「市原さんの件、どう思いますか?」
まゆを女子寮へ送り届け、仁奈の家へ向かっていた。車の少ない夜の国道で、武内Pは安全運転を徹底する。他の車は追い越し車線を倍以上の速さで追い抜いていくが、それでも武内Pはスピードメーターの針を制限速度から動かさない。
〝仁奈ちゃんの件って、つまり、親がライブに来てくれないってこと?〟
市原仁奈が笑顔を失った理由は判明している。仁奈がライブに招待をした人――恐らくは親が、ライブに足を運んでくれないからである。他のキッズアイドル達の親が関係者席に並ぶ中、ポツンと空いた空席が一つ。自分の親だけがいないライブステージで、果たして笑顔になれる子供がいるのだろうか?
「市原さんの家庭は、両親が離婚して、今は母親だけと聞きました。複雑な家庭環境にあると聞きました。もしかしたら、家庭の事情があって、ライブに来れないのかもしれません……」
武内Pの言葉が途切れる。赤信号で車がとまる。カッチカッチと、ウィンカーの音が響く。
〝……確かに、家庭の事情に首突っ込むのはダメかもだけど、でも、仕方ないんじゃないかな?〟
武内Pは、首をかしげる。信号はまだ赤のままで、周囲に車が増えてきた。
〝俺達の仕事、シンデレラプロジェクトの役割ってさ、アイドルを復活させることじゃん? アイドルを、笑顔にすることじゃん? だから、そのためには、家庭の事情に踏み込むのも仕方ないっていうか……〟
「アイドルの、笑顔の、ために……」
噛みしめるように
――信号が青になっていた。
車は発進して、行き先を悩むように鳴り響いていたウィンカーの音が消えた。
「……そうですね。マイクさんのいうとおりです。アイドルの笑顔を取り戻すために、出来る限りのことをやるべきです!」
武内Pの目に光が宿った。その表情に覚えがある。まゆに告白めいたスカウトを成功させた時の顔である。ただでさえ真面目な武内Pが本気になった時の顔である。
こうなった時の武内Pは、強い!
城ヶ崎美嘉を説き伏せて協力を取り付けたり、佐久間まゆを振り向かせたり、本気になった武内Pはその情熱で成果をあげている。
だからきっと――
後部座席で寝ている仁奈の笑顔を、取り戻せると思った。まゆに続いて、仁奈も救うことが出来るに違いないと思った。
自分の行動は間違っていないと、自信をもった。
――その自信が、果たして〝持つべき自信〟なのかどうか?
伊華雌が現実を思い知ったのは、武内Pと仁奈の母親が対面した時のことだった。
* * *
「仁奈、寝ちまってました……」
車の後部座席で仁奈が伸びをした。シートベルトを外して、両手で目をこすって――
「あれ、仁奈のおうちでごぜーます」
今どき珍しい、と言いたくなるような古い団地だった。ひびのはいったコンクリートに、無愛想な鉄の扉。番号の付いた棟が並ぶ光景は刑務所を思わせる殺風景で、子供の遊具やおもちゃが沈黙している様子に夜の学校を支配していた薄気味悪さを思い出す。
「仁奈、たしか、まゆお姉さんのおひざで寝てたのに……?」
寝ぼける仁奈に武内Pが説明する。夜も遅いのでまゆと仁奈を車で送ったこと。仁奈はよく寝ていたので起こさなかったこと。
「そうだったんでごぜーますね。……そうだ! 仁奈、武内プロデューサーに言いたいことがあるんだった」
車を降りた武内Pが、回り込んで後部座席のドアを開ける。
仁奈は小さくジャンプして車からおりて、ウサギの着ぐるみパーカーの耳を揺らして――
「武内プロデューサー、恐がってごめんなさい。プロデューサーは、仁奈を助けてくれる人なのに、仁奈、恐がっちまいました……」
仁奈はたどたどしい口調で、でも一生懸命に、〝まゆお姉さんが教えてくれたこと〟を話してくれた。武内Pが、仁奈を迎えるために事務所を改装していたこと。怖い顔をしているが、とても真面目で優しいこと。仁奈のアイドル活動を、全力で応援してくれること。まゆのことを、全力で愛していること。
最後の方に希望的
「仁奈、アイドルやめたくねーです! リトルマーチングバンドガールズのみんなと、もっと一緒にいてーです! それにまだ、仁奈がアイドルになってやりたかったこと、できてねーです……」
仁奈は、武内Pの袖を引いて訴えて、くしゅん。冬の接近を知らせる冷たい夜風が仁奈のウサギパーカーの耳を揺らした。
「今日はもう、家に帰ってください。風邪を引いてしまいます。話は、また今度」
仁奈はしかし、スーツの袖を離さない。むしろ掴む力を強めて――
「あの……。プロデューサー! 仁奈と一緒に、おうちでご飯食べやがりませんか?」
……誘っている。アイドルが夜の自宅にプロデューサーを誘っているぞぉぉおお――ッ! 九歳児だけどなぁぁああ――ッ!
伊華雌は反射的にテンションをあげていたが、武内Pは困惑した表情で首の後ろをさわっている。そして、助けを求めるかのように伊華雌を見た。
〝まあ、いい機会なんじゃないか? 挨拶して、ライブのことを話して、次のライブに来てもらえるようにしようぜ。そしたら仁奈ちゃんの笑顔は復活間違いなしだ!〟
武内Pは頷いて、仁奈にそのことを伝えた。
「ほんとでごぜーますか! やったあ! やっぱり武内プロデューサーは、優しいプロデューサーだったんだぁ!」
――その時点で、気付くべきだった。
家に寄ると言っただけで、どうしてウサギパーカーの耳が引きちぎれんばかりに跳ねて喜んだのか?
そもそも、何故、夜も遅いのにプロデューサーを家に呼ぼうとしたのか?
仁奈に手を引かれ団地に入る。乱雑にチラシを突っ込まれている集合ポストの脇を抜けて、真っ暗な守衛室の脇に立つ。仁奈がボタンを押すと、これまた古ぼけたエレベーターのドアがガタガタ揺れながら
その間、ずっと仁奈は喋っていた。よほど嬉しいのか、薄暗い団地にはふさわしくない笑顔を輝かせていた。
――せめて、この時点で勘付いておくべきだった。
どうして、夜の学校みたいな団地で仁奈はまったく恐がらないのか? 武内Pは、その雰囲気に恐怖して仁奈のパーカーの裾を強く握っているのに。
「ここが、仁奈のおうちでごぜーます」
ようやく、伊華雌は気付いた。
黒い窓が並ぶ部屋。そのドアへ小さな手が伸ばされる。インターフォンには目もくれず、それが世界の常識だと言わんばかりの仕草でランドセルからカギを取り出す。冷凍室を思わせる暗い部屋に、ただいまを言う気配すらみせず足を入れる。
「プロデューサー? 入らねーですか?」
玄関で立ち尽くす武内Pを見上げて仁奈が首をかしげる。彼女のあどけない仕草を見て、首をかしげたいのはこちらだと思った。
親は、何してんだよ……ッ!
伊華雌は、自分の中に生まれた感情が怒りであると理解出来なかった。我を失ってしまうほど、寒々しい部屋の中で仁奈がきょとんと首をかしげている光景は許しがたく、それを作り上げた人間を罵倒したくなった。
だって――
仁奈は、気付いてすらいないのだ。こんな遅い時間なのに、部屋が真っ暗で、自分でカギを開けないと家に入れず、ただいまを言う相手もいないこの状況が〝異常〟であると自覚できていないのだ。
つまり――
昨日今日に始まったことではないのだ。
仁奈が自分でカギを開けて、ただいまを言わずに暗い部屋に帰るのは、それが〝日常〝と呼べるほどの長期間に及んでいるがためであり、その事実に
そして、部屋に入ると伊華雌の怒りはさらに強くなった。
ゴミ屋敷とは言わないが、それを連想できるくらいに散らかっていた。ゴミ箱に冷凍食品の空箱が積み重なっていた。その脇にはカップラーメンタワーがそびえ立っている。
なんだこの、育児放棄の見本みたいな部屋は……ッ!
怒りに震える
「仁奈、帰ってるの?」
スーツを着ていた。茶髪で、前髪が横一文字で、疲れた顔をしているがその顔は整っている。彼女は間違いなく美人であり、そしておそらくは――
「ママっ」
仁奈が母親に抱きついた。
伊華雌の中で試合開始のゴングが鳴った。
このスーツの女性こそ、市原仁奈の母親にして世界のロリコンを敵に回した薄情者だ。さあ、説教の時間だ。ネグレクトギルティを〝反省☆〟させてやるから覚悟しろ!
「あなたは……、346プロのかたですか?」
仁奈の母親は、しかし
その可愛い顔を裏切る肝の据わりように伊華雌は
見ると、武内Pも
〝武ちゃん、負けるな! ライブのことを言ってやれ!〟
武内Pは頷いて、スーツの懐から名刺を取り出した。
「新しく市原仁奈さんの担当になりました、武内と申します。今日は、遅くなりましたので仁奈さんをお送りすると共に、保護者の方にお話ししたいことがありまして」
仁奈の母親は名刺を受けとると、腰に巻き付いて頬擦りを繰り返す仁奈を引き離して――
「仁奈、先にお風呂入ってきて」
「えーっ!」
「えー、じゃないの。ほら、アライグマの気持ちになるですよー?」
「アライグマは食べ物を洗うですよ。お風呂が好きなのはおサルさんでごぜーます」
「じゃあおサルさんの気持ちになって、ね? ほら、いっていって」
仁奈とのやり取りを見ていると、彼女は母親にしか見えなかった。仁奈が走り去って一人になると、スーツを着た女子高生にしか見えない。
「お話って、なんですか? もしかして、仁奈のアイドル活動のことですか?」
その童顔を裏切るようにテキパキと話す様子に、きっと仕事が出来る人なんだろうなと思った。仁奈のために、夜遅くまで頑張っているのだろうなと思った。
だからと言って――
「市原さんが、ライブで不調なことは――?」
「知ってます。前の担当の、子供みたいなプロデューサーさんから聞きました」
子供みたいな母親から〝子供みたいな〟とか言われている
彼もあなたには言われたくはないと思いますよ!
米内Pの代わりに心で叫んでおいた。伊華雌は外見にコンプレックスを抱える全ての男の味方である。
「市原さんは、招待席に招待した人がいないから、笑顔になれないのだと思います」
「招待した人?」
「はい。……ですから、その」
武内Pは、
その背中を、押すべきだと思った。
まゆの時だって上手くいったのだから、きっと自分のやり方は間違っていない。
だから――
〝武ちゃん、言ってやれ。仁奈ちゃんの笑顔を取り戻すために、言ってやれ!〟
きっと、仁奈の母親は分かっていたのだと思う。その上で、出方をうかがっていたのかもしれない。
果たして、それを言葉にするのかどうか?
「次回のライブ、関係者席で観覧していただくことは出来ませんか? 市原さんは、母親であるあなたが招待に応じてくれないから、ライブで笑顔になれないのです」
その要求が、一線を越えてしまったのだと、分かった時には遅かった。
仁奈の母親は、込み上げる苛立ちを塗りつぶして隠そうとするかのように、強引な笑顔を作ってため息を落とした。
一体、何がいけないのか? 娘の晴れ舞台に足を運んで欲しいという要求の、何が悪いのか?
たまたま上手くいったから次も上手くいくだろうと、過去の成功を根拠に楽観を
「……私は、見ての通り、一人で仁奈を育てています。正直、あまり余裕はありません」
大きな目の下に大きなクマがある。きっと、疲れていたのだろう。突然の武内Pに動じなかったのは、もしかしたら単に余裕がなかっただけかもしれない。
そして、仁奈の母親は、無理矢理に張り付けていた笑顔を捨てて――
「仕事があって、家事があって、それでもう、余裕なんてないんです。これ以上、負担を増やさないでください……」
ため息が、震えていた。
どういう事情があるのか、分からない。
何故、父親がいないのか? 両親に頼ることは出来ないのか?
アイドルとして晴れ舞台に立つ娘を見てあげて欲しいと言われただけで、どうしてここまで取り乱してしまうのか。
それはきっと、家庭の事情というやつで、決して他人が踏み込んではならない禁断の領域なのだ。
だから、武内Pは
もしかしたら、何かを察していたのかもしれない。
夜遅くになっても明かりがつかない部屋。慣れた仕草でカギを開ける仁奈。ごみ屋敷一歩手前のリビング。積み重なった冷凍食品の残骸。ホコリを被ったキッチン。
今思えば、ヒントは至るところにあった。過去の功績を誇るあまり盲目になっていた。それを悔やんでも、もう遅い。
自分が武内Pをけしかけたせいで、何が起こってしまったのか。
伊華雌は、目をそらさずに結果を受けとめる義務がある。
「分かりました、じゃあ、こうしましょう」
仁奈の母親はくたびれた仕草でスーツの上着を脱ぎ捨てた。浴室で歌っているのだろう、くぐもった仁奈の声がする方へ視線を向けて――
「仁奈はアイドル、やめさせます」