見つめ直せばこの闇の中から抜け出す光が見つかるかもしれない。

だけどわたしは結局立ち止まったままだ。

ただ過ぎる時間はこの気持ちの解決ではなく、より深い闇の中にわたしを迷わせただけだった。

どうすれば、どうすればいい?

そう自分に問いかけるたびに吐き出した言葉がまた私の手足を縛るのだ。

目覚めたくもないのにまた朝は来る。この夢みたいに何もかも消えていってしまえばいいのに。

意識が徐々に鮮明になっていくと同時に扇風機の風が身震いするほど冷たく感じた。

全身がじっとりと汗ばんでいる。嫌な夢を見た後にはいつもこうだ。

「はあ……」

熱めのシャワーを浴びてから服を着替える。

そろそろ学校に行かなければいけない時間になってもわたしはいつも以上に学校に行く気分になれなかった。

財布と携帯と鍵をポケットに入れて家を出る。いつも乗る駅よりも一駅遠くまで歩いて、学校とは逆方向行きの電車に乗る。

電車の中で携帯が鳴る。表示された名前は予想通り真央だった。出るまでバイブレーションが止みそうにないので電源を切った。

 

「さてと」

街の方まで出てきたはいいが、特に何をしようという予定はない。少し迷ってからわたしは駅前のドーナツショップに入ることにした。

まだ時間が早いからか店内はがらんとしている。

ドーナツを3つとパイを1つ、それとアイスミルクを頼んで席についた。

アイスミルクを飲みながらぼんやりとしていると、見覚えのある人から声をかけられる。

「あれ〜どうしたのこんなところで」

「あ、えっと橘さん」

「あ〜今一瞬考えたよね」

わざとらしく頬を膨らませて、私の前に橘さんは座ってきた。

「そういえばゆーちゃんも学校サボり?」

ゆーちゃん? わたしのことなんだろうけどその呼ばれ方は流石に抵抗がある。

「まあ……そんなところ」

「そうなんだ〜あたしも1人で退屈してたの一緒に食べよ?」

「もう座ってるのにわざわざ聞くの?」

「あっははまあね」

そう言って橘さんはチョコレートがかかったドーナツを美味しそうに頬張る。そのままあっという間にたいらげると、今度は私のドーナツを見つめて来る。

「……ちなみに、ゆーちゃんは4つも食べて気にならないの?」

「?」

気にならない? 何がだろう。

「夏服に変わると、色々やっぱり気になるじゃん。体のライン出ちゃうし……」

ああ、なるほどそういうことか。

「わたしは特に気にしてはないけど……」

「えっ!?もしや食べてもお腹がプニらないタイプだったりするの?」

「そういうわけじゃないんだけど、特に意識したことはない……と思う」

「ぐぬぬぬ……許せない」

全女子を敵に回すような発言だよ、とフォークを持ちながら橘さんは熱弁する。

 

「ところで、これから予定とかなかったらちょっと付き合ってくれない?」

「えっ」

手に持っていたドーナツを思わず落としそうになってしまった。

「嫌、だったりする?」

「そういうわけじゃないんだけど」

「じゃあ一緒に行こ?さ、早く食べちゃって時間がもったいないし」

「ええ……」

ためらうわたしに構うことなく、橘さんは両肘をついて頬杖をしながらじっと見つめてくる。

「……分かった。つき合う」

「本当? やったぁ!」

ガッツポーズをして満面の笑みを橘さんは浮かべる。真央のことをいつもお人好しだって言っているけど、わたしもたいがいお人好しかもしれない。そう思いながらわたしは残りのドーナツを口に入れた。

「で、どこに行くの?」

「うーんそうだなあ……ゆーちゃんはいつもはどこで遊んでるの?」

「あのさ……橘さん。いい加減わたしのことゆーちゃんって呼ぶのやめない?」

「え〜どうしよっかなあ」

人差し指を口元に当てて、橘さんはいたずらっぽい表情を作る。

「橘さんじゃなくて下の名前、綾子って呼んでくれたらやめてもいいよ」

「ちょっとそれは……」

「えーじゃああたしのことなんて呼びたいの?」

「それは……えっと、あ、綾子?」

「うんうんやっぱり名字じゃなくてそっちの方がいいよ」

「う、うん」

約束、ずいぶんと重い言葉だ。

何も考えず反射的に答えてしまったけど、下の名前で呼ぶのは流石に抵抗がある。

「じゃ、いこ」

わたしたちは人混みを抜けて滑り込むようにショッピングモールに入った。

店内に入るとまだ体がクーラーに慣れていないせいか、足先がやけに寒く感じる。

「百合ちゃんは、映画とか好き?」

「ジャンルとか内容によるかなあ」

「そーなんだ、今は何がやってるのかなっと」

ショッピングモールの中にある映画館の前でチラシやポスターを眺めていると、視界の端に何人か人が見える。

周りをぐるっと見てみると平日の昼前なのに結構人がいることに少し驚いた。

「あっこれ面白そう」

そう言って橘さんは一枚チラシを手に取ってまじまじと見つめている。横から見るとそれはCMとかで予告が流れていた恋愛映画のチラシだった。

「そういえばこれ、真央が見たいって言ってた映画だったっけ」

何気なく、半分ひとり言を呟くように口にした言葉に橘さんは怒ったような顔をした。

「もー今一緒にいるのは桜井さんじゃなくてあたしだよ?」

「あっ……そのごめんなさい」

「もー百合ちゃんは女の子なのに女心を分かってないよ。誰か女の子と一緒にいるときに他の女の子の話とか絶対ダメだよ。あたしじゃなかったら好感度急降下間違いなしだからね」

「は、はあ……」

どうしてわたしは女の子の取り扱いを同い年の子に説教されているのだろう。

「まあ、百合ちゃんが桜井さんとべったりなことは知ってるし素直に謝ってくれたんだからあたしは全く怒ってないから気にしないで」

「それはどうも」

映画を選ぶまでの間、わたしは橘さんが本気で怒っていたのか考えていたけど、結局よく分からないままだった。

「うーんじゃあせっかくだしこの映画にしようよ」

「うん」

しばらく迷ったけど、結局最初に話題に挙がった恋愛映画を見ることに決まり、橘さんが席を取っている間にわたしはチュロスとポップコーンとコーラを買って待っていた。

「まだ結構いい席あったよ……ってずいぶんといっぱい買ったんだね」

「そう? そんなでもないと思うけど」

「百合ちゃんって結構食べるのにスタイルいいよね、羨ましい……」

「別にそんなことない」

わたしの言葉に橘さんは一瞬だけ眉を寄せた。

「やっぱりみんなそういうんだなあ……あっ、そろそろ映画始まるよ」

「そうだね」

軽く返事をしてわたしは橘さんの後を追った。

「僕にはキミしかいないんだ」

「わたしにも……あなたしかいないの」

映画の内容は一言で言うとものすごくつまらなかった。もし1人で来ていたら間違いなく途中で席を立っていたと思う。

「…………」

わたしは無言でポップコーンを食べながらケータイを開いていた。

「うわ」

予想通り真央から何回か電話がかかって来ている。これは後で間違いなく問い詰められることになりそうだ。

浮かんで来た憂鬱な気分をコーラで流し込んで橘さんの方に視線を向ける。

「う……ん」

寝てた。いや爆睡していた。橘さんは薄暗い中でも分かるほど口を開けて気持ち良さそうに眠っている。

起こした方がいいのだろうか。一瞬迷ったけれど、橘さんの肩を軽く叩いてみる。

「あれ……あたし寝ちゃってた」

「あのさ、わたし正直この映画つまらなくてさ。もしよかったら外、出ない?」

「でも」

「いいから、わたしが出たいの」

「あっ……」

多少強引かな、と思いつつ橘さんを連れて映画館を出た。

「ごめんね、無理やり連れ出して」

「そ……その……」

橘さんがわたしから目をそらして赤面している。何秒間かの沈黙のあとでわたしは彼女の手を握っていることに気づいた。

「あっごめん」

慌てて手を離す。

「……」

糸が切れた操り人形のように橘さんはピクリともしない。

「あの、本当ごめんね。嫌だった?」

「嫌じゃない。嫌じゃないんだけど……」

「顔、真っ赤だけど大丈夫?」

「ちょちょちょちょっとタンマ! 10秒、10秒待って」

橘さんは近づこうとしたわたしを手を出して制した。

「うん、もう大丈夫。あっそうだ、もう少し付き合って欲しいんだけどいい?」

「いいけど」

わたしの答えを聞くと、橘さんは早足で行ってしまった。

橘さんは駅の方へと歩いていく。

「今から、あたしの家にでも……行かない?」

「え?」

電車の中で橘さんはとんでもないことを言ってきた。

「うそうそ冗談、確かにあたしの家の方角だけど」

いたずらっぽい笑みを橘さんは浮かべる。

「で、どこに行くの」

「それはついてからのお楽しみ」

「はぁ」

思わずため息に似た声が出てしまう。もしかしてさっきのことをまだ根に怒ってるのかもしれない。内心そんなことを思いながらわたしは電車に揺られていた。

 

「ここって公園?」

「うん、そう。寂《さび》れてるけどいい場所なんだよここ」

橘さんがわたしを連れてきたのはマンションとマンションに挟まれた道路の脇にある忘れ去られたような公園だった。

初めて来たはずの場所なのにどこか懐かしい雰囲気がこの公園には漂っている。

「あたし、この公園に毎日のように来てたんだ。今もだけどお父さんもお母さんも働いててずっと家にいるのに飽きちゃって」

わたしたちは公園の隅にあるベンチに腰を下ろしていた。

「ここから少し離れたとこにね、大きい公園があるんだ。だけどあたしは恥ずかしくていつもの誰もいないこの公園にいたの」

「そうなんだ」

「ほら、そこにブランコがあるでしょ……今はもう使えないみたいだけど」

小さな滑り台は塗装が剥がれ落ち、ブランコは錆びていて、立ち入り禁止のロープが貼られていた。小学生どころか、それより小さい子供にとってもこの公園は退屈に映るだろう。

「特等席だったんだあそこ、あのマンションがまだ今ほど高くなかったら夕日が沈むのがすごく綺麗に見えて……この夕日を独り占めしてるのはあたしだけだって思ったら少し強くなれるような、そんな気がしてたんだ」

だけど、と橘さんは続けた。

「いくら綺麗でも、ずっと一人で見てたらそのうち寂しくなってきちゃってさ」

情けないよね、と橘さんは力なく笑う。

「そうだ、あたしばっかりこんなこと話してたら悪いよね、百合ちゃんは小さいころどういう子だった?よかったら教えて」

「どういう子だったかあ……別に変わったことは何もしてなかったと思うけど」

急にどういう子だった?と聞かれても自分ではよく分からなかった。

「そう……だよね。ごめん、あたしなんか変なこと聞いちゃって」

それからはなにを話すわけでもなく、ただ二人でベンチに佇んでいた。やがて、空が茜色に染まってゆく。だけど夕日はマンションの陰に隠れて見えなかった。

「今日は無理やり付き合わせちゃってごめんね。でもあたしは百合ちゃんとこうして遊べてすっごく楽しかったよ」

「……わたしも楽しかった」

「もし、社交辞令じゃなかったらその言葉すっごく嬉しい。よかったらはいこれプレゼント、家に帰ってから開けてね」

橘さんはバックから小さな紙の箱を取り出してわたしに差し出してきた。

「これは……折り紙?」

「そうだよ〜あたし折り紙結構得意なんだ」

「へぇ、上手だね。ここまできちっと作れるなんて」

「そう? ありがと。やっぱり百合ちゃんって……優しい人なんだね」

「そんなことない」

「ううん絶対そうだよ。本当は優しい人なんだよ百合ちゃんは……あ!顔赤くなってる〜」

ストレートに褒められて動揺したところを橘さんにすかさず指摘された。

「もしかしてからかってる?」

「ふふっ映画館のときのおかえし。……じゃあまた明日、今度は学校で会おうね。じゃ、ばいば〜い」

「また明日」

軽く手を振って橘さんは小走りで行ってしまった。

わたしも帰るか、軽く伸びをしてから駅の方に向かって歩いていく。

そういえばわたしも小さいころ、この辺りに来たことがあったような……。

ふと記憶が蘇りそうな気がして、立ち止まって少し考えた。だけど、掴みかけた記憶はわたしの手をすり抜けていってしまった。

なんだったんだろう? そう疑問に思ったけれど、駅に着くまでにわたしは考えることをやめてしまっていた。

しばらく電車に揺られて、家の方まで帰ってきた。さっきまでの茜色の空とは違って、空には星がいくつか見える。

「ん?」

家の前に誰か立っている。その人影と距離が縮まっていくと、正体はすぐ分かった。向こうもわたしに気づくとこっちに駆け寄って来る。

「何してたの? こんな時間まで」

「真央こそなんでこんなとこに突っ立って」

「だって学校にも来ないし、電話にも出ないから、もしかしたら何かあったんじゃないかって思って」

大げさだって言おうとして、言葉を飲み込む。真央の手が微かに震えていた。

「ごめん、今日は学校に行けるような気分じゃなかったし……けど明日は学校行くから」

「……分かった」

安心した、といった表情を浮かべて真央は大きく息をついた。

「明日は朝迎えに行くから、ちゃんと起きて来てよね。おやすみ」

「うん」

真央が帰っていったのを見届けて、わたしも家に戻った。

熱めのシャワーを浴びてから、部屋着に着替えてソファに寝転がる。普段とは違う疲労感に誘われてわたしはすぐに眠りに落ちた。

 

4

チャイムの甲高い音に重いまぶたをこじ開けられた。こんな朝から誰だ、と考えていると昨日の真央の言葉を思い出す。

まだ完全に頭が起きないまま体を起こして、ふらふらと玄関まで歩いてドアを押し開ける。

「あっやっと起きてきた。おはよ、早く着替えて来てね」

曖昧な返事を真央にして家の中に戻る。

顔を洗ってから歯を磨く。鏡に映った自分の姿を見て、髪が随分と伸びて来たことに気づいた。

そろそろ切りに行きたいな。

制服に着替えてからカバンを手に持って、再び玄関に戻る。

「……というかまだ早いじゃん」

家に鍵をかけながら、わたしは思わず呟いていた。

「百合がいっつも遅いだけ、毎日遅刻ぎりぎりじゃん。それに今日はいつもより顔色いいよ、目の下にクマもできてないし」

「そんなにいつもひどい顔してない」

「もう、してるって」

なんてたわいないやり取りをしながら学校に向かって歩いていく。

「そういえば、百合朝ごはん食べてないでしょ?そこの公園で食べよ」

「別にいいけど」

犬の散歩をしている人やジョギングをしている人で、朝の公園はそこそこ活気がある。

「レジャーシート持ってきてるし、あそこの芝生に座って食べよ」

やけに準備がいい。多分真央は最初からそのつもりだったのだろう。

「ま、朝ごはんっていっても簡単なものなんだけどね。はいどうぞ」

ラップに包まれたおにぎりを差し出してくる。

「ありがと」

「そういえば」

「?」

「昨日どこいってたの」

おにぎりを食べ終えたわたしに真央は質問してきた。というか、なぜ昨日聞いてこなかったのに急にどうしたのだろう。

「別に、ドーナツ食べてぶらぶらしてただけ」

「それだけ?」

「それだけ。どうかしたの今さらそんなこと」

「ちょっと気になっただけだよ」

「ふうん」

どこか怪訝そうな顔をしながらも、真央はそれ以上何も聞いてこなかった。

「そろそろ行こっか?」

「うん」

公園から出て、最寄りの駅に向かって真央と肩を並べて歩く。わたしがいつも乗る時間よりはまだ早いからか、乗り込んだ電車はそれほど混んではいなかった。

学校の最寄りまであと二駅というところで真央は並んで座っていたわたしの肩をつついた。

「ねえ百合、昨日クラスで文化祭のグループ分けがあったんだけど、百合はどうするの?」

「……グループ分け?」

「前に言ったじゃん、展示製作と劇の発表の2つのグループに分かれるって」

「……ああ」

そういえばそんな話があった気がする。

「どっちにするつもりなの?」

「決めてない、いつまでなのそれ」

「今週中。紙が後ろの黒板に貼ってあった気がするから名前、ちゃんと書いておかないと」

文化祭という言葉自体がすでにめんどくさい、どっちが楽そうか橘さんにでも聞いてみるか。そんなことを考えていると学校の最寄り駅に着いた。

改札を抜けて駅を出ると、わたしは軽く背伸びをした。

学校まではここから歩いて数分の距離。のんびり歩いても始業時間よりかなり早く教室には着けそうだ。

「真央ちゃんおはよ〜」

「桜井先輩今日も早いんですね」

駅を出てからしばらく歩いていると、真央は何人かの知り合いから声をかけられていた。

「みんなおはよう」

朝からそんなに愛想よくできる真央は正直すごいと思う。

ただ少し不思議なのは男女問わず交友関係が広くて結構人気もあるうえに、客観的にみてモテそうなのに彼氏がいないことだ。

何人かに囲まれている真央から離れて少し早歩きで学校に向かう。

校門を抜けて自販機でココアとお茶を買ってから教室に向かう。

後ろのドアを開けて教室に入る。自分の席に座って鞄を机の横にかけたところで橘さんが声をかけてきた。

「百合ちゃんおはよ〜」

「おはよう」

「今日は早いんだね」

「……まあね」

適当な返答をして視線を橘さんから後ろの黒板に移す。黒板の端にマグネットで紙が二枚貼ってあった。

「ねえ、文化祭のやつどっちやるか決めてたりする?」

視線を橘さんに戻してわたしは聞いてみる。

「あたしも昨日休んだからまだ名前書いてないけど、劇の方にするつもり」

「そう」

「あっここにいた。一緒に登校してたのになんで勝手に一人で先に行っちゃうのって……あれ?綾ちゃんどうかしたの」

勢いよく教室のドアを開けて真央はこっちに近づいてきた。

「百合ちゃんと文化祭について話してたの」

「へ〜百合が」

橘さんの言葉を聞いて真央がじっとこっちを見つめてくる。

「桜井さん、まだ劇の発表ってまだ人入れる?」

「いや、どっちも今のところ半々ぐらいに分かれてるからどっちでも大丈夫だよ」

「よかったあ、じゃわたし名前書いとこっと……よし」

「百合は結局どっちにするの?」

「真央はどっちに名前書いたの?」

真央の質問に質問で返す。

「わたしは展示製作にしたよ」

「そう」

答え自体にはさほど興味は無かったけれど、ただ今どっちだと名言しない方がいい気がしたから話題をあえて逸らした。

「桜井さんー!ちょっといい?」

「あ、うん今行く」

真央がクラスの人に肩を叩かれて連れて行かれていく。それを見送ってわたしは机に突っ伏した。

「あのさ……」

しばらく無言の時間が流れたあとで、橘さんはわたしの肩を軽くつついてきた。

無言で視線だけを橘さんに向ける。

「……」

唇をきつく結んだまま、橘さんは何か言いたそうな顔をしていた。

「……どうかした?」

視線に耐えられなくなって、わたしから口を開くが、橘さんは何も言おうとしない。

「ごめん、何でもない」

わたしがどうしたらいいか困っていると、橘さんは逃げるように教室の外に走って行ってしまった。

体を起こして橘さんを追いかけようとして、やめた。追いかけたところでまたああされたらどうしようもない。

「はぁ……」

真央もどうして欲しいか分からないことがあるけれど、橘さんもわたしにどうして欲しいのか同じぐらい分からない。

今さら考えてもしょうがないと分かっていても、突然ああいう態度を取られてあまり気分がいいものではない。わたし、橘さんに何かしたのだろうか。

チャイムが鳴り、わたしは再び机に突っ伏す。だけど、あまりよく眠れなかった。

 

「あ」

昼休みに入ってから昼ごはんを用意していないことに気づく。

さすがになにか食べるものが欲しい。大したものは残ってないだろうけど、購買に行くか、と椅子から立ち上がる。

教室から廊下に出たところで真央とはち合わせた。

「あ、百合どこ行くの?」

「購買」

「あっ、だったら一緒にお昼食べようよ」

「いつもの一緒に食べてるあの人達は?」

「えっと……ああ、今日わたしだけ展示製作の昼当番じゃなくて、一人で食べるのも寂しいから、ね」

「別にいいけど、購買寄ってからでいい?」

「ふっふっふ……いいからいいから」

「ちょ、ちょっと」

真央に手を掴まれて教室の中に引きずられるようにして戻る。

小走りで自分の席に戻ると、真央は竹で出来たバスケットを持ってきた。

「じゃーん! 実は百合の分も作って来たんだ」

「……」

どうしてわたしの分まで作って来ているのだろう。

「何ボサっとしてるの、行くよ」

「はいはい」

階段を降りて空き教室に入る。机を向かい合わせにして、真央と向かい合わせに座った。

「じゃあ、食べよっか……どう?」

バスケットの中身はサンドイッチだった。

「どうって……まだ食べてないけど、何か変わってるのこれ」

「前に私がサンドイッチ作ったときに、今度普通のパンじゃなくてバゲットで作ったのが食べたいって言ったの忘れたの?」

そんなこと言ったっけ? そもそも前に真央が作ったサンドイッチを食べた記憶すら全くない。

「やっぱり忘れてたんだ。もういい……やっぱりあげない」

「ごめんごめん、わたしが悪かった」

真央の表情を見たら、さすがにわたしでも素直に謝った方がいいのが分かった。

「もう、はいどうぞ」

許してくれたのだろうか、真央はわたしに一つサンドイッチを差し出してきた。

受け取って食べる。口に入れた分を咀嚼してもう一口、もう一口とわたしは無心で食べ進めた。

両手で頬杖をつきながら真央はわたしを見ている。

「美味しい?」

無言でわたしが頷くと、真央は満面の笑みを浮かべた。

「よかった、気に入ってもらえて」

百合は味に結構うるさいから、と言いながら真央もサンドイッチに手を伸ばした。

別に自分ではそんなことないと思うけど。

しばらくわたし達は無言でサンドイッチを食べた。

 

「ごちそうさま」

「どういたしまして」

わたしが食後のデザートがわりに朝買ったココアを開けて飲んでいると、真央が物欲しそうな顔でわたしを見てきた。

「いいな〜私もココア飲みたくなって来ちゃった」

「……もう1本買ってこよっか?」

「うーんそんなにいっぱいはいらないかな」

「飲む?まだ半分くらい入ってるけど」

「へ!?」

ココアを差し出すと、真央は何故か顔を真っ赤にした。受け取ろうと伸ばしてきた手もぷるぷる震えている。

「ほ、本当に飲むよ、いいの?」

「別にいいよ」

わたしから言い出したのに悪いはずがない。どうかしたのだろうか?

「じゃ、じゃあ飲むよ、ほんっとうに飲むからね!」

「だからいいって言ってるのに」

中身がこぼれそうなほど手を震わせながら、真央は一気にココアを飲み干した。

「それ、捨てといて」

「え、捨てるの?」

「だって、全部飲んだんじゃないの?」

「そうか……そうよね、あはは」

「……変なの」

教室を出たところで昼休憩の終わりを告げるチャイムが鳴って、わたし達は小走りで教室に戻った。

昼休みが終わってからの授業は異様な眠気に襲われて、何も覚えていない。気がついたら帰りの時間になっていた。

ケータイを開くと、真央から今日は展示製作の話し合いで学校に残るから先に帰っててと、わざわざ連絡が来ていた。普段は連絡なんかしてこないのに珍しい。

下駄箱で靴に履き替えて校舎の外に出ると、朝にはなかった作りかけの看板のようなものがあった。

その周りに十人ぐらいの生徒が集まっている。文化祭の準備だろうか。

ちらっと視線を向けただけで、それ以上気にすることなく校門をくぐる。

夕方なのに蒸し暑くて、ただ歩いているだけでかなり汗をかいてしまうほどだ。

電車から降りたところで制服が少し透けるほど汗をかいていることに気づいて、思わずため息をつく。汗が引くまでしばらくコンビニで涼んでから家に帰ることにした。

「らっしゃーせー」

さほど興味のない週刊誌やマンガ雑誌を一通り流し見してから、バニラアイスを2つとサイダーを1本買ってコンビニを出た。

 

バニラアイスを咥えながら、近道のために朝真央と寄った公園とは別の公園を少し急ぎ足で歩いていると、ドッジボールがわたしの方に向かって転がって来ることに気づいた。

「お姉さーんボール取って!」

膝に絆創膏を貼った小学生ぐらい女の子がこっちに手を振っている。

ボールを拾い上げて投げ返してあげると、女の子はこちらにお辞儀をして一緒に遊んでいる仲間達のところに戻って行った。

今では外で走り回るなんて頼まれてもやりたくないけれど、自分も小学生ぐらいのときまでは公園でよくボール遊びをしていたことを思い出して、少し懐かしい気持ちになる。

「へー、キミもそういう表情するんだね」

ボールで遊んでいる小学生達を何の気なしに眺めていると、後ろから声をかけられた。

「なんだ、あんたか」

声の主は晴海だった。学校が終わってからまだ一時間ぐらいしかたっていないのに、トレーニングウエアに着替えている。

「どうしたのさ、こんなところで」

「別に何も」

「ふーんそうなんだ……あっ、いいもの持ってるじゃん。ボクにもアイスちょうだい」

「なんであんたに……」

「もちろんお金は出すからさあ……お願い」

「……見てて暑苦しいからさっさと食べたら」

「本当?やったぁ!」

アイスの棒を咥えながら晴海はわたしに聞いてきた。

「そういえば、来週スポーツ大会だけどキミは何の種目に出るんだったっけ?」

そういえばそうだった。今から気がめいる。

「ドッチボール」

「だったら体育館か、一緒だね」

「言っとくけど……」

「いやいや、もう誘わないよ。メンバーもう決まってるし。でもせっかくだし試合だけでも見に来てよ」

「嫌」

「ちぇーちょっとぐらい考えてくれたっていいじゃんか。それにボクだってだいぶ上手くなったんだよ」

晴海がねえ……。

「ふーん」

「あー信じてないな? 実はボク、今は4番つけてるんだよ」

「あんたがキャプテン?」

「本当本当。スポーツ大会ではバスケ部のウェア着てでるし、確かめるためにも見に来てよね。じゃ、ボクランニングに戻るよ」

そう言うと晴海は駆け出して行った。

相変わらず見てて羨ましくなる。その元気はいったいどこから来るのだろうか。

遠ざかる晴海の背中を見送ってから、私は家に急いだ。

家に着くとわたしはすぐにシャワーを浴びた。

「ふう……」

ソファーに座ってサイダーを飲む。口の中に爽やかな甘さと炭酸が弾けるこの感覚は何度味わってもたまらない。

最近自分の体の色んなところがぷにぷにし始めたことが気になってきても、甘いものを断つことはわたしにはやっぱりできない。

サイダーを飲み干すと、今度は冷凍庫からさっきのアイスを出した。

何となくテレビをつけても特に面白い番組もやっていないし、することもない。

何かに追われるのは嫌いだけど、何もすることがないというのもただただ退屈だ。

「んっ」

おもむろに立ち上がったところであるものが視界に入った。

紙の箱……こんなの家にあったっけ?

しばらく考えてから思い出した。テーブルの端に置きっぱなしになっていた箱を開く。

その中には名刺ほどの大きさの紙片が入っていた。このように英数字とアットマークで構成された文字列はメールアドレスしか思いつかない。

メールアドレスを伝えたいなら、どうしてこんな回りくどいことをするのだろうか、橘さんだったら直接聞いてきそうな気がするのに。

それはともかく今さらでも一言メールを送るべきだろうか、そう思って携帯を手に取った。

「……やっぱりいいや」

急に面倒になってきたので、机に携帯を戻してソファーに寝転がる。

しばらくぼーっとしているうちに気がついたら眠ってしまっていた。

カーテンを閉め忘れていたのだろう、朝日の眩しさで目が覚める。

いつも家を出る時間にはまだ早いけれど、着替えて家を出ることにした。

この前かわいい店員さんがいたコンビニに向かう。

「いらっしゃいませー」

横目で店員さんの方を見てガッカリしてしまう。前の人は今日はいないみたいだった。

メロンパンとココアを買ってさっさとコンビニを出る。

なんとなく正門ではなく裏門の方に回り、校内に入ろうとしたときに、車が自分のそばに横付けされた。

「あら、奇遇」

降りてきたのは生徒会長様だった。

「今日は車で登校なの?」

「別に今日だけじゃないわ。いつも送り迎えは車よ」

彼女の家が相当なお金持ちらしいとはどこかで聞いたことがあるような気がする。車に全く関心のないわたしでも知ってるような高級車で送り迎えされているということは、実際にお金持ちらしい。

「ところで、貴女これに興味ないかしら?」

椿原と並んで歩く。下駄箱に差し掛かったところで一枚のチラシを渡された。

「文化祭生徒会企画参加者募集中……?」

「クラスの発表等との掛け持ちも可能だし、生徒会の企画だけに参加してもらっても構わないわ。それに貴女がもし参加してくれたら……悪いようにはしないから」

蠱惑的な眼差しに思わず呑まれてしまいそうになる。

「ふふっ……来てくれるの待ってるわ」

わたしの返答を待たずに、椿原は行ってしまった。

 

「おはよー」

「昨日のアレ見た〜?」

階段や廊下を飛び交う声の間を抜けて教室に入る。

「ふわぁ……」

さほど眠いわけでもないのに、教室の空気に耐えられずにあくびをしてしまった。

「百合、おはよう」

「おはよ」

「ほら、体起こして」

「分かったからくっつかないで……」

体を寄せて来た真央を引き剥がす。真央は不満げな顔をしながらこう言ってきた。

「そういえば、文化祭どっちに参加するか名前まだ書いてないの百合だけみたいだよ。とりあえず名前書いておいたら?後で変えてもいいらしいし」

いい加減過ぎる。いったいなんのために名前をわざわざ書かせるのか、そう思いつつ名前を書いた。

「で、百合はどっちにしたの?」

「わたしは──」

 

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