結局、赤羽根Pは961プロを去ることになった。
黒井社長という相手は、あまりに強すぎた。
きっと、黒井社長の目から見たら赤羽根Pは青二才で、詐欺同然の口車に乗せて利用してやろうと手ぐすねを引いていたのかもしれない。
でも、まだ終わったわけじゃない。
赤羽根Pはこんなところで終わってしまう人間ではないと、
武内Pをして憧れの同僚で、美城常務をして天才プロデューサーと言わしめる人間が、業界の古だぬきに騙されて、それで沈んでしまうなんて有り得ない。
――赤羽根Pは、まだやれる。
そう思うから、もどかしい。
どうして、高木に電話しないのか? 転生前の自分みたいな日々を過ごして、それで島村卯月等身大ポスターとお喋りするようになったら完全に俺だぞ! ――と声を荒げてみたところで、赤羽根Pはぼんやりと平日の昼間からTVを観ている。
――駄目だこいつ、早くなんとかしないと……ッ!
専門学生という名のニートである伊華雌に心配されるほど、赤羽根Pは部屋に引きこもっている。落ち込んでいるのだと思うけど、その表情から心の内を読み取ることが伊華雌には出来ない。武内Pのようにいかなくてもどかしい。
その時、赤羽根Pの携帯が鳴った。
赤羽根Pは携帯の画面を見て、一瞬だけためらってから、電話に出た。
『あの……、お久し振りです』
受話器から聞こえてきたのは、武内Pの声だった。久々に聞く武内Pの声である。
伊華雌はもう、瞬間的に感極まってしまって声をあげてしまう。
〝たっ、武ちゃぁぁああああああ――――ん!〟
声を聞いただけで、こんなに嬉しいとは思わなかった。もう、武内Pなしでは生きていけない身体になってしまったのかもしれない。いや、多分なってる。今、なった!
「武内か、久し振り……って程でもな、けほっ」
赤羽根Pが咳き込んだ。
その理由を伊華雌は知っている。
人間ってやつは、喋ってないと喋り方を忘れてしまうのだ。中年のお父さんが子供の運動会で、足をもつれさせてしまうように、使っていない筋肉が思うように動かなくて調子が狂ってしまう。
でも、これはまだ序の口だ。
さらにニーティングライフを続けていると、コンビニで店員に注文できなくなってしまう。
――ファミチキください。
その一言が上手く言えなくて悶絶した瞬間、ニートとして一人前になったと胸を張っていい。
少なくとも、俺は言えなかった。ファミチキくださいといったら、春巻きが出てきた。〝き〟しかあってないですよ店員さん! あと、俺が入店する度に「いらっしゃま、…………ひっ!」って語尾に悲鳴を付けるのやめてもらえませんか! さすがにそれ、メンタルにダメージがダイレクトアタックでライフがゼロになるから……。
伊華雌が前世の切ない思い出にひたっている間にも、赤羽根Pと武内Pの話は進む。
『あの、もしよかったら、次の休みの日に飲みませんか? 近況など、聞きたいので』
「あ……、うん。そうだな……」
赤羽根Pの歯切れの悪い返事を聞いて、伊華雌はしみじみとうなずく感覚をもてあそぶ。
近況報告したくない状態の時に、昔の同級生と会うのって嫌なんだよなー。
――俺にそんな同級生はいなかったけど。
小学校、中学校の同窓会とか、リア充連中の中で非リアは肩身が狭いんだよなー。
――俺は同窓会に誘われたことないけど。
つまり伊華雌は、妄想の世界で肩身の狭い思いをして、その疑似体験を元に勝手に同情していた。いい迷惑以外の何物でもない。
『新橋に良いお店があるんです。川島さんや、高垣さんのオススメの店で』
あー、あそこかー。
ぼんやりとした説明を聞いただけでも、思い出がよみがえってくる――
あの時は大変だったなー。朝方まで飲まされた武ちゃんが、それでも会社に行くとか言って、頑張って出社したら酒が残ってて、ちひろさんに怒られてぁぁああ――武ちゃんに会いてぇぇええええ――――ッ!
完全に禁断症状だった。一週間も経ってないのに、伊華雌は武内Pの殺し屋みたいな仏頂面が恋しくてしかたがない。
「珍しく積極的だな。分かった、一緒に飲もう」
そして武内Pは、もちろん忘れていない。
『それと、
「あー、うん、分かった。ぴにゃこら太のマイクだよな?」
『はい。大切なマイクなんです』
その一言に、貫かれた。
〝大切な〟とか言われたのは、前世から通算して初めての体験である。
嬉しかった。
単純に、素直に、それて猛烈に嬉しくて、どのくらい嬉しいのかというと、マイクと人間が結婚できる国とかないのかな? と真剣に考えてしまうほどの狂喜に支配されていた。
でも、それをやったらまゆの狂気を覚醒させてしまう気がしたので、無機物婚は妄想にとどめておくことにした。
* * *
武内Pと赤羽根Pが飲みの約束をした日は、朝から雨が降っていた。
冬の冷気を一身に浴びて育った雨粒が降り注ぐ様子は、見ているだけで身の震える感覚を思い出してしまうほどに寒々しくて、こんな日は友達と飲みの予定があっても適当な理由をつけてキャンセル、こたつに半身を預けて雨音に耳を傾けていたいと伊華雌は思ってしまう。
――友達から飲みに誘われた経験とか、ないけどな!
切ない前世の交友関係を振り返りつつ、心配になってしまう。
今の赤羽根Pは、失意の底にあって限りなく長期休暇中の自分に近い存在であって、つまりニート予備軍である。そんな人間が、
少なくとも、俺には無理だ。強情なる二枚貝のごとく家にこもって出て行かない。
しかし、伊華雌の心配は杞憂に終わる。
赤羽根Pはシャワーを浴びて、身なりを整え、戸棚からスーツと洋服を取り出して、ベッドの上に並べた。ひとしきり悩んでから、スーツを手に取り、戸棚からからアイロンを取り出す。丁寧な手つきでアイロンをかける赤羽根Pを眺めて、伊華雌は思う。
――もしかして、隠すつもりなのか……?
961プロを去ったことを隠すために、スーツを選んだのだろうか。
それとも、飲み屋が新橋にあると聞いて、新橋はサラリーマンの町だから暗黙のドレスコードに従ってスーツを選択したのか。
赤羽根Pの胸の内を、一心不乱にアイロンをかける姿から読み取ることは出来なかった。
* * *
赤羽根Pがワンルームマンションを出て、鍵先輩がポケットに入ってきた瞬間から緊張が始まった。
〝実は俺、今日でお別れなんですよ〟
伊華雌が喋りかけても、無口な鍵先輩は何も言わない。
〝大事な人が、迎えにきてくれるんです。でも俺、ちょっと不安なんです。ちゃんと、今まで通りの関係に戻れるかなって……〟
――心配すんなって。お前のこと、大切なマイクって言ってくれたんだろ?
〝えへへ、まあ……〟
――じゃあ、大丈夫だ。あちらさんもお前に会うの楽しみにしてるさ。……俺は、寂しくなっちまうけどな……。
〝鍵先輩……ッ!〟
全て、伊華雌の一人芝居である。
マイク役――伊華雌、鍵先輩役――伊華雌、である。
伊華雌は、誰とも話すことの出来ない一週間を経験することによって〝エア友達〟のスキルを獲得していた。赤羽根Pの部屋に存在する全ての家電と話せるほどに、こじらせている。ちゃんと会話ができるように、設定を考えた。
例えば――
携帯電話は、毎晩充電器を抜き差しされているので、淫乱ビッチの――アバズレ。
貪欲に部屋の空気を吸い込んでいる空気清浄機は、匂いフェチの――オイニー。
鍵先輩以外は全員変態という楽しいエア友達に囲まれて、伊華雌は孤独な一週間を乗り切った。
その代償として、誰にも知られたくない黒歴史が増えてしまった。
「赤羽根さん、お久し振りです」
声が聞こえた。
伊華雌は、コートの内側にいるので姿を見ることが出来ないが、間違いない。間違えるわけがないさ。
俺が武ちゃんの声を聞き間違えるわけがない!
伊華雌はラノベのタイトルめいた確信を胸に耳をすませた。忘れていた緊張が復活して、鍵先輩はもう喋ってくれない。
「一週間ぶりだな、武内、けほっ。よく新橋で飲むのか?」
「いえ。実は、知っているお店がここぐらいしかなくて……」
「そうなのか。そういえば、お前とこうして飲むのって初めてだよな、こほっ。新入社員研修の時は、まだ未成年者だったもんな」
「……喉、どうかされたんですか? 風邪、ですか?」
「いやっ、そうじゃなくて、久しぶりで」
「久しぶり……?」
「なんでもないっ。それより、早く店に入らないか。立ち話をするには寒すぎる」
「そうですね。では、行きましょう」
――武ちゃんの声、五臓六腑に染み渡るぜぇ……。
伊華雌は、一週間ぶりの渋い声を堪能していた。
禁酒したアル中が久々に酒を飲んで、その味わいの深さに驚くように、禁武内Pしていた伊華雌も、その声の深みを噛み締めるように味わっていた。
「この店は、川島さんに教えてもらった店なんです」
「そうなのか。アイドルと飲んだりするのか?」
「らっしゃっせぇぇええ――っ!」
耳覚えのある体育会系の挨拶があって、笑い声と食器のすれる音と、何かを焼くじゅわぁぁああっ! という音が聞こえる。もしも自分に嗅覚があったら、匂いだけでご飯三杯ぐらいイケるんだろうなと思った。
「個室を予約しました」
「何から何まで悪いな」
コートのボタンが外されていく。
再会の時である。
叫ぶかな、と思った。
号泣の感覚がこみ上げてくる、かもしれない。
しかし、いざ一週間ぶりに武内Pと対面してみると、気恥ずかしさが先に立って、何て声をかけていいのか分からない。伊華雌は何も言わずに、じっと武内Pを見つめてしまった。
すると武内Pも同じように、何も言わずに伊華雌を見つめている。
完全に、目が合っている。
そして、目を逸らすことができない。
なにこれ、恋人?
「とりあえず、ビールでいいか?」
「あっ、はい……」
赤羽根Pは、武内Pの視線に気付いて、スーツのポケットから伊華雌を取り出して――
「これで、良かったよな」
伊華雌が差し出された。武内Pのごつい手に包まれた瞬間、伊華雌の中で何かが切れて――
〝武ちゃん……。寂しかったぜ、武ちゃんっ!〟
伊華雌の中に駆け巡る再会の喜びは、例えるなら、飼い主と離ればなれになってしまった犬が壮絶な旅路の末に飼い主と再会して、千切れんばかりに尻尾を振って、飼い主に飛び付いて、押し倒して顔をペロペロしている状態に匹敵していた。
そして、勢いあまって嬉ションを披露してしまい、飼い主に激怒されて捨てられる……。
――いやっ、何で捨てられてんだよ! 俺の妄想、どうしてバットエンドになりたがるんだっ! せめて妄想の中ぐらい幸せな結末を迎えたい!
伊華雌が己の妄想の卑屈さに呆れていると、武内Pが立ち上がった。
「ちょっと、お手洗いに……」
武内Pは、赤羽根Pにことわりを入れてから、足早にトイレへ向かい、誰もいないのを確認すると、個室に入って鍵をかけた。
そして伊華雌へ、優しげな笑みを向ける。
「お久し振りです、マイクさん」
〝お、おう……。久しぶりだな、武ちゃん!〟
会話ができるって、素晴らしい!
伊華雌は、孤独から開放されて泣きそうだった。
携帯電話のアバズレも、空気清浄機のオイニーも、自分からは喋ってくれない。
っていうか、全部自分が喋ってた。
――もう、虚しい一人芝居はしなくていいんだ……。
さらば孤独。
さらばエア友達。
お前らのことは、なるべく早く忘れたい!
「自分も、マイクさんがいなくて寂しかったです」
〝武ちゃん……〟
「一人で過ごす夜は、寂しいものですね」
それはもちろん、アイドルの話が出来なくて寂しい、という意味だと思うのだけど――
〝ちょっ、意味深……ッ!〟
伊華雌は、頬を赤く染める感覚を覚えるほどに照れてしまう。
天然な発言をする武内Pとのやり取りはやっぱり楽しくて、自分の居場所は武内Pのスーツのポケットなんだなと実感した。
「ところで、赤羽根さんはどうですか? 961プロでも上手くやっているのでしょうか?」
〝そのことなんだけど……〟
伊華雌は、全て話した。
黒井社長の口車にのせられたこと。しかし、アイドルを巻き込まずに一人で身を引いた。高木という芸能事務所の社長が赤羽根Pを欲しがっているけど、赤羽根Pは高木に返事をしないで落ち込んでいるのが現状。
「そうなん、ですね……」
一週間ぶりの再会であっても、伊華雌は武内Pの変化に乏しい表情から、気持ちを読み取ることができた。
大きなショックと、一握りの疑問。
赤羽根Pの現状に疑問を抱いてくれて、それが伊華雌は嬉しかった。やっぱり武内Pと自分は〝相棒〟なんだと思った。
「どうして赤羽根さんは、高木社長の元へ行かないのでしょうか?」
伊華雌は、すでに結論を持っている。赤羽根Pがどんな人間か見抜いている。
――実のところ、伊華雌はリア充という人種に詳しい。
陰キャとして20年を過ごした彼は、幾多の休み時間を一人で過ごしてきた。それはとても退屈で、クラスのリア充を観察するぐらいしかやることがない。生物学者が動物を観察して生体に詳しくなるように、伊華雌は退屈しのぎにリア充を観察してリア充に詳しくなった。
一言にリア充といっても、その生態は多岐に渡る。
積極的にグループを引っ張っていくタイプもいれば、それに追従するタイプもいる。音に反応してパンパンとシンバルを叩くチンパンジーの玩具みたいに、音に反応してウェーイと叫ぶタイプが衆目を集める一方で、グループのリーダーになろうと狙う野心家タイプが虎視眈々と機会をうかがっていたり。
そんなリア充軍団の中に赤羽根Pを当てはめるとしたら、積極的にグループを引っ張っていくタイプだと思う。
このタイプはコミュ力に優れ高い能力を誇る一方で、打たれ弱いという欠点がある。
自信満々にグループを仕切っていける人間は、その自信に亀裂が入るほどの挫折を経験していないことが多い。
だから自信満々なのだ。
持って生まれた新品の自信を、一度も傷つけられたことがない。
恐らく赤羽根Pは、伊華雌が幼稚園の時に経験した〝初めての挫折〟ってやつを、今になって経験してしまったのだと思う。
伊華雌は、今でも思い出すことができる。
幼稚園の遠足でクソ保母が、隣の子と手を繋いで行きましょう、とか余計なことを言いやがって、まだ素直だった俺はその言葉に従って手を差し出したら、女の子から「伊華雌くんはキモいから嫌っ!」とか拒絶されて、自分一人だけ隣の子供と手を繋げないままで目的地へ向かうという、地獄の行進をするはめになった……。
あの時感じた〝はじめての疎外感〟は、転生した今でもほろ苦い記憶として覚えているよ。ってか、何で覚えてるんだよ。この手の切ない思い出ばっかり覚えてるのは何故なんだ……。
え? そもそもほろ苦い思い出しかないだろって?
そんなこと、なくは……、な……ッ!
いやっ、とにかく――
毎日が挫折のエレクトリカル・パレードだったおかげで伊華雌は打たれ強くなった。
起き上がりこぼし、いや、サンドバッグのように、どれだけ殴られても平気な顔で立ち上がることが出来る。
伊華雌はつまり〝挫折のプロフェッショナル〟であり、だからもどかしく思っていた。
これしきの挫折でリア充イケメンから引きニートに落ちぶれるとは何事か! そんなら一度、俺の人生やってみろ! 毎日、日課として何らかの挫折が組み込まれているんだぞ! これは一体なんの修行なんだよっ! 俺の人生がハードモード過ぎる件について、ってタイトルでラノベ書いてやろうかこんちくしょうっ!
そして伊華雌は、豊富な挫折経験から、赤羽根Pの直面している挫折を分析して、答えを出す。
〝俺、赤羽根はこんなところで終わっちゃいけない奴だと思う〟
伊華雌の結論、それは――
〝アイツはいけすかない本物のイケメンで、リア充で、種族的には俺の天敵なんだけど――〟
夜遅くまで資料をまとめていた。アイドルを巻き込まずに身を引いた。
〝アイツは、真剣にアイドルのプロデュースをしていた。アイツなりのやり方で、真剣にプロデュースをして、成果を出そうとしていた。だから――〟
助けてやりたい。
〝俺と武ちゃんならできると思う。だって俺達は――〟
シンデレラプロジェクトだから!
かつて美城常務は、調子を落としたアイドルとプロデューサーのために、シンデレラプロジェクトを立ち上げた。
何人ものプロデューサーが失敗して、唯一武内Pだけが、シンデレラプロジェクトの担当プロデューサーとして成果を出すことに成功する。
だから、断言できる。
自分と武内Pであれば、赤羽根Pを復活させて――
〝赤羽根を、いい笑顔にしてやろうぜ!〟
そして相棒――武内Pは、伊華雌の期待していた表情を見せてくれる。
「えぇ、望むところです!」
一人の男と一本のマイクが、トイレを出て居酒屋の喧騒に身を委ねる。
すれ違ったバイトが、武内Pの顔を見て空のジョッキを落としそうになる。彼は厨房に走って、必死の形相で訴えた。
「今、殺し屋がいたんだよ! あの目付きは本物だよ!」
泡くって厨房に駆け込んできたバイトに、店主は「いいから仕事しろ」と言ってビールの入ったジョッキを押し付け、背中を叩いた。