「プロデューサーを、やめる?」
太陽が西に傾くとすっぽりと961プロ本社ビルの影に隠れてしまう喫茶店で、その声は他の客の喧騒に消されてしまうほどに穏やかだった。これがニュージェネレーションズであれば、未央が騒いで、凛が立ち上がって、卯月がおろおろして衆目を集めてしまうのだけど、Lippsの四人は騒いだりしなかった。
冷静に、しかし強い視線を赤羽根Pへ向けていた。
「私はてっきり、961プロでも赤羽根プロデューサーが私たちをリードしてくれるものだと思っていたのだけど……」
速水奏の口調は落ち着いていた。しかし穏やかな物言いとは裏腹に、形の整った眉を怒らせて赤羽根Pを見つめていた。
「まあ、色々と事情があってな……」
赤羽根Pは、苦笑しながら目をそらした。そのよそよそしい仕草に
赤羽根Pは、全部抱え込むつもりなのだ。
アイドル達には何も話さずに、身を引こうとして――
「事情って、何?」
赤羽根Pの隣に座っている一ノ瀬志希が、身を乗り出して、匂いをかげるぐらいの距離まで顔を近付けて――
「あたし達は赤羽根プロデューサーに連れてこられたんだから説明が欲しいな。連れてきてすぐにさようならなんて、それじゃまるで
向かいに座るフレデリカが、のん気な声で――
「ぜげんってなあに?」
伊華雌も思っていた。ゼゲンってなんだ?
「フレちゃんは知らなくてもいーことだよ」
塩見周子がフレデリカの肩を優しく叩いた。
フレデリカはむーっとむくれて、クリームソーダのストローに口をつけてブクブクした。
伊華雌も同じことをしたい気分だった。
もっとも、人間だった頃の自分がクリームソーダぶくぶくしたらキモすぎて通報待ったなしかもしれない。クリームソーダぶくぶくが可愛いのは美少女に限る。
「もしかして、
志希は、赤羽根Pの頬にキスでもするんじゃないかってくらいに顔を近づけて――
「黒井社長、くせものだよね。利用できるものは何でも利用してやる、そんなタイプの人間に見えた。なりふり構わない貪欲なやり方で業界トップにのし上がった、そんな感じかなー。迂闊に手を出すと危ないタイプって、言うのかな」
赤羽根Pは言葉を返さない。湯気を出さなくなったコーヒーを見つめて沈黙している。
「利用しようとして利用されちゃったんなら、こっちからも手を打とーか? あたしが動いてもいーよ。赤羽根プロデューサーがプロデュースしてくれないなら、961プロをやめ――」
「それは駄目だ」
穏やかな口調に、しかし迫力があった。
志希は顔を引っ込めて、フレデリカはブクブクをやめた。
四人の視線を受け止める赤羽根Pは、これだけは譲れないと、言わんばかりに視線を強めて――
「みんなには、961プロでアイドルをやってほしい。これがみんなにとってチャンスなのは紛れもない事実だ。人事異動でプロデューサーが変わった。そう思ってほしい。みんなは、自分達がトップアイドルになることだけを考えてほしい……」
その言葉に伊華雌は理解する。
赤羽根Pは、プロデューサーなのである。アイドルのことを第一に考える、模範的なプロデューサーなのである。
「本当に、それでいいの?」
赤羽根Pの向かいに座る奏はどこか寂しそうだった。もっと違う言葉が欲しいと、言わんばかりに立てた人さし指で唇を触り、赤羽根Pをじっと見つめる。
「あぁ……」
赤羽根Pが頷くと、薄く開いた唇からため息を落とした。
「人の意思を変えることって、出来ないのよね。変えられるのは、自分の意思だけ……」
奏が、席を立った。立ち去り際、赤羽根Pの肩に手を置いた。何も言わずに優しい吐息を落として、手を離した。
「フレちゃん、行くよ」
ストローをくわえたまま立ち上がる気配のないフレデリカを志希がぐいぐい引っ張っている。
「プロデューサー、今までありがとさん」
周子が手をひらひらさせて、店を出た。
フレデリカの手を引っ張る志希は、赤羽根Pを見ることなしに、窓の外に見える961プロの本社ビルへ視線を向けて――
「今ならまだ間に合うよ。きっとみんな、喜ぶよ。志希ちゃんも、喜んじゃうかも」
赤羽根Pは、何も言わない。神妙な顔でコーヒーを見つめている。大切に育ててきた愛犬と別れなければならない飼い主のように、強く目を閉じている。
「そっか、分かった」
志希は寂しそうに笑うと「フレちゃん行くよー」と言ってフレデリカの腕を引っ張った。無理に明るく振舞っているように見えたけど、気のせいかもしれない。わずかな仕草から女の子の心境を読み取るなんて、経験豊富なリア充にとっても至難の業であって、彼女いない暦イコール年齢という輝かしい経歴を誇る伊華雌にはさっぱり分からなかった。
「ばいばい、プロデューサー」
フレデリカの、また明日会えることを信じて疑わない子供みたいな声を最後に、赤羽根Pの元からアイドルがいなくなった。
ウェイトレスがやって来て、アイドル達の飲み物を片付けていく。赤羽根Pの前ですっかり冷えているコーヒーへ視線を落として――
「おかわり、お持ちしますか?」
赤羽根Pは、固く閉じていた目をゆっくりと開けて――
「いえ、もう――」
「二つ、お願いできますか?」
おじさんの声が割って入った。
ウェイトレスが頭を下げてキッチンへ戻った。
〝え、誰……?〟
伊華雌は、自分の声が届かないのも構わずに声を出してしまった。
見ると、声色どおりおじさんだった。赤羽根Pの知り合いかと思いきや、赤羽根Pは不意に声をかけられた人特有のポカン顔をしている。
じゃあ、まさかとは思うものの〝ナンパ〟なのだろうか?
創作の世界で見かける、あちらの席のお客様からです、というやつなのだろうか?
そういうの本当にあるんだ、と感心したいものの相手はオジ様である。オバ様が赤羽根Pをナンパするならまだ理解できるのだけど……。
「あの、どちらさまでしょうか?」
勝手に対面に座ってしまったおじさんに、さすがの赤羽根Pも腰を浮かせて、いつでも逃げ出せる体勢をとっている。
「驚かせてしまってすまない。君は、赤羽根君でいいんだよな?」
「そう、ですけど……」
「僕は高木という者で、美城の古い友人なんだ」
高木と名乗ったおじさんは、後ろを振り返って大きく手招きをした。
それにこたえて、大きな帽子をかぶった女性がやってくる。帽子からはみ出た髪は緑色で、口元にホクロがある。どこかで見た顔だと思うものの伊華雌には思い出せない。
「えっと、オレに何か……?」
赤羽根Pは今にも立ち上がろうとしている。そりゃあ、得体のしれないおじさんがナンパ同然に相席してきて、仲間を呼ばれたら逃げ出したくもなる。
「単刀直入に言おう」
ウェイトレスがやって来て、テーブルの上にコーヒーを置いて――
「赤羽根君。僕は、君が欲しい」
もしかしたら、喫茶店にいる全員がぎょっとしたかもしれない。
ウェイトレスがお盆を落として、その音が
「社長、それじゃ唐突すぎますよ」
「それもそうだな。いや、気がせいてしまったよ」
女性にたしなめられて、高木は後頭部をかいて笑う。
「またとないチャンスだったもんで、つい焦ってしまった。ちゃんと説明するから、どうか座ってほしい」
「はぁ……」
赤羽根Pは、恐るおそる着席する。勧められるがままに、湯気を上げるコーヒーに口を付ける。
「僕はこう見えて、アイドル事務所の社長なんだ。……とはいえ、まだ立ち上げたばっかりで、従業員は一人だけで、アイドルもプロデューサーもいないんだけどね」
高木が笑って、隣に座った女性も笑う。
赤羽根Pは、女性の口元にあるホクロをじっと見つめて――
「音無さんを、プロデュースするんですか?」
その一言に、伊華雌の記憶の回路が復活した。
そうだ、音無小鳥だ。このホクロと緑色の髪は紛れもなく音無小鳥だ!
「いやあ、たいしたものだ。さすがは美城の娘さんが目をかけているプロデューサーだ」
高木の目配せに、小鳥が帽子を取った。
記憶の中にある小鳥に比べると、その顔は若干大人びているが、それでもまだアイドルとして通用すると思った。夢を見るのに年齢なんて関係ないと、346のお姉さんアイドル達も言っている。
「音無君には、事務員として働いてもらおうと思っている。アイドルは、これから探そうと思っている。だがその前に、プロデューサーを探さなくてはならない」
「……それで、オレですか?」
「その通り。美城の娘さん――美城常務と言ったほうが分かりやすいかな。彼女に良いプロデューサーがいないかどうか、ずっと話をしていたんだ。346を辞めてしまうプロデューサーで、誰か良い人はいないものかと。そして、君の話を聞いた。わけあって961プロへ移籍してしまうが、プロデューサーとしての手腕は折り紙つきであると。新規に立ち上げる事務所の大黒柱になってくれるだけの実力を備えていると。だから僕は、なんとか君と話ができないものかと思って、この喫茶店で見張っていたんだ。そしたら、君の方から来てくれたから、焦ってしまった」
高木は笑みを浮かべながら後頭部をかいた。人好きのするおじさんの仕草に、しかし赤羽根Pは表情を緩めることなく――
「でも、それだとオレは961プロの人間だって、知っているわけですよね」
「もちろん。だから、まあ、予約……だな。もし961プロで何かあって、そこを去ることになったら声をかけてほしいと、そう思っている」
それを聞いた伊華雌は、ガッツポーズを取る感覚を覚えた。
渡りに船のタイミングである。捨てる神あれば拾う神ありである。最初は怪しいおっさんだなと警戒したけれど、音無小鳥が隣に座っているという事実に多少は信用してもいい気がするし――
ここは一発やってみようぜ! どうせ失うものは何も無いんだっ!
武内Pが相手であれば、声を大にして背中をおしていたのだけど、赤羽根Pに伊華雌の声は届かない。伊華雌はもどかしく思いながら
「……君は、黒井のやり方でアイドルのプロデュースをやりたくて346プロを出たと聞いた。何故、黒井のやり方を模倣しようと思ったのか、理由を訊いてもいいかな?」
赤羽根Pは、湯気の薄くなったコーヒーを眺めながら――
「961プロは業界トップのプロダクションです。同じことをすればトップになれるはずです」
「なるほど、正論だ。だけど、それだと肩を並べて終わりじゃないかな。決して961を越えることは出来ない」
「961プロを越えることの出来るプロデュースがあるならもちろん採用します。それが分からないから――」
「僕には、心当たりがあるんだ」
高木は、隣に座る小鳥と笑みを交わして――
「僕は、少し前まで961プロにいたんだ。黒井のやり方にしたがって成果をあげてきた。確かに黒井のやり方は効率的だ。本当に才能のある、磨く必要のない女の子だけをアイドルにする。その子がアイドルなれるように道を整える。道を外れてしまった子は脱落させる。それこそ野菜でも出荷するかのように、優秀なアイドルだけを選り分けてステージへ上げる」
テーブルの上で手を組んで、真正面から赤羽根Pを見据えて――
「果たして、このやり方が正解だと、思うかね?」
赤羽根Pは、迷わずに頷いた。
「実際にそれで961プロは業界トップです。他と比べて成果を出せるやり方であるのは事実です」
「……僕も最初はそう思っていた。でも、そのうちに考えが変わってきた。調子を落としたアイドルでも、脱落させるべきではないアイドルがいるんだ。応援して、一緒に苦難を乗り越えることが出来れば、もっとすごいアイドルになってくれると確信をもてる女の子がいるのに、しかし黒井のやり方であれば切り捨てることになる。果たして本当に黒井のやり方が最善手なのか、疑いを持つようになった」
高木はちらりと、隣に座る小鳥に視線を投げて――
「音無君も、そんなアイドルだったんだ。彼女は調子を落として、黒井から戦力外を言い渡された。しかし、僕はまだやれると思った。諦めるのはまだ早いと思った。黒井に抗議をしたが、受け入れてもらえなかった。音無君は引退することになった。その時に僕は理解した。本当に自分がやりたいプロデュースをするためには、自分の事務所を立ち上げる必要があるのだと」
高木が、スーツの懐に手を入れて、名刺をとりだした。
「アイドルのプロデュースに正解はない。やり方を押し付けるのではなくて、アイドルとプロデューサーが二人三脚で〝正解〟を探すべきだと思う。そうすればきっと、たどり着くことが出来る」
「たどり着く……?」
首を傾げる赤羽根Pに、高木は名刺を差し出しながら――
「僕と一緒に目指してみないか? 輝きの向こう側を」
受け取った名刺を見て、伊華雌は記憶を呼び起こす。ドルオタを自称する伊華雌である。アイドルはもちろん、芸能事務所だって名前だけなら全てを網羅している。
それなのに聞いたことがなかった。
本当に、新規に立ち上げる事務所なのだと思った。
――765プロ。
それが高木の芸能事務所の名前であって、赤羽根Pも名刺を見つめて首をかしげていた。