うまい話には裏がある。
その教訓を教えてくれようとしているのかと思った。もはや裏があることに疑いの余地はないほどに、赤羽根Pの話は出来すぎていた。
「島村さんの担当になるかどうか、決めるのは美城常務ではないのでしょうか?」
さすがの武内Pも表情を緩めない。同期入社の同僚であるから露骨な態度は取りたくないのかもしれないが、しかし彼は不器用だから、全て表情にあらわれている。
今の武内Pの表情は、まるで容疑者を睨む刑事のように
「美城常務が全ての裁量を握っているわけじゃない。少なくとも、島村卯月に関しては担当のオレが多少の裁量を任されている」
だからと言って別の部署のプロデューサーを担当にすることはさすがに不可能だと思う。うまい話のメッキがすでに剥がれはじめているんですが……ッ!
伊華雌は、もはやはったりだと思っていた。優秀すぎるあまりに己を過信して、出来ないことを出来ると言ってしまったのだと思ったが――
「プロジェクトクローネに来ないか、武内。お前にその気があるのなら、美城常務はオレが説得してみせる」
赤羽根Pは、やはり優秀だった。
武内Pを島村卯月の担当に戻すことが出来るのだと、一言で証明してみせた。
確かに、武内Pが赤羽根Pの部署に入れば、そこのリーダーである赤羽根Pの一存で担当アイドルを決めることが出来るだろう。優秀な武内Pを、第一線で活躍するプロジェクトクローネへ移籍させるのは会社としても有益なことであるから、美城常務は文句を言わずに認めてくれるかもしれない。
赤羽根Pの差し伸べた手を掴むだけで、どん底のシンデレラプロジェクトから、1軍でエースのプロジェクトクローネへ移籍できる。しかも、島村卯月の担当を約束されて!
実に、うまい話である。
これは絶対に、裏がある。
思うも、伊華雌は何も言えない。これは武内Pにとって大きなチャンスである。それを握り潰す権利なんて、自分には無いと思った。武内Pが、自分の判断で決めるべきだと思った。
「……自分は、プロデュースの方針を、変えるつもりはありません」
武内Pの回答に伊華雌は思い出す。彼は対人コミュニケーションスキルに難があるだけで、基本的には優秀な人であるのだと。例えるなら感度の悪いクソマウスを接続された高性能パソコンのようなものであり、物事を理解する速度は伊華雌を遥かに
「オレは、トッププロデューサーになりたいと思っている。そのためには、346プロにトッププロダクションになってもらう必要がある」
赤羽根Pの回答もまた伊華雌の理解速度を遥かにこえていた。高性能な頭脳をもったプロデューサー二人のやりとりは、例えるなら廃人ゲーマー同士の対戦格闘のようなもので、凡人たる伊華雌には状況を把握することすら困難だった。アホ
「自分は、シンデレラプロジェクトの担当になって、自分がしたいプロデュースの形を、発見することができたんです。〝信念〟と呼べるものを、持つことができたんです」
とっておきの伏せカードを発動させるデュエリストの表情で声を大にする武内Pを見て、ようやくと伊華雌は理解する。
――つまり、赤羽根Pは武内Pを懐柔しようとしたのだ。
美城常務に口を利いて島村卯月の担当に戻す代償として、プロジェクトクローネの一員になってもらう。当然、プロデュースの方針は赤羽根Pのそれに従うことになる。アイドルの笑顔よりも利益を優先するプロデュースを強要される。
――だから、拒絶した。
武内Pは、あくまでもアイドルの笑顔を優先したいがために、島村卯月の担当という目のくらむようなご馳走を前に席を立ったのだ。
「……そうか、分かった」
赤羽根Pは、笑顔の仮面は剥がさずに、武内Pの脇を抜けて階段へ向かう。
「正直、お前とはあまりやり合いたくないんだけどな……」
笑顔の仮面に隠されたその本心を見抜くことは難しい。同期の同僚に対する人情なのか、それとも厄介な邪魔者に対する嫌悪なのか。赤羽根Pの本心は分からないが、舌を出す感覚でもってスーツの背中を見送った。
彼は間違いなく優秀で、とても要領が良いプロデューサーなのだろうけど、意見を戦わせた相手をすぐに懐柔しようとする根性が気にくわなかった。
しかも、その餌に、島村卯月を使うとか……ッ!
島村卯月の担当になれると聞いただけで思考停止して
伊華雌の中で燃える見当違いな怒りは、しかし武内Pの謝罪によって鎮火する――
「島村さんの担当になれるチャンスだったのに、勝手に断ってしまって申し訳ありません……」
腰を折って頭をさげる武内Pに、伊華雌は慌てて――
〝何あやまってんだよ武ちゃん! 謝ることなんて何もないだろ!〟
「いえ、あります。突然のことで、反射的に対応してしまいましたが、マイクさんに相談するべきでした。だって、マイクさんと自分は、共に島村さんの担当を目指す――」
相棒ですから。
照れ臭くてとても口に出せないような台詞を武内Pは真面目な顔で言ってくれる。
――それだけで、充分だった。
少なくとも今は、こうして武内Pとアイドルのプロデュースをしているだけで伊華雌は満足だった。島村卯月の担当は、そりゃもちろんなりたいけど、でも、もっと先でいいと思った。
だから――
〝武ちゃん、安心しろ。俺も同じ気持ちだから。アイドルの笑顔を一番に考えるプロデュースで頑張りたいって、思ってるから! だから、謝る必要なんてない。そんなことより、今は仁奈ちゃんのプロデュースだ! そろそろ学校終わる時間なんじゃね〟
武内Pは腕時計を見て、頷いた。
シンデレラプロジェクトの地下室に入り、ハロウィンパレードの準備に取りかかる。
――今は、これでいい。
忙しなく働く武内Pを見て思う。ふってわいたチャンスを逃したことについて、惜しいと思っていないと言えば嘘になるが、目の前の仕事を地道にこなしていくのが正しい道のりであるような気がした。たくさんアイドルを笑顔にして、最終的に島村卯月の笑顔にたどりつけるのが正解であるような気がした。
だから、今、笑顔にするべきなのは――
「プロデューサー! パレード、どうなりやがりましたか!」
弾けるようにドアが
「美城常務の、許可を頂くことが出来ました。パレードは、実現できます」
武内Pが頷いてみせると、仁奈はその場で跳ねてウサギパーカーの耳をぱたつかせて――
「これで、ママにアイドルの仁奈、見てもらえますね! そしたら――」
そう、今は目の前のアイドルを笑顔にすることだけを考えていればいい。そうすれば、きっと、いつか――
伊華雌は島村卯月に対する未練を打ち払い、ハロウィンパレードの成功に向けて意識を集中させた。
* * *
「本番まであまり時間がない。容赦なくしごいていくから覚悟しろ!」
腕を組んで激を飛ばすベテラントレーナーに子供達はひるまない。有り余る活力を返事に込めてトレーナーを満足させる。
「いい気合いだ。よし、じゃあ早速――」
ハロウィンパレードに向けて第三芸能課とシンデレラプロジェクトの合同レッスンが始まった。もっとも、シンデレラプロジェクトから参加するのは仁奈と佐久間まゆだけなので、実質はLMBGにまゆが参加する形である。
ダンスシューズを走らせてレッスンルームの床を鳴らすアイドル達を伊華雌と武内Pは呆然と眺めていた。
ハロウィンパレードに向けての準備が終わり、やることが無くなってしまった。プロデューサーの仕事量は所属アイドルに比例するから、二人しか所属していない時点で隙あらば暇になってしまうのは仕方ないのだが――。
こんなにぼーっとしてていいのか? 何か、やれることはないのか?
結局、振りきれてなかったのだと思う。〝島村卯月の担当〟が目の前を通過して消えて、それはまさに大物を逃した釣り師の心境で、彼女に近づくために何かをしていなくては落ち着かない状態だった。
「かおる、お腹すいたーっ!」
龍崎薫がクルクルと回りながらその場に転がる。それをきっかけに他のキッズアイドルたちも空腹を訴えて騒ぎ始めた。時間は夜の八時を回っている。確かに、空腹を感じる時間である。
そして、伊華雌はひらめいた。
ボケたジジイみたいに呆けて時間を持て余してる自分にも出来ることがある。
伊華雌は、お腹すいたを繰り返す子供たちを眺めて首の後ろをさわる武内Pに訊ねる――
〝武ちゃんって、料理得意?〟
* * *
346プロ社内カフェ〝メルヘンチェンジ〟は夜の七時に営業を終了する。
理由は〝ウサミン星が遠いから〟である。
店長である安部菜々の通勤時間を考慮して、夜の営業は控えている。また、夜に営業するとアルコールを要求するギルティなお姉さんが集まってしまうので店を閉めている、という説もある。
試しに夜間営業したところ、勝手に酒を持ち込んだ片桐早な――某アイドルがいて、それを注意しようとした安部菜々17歳が飲まされて酔わされて終電ブレイクしてウサミン星へ帰れなくなってしまったという悲劇があったとかなんとか。
ともかく――
夜間営業していないならキッチンを使わせて欲しいという武内Pの申し出は問題なく許可されて、〝子供たちに差し入れ大作戦〟の舞台が整ったわけである。
〝最初は基本的なとこで、おにぎりを作ろうぜ! おにぎりなら、レッスンの合間にも食べやすいし!〟
その時点で、兆候はあった。
何故、おにぎりを作ろうと言っただけで、武内Pの表情が強張ったのか。
何故、ハンドルを握ったペーパードライバーみたいに冷や汗をかきはじめたのか。
「では、いきます……」
武内Pは、炊きたてのアツアツご飯を睨み付け、その見るからに熱い熱湯風呂みたいなご飯の海に、両手をダイレクトアタック!
「あっつぅぅ……ッ!」
〝そりゃそうだよ! 炊きたてご飯に手え突っ込んだら熱いよ! バラエティの罰ゲームかよッ!〟
声を荒げずにはいられなかった伊華雌に、武内Pは蛇口から流れる水で手を冷やしながら――
「実は、自分は、料理の経験が、まったく……」
そう言われれば、武内Pが料理をしているところを見た覚えがなかった。いつも外食をしている。
朝はたいていメルヘンチェンジの〝モーニングウサミンセット〟で、昼はたいていメルヘンチェンジの〝ウサミンランチセット〟である。
ミミミンウサミンオムライスの一件以来、武内Pはメルヘンチェンジに通いつめており、〝いつものやつ〟でオーダーが成立するほどの常連になっていた。
そして、伊華雌もまた、料理という概念を持たない人種だった。
そもそも、実家暮らしである。血縁を疑う余地のない不細工な母親が、しかし栄養満点なご飯を用意してくれた。伊華雌に出来る調理など、インスタント焼そばの湯ぎりぐらいなものである。
つまり、伊華雌と武内Pは〝料理とかむーりぃー〟な二人組みだった。
〝……誰かに、教えてもらおっか?〟
自分と武内Pで試行錯誤したところで、完成するのは見るもおぞましい暗黒物質であるのは目に見えている。そんなものを差し入れとして提供したら――
無邪気なハズの薫と仁奈が本気の嫌悪顔を作って、優しいはずの佐々木千枝から
そのくらいの憎悪を発生させる物質を、きっと作り上げてしまう。
だからここは、素直に助けを求めよう。
五十嵐響子が理想だが、この際贅沢は言わない。料理と認識出来るものが作れる人なら誰でもいい。そもそも、おにぎり作るだけだし。
「千川さんに、頼んでみます」
それが妥当だと、伊華雌も思った。きっと乙女な彼女なら、いつか武内君に作るため、という名目でお弁当の特訓を完了していてもおかしくない。
しかし、千川ちひろに頼ると後が恐ろしいという問題が……。
だって、絶対加速するもんまゆちゃんの
それでも、伊華雌はちひろに助けを求めることに賛成した。キッズアイドルに差し入れ大作戦を成功させてパレードの成功に貢献出来るのであれば、
〝よし武ちゃん。内線電話で千川ちひろを特殊召喚だ!〟
武内Pがキッチンから出ようと振り返った瞬間――
「うわぁっ」
キッチンの入り口で悲鳴があって、誰かが転ぶ音がした。
「あの、大丈夫、ですか?」
キッチンから出た武内Pの、表情が固まった。それは伊華雌も同様だった。
だって、キッチンの出入口で尻餅をついて転んでいたのは――
制服姿の島村卯月だったから。