961プロの本社ビルはまるで要塞だった。
346プロの本社ビルだって決して小さくはないのだけど、961プロの本社ビルを間近で見上げると、迫力に威圧されて足がすくむ感覚を覚えてしまう。単に大きさの違いだけではなくて、業界トップのオーラというか、ギラギラした欲望のようなものが瘴気となってビルを包み込んでいるような迫力があって、もしも自分が上京してきたばかりの新人アイドルだったとしたら、びびって荷物をまとめて田舎に帰りたくなってしまうかもしないと
しかし、赤羽根Pは怯まない。
車から降りた他のアイドルも、拳法の達人が〝少しは楽しめそうだな〟と言って浮かべるような不敵な笑みを浮かべている。あんたがあたしのプロダクション? まあ、悪くないかな――とでも言わんばかりの目付きで961プロの本社ビルを見上げている。
そもそもの度胸が違うのだと伊華雌は思った。
数万人のファンを前にしたステージを踏みこえてきた彼女達の足を震わせる場所なんて、もしかしたらこの世界のどこにも存在しないのかもしれない。
* * *
受付に行って事情を話すと、プロジェクト・フェアリーの部屋へ行くように言われた。
961プロの本社ビルは、外見を裏切らない豪華な造りの内装を輝かせていた。まるで高級ホテルだった。床はふかふかの絨毯だし、エレベーターは広々として駆動音も静かだし、プロジェクト・フェアリーの部屋は西洋の洋館を思わせる重厚なドアによって守られていた。
「失礼しますっ!」
ドアを開けた赤羽根Pが、凛々しい挨拶をして、綺麗なお辞儀をして、視線を動かした。
ホテルのスイートルームを思わせる部屋には、一人の少女しか見あたらなかった。
しかし――
その一人の存在感が尋常ではなかった。
〝お、お姫ちん……ッ!〟
窓辺にたたずみ外を眺めていた四条貴音に令嬢の面影を見たのは自分だけではないと伊華雌は思う。ははぁー、と声をあげて平伏したくなってしまう高貴なるたたずまいは、あだ名とはいえ姫と呼ばれるにふさわしい。
「新しいメンバーが来ると聞いていました。あなた方だったのですね」
微笑む貴音に、伊華雌は再び、ははぁー、と平伏する感覚を捧げてしまう。時代劇で殿様が何か言うたびに、ははぁー、を繰り返すちょんまげ頭の気持ちが理解できてしまった。
人間、あまりに上品な人物を前にすると頭をさげたくなってしまうのだ。
「ひっさしぶりだねー、お姫ちん」
にゃははと笑いながら志希が貴音に近づく。その親しげな仕草に思い出す。
プロジェクト・フェアリーとLippsは面識があるのだ。年末の紅白で共演しているのだ。
だから貴音の姫オーラを前にしても志希は猫口を緩めているのだ。――と思う一方で、志希のことだから初対面からこんな感じかもしれないとも思った。
そして志希は、貴音の前で足をとめると、くんかくんかと鼻を鳴らした。
「……どうしたのですか?」
動揺する貴音に、志希は名探偵の眼差しを向けて――
「お姫ちん、お昼にラーメン食べたでしょ? ラーメン二十郎」
貴音は手で口を押さえて――
「……ニンニクは抜いてもらったはずですが」
「うん。ニンニクの匂いはしないね。ただ、独特の化学調味料の匂いがしてる。……匂い嗅いでたらラーメン食べたくなっちゃった」
「何と言う面妖な嗅覚でしょうか……っ!」
「ねえ、プロデューサー! ラーメン食べにいこうよ! プロデューサーのおごりでっ♪」
振り返ってねだる志希の声が気になったのか、ソファーからもそりと金髪の少女が起き上がって――
「あふぅ……」
のんびりとあくびをした。
それが星井美希だと、伊華雌はすぐに分からなかった。
ステージで見る彼女は、素晴らしいダンスを披露して、キラキラと笑顔を輝かせて、それこそアイドルをするために生まれてきたと言っても過言ではない女の子なのに、ソファーの上で伸び伸びとあくびをしている美希はまるで――
「杏ちゃんみたいやねー」
「そうね、まるで杏ね」
声をそろえる周子と奏に伊華雌も同意する。
こんな光景、見た覚えがある。間島P不在の第一芸能課へ行けば、ソファーを根城にぐうたら王国を建設している杏に星井美希の面影を感じることが出来ると思う。
「あんずって誰なのー……」
まだ頭の半分は夢の世界にまどろんでいる。そんな感じの間延びした返事があって――
「ミキ、もう少し寝るのー……」
ぽてっと倒れて、寝息を立ててしまった。演技かと思いきや、どうやら本気で〝すやぁ……〟してしまったらしい。入眠スキルの高さに関しては杏を越えていると伊華雌は思った。
そしてガチャリと、ドアノブがまわる音がして――
「はいさいっ!」
開いたドアの向こうから、元気な声が飛び込んできて――
「シルブプレーっ!」
フレデリカが応戦した。売り言葉に買い言葉の挨拶だった。
「しる、ぶぷれ……? 自分の知らないあいさつだぞ……」
我那覇響が、首をかしげてポニーテイルとイヤリングを揺らした。
「シルブプレはフランスのこんにちは、だったかな? おはよう? こんばんは? うーん、まあ、いっか」
「えっ、……アバウトだなー。自分もアバウトだけど、えっと……」
「フレちゃんだよ。フレデリカって呼んでもいいし、宮本って呼んでもいいよ。だれも宮本って呼ばないんだけどね。なんでだろ?」
「……多分、宮本って感じがしないからだぞ。その髪って、地毛なのか?」
「そだよー。煮て食べたら響ちゃんも金髪になっちゃうかも?」
「え、いやっ、ならないと思うぞ。そんなんで金髪になったら困るぞ」
「そうだねー。そしたらスパゲッティ食べても金髪になっちゃうもんね」
「えっ、……うーん、そうなのか?」
「んふふー、よく分かんない」
「いやっ、それは自分の台詞だぞっ!」
フレデリカワールドに響が翻弄されていた。伊華雌も翻弄されていた。
〝考えるな、感じろ!〟系の話だと思った。
なので伊華雌は深く考えるのをやめて、響のポニーテイルを見つめて、魅力的な躍動感を楽しんでいた。
「失礼する」
そのポニーテイルの向こうから男の声がした。
その男は、社員に見えなかった。社会人にも見えなかった。紫色のスーツを着崩して黒いシャツの向こうに日焼けした肌を見せている男は、歌舞伎町のホストですと言われればすんなり納得できるのだけど――
「黒井社長、この度は便宜を図っていただき、ありがとうございます」
赤羽根Pが、頭を下げた。
346から来たアイドル達は、ぽかんとしていた。えっ、こいつが社長? そんな気持ちが、寄せた眉根と半開きの口に表れていた。伊華雌も同じ気持ちだった。
「346プロの諸君、961プロへようこそ。君たちは正しい選択をした。346プロなんぞにいても未来はない。美城芸能が趣味でやっているような事務所だ。先は見えている!」
ふはははっ! 黒井社長は上機嫌に笑って――
「プロジェクトフェアリーとLippsが手を組めば、我がプロダクションにもはや敵はない。君たちはその力を存分に――」
アイドル達を順に眺めていた黒井社長が、言葉を止めて、アゴを触って――
「一人、足りないようだが……」
「あのっ、城ヶ崎美嘉は、移籍をとりやめたいと言いまして……」
赤羽根Pがすかさず口を挟んだ。
「そうか。それは残念だが、まあいい。一人かけたところで大した問題ではない。4人もいれば十分だ」
ふははと笑う黒井社長に、伊華雌は強い反発を覚えた。
ユニットのメンバーが一人欠けて、それで問題ないと笑える神経が信じられない。それがどれだけ大変なことなのか、未央の移籍騒動で思い知っている。Lippsの4人の気持ちを考えれば、問題ないと言って笑うことなんて出来ないはずなのに……。
「ちょっと、これからのことを話そうか。アイドルは部屋に残ってくれ」
黒井社長の後に続いて赤羽根Pが部屋を出る。
見送る元346プロのアイドル達は、しかし誰も笑顔ではなかった。
* * *
黒井社長は赤羽根Pを連れて社長室に入ると、深々と椅子に腰掛けて――
「よく、やってくれた。礼を言う」
やはり、社長に見えなかった。
服装のせいだけじゃない。その態度が、オーラが、あまりにもギラギラと貪欲で、社長と聞いてイメージする人間と一致しない。
いや……
だからこそ社長なのかもしれないと伊華雌は思った。
世間の常識からはずれた存在であるからこそ、社長室と言うには豪華すぎる調度品にあふれた部屋でふんぞり返ることができるのかもしれない。
「アイドル達を、よろしくお願いします。これ、今までの活動と、今後の方針をまとめてきました」
赤羽根Pがカバンから資料を取り出した。見覚えのある資料だった。目の下にくまを作って完成させた資料を、しかし黒井社長は受け取ろうとしなかった。
「約束どおり、アイドル達は961プロで活躍してもらう。彼女達は、すでにアイドルとして必要なものを全て持っている。完璧な完成品だ。相応の舞台を用意すれば、勝手に輝いてくれる」
黒井社長は机の上に肘を乗せて、頬づえをついて、赤羽根Pを見上げて――
その瞬間に、伊華雌は気づいた。
赤羽根Pは間違えたのだ。
タンメンとタンタンメンを間違えるように間違えてしまったのだ。
この人間は信頼にあたいするのか、それとも――
「もちろん、約束は守る。君も破格の待遇で迎える。346の倍の給料を払う」
赤羽根Pが強張っていた口元を緩め、伊華雌は危機感を覚える。
いけない。
この男の前で、気を抜いては――
「君には、優秀な事務員として働いてもらう」
「……え」
赤羽根Pのそんな顔をみるのは、初めてだった。
あれほど嫌いだったイケメンが動揺している姿を見て、しかし怒りがこみ上げてきた。いつも優秀で、自分と武内Pの前に立ちはだかって、ことごとく対立して、そのうえイケメンでアイドル達とのコミュニケーションも円滑でリア充め爆発してしまえと思っていたはずなのに――
こんな顔は、見たくなかった。
「それじゃ、約束が……」
精一杯ひねり出した反論を、黒井社長は容赦なく叩き潰さんと語気を強めて――
「プロデューサーとして使ってもらえると、そう思っていたのか? 残念だが君にその価値は無い。君のプロデュースは確かに優秀だが、それだけだ。優秀な人間なんていくらでもいる。うちのプロデューサーで事足りている。それとも――」
黒井社長の目が光る。出来やしないと分かっていて、その上で要求する意地の悪い笑みを浮かべて――
「君には何か、君にしかできないプロデュースがあるのか? もしそうなら、今ここでオレを説き伏せてみせろ。そしたらプロデューサーとして使ってやる」
不敵な笑みを崩さない黒井社長の視線を受けて、赤羽根Pは無言のままに資料を握りしめていた。