朝色小夜曲   作:芦野

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この章はAnotherchapter1〜11の続きとなっています。未読の方はぜひそちらから読んでいただくことをオススメします。



Another chapter12

1

 不思議なもので、身体のしんどさが落ち着いてくると、自分が普通の人より死に近い場所にまだいるという自覚がなくなってくる。

 病院というのは一週間もおおよそ元気な状態でいると、本当に退屈な場所に思えて仕方がない。

 点滴台を転がしながら、病院の中を散歩するのにもいい加減飽きてきたし、ちょっと外に出てみるか。

 そう思ったわたしはそっと病院を抜け出して、近くにある海を眺めに行くことにした。

「よっ……と」

 砂浜に降りたい気持ちもあったけど、バレると後が面倒くさいし、ガードレールの上からで我慢しておこう。

「……」

 目を閉じるとより鮮明に感じる潮の香りと波の音。

 やっぱり病院の中からただ海を眺めるのとは違って、すごくいい気分になる。

「ねえねえ、そこで何してるの」

 声のした方向に顔を向けると、見知らぬ若い女性が穏やかに笑いかけてきていた。

「……なんか海を見たくなって」

 その女性の声に、そして笑顔にわたしは心惹かれていた。

「そっかそっか、あたしもそうなんだ〜」

 何でこの人は、こんな楽しげにわたしに話しかけてくるんだろう。

「入院、長くなりそうなの?」

「……まだ分かんないです」

 たわいのない会話のはずなのに、なぜかわたしはものすごく緊張していた。

「息が詰まるよね、どうしても長いこといると。看護師さんや先生はすっごくいい人なんだけど、病院ってどうしてもつまらないじゃん?」

 彼女は茜色に染まった空を眺めながら、ふっと笑った。

「ねえ、よかったらあたしの話し相手になってよ」

 

 ──そう、この言葉に頷いたときからわたしと彼女、小日向葵(こひなたあおい)の交流が始まったのだった。

 

 

「……」

 天気予報通りに台風が襲来したせいで、外は強い雨と風に支配されていた。

 よりによって今日来なくてもいいのに、と思ってしまうけど、だからといってわたしにはどうすることも出来ない。

 まあ、朝方になるまで雨音で寝つけなかったから、分かってはいたんだけど。

 一応先にプレゼントを用意しておいてよかった。

 本当だったら海を見に行きたいけど、こんな天気だし行くのは明日にするしかないか。

 そう決めてわたしは再び目を閉じた。

 

「……ん」

 突然の電話の音で目が覚める。

 一体誰だろう、そう思って携帯を開くと知らない電話番号が表示されていた。

 そのまま放置していると、また同じ番号から電話がかかってくる。

「……」

 ああもう鬱陶しい。

「……はい」

「ああ、やっと出た。私よ、林堂恭子」

 いらだちながら電話に出ると、聞き覚えのある、そしてあまり聞きたくない声が聞こえてきた。

「もしかして、お母さんに何かあったんですか?」

「いいえ違うわ。まず、貴女(あなた)が気にするべきことは他にあるでしょ」

「……」

 黙り込むわたしに恭子さんはこう続けた。

「どうしてあんなに厳しいことを言われてるのか、貴女まだ分かってないみたいね。……まあ、仕方がない部分もあるのも事実だけど」

 電話の向こうからため息が聞こえてくる。

「とにかく、自分のことは自分自身で決めなさい。伝えたいことはそれだけよ」

 そう言うと恭子さんは電話を切ってしまった。

「……はぁ」

 恭子さんがただわたしの心配をしているとは思えないから何か裏があるんだろう。

 けど、だったらなおさらわたしにどうすればいいのか具体的に教えて欲しい。

 

 わたしはそれからしばらく何をするでもなくテレビを眺めていた。

 考えて、考えて、ひたすらに考えた。でも、どれだけ働かない頭で考えてもどうすることが正解なのかわたしには分からない。

 お母さんはどうすれば許してくれるのだろう。

 お母さんは何をわたしに求めているんだろう。

 ……分からない。

 本当は誰よりも近い存在であるはずのお母さんなのに、今は何よりも遠いものに感じられてしまう。

 お母さんに良い子だって褒められたい。

 その気持ちは今も変わっていないのに、わたしはお母さんの下に戻ろうとは思えなかった。

 もし戻ったとしても、わたしはきっとまた逃げ出してしまうだろうから。

 

「……」

 まとまらない考えをどうにかまとめようとしても、ただ時間が過ぎていくだけで、何かが変わることも変わりそうな気配もない。

 結局、わたしはそこから何もできないままソファーの上で寝転がっていた。

「ん?」

 今、何か鳴ったような気がする。そう思ってたらもう一回、今度ははっきりとチャイムの音が聞こえた。

 なんか頼んでたっけ? と考えながら応対に出ると、予想外の人がそこに立っていた。

 

 

 2

「いやーごめんね急に押しかけちゃって」

「いったいどうしたんですか?」

 こんな天気の中、外に立っていたのは蓮佳さんだった。

「とりあえず中入って下さい」

「じゃ、お邪魔しまーす」

 蓮佳さんがなぜかちょっと嬉しそうにしているのも気になったけど、それよりも今日はこの前会ったときまでの派手な感じと比べて、ずいぶん雰囲気が違う。

 スーツ姿で髪色も黒になっているし、メイクもナチュラルで落ち着いた印象をわたしは受けた。

「タオル、使います?」

「ありがとー、でもたいして濡れてないから大丈夫。それよりも、大事な話があるんだ。聞いてもらえる?」

「……はい」

 こんな雨の中わざわざ来たんだから、何かあるんだろうと想像はついてたけど、蓮佳さんのこわばった表情や、緊張を含んだトーンの声から、その何かがただごとじゃないことが分かった。

「ここ何日かで、花恋から連絡あったりした?」

「いや、何も」

 言われてみて、ちょっと前までは毎日メールか電話があったことを思い出した。

「まあ、そうだろうね」

「?」

 わたしの返答はどうやら予想通りだったらしい。だったらどうしてわざわざ聞いてきたんだろう。

「百合ちゃんは、この前私と話したこと覚えてる?」

「……それはまあ」

「実はね、今花恋は自分の部屋に閉じこもっちゃってるの。なんていうか籠城みたいな感じで」

「……籠城、ですか?」

 イメージにない籠城という表現に、彼女が尋常ならざる状況にあるだろうことがわたしにも分かった。

「うん。……まあでも、そうなった原因は私にあるんだよね。もう少し上手くやれればよかったんだけど、今までみたいに花恋に無理させるわけにはいかないからね」

 蓮佳さんは短く息を吐いた。

「このままにしておくわけにはいかない。でも、ただ出てきてって言っても出てきてくれるわけがないんだよね」

「……」

「姉として小さい頃から見てるから分かるんだけど、あの子本当はお淑やかなお嬢様ってよりも、どっちかっていうとワガママなお姫様って言う方が近いんだよね」

「そう、なんですか」

「うん。ちょっと意外だった?」

「……どうなんでしょう」

 そう言われて考えてみると、そんな部分が彼女には確かにあるとわたしも思う。例えばちょっと強引なところとか。

「でもね、素の自分のキャラクターと違う自分でずっとい続けるのってとってもしんどいと思うんだ、心も体も」

「……」

「百合ちゃんなら分かるよね、一度壊れちゃうと、人は元には戻れないって」

蓮佳さんの口ぶりは会話の流れの中でよくある安易な同意を求めてくるようなものとは違って、念を押してくるようなものだった。

「……それは、そうだと思います」

「うん。だから花恋がそうなる前に、なんとか次の手を打たなきゃいけない。……そのために」

 蓮佳さんはそこで言葉を切ると、真っすぐわたしの目を見つめながらこう言ってきた。

「貴女の力を、私に貸して貰えない?」

「わたし、ですか?」

「そう。この前にもお願いしたよね、朝倉ちゃんにしか出来ないことを頼むって」

「それは覚えてますけど……」

「まあ、お願いって言っても何をさせられるか分からないと余計に不安だろうから、先に内容だけでも聞いて貰えないかな?」

「……分かりました」

「この封筒を花恋に渡して、読むように説得してもらいたいんだ、それとこのボイスレコーダーも一緒に。これは手紙を読んだ後に聞いて欲しい」

 そう言うと蓮佳さんは、赤い印ろうで封がされた茶封筒と、黒いボイスレコーダーをテーブルの上に置いた。

「ボイスレコーダーには私から花恋への伝言が録音されてる。どうしてこういうことをしたのかっていう説明……というよりも釈明かな」

「……この封筒の中身って何が入ってるんですか?」

 聞かずにおこうかとも思ったけど、中身が分からないものを渡すなんて怖いことわたしには出来ない。

「私達のお母さんが書いた手紙……かな、中は見てないから詳しい内容は私にも分からない」

「……」

 正直に言うと断りたかった。いや、断るべきなんだろうと思った。

 よく分からないけど、そんな重要そうなものを、部外者のわたしが渡すべきじゃないだろうし。

「まだ高校生の子に頼むなんて、大人として間違ってるって分かってる。それでも、今の状態の花恋にまず話を聞いてもらうには、貴女に頼むことが一番確実だと判断したの」

 蓮佳さんは一度目を伏せてからわたしを再び見つめてきた。

「もちろん、お礼はちゃんとさせてもらうわ。私に出来ることだったらなんでもね」

「……」

「お願いします」 

 蓮佳さんは頭を再び深々と下げた。

「……分かりました」

 安請け合いしてしまったのかもしれない。ただ、わたしが頷かなければ、蓮佳さんはこのまま頭を下げ続けただろう。それが嫌だった。

 それにいままでの彼女とは違う、真剣さというか誠実さは痛いほどに感じたのが決め手になった。

「ありがとう。この恩は必ず返します」

 そう言って握ってきた蓮佳さんの手は、ほのかに暖かかった。

 

「朝倉様、お待ちしておりました、どうぞ乗ってください」

「あ、ありがとうございます」

 傘を差してくれたメイドさんに会釈をすると、微笑みを返された。

 そのままエスコートされて、後部座席に乗り込むと、蓮佳さんが隣に座ってきた。

 いや、別に不思議なわけじゃないんだけど、さっきまでの緊張感が一気に戻ってくる。

「出してよろしいですか」

「ええ、こんな天気だけどできるだけ急いでね」

「かしこまりました」

 てっきりさっき傘をさしてくれたメイドさんが運転手なのかと思ったら、違うみたいだ。

「ぁ」

 ルームミラー越しに目があって思い出した。この人、この前のボスっぽいメイドさんだ。

「何か気になる?」

「いや……何も」

 どうやら声に出てたみたいだ。

「本当? 何か気になることがあるんだったら遠慮なく聞いてね」

「……はい」

「そんなに緊張しなくてもいいんだよ。貴女ならきっと大丈夫」

 そう言って蓮佳さんはふっと表情を緩めた。

 

 この前も思ったけど、この家やっぱり大きい。

 この前と全くことを思いながら、裏口らしい場所から椿原邸の中に入る。

「花恋は今ちょっと精神的に不安定だから、要領を得ないことがあるかもしれないけど、出来るだけ優しくしてあげて欲しい。これはさっきとは違って私個人のお願い」

「……分かりました」

「ありがとう。……それじゃこれ、よろしくお願いします」

 階段を上ったところで、蓮佳さんからさっきの封筒とボイスレコーダーを手渡された。

「ここからお部屋の前までは私がご案内します、付いてきてください」

「あ、はい」

 ボスっぽいメイドさんについていくと、前から明日葉がやってきた。

「これ、アイツの部屋のベッドルームの鍵、あげる」

 ぶっきらぼうな口調で、押しつけるように鍵を渡してきた。

「あ、ありがと」

「別に、アタシはアイツのことどうでもいいし」

 そう言ってなぜかわたしを睨みつけると、それ以上何も言わずに早足で向こうに行ってしまった。

「……」

 そういえば、どうして明日葉がベットルームの鍵なんて持ってるんだろう?

「行きましょう」

「は、はい」

 そんなことを思いながら後ろ姿を眺めていると、ボスっぽいメイドさんに促された。

「ふぅ」

 この前きたときには感じなかった、なんだか重い空気がこのドアの向こうから漂ってくる。

「朝倉様、メイド一同を代表して、私からも改めてお願い申し上げます。花恋様のことよろしくお願いします」

「……やってみます」

 ノックをしてから中に入ると、そこには誰もいなかった。

「……?」

 部屋の中をぐるりと見回してから気づいた。どうやらもう一つの部屋の方にいるらしい。

「……」

 正直言って怖いけど、ここまで来て今更帰るわけにもいかない。

「花恋さん、朝倉です。入ってもいいですか?」

 そうドア越しに呼びかけてみたけど反応はない。

 しばらく待った後で、意を決して鍵を開けて中に入った。

 

 ──部屋の中は意外にも明るかった。まず目についたのは、机の上に置かれた書類とパソコン、それから、座り心地の良さそうな椅子だった。

「あ」

 どこにいるのだろうと、探そうと思ったらすぐに気がついた。

 天蓋に覆われた、一人で寝るのには大きめなベッド。その真ん中に彼女がいる。

 毛布を被った姿で、虚ろな視線を窓の方に向けて佇んでいる彼女はおよそ、わたしが持っていたイメージとは違う。

 でも、その理由は蓮佳さんが言ってたことと、泣きはらしたまぶたから想像がついた。

「あ、あの大丈夫?」

 近づいて声をかけたところで、ようやくわたしに気がついたみたいだ。

 目があった瞬間は、敵意を持った眼差しで睨みつけられたけど、みるみるうちに椿原の顔は驚きに染まっていった。

「……どうして……ここに?」

 絞り出すようにして、発せられた声のトーンは明らかに疲れきっていた。

「ごめんね、急に来ちゃって」

「いいんです……そんなこと」

 少し恥ずかしそうに笑う椿原に、わたしは蓮佳さんから渡された封筒を差し出した。

「それでね、わたしはこれを渡しに来たんだ」

「……何ですか、これ」

「椿原さんのお母さんが書いた手紙だって、それとこれは蓮佳さんから……」

 蓮佳、という名前がわたしの口から出た途端、椿原の表情は一気に曇った。

「……何であの人の名前が出てくるんです?」

「頼まれたから、これを椿原さんに渡すようにって」

「わたくしは理由を尋ねているんです。どうして、百合さんはあの人の頼みを聞いたんですか?」

「それは……」

 詰め寄ってくる剣幕にわたしが口ごもっていると、椿原の態度が急に変わった。

「あの人には何を言われても、まともに取り合ってはいけないって言ったこと、忘れたとは言わせないわ」

 ぞっとするような眼差しに、身体が縛り付けられたように動かない。そのままなす術もなくベットに引きずり込まれて、上に多い被さられた。

「答えて」

「……忘れてはないけど」

「だったら! どうして」

 これまで彼女からぶつけられたことのない、激しい怒りに怯みそうになる。この前じゃどう考えても話しを聞いてくれそうにない。

 ……どうしたらいい? どうやったら彼女が落ち着いて話を聞いてくれるんだろう。

 ベットの脇に投げ捨てられた封筒に、視線を移してみても、思いつかなかった。

「……どうして……どうしてみんなそうなるの」

 涙がわたしの頬に落ちて、伝った。でも、これはわたしの涙じゃない。

「……ねえ、なんのためにこれまで頑張ってきたの?」

 これまで見たことのない、彼女の痛々しい表情にわたしは言葉を失っていた。

「周りに認められるように、必死で誰よりも一生懸命やってきたはずなのに、急に気まぐれで戻ってきたあの人を選ぶの? ねえ、教えてよ」

 わたしよりもかなり身長が高い上に、想像以上に力が強い彼女に敵いそうにはなかった。

「まだ子供だからっていうの? そんなの関係ない。私には出来るって示し続けてきたはずなのに」

「……」

「もういい。そんなこともうどうでもいいの、私に嘘をつく人達のことなんてもうどうでもいい」

 わたしの腕を押さえている椿原の手にますます力が込められていく。

「たった一人、いつか自分が選んだ人が現れたときに、その人に可愛いって、綺麗だって思ってもらえるように努力もしてきたはずなのに」

「……」

「たとえそれ以外の100人に褒められなくてもいい、それ以外の1000人に憧れられなくたっていい。そう思っていたのに……」

 正直、押さえつけられている腕や、覆い被さられている身体は痛かった。

 けど、目の前の彼女のことを思うと、痛さを訴える気にはなれなかった。

「でも、貴女も私じゃなくて、他の人を選ぶんでしょ? 誰も私のこといらないんでしょ?」

 わたしの腕を押さえていた彼女の右手が、胸元に伸びてきて、服のボタンを外し始めた。

「──せめて最後ぐらい……」

 このまま無抵抗でいたら、自分の身に何が起きるのか、にぶいにぶいって言われるわたしにも容易に察しがつく。

 ──それで彼女の気が済むのなら好きにすればいい。

 本当に心の底からそう思った。

 きっと彼女はそれぐらいの努力をしてきて、わたしには分からないぐらいの犠牲を払って来たんだろうから。

 ずっと押さえつけられてきたものが、たまたまわたしに向かって爆発してしまった、それだけのことだ。

 

「別に、どうしても嫌だってわけじゃないからいいんだけど」

 ──でも、このまま黙っていることがいいことだとは思えなかった。まずはうやむやにしていたこの前のことについて、返事をしておかないといけない。

「でも、その前に聞いて欲しい」

 わたしの言葉に彼女の指が止まった。

「この前、迷惑かもしれないけどわたしのこと知りたいし、近づきたいって言ってくれたよね」

 わたしが語りかけると、椿原は怯えたような表情に変わった。

「その……なんていうか、わたしは別に迷惑だって思ってないよ、そう思ってくれていることむしろ嬉しいって思った。こんなダメなわたしを、そんな風に思ってくれるなんて」

 一度は止まっていたはずの椿原の涙が、また零れ落ちそうになっていた。

「……」

「最初は、どうしてそんなにわたしのこと気にかけるんだろうって、正直ちょっと怖いなって思ったけど。でも今は違う」

一度目を閉じて、ゆっくり呼吸を落ち着ける。

「今すぐとかは無理だと思うし、ゆっくりでいいんだったら、わたしは貴女の気持ちに応えたいって思ってるよ」

わたしがそう言うと、椿原は唇を震わせながらしばらく黙っていた。

「……これ以上期待させるようなこと、言わないで! 分かってるんだから、この前電話で言ってた人のこと、まだ好きなんでしょ?」

 ……やっぱりバレてたというか、なんというか。怒るのも無理はない。わたしが全面的に悪いから。

「……それは、そう」

「だったら!」

──もし、自分が彼女の立場だったらって考えてみると、嘘をつかれてるって分かった上でも否定して欲しかったのかもしれない。だけど、それでもわたしは嘘をつく気にはなれなかった。

「でも今、わたしの目の前にいるのは貴女」

そっと椿原の髪に手を伸ばして、撫でるように触れてみた。

こんな精神的に辛そうな状況でも、相変わらず綺麗な黒髪で、思わずうっとりしてしまうような触り心地だった。

「大切に思ってた人が、もしも突然自分の前からいなくなっちゃったとしても、急にその人のこと嫌いになったりしないでしょ」

 椿原は色んな感情が入り混じったような、何だかちょっとバツの悪そうな顔で固まっていた。

「……」

「椿原さんは違う?」

「……それは」

「自分でも分かってるよ。きっと今持ってる気持ちは、()()()()ないんだってことぐらい。でも、わたしは……わたしはね」

 こんな言葉、自分の心の底にずっと沈めていて、それこそ最期まで外に出すことなんてないと思っていた。

「誰に何と言われても、この気持ちをなかったことには出来ないよ」

 椿原は途中から涙をこらえようと、自分の口元を両手で押さえていた。

「……うっ……ぐすっ……」

 力が抜けたようにして、椿原はわたしの胸元に顔を埋めてきた。

「……」

 一瞬迷ってから、お母さんが子供をあやすみたいに、しばらくわたしは彼女の頭を撫でていた。

 

4

「……はぁ」

 しばらくしてから落ちついた椿原と、わたしは少し話をした。

 主な内容は蓮佳さんに頼まれた手紙とボイスレコーダーのこと。

 彼女にはもう少しここにいて欲しいって言われたけど、手紙はわたしが見なければいいとして、ボイスレコーダーの内容を部外者のわたしが聞くわけにはいかない。

 まだ家には帰らない、また呼んでくれたら行くから。そう説得してようやく離してくれたのだった。

「……百合ちゃん!」

 部屋を出て、階段を降り始めたところで下の階から蓮佳さんと、ボスっぽいメイドさんがやってきた。

「大丈夫?」

「えっと、とりあえず花恋さんは多少は落ち着いてくれたみたいです」

「うん、それもだけど百合ちゃんは大丈夫?」

「わたしは別に……あ」

 言われてから服、特に胸元が乱れていることにようやく気がついた。

「よかったらお風呂入ってきて、代わりの服も用意するから、ね?」

「は、はい」

 そう促されるまま、わたしはお風呂を借りることになってしまった。

 

「ふぅ」

 入浴剤だろうか、花みたいなすごく良い香りに包まれて湯船に浸かりながら、しばらくぼんやりとしていた。

「……」

 それにしても、どうしたものか。

 乳白色のお湯をすくいながらぼんやり考えを巡らす。

 いまさら何か結論が出るわけでもないのに、そうすることしかわたしに出来ることはない。

 そんな状況が嫌になるけど……悪いのはわたしだ。

「……」

 こんなにゆっくり湯船に浸かったのはいつぶりだろう。のぼせてきた気もするしそろそろ出るか。

 

「おっ、百合ちゃんこっちこっち」

 ボスっぽいメイドさんに連れて来られたのは、リビングらしき広い部屋だった。

「ま、とりあえず座ってよ」 

「はい」

「……花恋の様子はどうだった?」

「だいぶ落ち着いたと思います。手紙の方は読んでいましたし」

「そっか、本当にありがとうね」

 安堵したような笑みを蓮佳さんは浮かべる。

「あとは……花恋次第。私のこと信じてくれたらいいのだけれど」

 呟くようにそう言って蓮佳さんは目を伏せた。

「あ、そういえば百合ちゃんに話しておいたほうがいいことがあったんだよね」

「……何ですか」

「そんなにかしこまることなんてないよ。ただ、百合ちゃんには知っておいてほしいことだからさ」

「分かりました」

 わたしが頷くと、昔話をするように蓮佳さんは語り始めた。

椿原(うち)の家ってね、不思議なことに代々女系みたいなんだよね。だからか分からないんだけど、私の祖母の代からは女性が家を取り仕切ってたの」

「そうなんですか」

「うん。それで私の4代前からは女性が当主を努めてきていたんだ。だから、私達のお母さんもそうだったの」

「……」

「お母さんが当主になったときから、椿原(うち)の家の経済状況はかなり悪くなってて、ずっとその始末に追われてたみたいなんだよね」

 蓮佳さんはそこで一度言葉を切った。

「お姉さんの記憶の中のお母さんはずっと忙しそうにしてた。でもその中でもちゃんと遊びに連れていってくれたりはちゃんとしてくれてたよ。だから寂しいとかはなかったけどね」

「……」

「花恋が小学生になったときぐらいかな、お母さんが病気になっちゃってね、そのときから私にも色々プレッシャーがかかってきてさ。正直嫌だったんだよね、この家を継ぐのって」

 蓮佳さんは笑って話しているけど、わたしは正直笑えなかった。

「お母さんは私に自由にしていいよ、って言ってくれてたんだけど、お父さんを含めて周りの人はそうじゃなかった。私もまだ子供だったから、我慢できなくて家出しちゃったんだよね。カオリは覚えてるよね? あのときのこと」

「ええ、もちろんです。大変な騒ぎになりましたから」

 へえ、ボスっぽいメイドさんの名前ってカオリっていうんだ。

「それから結局お母さんが亡くなるまで、お姉さん家に帰らなかったんだよね。それでお葬式のときに帰ってきたら花恋がえらく怒ってさー。ま、無理もないけどね」

「笑いごとじゃないですよ、本当」

 笑っている蓮佳さんにカオリさんが釘を刺した。

「……で、まあ今に至るって感じかな。……花恋には正直謝っても許されなくても仕方ないんだよね」

「……」

「ま、そういうことがあったんだけど。お姉さんは正直この家を一度出たこと、後悔はしてないんだ。ちょっと申し訳無かったとは思ってるけど」

「そう、なんですか」

「……これは朝倉ちゃんへのアドバイスなんだけど、一度外に出てみないと分からないことってたくさんあるよ。本当の意味での一人の楽しさや大変さも、初めてそこで分かると思うんだ」

「……」

「ま、まずはなんでもいいから何かやってみなよ。百合ちゃんなら絶対大丈夫だから。お姉さんが保証する」

「……はい」

 一度外に出てみる、そんなこと考えたことすらなかった。

「はい、かしこまりました」

 ちょうど話が終わったタイミングでかかってきた電話に、カオリさんが出ると、そのまま蓮佳さんに耳打ちをする。

「……うん分かった。すぐに行く。……ちょっと花恋と話をしてくるからもう少し待っててね」

「あ、はい」

 そういうと足早に蓮佳さんは出て行ってしまった。

 

 それからしばらく待ったけど、蓮佳さんが戻ってくる気配は無さそうだ。

「……ふわぁ」

 流石に眠たくなってきた。いつもだったらもうとっくに寝てる時間だし無理もない。

「少しお休みになりますか?」

「……そうします」

 カオリさんに連れて行かれたのは、ゲストルームだった。

「ふぅ」

 ベッドに倒れ込むと、あっという間にわたしは眠りに落ちていった。

「……んぅ」

 なんか暖かい。

 背中……というか身体全体が何かに包まれているような感覚がする。

「……え」

「ごめんなさい。起こしてしまって」

 耳元で囁くような声に思わずゾクッとする。

「あ……えと、蓮佳さんとの話は終わったの?」

 どうやらわたしは今、椿原に抱き枕みたいにされているみたいだ。

「……ええ、ひとまずは。……そんなことよりも本当に、ごめんなさい。さっきはあんなことをしてしまって」

「いいよ、そんなこと」

「……百合さんは本当に優しいんですね。でも、少し優しすぎます」

「そんなことないよ」

「そんなことありますよ。今ここにいてくださってるのが何よりの証拠です」

「……」

 それ以上、照れくさくてわたしは何も言えなかった。

 

 

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