「仁奈ちゃん、寝ちゃいました」
シンデレラプロジェクトの地下室へ戻ると、ソファーに座ったまゆが仁奈を膝枕していた。
――それは、全ての思考が停止してしまうほどに優しい光景だった。
一瞬、自分がまだ幼児で、母親に膝枕してもらっていた時の記憶が蘇った。
あの頃は純粋だった。
膝枕に対して暖かみと安堵だけを感じていた。
――しかし、今はどうだ?
膝枕をしているまゆを見て、一分間一万円でどうでしょうか! とか思ってしまう。あの頃の純粋な気持ちはどこへいってしまったのだろうか……?
「市原さんは、何か用があったのでしょうか?」
武内Pが戸惑うのも当然で、時間は夜の9時をまわっている。キッズアイドルはもちろん、高校生のまゆも帰宅すべき時間である。
「仁奈ちゃん、プロデューサーさんを待っていたんです」
まゆが、膝の上で寝息を立てる仁奈の髪を優しく撫でる。
「プロデューサーさんのことを恐い人だと誤解してしまったことを謝りたいって。これからよろしくお願いしますの挨拶をしたいって。だからずっと、まゆと一緒に待ってたんです」
「そう、だったんですね。そうとは知らずに待たせてしまい、申し訳ありません」
「大丈夫です。おかげで、仁奈ちゃんとたくさん話すことが出来ましたから。プロデューサーさんのこと、たくさん話しちゃいました……」
「自分について、どんなことを?」
武内Pが、首の後ろを触りながら訊く。
まゆは悩ましげに眉を曲げて、優しく微笑みながら――
「それはもう、色々と話しちゃいました。プロデューサーさんが、仕事熱心なこととか……。プロデューサーさんが、お酒に弱いこととか……。プロデューサーさんが――」
まゆを大好きなこととか、――みたいなデレ発言がくるものだと思っていた。だから
「マイクとお話ししてることとか……」
息の根が、止まるかと思った。
もちろんマイクだからそもそも呼吸なんてしてないのだけど、つまりそのくらい動揺して頭が真っ白になった。
「まゆ、知ってるんですよ……」
まゆの視線は、武内Pのポケットにおさまっている伊華雌へ固定されている。その視線は、お世辞にも好意的とは言えなくて、大好きなアイドルに睨まれることをご褒美と認知できるほどの紳士レベルを持たぬ伊華雌は半泣きになる感覚と供にまゆの視線を受け止めた。
「プロデューサーさん、何か困ったことがあると、そのマイクを見るんです。助言を求めるような目でそのマイクを見るんです。相談なら、まゆがいくらでものってあげるのに……。まゆは、プロデューサーさんの力になりたいって、思っているのに……。それなのに、プロデューサーさんは、そのマイクに……ッ!」
……これはもしかして、修羅場というやつなのか? マイクな俺が武内Pと仲良くしすぎて嫉妬で修羅場ということなのか?
いやっ、マイクですから! 無機物ですから! 嫉妬する必要ありませんからッ!
伊華雌は無機物であることを理由に無罪を主張するが、まゆは浮気現場を押さえた
まゆがヤンデレ気質なのは百も承知だったが、まさか無機物にまで攻撃範囲が及ぶとは思わなかった。このままだと、へし折られてしまう気がした。
神様……、来世は346プロ社内カフェ〝メルヘンチェンジ〝の椅子でお願いします……。
絶体絶命を悟り観念した伊華雌を救ったのは、聞き馴れた低い声だった。
「自分の、友人なんです」
伊華雌へ向けられていたまゆの視線が、上目遣いになって武内Pを見る。
「お友達? マイクが、お友達なんですか? 誰かの贈り物だから、大切にしているわけじゃないんですか?」
まゆの口から出た当然の疑問に武内Pは頷く。その真面目な横顔に、まさか、と思った。いくら真面目すぎて融通が効かない武内Pでも、まさか――
「このマイクは、意思を持っているんです。自分の、大切な友人なんです」
うおい! さらっと暴露しちゃったよ! それはなんていうか、隠すのが当たり前っていうか、普通隠すことっていうか……ッ!
真面目すぎて嘘を知らない不器用なプロデューサーの行動に慌てる伊華雌だったが――
武内Pを見つめるまゆは、優しげな笑みを取り戻して――
「その気持ち、まゆもわかります。まゆも、ずっと使っているリボンには愛着を持っています。生きている、とまでは言いませんが、お友達だと思う気持ちは、理解できます」
まゆが、手を差し伸べる。
「まゆにも、見せてもらっていいですか?」
伊華雌が移動する。武内Pの手から、まゆの手へ。彼女の細い指に全身をつかまれた瞬間、伊華雌の中で革命が起こる。
なんだこれ……、全然違うぞ……ッ!
武内Pのそれとまゆの手はまるっきり別物だった。ひんやりと細い指が全身を這う感覚に、それが〝アイドル佐久間まゆ〟の指であるという興奮に、伊華雌は〝あの感覚〝を思い出す。
「まゆ、勘違いしちゃいました。てっきり、あの人の贈り物かなって。だって、なんだか色が似てるから……」
伊華雌は〝ぴにゃこら太仕様〟のマイクである。緑のボディに、赤いリボンをつけている。そのカラーリングが似ている人って、誰だろう……。
――あぁ、ちひろさんか。
思考時間は3秒もあれば十分だった。
――つまり、勘違いだったのだ。
千川ちひろと
「ごめんなさい、マイクさん」
まゆはマイクな伊華雌に頭を下げた。
――なんて素直でいい子なんだ……ッ!
伊華雌の感動は、しかしすぐに別のベクトルへ変化する。
まゆの指に全身を優しく撫で回されて、至近距離からじっと見られて、ふふっと
〝俺っ、マイクで良かったぁぁああああ――ッ!〟
たまらず
もちろん、感覚である。その感覚を思い出しただけである。マイクにそんな機能は無い。そんな機能がついていたら、それはマイクではなくて、もっと別の――
「もう遅いので、車で送ります」
武内Pは、やはり空気を読まなかった。
まゆの手に包まれて夢見心地な伊華雌を、
「市原さんはよく寝ているので、起こさないほうがいいかもしれませんね」
まゆの膝で眠り続ける仁奈を、武内Pがすくいあげた。
まゆは目を丸くして、駐車場へ向けて歩き出す武内Pへ――
「プロデューサーさん、慣れているんですね。その――」
お姫さま抱っこ。
「新入社員の研修で、応急救護について学びました。その時、抱き抱えて運ぶ訓練を受けました」
「ふうん……」
まゆの瞳が焦点を失う。伊華雌は冷や汗が吹き出る感覚と共に警戒する。今のまゆの状態は――
イエス! ヤンデレタイム!
さあ、空気が凍りついてまいりました。
それでは佐久間さん、質問をどうぞ――
「その研修の時、プロデューサーさんは誰を抱いたんですか?」
うわおっ、いきなりの直球勝負! ここで〝千川さんです〟とか答えたらまずいんだろうな。病みが加速しちゃうんだろうな。回答はちひろさん以外でお願いしますよ!
「その時はたしか、千か――」
〝赤羽根って言えぇぇええ――ッ! 嘘でもいいから赤羽根って言ってくれぇぇええ――ッ!〟
伊華雌はなりふり構わず声をあげた。何食わぬ顔で地雷を踏み抜こうとする友人を必死にとめた。
「……えっと、赤羽根さん、です」
まゆの瞳に光が戻る。彼女は仁奈の髪を撫でていた時の優しい笑みを取り戻し――
「そうだったんですね。てっきり、先を越されちゃったのかと思いました……」
「はあ……」
武内Pは、何も分かってなさそうな顔で首をかしげた。揺らさないように気を付けているのか、普段よりも真面目な顔をして仁奈を運ぶ武内Pを、守れるのは自分しかないと伊華雌は思った。
「先に、女子寮へ向かいます。助手席に、座ってください」
地下駐車場に黒い車が並んでいる。車種はまちまちだが、どれも後部座席にスモークが入っている。
武内Pは仁奈を後部座席に座らせると、しっかりとシートベルトを締めた。ぐっすり眠っている仁奈は、糸の切れた操り人形のようになすがままだった。
「夜のドライブ、ですね……」
助手席のまゆが、シートベルトを締めながら微笑む。それを見た伊華雌は、生まれて初めての感情をかみ締めて――
俺も、まゆちゃんを助手席に乗せてドライブしてぇぇええ――ッ!
女の子を助手席に座らせて車を運転するという行為がどれほど素晴らしいのか、実際に体験して実感した。それは、妙に誇らしい気持ちだった。運転するのは武内Pで、伊華雌はそもそも車の免許すら持ってないのだが……ッ!
「それでは出発します」
慎重すぎるくらいゆっくりと車が発進する。武内Pは真剣な顔でハンドルを握り、その横顔をまゆがじっと見つめて、仁奈の寝息が車内のBGMだった。