卯月の状態は、
カメラの前で笑顔になれなくなった。
体調不良を理由にレッスンを休む。
武内Pがお見舞いにいくと、明日にはレッスンに行けると思いますといって気丈な笑みを見せる。
しかし、今日も卯月はレッスンを休んだ。
346プロのレッスンスタジオ。
ニュージェネでレッスンをやるはずだったのに、いるのは未央と凛の二人だけ。
「卯月、今日も調子悪いみたい」
不安げな視線を向けてくる凛。
「まー、明日には来てくれるでしょ。大丈夫大丈夫っ」
明るく振る舞う未央だって、その声音ほどに明るい表情はしていない。
どうにかしなくてはいけない。
そしてどうすればいいか、
卯月が落ち込んでいる原因も、それを解消する方法も、分かっているのだけど実行できない。
――きっと、本気の武ちゃんならなんとかしてくれる。
伊華雌は祈るような気持ちで武内Pを信じて〝選択〟を先伸ばしにしていた。
――どうすれば卯月を復活させることができるのか?
武内Pに相談されても、曖昧な返答しかできない。その答えを、教えるわけにはいかない……。
その時、レッスンスタジオのドアが開いた。
トレーナーが来たのかと思いきや、顔をのぞかせたのは成人男性に見えない童顔のプロデューサーだった。
「おっ、武内君発見! ちょっといいかな?」
米内Pに連れられて、武内Pは隣のレッスンスタジオに移動する。防音になっている分厚いドアを開けたとたん、賑やかな音の洪水に飲み込まれる。
ハイファイデイズ。
アップテンポの新曲がラジカセから流れて、スタジオのすみには赤いランドセルが一列に並ぶ。そのランドセルの数と同じ人数のキッズアイドルたちが汗を散らしてダンスレッスンに励んでいる。その真剣な表情に『小学生は最高だぜ!』と叫びたくなってしまうのは伊華雌だけではないかもしれない。
第三芸能課は、シンデレラの舞踏会で新曲を披露する。
何でもありの企画で、しかしあえて無難な演目に落ち着いているのにはわけがある。
意見があまりにも多過ぎて、まとめることができなかったのだ。
自分たちの希望をライブに反映させることができると聞いた子供達は歓声をあげた。自分の好きなものをライブ取り入れてくれと声高に主張する。市原仁奈は着ぐるみだらけのライブを希望。結城晴はサッカーをしたい。的場梨沙はパパと踊りたい。ありすはイチゴの衣装を提案、桃華はローズヒップティーをファンに振る舞いたくて、ひょうくんペロペロ、みりあもやるー。
もう、全然収集がつかない!
学級崩壊した教室を思わせる喧騒にのまれつづけて三日間。
文化祭の出し物をきめる会議がグルグルと迷走したあげく無難な〝喫茶店〟に落ち着くように、いい加減会議に疲れた子供達は米内Pの提案する〝新曲〟というアイディアに賛成したのだった。
「いい感じだと思うんだけど、どうだろう?」
レッスンスタジオの隅で子供達を見つめる米内Pの言葉は誇らしげである。その表情は、自慢の生徒を紹介する教師のそれに似ている。
童顔で低身長であるけれど、米内Pは子供達のプロデューサーであり保護者であり先生なのだ。実際に龍崎薫は米内Pのことを『せんせぇー』と呼ぶ。
「……すごい、ですね。もうこのままステージに上がれるレベルだと思います」
武内Pの称賛を受けて、米内Pは少年のように歯を見せて笑う。
「みんな気合い入っててさ。けっこう自主連とかやってるみたいで、トレーナーさんももう教えることがないってさ」
きゅっきゅ。ダンスシューズが音を立てる。子供達のダンスは一糸乱れない。まるで全員で一つの生き物であるかのように息はぴったりで、しかし個人の個性がちゃんと振り付けに現れている。梨沙と晴は激しく、小春と千枝は一つ一つの動きを真面目に丁寧に。ありすはクールに、桃華は華麗に。そしてみりあと仁奈と薫は元気に!
自分の踊りたいように踊る子供達はとても楽しそうで、曲が終わってダンスシューズが最後の『きゅっ』を鳴らした瞬間、最高の笑みを輝かせる。
〝小学生は最高だぜぇぇええ――ッ!〟
伊華雌は思わず叫んでしまう。
込み上げる気持ちを胸の奥に押さえ込むことなんてできない。ロリコンと呼ばれても構わない。もういいよロリコンで! そんな決意を固めてしまうほどに第三芸能課の子供達の笑顔は最高だった。この笑顔のためなら交番に行って『お巡りさん、俺です!』って言うはめになっても構わない。……構わない!
「あっ、パパ!」
武内Pに気づいた仁奈が声をあげた。
それは佐久間まゆによる情操教育(意味深)の成果である。
仁奈がシンデレラプロジェクトにいた頃、仁奈を子供、武内Pを旦那としてままごと遊びを繰り返した結果、今でも仁奈は武内Pをパパと呼ぶ。そしてたびたび事情を知らない人に聞かれてあらぬ誤解の種となる。
「武内君、えっと、ん……?」
米内Pが首をかしげる。授業中に先生から質問されてこたえられない中学生のように。
「パパって、どういうことですか?」
「あまり聞かないほうがよろしくなくて?」
ありすと桃華は質問をためらう。
「えっ……、だって仁奈ちゃんのパパって、えっ……」
「新しい王子様って、ことかなぁ?」
千枝と小春は顔を見合わせて、頬を赤くする。
「あんたがパパ? 貫禄はあるけど、あたしのパパに比べたらまだまだね」
「パパに関しては厳しいな、お前……」
梨沙と晴はあまり興味がないのか、反応が薄い。
「仁奈ちゃん、どういうこと? どういうこと!」
「武内プロデューサーがパパなの? 何で何で?」
みりあと薫は好奇心のおもむくままに仁奈を質問攻めにする。
仁奈はえへんと胸を張って、宣言する。
「武内プロデューサーは、仁奈のパパなんでごぜーます! 仁奈はその子供でごぜーます!」
――ただし、ままごとの中で!
心の中で補足する伊華雌は気付いてしまう。
レッスンスタジオの扉がわずかに開いていることに。
そして、扉の向こうから女性がのぞいている。
入るタイミングを逃した、と言わんばかりの表情を浮かべているのは――
〝まっ、ママぁぁああああ――――っ!〟
伊華雌は叫んでしまう。
突然バブみに目覚めた、というわけじゃない。その扉はとっくに解放されている。〝バブみを感じてオギャりたい〟という定型文がすでに頭の中にある。
そうじゃなくて――
本物のママが、そこにいた。
母性を感じるロリじゃない。本物の母性を必然的に備えている女性がスタジオに入るタイミングを逃して困っている。
「あっ、ママっ!」
仁奈が母親の存在に気づいた。駆け寄って扉をぐいっと開けて、手を引いてスタジオの中に入れる。
「あの、えっと、みんなに差し入れを……」
仁奈の母親はケーキの箱を持っていた。それを見た子供達の顔つきが変わる。一斉に歓声をあげて仁奈の母親の元へ駆け寄った。歌のお姉さんみたいな状態になってしまった仁奈の母親はスーツ姿で顔が赤い。武内Pをちらりと見て、すぐに目をそらした。
――そりゃあ、子供に思いっきりパパ候補をバラされたら、まあ……。
伊華雌は静かに同情する。
きっと仁奈が武内Pのことをパパと呼んで周囲を騒然とさせていた時、彼女は扉の向こうで〝羞恥心〟という言葉の意味を理解しながら悶えていたのだ。
「イチゴのタルトだー」
「ショートケーキもあるよー」
みりあと薫が目を輝かせる。
「みんな、手を洗ってこい。準備しとくから」
米内Pが声を張り上げると、子供達は歓声をあげながらスタジオから出ていく。急にスタジオが静かになる。子供達がどれだけ賑やかだったのか、しーんと耳に痛い静寂に教えられた。
米内Pと武内Pはスタジオのすみにある折り畳み式のテーブルを持ってきて設置する。そして、給湯室から持ってきた皿を並べた。その上に仁奈ママがケーキを置いて、プラスチックのフォークをそえる。
「オレ、コップと飲み物とってきますね」
米内Pがスタジオから出ていって――
武内Pと仁奈ママが、二人きりになった。
あるのはただひたすらの静けさと、耳をすませば心臓の音が聞こえそうなくらい顔を赤くしている仁奈ママ。
これでもかってくらい分かりやすいシチュエーションである。
しかし武内Pはぼーっとしている。
その心がトキメキエスカレーションする予兆は感じられない……。
「あっ、あの! ……ご無沙汰、してます」
仁奈ママが声をかけた。
この場に子供達がいたらかき消されているであろうか細い声。
「ご無沙汰してます。お元気、ですか?」
「はっ、はひ。わたしも、仁奈も、元気です……」
小柄な体をもじもじさせながら上目遣い。狙ってやっているのではと思ってしまうほどの萌え仕草。
――もうこの人がアイドルでいいんじゃないかな。〝ママドル〟という新しい扉を開くべきじゃないかなっ!
伊華雌は仁奈ママの愛らしい仕草に無限の可能性を見いだしていたが、武内Pはいつものアレを発動させる。
固有スキル――フラグクラッシャー!
ありとあらゆる恋愛フラグをねじ伏せる。その
武内Pは模範的な〝真顔〟で仁奈ママの上目遣いを華麗にスルーしてしまう。もったいない。本当にもったいない。無惨に天井を吸収される上目遣いとか、うっかりこぼしてアスファルトに吸収される高いジュースと同じくらいもったいない! 伊華雌は心の中でひたすら嘆く。
「苺、お好きなのですか?」
武内Pが、声をかけた。 武内Pのほうから声をかけた! まさか武内Pもまんざらでもないのか! ――と思いきや、その表情に色恋にまつわる変化はない。
伊華雌と佐久間まゆは分かるのだ。
その表情から推察できる。
今の武内Pの中にある感情は〝純粋な好奇心〟である。
「えっ、いっ、苺好きなんですか!」
対する仁奈ママの反応は劇的だった。
とんちんかんな回答をしながら苺と同じくらい顔を赤くして、パタパタと手を振り動かして。
――なんだこの生き物は! 可愛いなぁ……。
伊華雌はあらためて仁奈ママに萌えながらテーブルへ視線を向ける。
そして、武内Pと同じ好奇心を抱く。
ショートケーキ・苺のたると・苺のムース。
皿の上に乗るケーキは、どれも苺を使うものばかりだった。
「……初めて差し入れをした時に、ありすちゃんが苺のケーキをもらいそびれて、その、泣いちゃったみたいで」
それは仁奈の言葉であるから本当にありすが泣いたのかどうかは定かではないと、付け足してから仁奈ママは説明した。
ある日、子供達にケーキの差し入れをした。喜んだ子供達が仁奈ママの元に殺到する。ありすは大人ぶって『わたしは最後でいいです』と豪語したのだけど、残されたチョコレートケーキを見つめる黒い瞳は涙に濡れていた。
「だから、差し入れをする時は全部苺のケーキにしてるんです」
つまり、仁奈ママの優しさである。ありすが苺のケーキにありつけなくて泣く、という世界線を回避しているのだ。
「市原さんは、優しいのですね」
低い声で言って、滅多にみせない笑みを浮かべる。その瞬間に関して言えば、武内Pはもはや乙女ゲームの登場人物と言っても過言ではないくらいの胸キュン指数を誇っていた。
「は、はひ……っ!」
武内Pを見つめる仁奈ママは、完全に恋する乙女の顔で。きっと彼女の視界の中では武内Pの周囲にキラキラと星みたいなエフェクトが発生しているのだと思う。
これを無自覚でやっているんだから武内Pはたちが悪い。罪深い。佐久間まゆに断罪されてしまう日も遠くないんじゃないかと伊華雌は心配になる。
武内Pと仁奈ママによる乙女ゲー空間は、しかし唐突に終わりを告げる。
スタジオのドアが、勢いよく開いた。
「手、洗ってきたよーっ!」
元気な声を張り上げた赤城みりあを先頭に子供達がなだれこんできて、その賑やかな空気がラブコメな空気を駆逐する。
「ほらー、ジュース持ってきたぞー」
米内Pも現れて、完全に第三芸能課の空気が戻ってきた。
ケーキを食べて、ジュースを飲んで、楽しそうに笑う。そんな子供達を仁奈ママと武内Pが並んで見守る。
仁奈ママは完全に母親の顔で、武内Pはずっとプロデューサーの顔で。
――ラブコメタイム終了のお知らせ。
伊華雌は、ほっとするような、残念なような。そんな気持ちで油断していた。
子供達が練習を再開して、武内Pと仁奈ママはスタジオから出て。そして『お疲れ様でした』の挨拶を交わして別れるのだと思っていた。
甘かった。
大人の女性を舐めていた。
「あのっ……!」
スタジオから出て分厚い防音ドアを閉めた瞬間、仁奈ママが声をあげた。その手が武内Pの袖を引いて、
「このあと、お暇ですか? そ、そのっ……」
彼女は白いのどを大きく動かして、ためらいを飲み込んで――
「お話したいことが、あるんです……」
仁奈ママのターンは、まだ終わっていなかった……ッ!