「今朝、市原仁奈の母親から電話があった。アイドルをやめさせて欲しいと言っていた。どういうことか、説明してもらおう」
出社するなり美城常務に呼び出された。いつもよりも強張った表情で腕を組む美城常務に嫌な予感がした。
――そして、
仁奈の母親は、本気で仁奈のアイドル活動に終止符を打とうとしていた。
「実は、昨日――」
美城常務に事情を説明する武内Pを見て、伊華雌はいたたまれない気持ちになった。恐らく、武内Pは
悪いのは、自分なのに。
家庭の事情という一線を越えまいと配慮していた武内Pを、けしかけたのは自分である。アイドル市原仁奈を笑顔にするためにはどうするか。それだけを考えて突っ走った結果である。暴走していたのだと、反省してももう遅い。最悪の結果は、すでに確定してしまった。
「なるほど、事情は把握した……」
美城常務の平坦な声に覚悟する。どんな冷たい言葉が来るのか。それとも灼熱の罵声が来るのか。足が震える感覚を抱いて審判の時を待つも、美城常務は口を開かない。彼女の口は、冷たい言葉を吐くでも、熱い罵声を飛ばすでもなく――
笑みをつくった。
「今回の件、少し荷が重かったようだな。まあ、いつも成果を出せるほど、アイドルのプロデュースは甘くない。特に、シンデレラプロジェクトに関しては」
怒るどころか、慰めていた。失態を報告した武内Pを、しかし美城常務はねぎらっていた。
そういえば――
前にちひろが言っていた。シンデレラプロジェクトを作ったのは美城常務だと。アイドル・プロデューサーを救済するための部署としてシンデレラプロジェクトを作り、しかし全く機能していなかったのだと。
――だから、だろうか?
失敗しても当たり前の部署だから、武内Pの失敗にも
「また次の機会に、奮闘すればいい」
これで話は終わりだと、笑みの消えた横顔が語る。叱責も処分も無い。教訓として次回の
だから、今回のプロデュースは、これで終わり。市原仁奈のプロデュースは、失敗という結末を――
〝いや、待ってくれよ……〟
伊華雌は、声をあげていた。届かないことも忘れて、美城常務へ――
〝勝手に終わらせないでくれよ。確かに失敗したけどさ、でも、まだ終わりじゃないんだよ。失敗をどうやって挽回するのか、それをこれから考えるんじゃねーのかよ……ッ!〟
そして武内Pは、代弁する――
「市原さんのプロデュースは、まだ終わっていません」
美城常務は、しかしパソコンのモニターから視線をそらさずに――
「保護者がアイドルをやめさせたいと言っている。これ以上のプロデュースは不可能だ」
武内Pは、しかし引かない。一瞬だけポケットにささる伊華雌へ視線を投げて――
「自分は、市原仁奈さんの担当です。母親ではなく、仁奈さんの意思を尊重したいと考えています」
美城常務のイヤリングが揺れた。不快感もあらわにかぶりを振って、今度こそ武内Pを睨みつけて――
「君は、置かれた状況が分かっていないようだな。君の不適切な対応によって、市原仁奈の母親はアイドル活動の停止を希望した。少しは自分が失態を犯した自覚を持つべきだと思うが」
美城常務に睨まれているのは自分であると伊華雌は思った。あの時、仁奈の母親に説教めいたことを言うのは――
「必要なことでした」
武内Pは、美城常務の視線から伊華雌を守ろうとするかのように、弱気に沈む伊華雌を
「市原さんの笑顔を取り戻すためには、母親に協力を依頼するのが最善でした。それが可能であるかどうか、直接質問をする工程は必要不可欠です」
美城常務の口元に笑みがのぞく。弟子の思わぬ成長を喜ぶ師範のように、何を見せてくれるのか期待するかのように武内Pを見据えて――
「なら、次はどうする? 親の協力を望めない状態でキッズアイドルのプロデュースが出来るのか?」
それがほぼ不可能であることは伊華雌にも分かる。子供にとって親は絶対の存在である。本人がなんと言おうと、絶対的な決定権は親が握っているのだ。
「市原さんの意思を確認して、それからプロデュースの思案をしたいと思っています」
あくまでも仁奈の気持ちにこだわる武内Pに、美城常務は死地へ向かう兵隊を引き留める指揮官のように――
「徒労に終わるぞ」
しかし武内Pは、強めた眉を緩めることなく――
「やってみなくては、分かりません」
きっと、策など無いのだろうなと思った。一時的な延命処置に過ぎないのかもしれないと思った。結局、市原仁奈を救うことが出来なくて落ち込むことになるのかもしれないと――
それでも――
伊華雌は武内Pに感謝していた。プロデュースの可能性を残してくれたことを。汚名返上の機会を与えてくれたことを。
――絶対に、今度こそ、失敗しないからな……ッ!
頭を下げて退室する武内Pのポケットの中で、伊華雌は闘士を燃やしていた。
* * *
〝武ちゃん、ごめん。俺がバカなせいで、こんなことに……〟
シンデレラプロジェクトの地下室で二人きりになるなり伊華雌は謝った。
武内Pは、テーブルの上に小さなマイクスタンドを置いて、そこに伊華雌をさした。自分はソファに座り、伊華雌と向かい合って――
「何も、謝ることはありません。マイクさんは、何も間違っていません」
〝いや、だって、俺が無責任なこと言わなければ、きっと武ちゃんは仁奈ちゃんのママに言ってなかったんだよ。ライブに来いって言わなければ、こんなことには……〟
「それはしかし、時間の問題です」
武内Pは、まるで人間を相手にしているように、伊華雌を見据えて――
「市原さんの笑顔を取り戻すためには、母親にライブを観覧してもらう必要がありました。なので、マイクさんの発言に間違いはありません。むしろ、間違っていたのは自分の方です」
何を言い出したのか、分からず伊華雌は武内Pを見つめて言葉を待った。
「自分は、ためらってしまいました。市原さんの自宅を見て、疲れた様子の母親を見て、他人が口を挟んではいけない家庭であるのだと思い、何も言えなくなりました」
それが正解なのだと思う。何も言わなければこんなことにはならなかった。伊華雌が、でしゃばったまねをしなければ――
「変える必要が、あったんです」
獲物を見つけた狙撃主の目に射抜かれる。それはまるで、世界を変える演説をする革命家のような迫力で――
「市原さんを笑顔にしたいと思うのであれば、現状を変える必要がありました。
伊華雌はしかし、激しくかぶりを振って否定したかった。
だって――
当たり前なのだ。伊華雌がアイドルの笑顔を何よりも優先するのは――
ファンだから。
プロデューサーではなく、ファンの立場で思考している伊華雌だから、家庭の事情なんて配慮しないで仁奈を笑顔にすることだけを考えていた。
だから、決して誉められた発言ではないのに、武内Pは狙撃手の眼差しを伊華雌からそらさずに――
「自分も、マイクさんのように、常に担当アイドルの笑顔を最優先に考えるプロデューサーを目指したいと思います」
否定するべきだと思った。自分は尊敬に値するような存在ではないと絶叫して、笑顔を第一に考えるのはプロデューサーじゃなくてファンの仕事だと断言する。プロデューサーとしての将来を考えるなら〝成果〝を第一に考えるべきだと激を飛ばすべきだと――
――でも、言えなかった。
アイドルの笑顔を一番に考える。そんなプロデューサーが、いて欲しいと思ったから。そんなプロデューサーに、なって欲しいと思ったから。
それは伊華雌のワガママであって、だから義務があると思った。アイドルの笑顔を一番に考えて、それでいて成果を出せるように全力で支援する。
成果さえ出せれば、どんな信条を掲げていようが文句は言われないだろう。
〝アイドルの笑顔を一番に考える、か。武ちゃんらしくて、いいと思うぜ!〟
もう、あとには引けない。言葉にして肯定してしまった以上、半端なことは許されない。くすぐったそうにはにかむ武内Pの笑顔を守りたいのであれば、アイドルの笑顔を最優先に考え、そして成果をだすという無理ゲーに挑戦しなくてはならない。
なに、今に始まったことじゃないさ……。
規格外の不細工懲役20年を経験した伊華雌である。劣悪な環境には慣れている。ブラック企業の社畜に迫るメンタルで苦境を笑う自信がある。
自分のせいで誰かが傷つくのは耐えられないが、自分が辛い思いをするのは大歓迎だぜ!
ドMの世界に両足突っ込んでる変態を思わせる覚悟を胸に伊華雌は決意する。
――絶対に、市原仁奈をアイドルとして復活させる。彼女の笑顔を取り戻し、そして成果もあげてみせる!
〝武ちゃん、作戦会議といこうぜ。絶対に、アイドル市原仁奈を復活させてやるぞ!〟
その言葉を待っていた。言わんばかりの笑みを浮かべる武内Pに、伊華雌の気持ちも盛り上がる。最高の相棒と共に戦場を駆ける兵士の高揚感を胸に激論を繰り広げる。同じ
仁奈の母親に負担をかけず、しかしライブで輝く仁奈をみてもらう。
まるで矛盾している意地悪なナゾナゾのような問題に答えが出たのは、学校を終えた仁奈がシンデレラプロジェクトの地下室にやってきた頃だった。