「あの、スーツに着替えたほうがいいでしょうか?」
武内Pの視線がタクシーの
大人の女性である瑞樹が向かうお店は、きっと大人のお店なのだろう。都会のネオンを見下ろしながらカクテルを飲むようなお店なのだろう。
しかし瑞樹は、首をかしげて――
「あら、そのままでいいわよ。それ、美嘉ちゃん達が選んでくれたんでしょ? よく似合ってるわ」
「しかし……」
武内Pの懸念は正しいと思う。銀座の町を歩く人達は、原宿のそれとは人種がちがう。原宿に馴染んだ服装は、この街では浮いてしまう。ここではスーツを着るのが正解であると伊華雌も思うのだが――
「〝当たり前〟に染まるのが正解とは限らないのよ」
独り言のように呟いたその横顔に、
「恋愛の授業、もう始まっているのよ。私の言葉の意味、武内君は理解できるかしら?」
タクシーが目的地に到着した。
瑞樹はさっそうとタクシーを降りて、後ろを振り返ることなく歩き出す。その堂々とした歩調に、しかし伊華雌は首を傾げる感覚を思い出す。
だって、彼女の向かう先にあるのは――
大衆居酒屋。
タクシーは銀座を通過して、新橋に到着していた。
新橋といったらサラリーマンの街である。一般庶民である彼らをターゲットにした酒と料理にステータスを全部振った居酒屋が
「どうしたの? 鳩が豆鉄砲くらったみたいな顔して」
その理由を、分かった上で聞いているような笑みがあった。年下の男の子をからかう笑みを浮かべる瑞樹に、武内Pは真面目な顔で――
「川島さんなら、その、もっと上品な店を選ぶものかと思っていたので……」
「あら、そんな風に見られていたのね。でも、それは勝手な思い込み。自分の中にあるイメージだけで決めつけてしまうのはNGよ。お店選びも恋愛も、ね?」
「はあ……」
首を後ろをさわって戸惑いのジェスチャーをみせる武内P。そんな彼の反応を楽しんでいるのかのように瑞樹は笑みを深くして、ついて来なさいといわんばかりに歩き出した。
「らっしゃっせーッ!」
体育会系の見本みたいな店員が歓迎の雄叫びを上げた。すると他の店員も反応して「らっしゃせーッ!」の連鎖が始まった。日野茜がいたらつられて「ボンバーッ!」とか叫んでしまいそうな熱血空間に伊華雌は圧倒された。武内Pも絶叫系居酒屋は未経験なのか、入り口で足をとめている。
「どうしたの? ほら、ついてきて」
瑞樹はこの店の雰囲気に
この店は一階がカウンターとテーブル席で、二階が個室になっていた。ねじりハチマキをした
「瑞樹ちゃん、遅かったじゃない! 先に始めているわよ!」
片桐早苗が、ビールの入ったジョッキを振った。
「おちょこにちょこーっと、いただいてます」
高垣楓が、赤い頬に笑みを浮かべた。
「あー、ちょっと待って。いま、いーとこだから……」
姫川友紀が、ポータブルラジオに全神経を傾けている。
〝
346プロのナンバー1と言っても過言ではない不動の人気を誇る高垣楓。ファンのハートを逮捕して逃さないバブリーチャーミーな片桐早苗。キャッツを応援する彼女を全力で応援したくなる姫川友紀。それに加えて川島瑞樹という、海鮮で例えるならウニイクラ丼とでもいうべき豪華すぎる面子を前に――
何故だろう、伊華雌の中に生まれていたのは〝恐怖〟の感覚だった。
それは、決して足を踏み入れてはならない禁断の地を目前にして足がすくんでしまう感覚だった。この場所から早く逃げろと、本能が訴える焦燥感に突き動かされて恐怖の感情が加速する。
きっと、武内Pも似た感情を抱いていたのだと思う。だって彼は、廊下と個室の境目で
そこで逃げていればよかったのかもしれない。
ぐずぐずしていたばっかりに、瑞樹の手が武内Pの手を引いて――
「今日はスペシャルなゲストがいるのよ」
観念したのか、武内Pは酒と
「んー、あなた、どこかで見た顔ね……」
早苗が、拳銃の狙いを定めるように片目で睨んで――
「あっ、あなたウサミンコールギルティのプロデューサー君じゃない! プライベートだと随分派手な格好をしてるのね……」
確かに原宿仕様の武内Pは派手な格好と言えるかもしれないが――、しかし早苗に指摘される筋合いは無いと伊華雌は思った。
だって、
「若々しくて、いいじゃないですか。若さいっぱい、駆けつけ
テーブルの対面に座った武内Pに、楓がおちょこを差し出してきた。346プロナンバー1アイドルのお酌である。ほんのり頬を赤らめた高垣楓のお酌とか、その酒は億万の価値があると思った。ただの布切れで有るはずのパンツが、アイドルが履いた瞬間
「それが、彼は本当に若いのよー。何と、友紀ちゃんと同世代なのよ」
「え!」
「あら」
早苗と楓が目を丸くした。その丸まった目を向けられた友紀は、しかし真剣な顔でポータブルラジオに集中している。呼吸は荒く、落ち着きなく貧乏ゆすりを繰り返している。ちょんと
『さあ、キャッツ最後のバッターが打席に入ります。ここで一打あればまだ逆転サヨナラの可能性がありますが……』
「いけ……、いけ……、いけ……ッ!」
友紀の口からこぼれる言葉は、赤く燃える石炭のように熱を持っている。その強い思いがキャッツのラストバッターに伝わり――
『初球――打ったぁぁああ! これは大きい! ぐんぐん伸びて、入るか? 入るか!』
「おおぉぉおお――ッ!」
友紀が立ち上がる。満面の笑みに備えて愛らしい八重歯が光を放つ。
『あー、わずかに足りない! 打球はフェンス手前で失速、外野手のグローブに収まりました。ゲームセット、キャッツの連敗地獄は続きます』
「ああぁぁああ――――ッ!」
立ち上がっていた友紀が崩れ落ちた。テーブルに突っ伏して、悔しそうに
「まあまあ友紀ちゃん、
楓におちょこを渡された友紀は、それを一息に飲み干して――
「今日で10連敗だよ? 10連敗! いったいどーしちゃったんだよキャッツぅぅうう――ッ! いつも応援してるのにぃぃいい――ッ! ねこっぴぃのばかぁぁああ――ッ!」
友紀は音を立てておちょこをテーブルに叩きつけて、酔った視線を武内Pへ向けて――
「ところで、この人だれ?」
武内Pの手がシャツの
「彼は、今日のスペシャルゲストよ」
瑞樹に紹介されて、武内Pは頭をさげた。友紀は興味なさげに「ふーん」と言って、再びキャッツの愚痴を始めた。
「――で、どうして彼を連れてきたの? 何か理由があるんでしょ?」
早苗がビールジョッキで瑞樹をつついた。すでに酒癖の悪さがにじみ出ており、伊華雌はこの個室に入った時に感じた恐怖の正体を掴んだ。
きっと、本能的に悟っていたのだ。お姉さんアイドル達の中に潜む凶悪な怪物の存在を。この人達が酔ったらすごいことになると、酒癖の悪さを感じ取っていたのだ。
だって――
早苗はすでにアウトである。元警官とは思えないアウトローな口調で瑞樹にからんでいる。今の早苗は逮捕する側ではなく〝される側〟の人間である。
推しの野球チームが負けて荒れている姫川友紀もアウトである。楓が馴れた様子で手綱を握っているから実害は無いが、彼女が抑えていなければどうなっているかわからない。そのくらい、友紀の中で暴れるキャッツの亡霊は狂暴である。
そして楓。
ある意味、彼女が一番たちが悪いのかもしれない。悪酔いはしていないが、隙あらば酒をすすめて酔いを深めている。彼女のもたらすアルコールによって、早苗も、友紀も、そして武内Pも酔いを深めて
〝武ちゃん、大丈夫……?〟
思わず声をかけてしまうくらい、武内Pの目付きがやばい。もしかしてこの人、見かけによらず、酒に弱――
「自分は、どうすればいいのでしょうか……」
突然、武内Pの独白が始まった。
楽しく酔っ払っていた四人の動きがとまった。
「どうしたら、赤羽根さんのように、佐久間さんを魅了してプロデュースできるのでしょうか!」
入れちゃいけないスイッチが入ってしまった。
そんな様子の武内Pに、伊華雌はどうしていいのか分からない。マイクになるまで〝友人〟とか空想上の生き物だと思っていた伊華雌は、友人と酒を飲んだ経験もなければ、酒に飲まれた友人の扱いなんて見当もつかないのだが――
346プロのお姉さんアイドル達は、笑っていた。
それは、最高の
「そもそも、赤羽根君みたいに、とか言ってる時点でダメなのよ。誰かの背中を追いかけている時点で、あなたの魅力は死んでいるのよ!」
早苗が、豪快に中ジョッキを飲み干す。ぷはっと爽快な吐息をついて、店員におかわりを要求する。
「どうして、赤羽根さんのようになりたいのですか?」
まるで小料理屋の
「だって、赤羽根さんは、同期なのに、とてもうまくやっています。だから自分も、同じように――」
「アウト――ッ!」
姫川友紀が、大きな唐揚げをつきだした。外は香ばしく、中はジューシーに肉汁たっぷりなそれに八重歯を突き立てて、食いちぎり、飲み込んでから――
「誰かの真似をしているだけじゃ、一流の選手にはなれないよ! 自分だけのとっておきをもたないと、打席に立っても空振り三振ゲームセットだよっ!」
武内Pの視線の先で、友紀は〝にひっ〟と歯を見せて笑い、キャッツの話を始めてしまった。彼女はキャッツの話を始めるとしばらく帰ってこない。
「どう、武内君? あなたの知りたいこと、分かった?」
酔っぱらいの中にあって、瑞樹は唯一
「赤羽根さんとは違う、自分のやり方を模索するべきなのだと思います……」
「うんうん」
「しかし、それはつまり、具体的にはどうすればいいのか、分かりません……。教えて、もらえませんか!」
「ふふっ、それは――」
「それは……?」
瑞樹は突然、お姉さんを捨てた。キャピっ、という擬音を背負って――
「ミズキ、わかんなぁーい!」
ウサミンだったら、語尾にキャハをつけていた。
つまり、瑞樹も酔っていたのだ。酔っていないように見えるだけで、しっかり酔っぱらっていたのだ。それが瑞樹の酔いかたなのだと、驚く様子も無く笑う早苗が証明していた。
そして――
多少なりとも会話に
恐れていた酔っぱらいの暴走に、武内Pはなす
いやむしろ、先頭に立って暴走した。
普段はクソがつくほど真面目なぶん、アルコールの誘惑に負けた武内Pは、笑って、叫んで、
* * *
「何があったのか、よく、覚えていないんです……」
店を出た武内Pに、伊華雌は多くを語らなかった。真面目が取り柄の武内Pなのだ。いくら酔っぱらい×4にそそのかされてしまったとはいえ〝毒茸伝説を熱唱して店員に止められた〟とか知りたくはないだろう。これは〝黒歴史〟というフォルダにぶちこんで封印するのが友人の義務であると伊華雌は決意した。
「どう、武内君。少しは参考になった?」
瑞樹は、酒に
本来の真面目さを取り戻した武内Pは、背筋を伸ばして――
「あの、今日はありがとうございま――」
頭をさげた武内Pを待っていたのは――
逮捕術。
警官が警察学校で習うそれにより、武内Pは確保された。
「夜はまだまだこれからよ! 二次会、いくわよ!」
武内Pを確保した早苗の声に、残り三人が歓声で応える。
――暴走機関車。
そんな単語を思い浮かべてしまうほど、アルコールという燃料を満載した四人のアイドルは手が付けられなかった。武内Pが何を言っても二次会を辞退することはできず、彼女達の気が済むまで
結局、武内Pが解放されたのは翌日の早朝だった……。