「ごめんなさい……」
駆けつけた武内Pが最初に聞いたのは、か細いみくの声だった。彼女はレッスンルームの床に座って右足を伸ばしている。その足首が簡易ギプスで固定されている。
「捻挫です。全治一週間というところでしょうか」
トレーナーの言葉は死刑宣告だった。だって、明日までに治る怪我でなければ、クリスマスライブには――
「大丈夫にゃ! 明日までにはきっと治るにゃ! ほらっ!」
「あっ、ちょっとっ! ダメだってッ!」
立ち上がろうとしたみくの肩を李衣菜がつかむ。
「無理だって。怪我なんだし、しょうがないよ。今回は見送って、また別の機会に――」
「嫌にゃッ!」
噛み付くような語気で、聞き分けのない子供みたいに。
さすがに李衣菜も頭にきたのか、みくの肩にかけていた手に力をいれて、強引に座らせて――
「そんなこと言ったって、その足じゃ無理じゃん!」
「できるにゃッ!」
「できないって。だって、歩くのがやっとなんだよ? そんな状態でステージなんてできるわけないじゃん!」
「ギプス付ければ、踊れるからっ!」
「そうかもしれないけど、それじゃステージに出らんないじゃん。足にそんなの付けて、衣装とかどうすんの?」
「それは……」
みくの瞳が湿り気を帯びる。力いっぱい、レッスン用のズボンをつかんで、自分の中で荒れ狂う感情と戦いながら――
「だって、みくのせいでライブできないなんて、嫌だよ……。ずっと、明日のために頑張ってきたのに……。歌詞も作って、振り付けも考えて。それで、今度こそ、今度こそ成功させられるって! 一人じゃダメだったけど、二人なら大丈夫だって! それなのに……ッ!」
みくは、大きく息を吸い込んで、力いっぱいに閉じた目のふちから涙を散らしながら――
「だから、絶対にライブはやりたい……ッ!」
「……みくちゃん」
李衣菜は、それ以上何も言わなかった。言えなかった、――のかもしれない。そのくらいにはみくの気持ちが分かるようになっていたのかもしれない。
武内Pも、李衣菜と似た表情をしていた。
間島Pのプロデュースを引き継いでいた時には見えていなかったものが今は見えている。あの時の彼だったら、絶対に言わないことを――
「前川さんをクリスマスライブに出演させる方法は、ありませんか?」
その場にいる全員の視線が武内Pを貫いた。それは一様に驚きと疑いを含んでいた。プロデューサーの台詞とは思えない。そんな気持ちが込められていた。だって、全治一週間と宣言されたばかりなのに……。そんなアイドルは、本人がなんと言おうとステージにあげてはいけないのに……。
否定的な視線が飛び交う中で、しかし
――武内Pがどうして怪我をしたみくをステージにあげようとするのか?
一見無茶な行動にもちゃんと理由があって、覚悟があって。だから伊華雌は武内Pを応援する。
きっと彼は――
「……まあ、捻挫といってもそこまで重症ではないので、ギプスをして振りつけを簡略化すればステージに上がることは可能かもしれませんが」
トレーナーの曖昧な表情が語る。それはあくまで〝可能性〟にすぎないと。それはもしかしたら、残り時間の少ないサッカーの試合で〝今から1分おきにゴールを決めれば勝てるぞ〟とアドバイスするような、現実味に乏しい可能性なのかもしれない。
でも――
可能性があるのなら諦めたくはないと伊華雌は思った。きっと武内Pも同じ気持ちであると思った。言葉を交わす必要はない。その横顔を見れば分かる。
――彼が、何を守ろうとしているのか?
「それでは、振り付けの簡略化をお願いします。自分は衣装を何とかします」
まさかの返事だったのだろう。トレーナーは曖昧な表情を捨てて、売り言葉に買い言葉で喧嘩をはじめるように語気を荒くして――
「無茶です! ライブは明日なんですよ? それまでに振り付けを考えて、それを覚えるなんて! しかも一人は怪我をしてるのに……ッ!」
正論である。
常識で考えれば今回のライブは見送るのが正解だ。
しかし――
武内Pはその〝常識〟をあえて破る。伊華雌も同じ気持ちを持っている。アイドルのプロデューサーたるもの常識よりも優先すべきことがあるのだ。いつか夏樹が言っていた〝常識にとらわれていては三流〟という言葉はプロデューサーの世界においても通用する
そして――
「……つまり、明日までに振りつけ、考えればいいんでしょ?」
ここにも一人、常識という枠からはみ出そうとしているロックな少女が。
まさかの援護射撃にトレーナーはうろたえながらも、しかし体育の先生を思わせる威厳を持って――
「李衣菜ちゃんまで、そんな無茶を言わないで――」
「嫌なんです」
その時の李衣菜を、きっと伊華雌は忘れない。本人には悪いが、初めて李衣菜のことを〝ロック〟だと――
「みくちゃんのこんな顔を見るくらいなら、少しくらい無茶をしたほうがましですから」
歯を見せて笑う李衣菜が、一瞬だけど木村夏樹に見えた。そのくらい男前でロックだった。もし自分が女だったら惚れていた。まあ、今のスペックで女になったら後世に語り継がれるほどのブスだろうから、好かれたところで李衣菜にとってはいい迷惑で悪夢の始まりなのだけど……ッ!
「……仮に出演を目指すとしても、衣装が無いと思います。ギプスを隠せる衣装なんて……」
それに関しては伊華雌に心当たりがあった。去年のクリスマスライブ。BDレコーダーに意思があったらもう食べたくないと拒絶されるくらいにリピートした映像に答えがあった。
あの時のバックダンサーの衣装。クリスマスのプレゼントが詰まった靴下を模したもので、よくあんな〝ガンダムの足〟みたいな衣装で踊れるものだと感心したのを覚えている。
――あれならきっと、足首のギプスくらいなら隠せる。
武内Pに伝えると、彼はうなずいて――
「衣装には心当たりがあります。現物を確認してきます」
足早にレッスンルームを出て、衣装室へ向かった。
* * *
夜も遅い時間である。廊下に人影はなくて、だから伊華雌は訊くことができた。だいたいの見当はつくのだけど、でも、聞いて確かめておきたかった。
〝あのさ、武ちゃん。怪我をしたみくにゃんをライブに出す理由って……〟
武内Pは、足を止めずに――
「今、ライブ出演を中止してしまうと、前川さんは笑顔を失ってしまいます。それは多田さんも同様です」
一度失われた笑顔を取り戻すのがどれだけ大変なことであるか。そして、必ずしも取り戻せるわけではないと、知っているから――
「二人の笑顔を守るためには、ライブに出演させるべきだと判断しました」
武内Pは衣装部屋の前で足をとめて、ドアを見つめて――
「強引、すぎたでしょうか?」
心のどこかに不安があったのだろう。アイドルやトレーナーの前では決して見せない弱気を、しかし自分には見せてくれたことが伊華雌には嬉しい。
〝武ちゃん、あんた、最高にロックだぜッ! 木村夏樹の霊が乗り移ったのかと思ったくらいだ!〟
伊華雌の笑い声に、武内Pも笑みを重ねて――
「木村さんはまだ生きてます。勝手に霊にしたら怒られます」
衣装室のドアを開けた。明かりがついていた。先客がいるのかと思いきや、彼女は武内Pを待ちかねていた。
「お疲れ様ですっ。あの、さっき姉から連絡を受けて。衣装を探す手伝いをするようにって」
ルーキートレーナーが礼儀正しく頭を下げた。伊華雌はトレーナーに心の中でグッジョブした。あんなに反対してたのに、急に優しくなりやがって……ッ!
伊華雌がトレーナーに対する好感度を上昇させている間に、武内Pは去年のバックダンサーの衣装をルーキートレーナーに依頼した。
衣装を管理している彼女は、しかし探そうとしなかった。彼女は、それが徒労に終わることを知っていた。
「その衣装なら、今は名古屋に行ってます。名古屋で行われるクリスマスライブで使用される予定なんです」
船が暗礁に乗り上げた時の船長はこんな気持ちだろうかと思った。航路は狭いが、しかし航行は可能であって、栄光の新天地へ出発する決心を固めた矢先に船が揺れて動かなくなる。
「現地にいる同僚に連絡をとってみます」
武内Pは手帳を取り出して、何人かに電話をかけた。その顔がしかし、失意に沈むことはなかった。その鋭い目付きが、切実な口調が、諦める気配すら感じさせない。
「話をつけることが出来ました。今から、取りにいってきます」
今からですか! と悲鳴をあげるルーキートレーナーに一礼して、武内Pは衣装部屋を後にする。
伊華雌は驚かなかった。そのくらいはやるだろうと思っていた。わずかでも可能性があるのなら諦めない。それが〝本気〟の武内Pである。
武内Pはレッスンルームに戻ると事情を説明した。これから車で名古屋へ行き、衣装と一緒に戻ってくる。
「朝まで待って、新幹線で行ったほうがいいんじゃないですか?」
トレーナーの指摘に武内Pは首を横に振る。
「それでは遅すぎます。衣装を前川さんのサイズに直して、実際にそれを身につけて動きを慣らしてもらう必要があるので、明日の朝には衣装が必要です。今から車で向かうのが最善策です」
武内Pはそれだけ言うと、みくと李衣菜に近づいて――
「自分は、出来る限りのことをします。ですから二人も、出来る限りのことをしてください」
みくと李衣菜は、何か言いたげに口を開き、しかし何も言わなかった。銃の弾倉を入れ替えるように言葉に差し替えて――
「よろしく頼むにゃっ!」
「よろしくね!」
武内Pは戸口へ向かって歩き出し、伊華雌はそのポケットから遠ざかるみくと李衣菜を見つめていた。
――二人の表情に、違和感があった。
ずっと武内Pへ向けていたそれとは違う。過去に因縁があって嫌っていた相手を、許したいけど顔を合わせると悪態をついてしまうツンデレみたいな……。
いや、もしかしたらそう思いたいだけかもしれない。武内Pに対する好感度が上がって欲しいという願望が、都合のいい勘違いをさせているのかもしれない。
だから真相は分からないが、〝都合のいい勘違い〟が現実のものになればいいなと伊華雌は思った。
* * *
「何か、話をしてもらえませんか?」
車に乗るなり、武内Pが要求してきた。誰かと話をするのが一番の眠気覚ましになるからと。それならば口先だけのマイク野郎な自分でも役に立てると伊華雌は張り切って――
〝じゃあ、一昔前のアイドルで誰が好きだった? ――とかどうよ?〟
「いい、話題です」
車がゆっくりと動き出す。スタッドレスタイヤを履いた社用車がスロープを上がり外に出る。グオオンと暖房がうなり窓ガラスがくもる。どうやら外は相当に冷えているらしい。
〝俺はやっぱり小鳥さんかな。音無小鳥。口元のほくろが可愛いんだよなーっ!〟
「同感です。しかし彼女については色々な噂がありますね……」
〝突然やめちゃったもんなー。所属が961プロだから怪しいんだよなー。そこらへんの裏事情とか、知ってたりしないの?〟
「他の事務所のことですから正確には……。ただ、よく聞く話だと――」
その時、二人は知らなかった。夜間にかけて強い寒気が日本列島を飲み込もうとしていることを。12月にしては珍しい真冬の寒気で、同時に前線を伴った低気圧が通過することを。
――0時発表の天気予報で、気象庁は宣言する。
今年はホワイトクリスマスになると。