迫りくる雪雲から逃げてきた。
それが、東京~名古屋間の深夜ドライブから生還した
東名高速を走り始めてしばらくすると気象庁が警報を出した。関西の平野部でも雪が降り、やがて関東平野部でも初雪が観測されるでしょう。積もる可能性もあるのでお出掛けの際はご注意ください。
淡々と語るニュースキャスターの言葉に
「スタッドレスタイヤを履いているので問題ありません」
武内Pの言葉にすがるしかなかった。
浜松を越えた辺りから雪が降り始め、名古屋はすでに白かった。大粒の雪が降り積もり、道路まで白く染まっていた。とはいえそれほどの積雪ではなかったので、スタッドレスタイヤで走破することができた。
名古屋公演が行われるライブ会場の守衛所で衣装を受けとると、熱いお茶を勧める守衛に頭を下げてすぐに出発した。
高速に乗って名古屋から離れても雪が追いかけてきた。
積もるほどではなかったが、電光掲示板の〝ユキ注意〟という警告を見るたびに伊華雌は不安になった。不安をふきはらすために武内Pとアイドルの話をした。やがてそれは歌の話にシフトして、車に接続された武内Pの私物i‐podから流れるアイドルの曲を大音量で流して二人で合唱した。
深夜のドライブで、徹夜で、雪で。しかも明日――いや、今日の夕方は決戦のクリスマスライブで。
あらゆる〝非日常〟がミルフィーユのように重なりあって猛烈なハイテンションが発生していた。それは俗に言う〝ランナーズハイ〟の感覚で、伊華雌と武内Pは夕日に向かって爆走する日野茜めいたテンションで東京に帰ってきた。
東京でも雪が降り始めていた。うっすらと路面に積もるそれはまだ序の口で、積雪を覚悟しろとニュース番組のL時画面が警告していた。
ともあれ、通勤時間帯よりも早く346プロに戻ることが出来た。二人は達成感と誇らしさを胸にレッスンルームへ急いだ。
――まだビルが寝ている。
そんな感じの光景だった。廊下の暖房は眠ったままで、外気と変わらぬ寒々しい空気が廊下に居座っている。明かりのついた事務室はまばらで、レッスンルームに到着するまで誰ともすれ違わなかった。
並ぶレッスンルームは冷凍庫を思わせる静寂に包まれていたが、一つだけ、暖炉のように暖かい光を膨らませている部屋があった。
「失礼、します……」
武内Pは、寝起きドッキリの仕掛け人めいた小声の挨拶と共にレッスンルームのドアを開けた。本当に暖炉でもあるかのような暖かさが、コートの肩にしがみついている雪をじわりと溶かし始めた。
みくと李衣菜が、寄り添って眠っている。同じ毛布にくるまって、身を寄せ合って寝息を立てて。
〝なっ、なんだよこれ……。〝尊い〟なんてもんじゃねえぞ……。これはもはや、尊みを越えた新次元の何かだぁぁああ――ッ!〟
猫のように身を寄せあって眠るみくと李衣菜の尊さに伊華雌の眠気が吹き飛んだ。
武内Pも、熟睡する娘のかけ布団を直して微笑む父親みたいな笑みを浮かべて
レッスンルームの床が、キュッと鳴いた。
「んー……」
みくが声をあげて、モゾモゾ動く。うっすらと開けた目に武内Pを認めて――
「P……チャン? ……Pチャン!」
まるで幽霊でも見たような反応だった。いるはずのない人物に驚いて目をこすり続ける。
「すみません。起こすつもりはなかったのですが……」
武内Pが首をさわった。溶けた雪が水滴となって床に落ちた。
「……名古屋から、戻ってきたのッ?」
みくは時計と武内Pを交互に見て眠そうな目を覚醒させた。
武内Pは、照れくさそうな笑みを浮かべた。伊華雌も心の中で同じ笑みを浮かべた。称賛の輝きを放つ瞳を向けられるのは、嬉しいけれど照れくさい。
「すごいにゃあ! さっすがPチャンにゃあ!」
みくが毛布から抜けて立ち上がる。捻挫のことを忘れていたのか、右足を踏ん張った瞬間に小さな悲鳴をあげた。
「あのっ、休んでいてくださいッ!」
たまらず声をあげる武内Pに、しかしみくは笑顔でこたえる。大丈夫だから! と宣言して、おぼつかない足取りで近付いてくる。
「……Pチャン。ちょっと、お話していい?」
武内Pは、突然女子に呼び出された男子のようにぎこちなくうなずいた。
伊華雌は異変に気付いて、頭の中でみくの言葉を繰り返し再生して、検証して、そして――
――全身を鳥肌に支配される感覚を思い出す。
だって今――
Pチャンって……ッ!
「あのね、みく、武内さんに謝りたいなって、思ってて……」
みくは、落ち着きのない幼児のように体をもぞもぞさせる。
武内Pは、まるで心当たりのない告白をされるみたいに首をかしげる。
「みく、いじわるだったから……。武内さんは悪くないのに、シンデレラプロジェクトへ行くのが嫌で、菜々チャンとのユニットができなくなるのが嫌で、だから――」
武内さんのこと、見ないようにしてた。
「……でもね、ソロのステージで失敗して、落ち込んで、もうアイドル無理なのかなって思って……。だけど、武内さんが寮にきて、励ましてくれて――」
ほんとはすっごく、嬉しかった。
「みくはずっと、背中を向けてたのに……。それでも武内さんは、みくのことを見てくれて。みくのこと、真剣に考えてくれて……。だからみくも、このままじゃいけないって、思って!」
みくは真っ直ぐに、武内Pを見つめて――
「今まで、ごめんなさいっ! みくの担当は、間島さんじゃなくて武内さんにゃ! だから――」
――これからもよろしくね、Pチャン!
武内Pは動かない。ギリシャの石像みたいに沈黙する武内Pの中で何が起こっているのか、伊華雌には分かった。その表情には、覚えがあった。
ショッピングモールの喫茶店。笑顔の島村卯月に言われた。
――わたしを、アイドルにしてくれてありがとうございますっ!
武内Pは、あの時と同じ顔をしている。その目が湿り気を帯びているのは、まつ毛についた雪のせいではないだろう。
――パチ、パチ、パチ。
武内Pとみくの間に拍手の音が割って入る。
「李衣菜ちゃん、起きてたの……ッ!」
李衣菜は、ライブハウスで練習していた新人の演奏を物陰でこっそり聞いていた大物ロックシンガーのように――
「いやあー、朝から熱いやり取りだねー。まるで青春ドラマみたいだねー」
李衣菜は立ち上がり、毛布を投げ捨て、告白をのぞかれた女子高生のように赤面するみくに向けてグーにした手を突き出した。そして親指をぴっと立てて――
「ロックだね!」
「やかましいにゃッ!」
毛を逆立てる猫みたいに不機嫌なみくに手の平を向けて、もう一方の手はまるで武内Pのように首をさわって照れくさそうに――
「……まあ、そういうわけだからこれからもよろしくね、プロデューサー♪」
歯を見せて笑う李衣菜を、しかし彼女は許さない。苦労して化石を掘り出した教授が、最後の作業だけ手を貸して我が物顔の同僚をにらむように――
「やり直しにゃ! そんなんじゃ李衣菜ちゃんがPチャンをどう思っているのか全然伝わらないにゃ! リテイクを要求するにゃッ!」
「えー……。だからそれは、みくちゃんと一緒だから――」
「それが気に食わないにゃ! みくだけ恥ずかしい告白をして終わりなんて不公平にゃ! 李衣菜ちゃんも恥ずかしくなるにゃッ!」
「えー……。言ってることがメチャクチャだよ、もう……」
行動を強要される〝空気〟というものが存在する。並べたビールジョッキの前で笑う佐藤心と目が合ったら最後、スウィーティーな乾杯から逃れることが出来ないように、映画監督みたいに腕を組んで渋い顔をしたみくに睨まれているかぎり、李衣菜は〝恥ずかしい告白〟から逃げることを許されない。
「もぅ、仕方ないなぁ……」
李衣菜はたっぷり視線を泳がせて
「えっと、その……。わたしも、武内さんに対して、あんまり協力的じゃなかったっていうか、否定的だったから……、その……、ごめんなさい……」
「え! よく聞こえないにゃ!」
「うっ、うるさいな! ちょっと黙っててよ!」
笑顔で横槍を入れてきたみくを黙らせて、武内Pのほうへ向き直り、手をもじもじさせながら――
「あの……、わたしもソロで失敗した時に、武内さんの演奏を聞いて、あれはすごく下手くそだったけど、でも、わたしの〝ロックなアイドルになりたい〟って気持ちに、真剣に向き合ってくれてるんだって分かって――」
――嬉しかった。
「だから……、だからっ――」
李衣菜は、立てた親指で自分の胸を叩いて――
「わたしのロックな魂、プロデューサーに預けるからっ!」
李衣菜はしばらく、胸に親指を刺したままだった。時代劇で人を斬った侍がしばらく動かないように、言葉の余韻を響かせようとするかのように動かない。
「いやあー、朝から熱いやり取りにゃー。まるで青春ドラマみたいにゃー」
ぼっと、李衣菜の顔が赤くなった。
みくと李衣菜の視線が交わり、その交点でバチリと火花が散った。そのにらみ合いは取り組み直前の相撲取りを思わせるほどに一触即発で、猫ロック戦争の開戦は時間の問題であった。
〝武ちゃん! 二人にプレゼントを渡そうぜ! 買ってきたやつ!〟
武内Pは、不良同士の喧嘩をとめるべく二人の間に割って入る美少女のように――
「あのっ、二人にっ、渡したいものが……」
武内Pはレッスンルームのすみに置きっぱなしにしていた袋を手にとって、中からそれぞれへ向けたプレゼントを取り出して――
「あの、その……。メリー、クリスマス?」
訊いてどうする! この人プレゼントするの下手だな! 人のことは言えないけれど!
伊華雌は武内Pのサンタクロース適正の低さに慌てたが、みくと李衣菜は相手をにらむことを忘れて――
「……プレゼント? みく達にっ!?」
「……予想外のサプライズ、ってやつだね」
みくと李衣菜はプレゼントを受け取って、リボンをほどいてクリスマス柄の包装紙を破って――
「猫耳にゃ! クリスマスカラーにゃ! 可愛いにゃ!」
「へー、クリスマス柄のヘッドフォンか。悪くないねっ♪」
ちゃんと喜んでくれた。子供みたいに目を輝かせてくれた。それが何だか泣けてくるほど嬉しかった。世の中の人間が〝プレゼント〟という文化を大切にしている理由が分かった。
誰かにプレゼントをするということは、同時に相手からプレゼントしてもらえるのだ。
何物にも変えがたい、最高の――
「ありがとっ、Pチャン!」
「ありがとね、プロデューサーっ♪」
〝こちらこそいい笑顔をありがとうございまぁぁああ――ッ!〟
伊華雌がサンタクロースの快感に興奮して、武内Pがどんな表情で二人の笑顔を受けとめていいのかわからなくて首をさわった瞬間――
レッスンルームのドアが
「おはようございまーす。あっ!」
ルーキートレーナーが、やはり亡霊でも見るかのような目付きで武内Pを見つめて――
「本当に朝までに戻ってくるなんて……」
武内Pは、究極の食材を確保した冒険家みたいに――
「これを、お願いします。前川さんのサイズに」
ルーキートレーナーは衣装ケースに入ったそれを国宝でも受け取るような手つきで受け取り、早足でレッスンルームから出ていった。
そして入れ違いに――
「おはようございます!」
トレーナーが入室した。彼女に続いて――
「おはよう!」
ベテラントレーナーが、そしてマスタートレーナーまでもが続いて顔を見せた。
「トレーナー姉妹全員集合にゃ……」
「……もしかして、有名グループがリハーサルでもやるのかな?」
李衣菜の反応はもっともだった。ベテラントレーナーは第一芸能課の主力アイドル、すなわち346のトップアイドルのレッスンを主に担当しているし、マスタートレーナーは同じくトップアイドルの振り付けを担当している。
新人アイドル達はみな、いつかはマスタートレーナーの振り付けで、ベテラントレーナーにレッスンしてもらえることを夢みて基礎練に励んでいる。
――それはすなわち、346のトップアイドルになれたということを意味するのだから。
「あの、ここはこれから使用する予定なのですが……」
武内Pは抗議していた。その態度から伊華雌は事態を察した。今から別のユニット、恐らくはトップアイドルクラスのユニットが使うからどいてくれと言うのだろう。そう考えると並ぶトレーナー達が暖かい部屋を奪おうと狙う卑劣なハイエナに見えてきた。
「あなたが、怪我をしたアイドルを舞台にあげようというプロデューサーですね。それがどういうことなのか、ちゃんと理解しているんですか?」
マスタートレーナーの口調は、そして視線は、何かを試そうとするかのように鋭い。
「全ての責任は、自分が負います」
武内Pの回答に、しかしマスタートレーナーは満足しなかった。彼女はレッスンで生徒をしかりつけるように厳しく――
「そこまでする理由は何ですか? もしもアイドルがステージで失敗したら、出演を許可したあなたはただじゃすまない。どうしてそんな――」
「笑顔です」
武内Pは、マスタートレーナーの言葉をさえぎって――
「アイドルが笑顔になれるプロデュースをする。それが自分の信条です。担当アイドルを笑顔にできるのであれば、どんなリスクがあろうとも引き下がるつもりはありません」
346プロのトップトレーナーを前に、武内Pは一歩もひかない。
「みく、失敗しないから!」
「わたしもフォローしますから!」
立ちふさがる武内Pに、みくと李衣菜の援護射撃に、マスタートレーナーは――
笑った。
「……妹から聞いたとおりですね。シンデレラプロジェクトは、プロデューサーもアイドルも普通じゃない。放っておいたら気持ちだけで突っ走って取り返しのつかない失敗をしてしまう。346プロの担当トレーナーとして、そんなリスクを黙って見過ごすわけにはいきません。だから――」
武内Pは、即座に反撃できるように沈黙する。それはさながら、激しい銃撃戦のあとにおとずれた沈黙に似ていた。銃を構えて、息を殺して、相手の出方を――
「私が担当します」
銃撃戦は起こらない。白旗を振って近付いてくる敵兵を見て、しかし半信半疑で銃をおろすことの出来ない兵士のように様子をうかがい続ける。
「……それって、みく達に協力してくれるってこと?」
そうであってほしい。そんな気持ちが、上がる語尾に込められる。
「私達じゃ不満か?」
腰に手をあてて勝ち気な笑みを浮かべるベテラントレーナーの言葉が戦争を終わらせる。
みくと李衣菜は撤退命令を喜ぶ兵士のような歓声をあげて、武内Pは安堵に銃を取り落とす兵士のように脱力した。
「先ほどの言葉は、346プロの担当トレーナーとしての意見です」
マスタートレーナーが、武内Pにしか聞こえないように――
「個人的には、あなたのやり方――」
――嫌いではありません。
反射的に何か言おうとした武内Pに、差し出された。
特製ドリンク。
「寝不足と過労がみられます。ドリンクを飲んで、すこし休んでください。アイドルのことは私達に任せてください」
その横顔に威厳があった。どの分野であってもトップに君臨する人間にはオーラがあって、この人に任せておけば大丈夫だと、心の底から信頼できて、安心できて、やがて眠くなってきて――
「お前らもドリンクを飲め! 話はそれからだ!」
「これ、変な匂いがするにゃぁぁああ――ッ!」
「うへぇ……。この味は、ある意味でロックかも……」
ベテラントレーナーにドリンクを飲まされて