昴はゆっくりと目を覚ました。
長い夢を見ていたような気がしたのも一瞬で、自分が三国志もどきの世界に行かされるというとんでもない内容が断片的に頭の中に蘇り、その情報量に頭がずきりと痛む。
「あ痛たたたた……」
そこそこの広さのある部屋のベッドで横たわる昴の呻き声に、部屋の入口で直立不動でいた兵士が気づく。
「おお、目を覚まされましたか!」
「……あなたは?」
「あなたの護衛を任じられた者です!」
それから、その兵士は外で同じく護衛の任にあった兵士に声をかける。その兵士は慌てて主君へと報告へ向かう。彼らは、昴については袁術の賓客と伝えられている。
昴は自分に起こったことを思い出す。あの人影の存在は記憶からすっかり抜け落ちているため、自分の置かれている状況などについて理解が追いつかない。異世界への転移を最初から信じられるわけはない。自分が見知らぬ部屋で横たわっていることは、どこかで倒れたのを親切な人が介抱してくれたと強引に解釈することはできる。随分と時代錯誤の完全武装した兵士が目の前にいることは映画のエキストラであろうか。
「あの、ここは一体どこでしょうか?」
「荊州にある袁術様の居城です」
その言葉に昴は衝撃を受ける。三国志のような世界ということだが、本当に異世界なのではないかという荒唐無稽な考えが浮かんでしまう。
「日本じゃないんですか?」
「ニホン? 申し訳ありません、私は聞いたことがありません」
「……ちなみに、今この国を治めている人は誰でしょうか?」
「天子様ですか? ええと、劉宏様ですね」
兵士は「こいつ何言ってるんだ?」という表情になったが、倒れていた状態から目覚めたことで色々混乱しているのだろうと好意的に解釈をする。
そんな兵士の心の内は知らず、兵士の言葉に昴は目を見開く。劉宏は三国志の時代の後漢皇帝だ。死後つけられた孝霊皇帝から霊帝と呼んだ方が分かりやすいが、劉宏という名で呼ばれているということはまだ霊帝が生存している時代ということが分かる。
(いやいやいや! まさか……本当に? TVか何かの企画で俺をだましているとか? いや、芸人とかならともかく、一般人の俺をここまで大掛かりにだます意味がない)
とにかく、この部屋にいるだけでは何も状況が分からない。一刻も早く自分の置かれた状況を把握しなければいけないと考えたところでようやく心が落ち着いてきた。自分がリクルートスーツのまま横たわっていることに気づき、ポリエステルの割合が多い安物だけどしわになるのは嫌だなあと、現状と比べて危機感のない心配が浮かび苦笑するのであった。
その時、昴を発見するときにいた青髪の女性が部屋に入ってきた。
「張勲様、お疲れ様です!」
「ご苦労様です。悪いけど、この方と話すことがあるから、部屋から出て行ってくれませんか? 外では扉の前ではなく、扉の近くに控えておいて下さい。すでに数人配置しています」
「は!」
張勲と呼ばれた女性に命令されて兵士は出て行く。
昴は張勲と兵士の会話は耳に入っておらず、張勲と呼ばれた女性を凝視する。昴の三国志知識では、張勲は袁術に仕えていた武将で後の大将軍だ。有名なシミュレーションゲームでは、袁術配下の武将の中ではマシな能力値のため、袁術でプレイするときはよく使っていたものだ。もっとも、有力な武将を配下にしたらその他大勢枠になってしまうのだが。
(張勲が女性……しかも美人……本当に武将が女性になっている世界なのか? いや、そんな馬鹿な……)
そして、その張勲は二人きりになった部屋で、昴のことをじろじろと観察する。
「あの……張勲さん?」
昴が声をかけると、張勲は少し驚いたような表情を浮かべた。
「あ、言葉は通じるんですね。私は張勲と申します。よろしければあなたのお名前を教えていただけませんか?」
そう言ってにっこりと微笑む張勲を見て昴はほっとした。自分の置かれた状況がまるで分からない中で、相手の態度が柔和ということは想像以上に安心するものだ。
「俺……いや、私は仲川昴といいます」
「仲川昴……変わった響きのお名前ですね。失礼ですが、出身はどちらでしょうか」
「日本の東京です」
「……日本?」
また日本という国名で不思議な表情を浮かべるのを見て、昴は嫌な予感がひしひしと高まる。言葉が通じているのに日本を知らないということは、自分をからかっているかだましている以外まずありえない。
この時点で、昴は自分が本当に三国志っぽい異世界に送られたと仮定して行動することを決めた。
「この大陸出身ではありません。東の海を越えた……ええと、この時代ならどう言えば……って、そうだ、徐福はご存知ですか?」
「はい、始皇帝の命令で不老不死の仙薬を求めて三神山を目指した人物ですよね」
「私はその蓬莱の出身です」
三神山のうち日本を指すのは蓬莱ではなく
「蓬莱ですか! ひょっとして仙人様だったりします?」
「いえ、違いますが」
「不老不死の仙薬とか持ってたり作れたりします?」
「いえ、持っていませんし作れもしませんが」
目をきらきらさせて質問をした張勲だが、昴の答えに目に見えてがっかりとした顔になる。
「……本当に蓬莱の方なんですか? 確かに身につけている服は見たことのない変わったものですが」
不審げな表情になる張勲を見て昴は慌てる。なし崩し的に自分が蓬莱出身ということになってしまった以上、そのことを証明しなければ自分の身が危うい。ものの数分で随分と状況が変わってしまったが、ここでうまく立ち回らないとおそらく不幸な結末になると想像できる。
そのとき、スーツのポケットにまだスマホが入っていることに気づいた。取り出してみて、圏外であるもののまだ電池容量が残っていることに感謝する。
「それは何ですか?」
張勲がかたい声で問いかける。気づけば、その右手は左腰に差している剣の柄へと伸びている。昴が懐から取り出した見慣れない物体を警戒してのことだ。
「これは……えっと、そうだ、仙術。そう、仙術! 仙術のために使う道具です!」
「先ほど仙人様でないとおっしゃっていましたが?」
「仙人とは違いますが、一部の仙術は使えるんです。見ていて下さいね!」
昴はスマホを張勲に向けると、カメラでかしゃりと張勲を映す。その動作音に、張勲は小さな悲鳴をあげる。
「え!? な、何なんですか!?」
「相手の姿を写す仙術です。これを見て下さい」
昴は張勲が映った液晶画面を見せる。そこには口を大きく開けた驚いた表情の張勲がばっちりと写っている。
「こ、これは……私!?」
「これがカメラという仙術です。相手の姿をこのように写し取るもので、絵と同じく鑑賞を目的とします」
「絵と同じ? こんな精緻な絵を私は今まで見たことがありません……。これは人の所業では無理ですよね……まさに仙術。まさか本当に天の御使い……?」
張勲は驚きのあまりぶつぶつと独り言を呟く。その最後の言葉に昴は突破口を見出した。
「私は天から蓬莱に降り、そして蓬莱からこの地にやって来ました。その際に予期せぬ事態が発生したようで、この地に行き倒れることになったようです」
それは昴にとって賭けだった。
天の御使いの「御」の部分で、天から来た存在ならば丁重に扱われるであろうということが判断できる。そして、仙人の存在を信じて写真を仙術を思うような時代ならば、天からの遣いというハッタリが通用する可能性が高い。どうやら自分が天の御遣いであるかもしれないと思われているようならば、相手のその誤解に乗っかるのが一番だ。
(この人、本当に天の御遣いなのかなあ。神秘的な雰囲気も威厳も感じられないんだよねえ。でも、今のは仙術としか思えない……少なくともただの人間ではなさそう。それに、今のところ敵意がまったくないように見える。お嬢さまを狙う刺客なら、あんな場所で行き倒れるようなことをするはずないし……)
張勲は昴をもう一度よく観察した後、昴に対して頭を下げた。
「失礼しました、仲川昴様。天の御遣いとは知らず、ご無礼の数々をお許し下さい」
「い、いえ、張勲さん、頭を上げて下さい、私にも色々至らないことがありましたし。あと、仲川昴様って呼び方はちょっと……。仲川か、呼び捨てが嫌なら仲川さんで」
「では仲川様、これからお嬢さまにお会いしていただけないでしょうか?」
「お嬢さま?」
「我が主、袁術様です」
それから、すぐに袁術がいる玉座の間へと案内された。
目の前の豪華な椅子に座る小さな少女を見て、昴は目をぱちくりとさせる。昴にとって袁術とは、三国志におけるネタ武将の一人という認識でしかなかった。一時期は袁紹をもしのぎ天下に最も近い位置にいたにもかかわらず、内政も戦争も致命的に下手な上に、自らの力を省みず皇帝を僭称したことで諸侯の反感を買って自滅した間抜けという印象が強い。
だが、目の前の袁術を名乗る武将は、ただのいたいけな少女にしか見えない。
「おお、天の御遣い殿、目を覚ましたのじゃな、よきかなよきかな。妾は名を袁術、字を公路、名家袁家の姫なのじゃ!」
「ちなみに、お嬢さまは荊州の太守です。楊州の多くも実質的に支配下に置いてますけどね」
「そうなのじゃ! 妾はすごいのじゃ!」
えっへんと胸を張るその姿は太守というよりも、ただの子供にしか見えず昴は困惑する。
「ええっと、私は仲川昴といいます。天の国出身で字などはないので、呼ぶ場合は仲川または昴でかまいません」
「そうであるか。それでは、昴殿は本当に天の御遣いなのであるか? それなら蜂蜜をたくさん欲しいのじゃ!」
「そ、それは無理です」
「なんと!? それはとても残念なのじゃ……」
「お嬢さま、昴様の仙術すごいですよ! 昴様、先ほどの絵をお嬢さまに見せていただけないでしょうか」
がっくりとうなだれている袁術に、昴はおそるおそる近づいていって、張勲が写っている液晶画面を見せる。
「おお! 七乃じゃ! 七乃がいる! どうしてそんなに小さくなったのじゃ!?」
「お嬢さま、私はここにいますよ」
「なんと! 七乃が二人いるのじゃ!」
興奮する袁術に、これは仙術による絵だと適当な説明をする。それを聞いた袁術は上機嫌になる。
一方で、昴は袁術が口にした七乃という名前が気になった。なぜか頭の中にあるこの世界の一部の知識で真名というものがあるらしいが、これがそうではないかと。
「ふぅむ、さすがは天の御遣い殿、なんともすごい仙術なのじゃ!」
「あの、袁術様、さっき張勲殿のことを別の名前で呼びましたか?」
「うむ。七乃は張勲の真名なのじゃ」
「真名……」
その昴の様子に張勲はピンとくる。
「ひょっとして、天の国では真名がないのですか?」
「はい。ただ、真名を呼んでいいのは真名を呼ぶことを許した者だけという知識はあります」
「なんと! 真名がないとは、天の国はやはり大陸とは違うのじゃな……」
袁術はしばらく考えこんだかと思うと、花のような笑顔をパッと浮かべた。
「天の御遣い殿は、妾のことを真名で呼んでいいのじゃ! 妾の真名は美羽という」
「お嬢さま!」
張勲だけでなく、周囲の兵たちもざわつく。子供のように天真爛漫な袁術だが、真名を許しているのは張勲と従姉の袁紹だけで、その張勲もお嬢さまとしか呼んでない。
「何を驚くことがあるのじゃ? 天の御遣い殿は乱世をおさめ、この袁家に繁栄をもたらすと予言が出ていたではないか。それならば妾が真名を預けるのは当然のことなのじゃ」
「巷に広がっている予言は乱世をおさめるとありますが、袁家に繁栄をというのはお嬢さまが見た夢ですよね」
「うむ! 夢で見たとおり、流星と共に天の御遣い、昴殿が現れたのじゃ。ならば、これから袁家は妾と共に昴殿が動かしていくのがいいということじゃろう。もう袁家の繁栄は約束されたも同然! 妾は安心して蜂蜜水を飲んでいられるのじゃ、うははー!」
とんでもないことを口走る袁術に昴は青ざめるが、周囲の反応は「またか……」のようなどこか暖かい反応だった。
「天の御遣い殿が国を動かしているとなれば、妾の評判もきっとものすごく高くなるのじゃ! 麗羽姉さまがうらやましがるのが目に浮かぶようで痛快なのじゃ!」
「さすがお嬢さま、こんな重要なことを見栄で決めるなんてさすがすぎます!」
「そうじゃろ、そうじゃろ、妾はさすがなのじゃ!」
盛り上がる二人をぽかーんと見守るしかない昴に張勲は向き直る。
「お嬢さまが真名を預けたからには、私も真名を預けなければなりませんね。昴様、私の真名は七乃です、これからは七乃とお呼び下さいね」
「あの、張勲さん……?」
「七乃です」
「はい、七乃さん……、あの、いいんですか? なんか重要なことをさらっと決めてしまったような……
「お嬢さまの即断即決で動くのが私たちなので、いいのではないでしょうか」
「えー……」
こうしてなし崩し的に、昴は袁術こと美羽がおさめる荊州で、太守補佐というあやしげな役職に就くことになったのであった。