貴方が隣にいる世界 -Cthulhu Mythos-   作:柳野 守利

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第112話 歪んだ彼

 それは、個人にとっては遠い過去の話。特に他者と比べてもなんら変わりないごく普通の男女がいた。やがて二人の間には男の子が産まれ、大切に育てていこうと思っていたのです。

 

 二人は男の子に名前をつけました。ちょっと他人とは風変わりな名前だけど、意味は普通の名前です。特別なものになろうとしなくてもいい。一般人でいい。何も無謀なこともせず、ただ普通の幸せを手に入れて欲しい。本人にはその意図は伝わることはなかったが、二人は確かにそう想って名前をつけたのです。

 

 ところが、名前とは不思議な力があるもので。名は体をあらわす、とはよく言ったもの。産まれた子供は少しばかり精神的に他者とは異なりつつも、普通を演じるようになってしまった。

 

「おい見てみろよコレ! アリの大群だぜ!」

 

「本当だ、スゲー!」

 

 子供たちが公園の隅でアリの大群を座ってみていた。もちろん、その中に彼もいる。同じように近くによって、マジマジとアリを見ていた。行列を成して進むアリを見ていると、どうにも不思議な感情が湧いてくるのを彼は感じていた。

 

 誰もその列から飛び出さず、はぐれてもすぐに元の列に戻る。それがとても不思議だった。

 

「えいっ!」

 

 無邪気な子供は、時に残酷だ。不意に立ち上がると、その好奇心を抑えることも無く足の裏でアリを踏み潰した。

 

 あっ……と彼は言葉を漏らす。アリは隊列を崩したが、けれどもすぐにまた列を成す。潰れて死んだ同胞の亡骸に目もくれず、巣に向かって。あるいは別の目的地へと、歩みを進めていく。

 

 見て見ぬふり。皆同じことをしている。どうしてなんだろう。誰も、助けないの。

 

 彼はアリが死んだという悲しみよりも、疑問が湧き上がっていた。そしてアリを踏み潰した友人に向ける目も、怒りや同調ではなく、疑問を孕んだ猜疑の目。

 

「あはは、おもしろーい!」

 

 他の友達もまた、同じようにアリを踏みつぶす。慌てふためくアリの様子に、子供たちは興味津々だった。ただひとり、彼を除いて。

 

「なぁ、氷兎もやってみろよ。すげーわちゃわちゃ逃げてくんだぜ」

 

「あっ、いや……俺は……」

 

 彼、氷兎は言葉を濁した。やりたくないのではなく、やる必要性を見いだせなかったのだ。殺すことになんの意味がある。アリを困らせて、何か得があるのか。この場で盛り上がることに、どういう意味があるのか。

 

「なんだよ、つまんねーな。お前いっつもそうだよな。皆がやってる事やらねーし、ひとりでずっと見てるだけだし」

 

「えっと、さ……皆でやるのはいいんだけど……俺は……」

 

「なんだよ、皆やってるのに。変なやつ」

 

 変なやつ。自分は変なのか。皆がやってる事をやらないで、笑っているのに笑わないで。それは、変なのか。何度か心の中で問いただしても、答えは彼には浮かんでこなかった。

 

「お前ノリ悪いよな。なに、俺たちと遊ぶのつまんないの?」

 

「い、いや……違うよ」

 

 男の子のひとりが彼に近づいて、身体を詰め寄らせる。ノリが悪い、とは何なのだろう。流れに乗らなくてはいけないものなのだろうか。笑ってるから笑うのは、本当に正しいのか。

 

「変なの。行こうぜ」

 

 男の子がそう告げると、一緒になって遊んでいた子供たちは荷物を持ってその場から歩き出していった。その途中で飲みかけのペットボトルを呷る様に飲み、空にすると公園のゴミ箱に向かって投げた。それは中に入ることはなく、ふちに当たって地面へと落下する。

 

「ちぇ、入んなかった」

 

 そんなセリフを吐いて、男の子たちはその場から離れていく。落ちているペットボトルはそのままだ。彼はそれに近づいていくと、拾い上げてゴミ箱の中に落とす。

 

「ほっとけよ。どうせ誰かが捨てるんだから」

 

 彼の背中に投げかけられた言葉は、さらに彼を困惑させた。誰か、とは誰なのだろう。ゴミを捨てることの何が悪かったのだろう。

 

 簡潔にいえば、彼は他の子供たちとは少々異なっていた。別に障害があるというわけではない。極々単純に、彼は精神的な成長が他者よりも早かっただけだ。周りの行動があまりに幼稚に見え、また自分が彼らと同じことをするのに躊躇いがうまれるようになっていた。

 

 子供というのは、恥を知らない。どんなことをしても、彼らはそれを気にとめない。だけど彼は違った。恥を感じ、羞恥心に心を悩ませ、取り留めのないことまで真剣に悩んでいた。

 

 周りの『子供』のように無邪気にはしゃぐことはなく、ただただ『大人』しかった。

 

「うちの子ったら、ちょっと遊び足りないというか。元気がないっていうか。まぁ大人しいのは有難いんだけど、佐藤さんの息子さんみたいに、もっと走り回ってもいいと思うのよね」

 

 母親のそんな言葉を彼はいつか耳にした。今の自分はダメなのだろうか。自分は、悪い子供なのだろうか。周りに合わせなくてはいけないのだろうか。

 

 あぁ、母が困っている。自分は、変わらなくてはいけないのか。そんなことを日々考え続け、周りとの差に悩み、それら全て自分に責任があるのだと感じてしまった。そうなった幼い彼はどうしたのか。

 

「なぁ氷兎、俺の方が正しいよな?」

 

「いや違う! 俺の方が合ってるって!」

 

 どちらが正しいのかを問われた時、彼はいつもの様に曖昧な言葉を返そうとしたが、ふと彼らの表情を見て気がついた。彼らはただ自分が相手より優位でありたいだけで、その正しさなんてものは案外どうでもいいと思っている、と。

 

「俺は……二人とも、間違っていないような気もするけど」

 

 だからこそ、彼はそう答えるようになった。どちらも間違っていて、そもそもが競い合うことでもなくて。自分の気持ちを騙して、彼は偽の本心を語る。

 

 幼い頃に培っていく個性。足が早い。勉強ができる。オシャレに気を使う。体臭が強い。喧嘩が強い、などなど。いわゆる自分のアイデンティティを確立させていく段階で、彼はその精神性から失敗したのだ。

 

「うちの子は喧嘩はしないし、テストもそこそこ取れるし、勉強しろって言わなくてもやるから困らないわ。それに大人しいし、いい子に育ってくれたよ。最近は友達ともよく遊ぶみたいで……」

 

 彼が変わり始めてから、母は喜ぶ機会が増えたように感じていた。なるほど、これは正しいらしい。自分は間違っていない。

 

 周りの態度に合わせ、自分を変化させる。すなわち、空気だ。彼は空気を読むというスキルを無意識のうちに会得し、磨き上げてしまっていた。いいや、空気だけでない。相手の態度、表情を、些細な動きですらも、彼は情報として取り入れて相手に合わせようとする。

 

 傍から見れば、大人しくて面倒みが良くて、それなりにいい人に見えていたことだろう。だが違う。彼は紛れもなく『無個性』という名の『個性』を確立させてしまったのだ。明確な自分というものを持たない。無意識に騙し、それを本心だと認識するという、自己暗示。そしてそれが、間違いなのだと誰も指摘せず、褒めてしまった。

 

 あれほど周りの行動に羞恥を感じてしまっていても、いざ強要されれば彼はなんなくやり遂げた。無論周りには笑っているように見えるし、本人も笑ってやっていると錯覚している。苦しくないと、感じている。

 

 子供は『本能』で動く。やがて知性を育て、『理性』で動くようになる。彼は子供の頃から本能を恥とし、理性で合わせてきた。その弊害は、どうしようもなく大きくなるのだと彼はまったく知りもしない。

 

 そんな歪んだ育ち方をした彼は、ある日いつものように小学校へと通っていた。教室の中は騒がしい。無邪気な子供が猿のように暴れ回る。そして、その暴れる猿の矛先は一人の女の子へと向けられていた。

 

「やめろって、菌が移るだろ!」

 

「うわっ、菌がついた! お前にもやるよ!」

 

 女の子の机の周りで走り回る男の子たち。それを遠巻きに見ている別の女の子たち。机に座ったまま、じっと堪えている女の子は、彼にはとても馴染みのある女の子だった。

 

 世間一般的に言う、幼馴染というものだ。幼稚園の頃はよく遊んでいたが、小学校に入ると男は男で。女は女で遊ぶようになる。それが彼と彼女を分けてしまったのだ。それが当たり前だったから、遊ばなかったし、たまに話す程度の仲になってしまっていた。そんな彼女は今、イジメの標的にされている。いや、イジメと言えるのだろうか。これは弄りなのではないか。

 

 どちらにせよ一過性のものだ。そのうち別の人がターゲットになる。子供というのはそういうものだ。それに、教室にいる子供にとってそれは正しいことだった。大多数の人で少数を虐めるというのは、この小さな世界では当たり前であった。だから彼も、それに対して何も思うことは無くなってしまっていた。

 

「───」

 

 ……かに思えた。幼馴染の女の子は涙目で彼を見ている。それを見てしまった彼は、思わず手を伸ばしてしまいそうになった。それは間違いだ。クラスの決まりだ。そう、これは仕方の無いことなんだ。だってそういう空気だったから。

 

 けれど、そうして自分を正当化しようとしていることに彼は気がついた。騙そうとしても自分を騙せない。それどころかふつふつと湧き上がる感情に戸惑い、どうするべきなのかという判断基準があやふやになっていった。

 

 目の前で泣く幼馴染と、クラスの友人たち。どちらが正しいのだろう。いや、正しいとか正しくないとか、そういう問題か。なぜ幼馴染に手を伸ばそうとする。それは間違いだ。皆から責められる。母親もいい顔はしない。それは……とても、怖いことだ。

 

「……なぁ」

 

 あぁ、怖い。怖くて怖くて、恥ずかしくて仕方がない。それでも彼は……騙せなかった。

 

「もう、その辺にしとこう。泣いてるから」

 

 彼にしては珍しい行動だったからか、周りの子供たちは仕方がないといったふうに離れていく。泣いている幼馴染を引き連れて、彼は教室から出ていった。

 

 顔が熱い。羞恥で死んでしまいそうだ。自分は今とんでもない間違いを犯したのだ。

 

「ぐすっ……ひーくん……」

 

 幼馴染は彼の名前を呼ぶ。けれども彼は苦々しく顔を歪めるばかりだった。

 

「ありがとう……助けてくれて」

 

 お礼を言われても、彼は優しく微笑みもしない。ただただ、俯くだけ。

 

「……俺は、最低だ」

 

 助けてくれたのに、なんで卑下する必要があるのか、彼女には理解できなかった。幼馴染は、時々何を考えているのかわからなくなる。

 

「……どうして、助けてくれたの?」

 

 その答えは、首を横に振るというものだった。

 

「わからない。ただ……菜沙が虐められてて、なんか嫌だったから」

 

「ひーくん……」

 

「変だよね。これはきっと間違いだ。だって今までどんな人が虐められても何もしなかったのに」

 

「……でも、おかげで私は助かったから」

 

 必死にあなたは悪くないと伝えようとしても、彼は頑なに自分は悪いのだと主張する。そしてまたもう一度、俺は最低だ、と呟くのだ。

 

「俺は……虐められてたのが、菜沙じゃなかったら助けなかった。見てるだけで、何もしなかった。だから……最低だ」

 

「ひーくん……」

 

 言い換えれば、菜沙だからこそ助けた。その言葉は重く彼女にのしかかる。けれども、それを重いとは感じず、彼女はただ嬉しさに胸を踊らせるだけだった。

 

「ひーくんって、いつも何を考えてるの?」

 

「……わからない」

 

「じゃあ、さっきは?」

 

「……わからない。ただ、恥ずかしかった」

 

「恥ずかしい?」

 

「……うん」

 

 彼にとって本能は恥だ。すなわち、理解不能な行動。それを引き起こす、怒り、悲しみ、そういった負の感情。騙し続け、それらを感じることすらもなくなったというのに。どうして彼女の場合はその本能を止められなかったのか。

 

 彼女の姿を見つめながら考えると、その答えは案外簡単にでてきた。彼女は彼に対して偽ることを望んでいなかった。幼い頃から一緒にいるおかげで、変わる前の彼のことを知っていた。つまり……彼にとって、彼女は本能を晒してもいいと思える人物であったということだ。

 

「ひーくんは、優しいんだね」

 

「……違うよ。俺は……酷い人間だ」

 

 いいや、違うのかもしれない。彼にとって彼女とは、自分をさらけ出すことができる存在なだけであり、だから一緒にいてもいいと思えるのかもしれない。そんな打算が渦巻くのを感じ始め、また恥を感じる。

 

「いいんだよ、ひーくん」

 

 彼女の言葉は、そのあと彼をまた縛りつけることになる。

 

「楽になって、いいんだよ」

 

 楽になる。騙す必要がなくなる。彼の目からは涙が流れ出していった。恥だ。どうしようもない恥だ。彼女の前以外では、到底見せられない。

 

 そうして彼は、少しだけ人間らしくなることができた。その結果として、彼は人に合わせるだけでなく、人に対して何をしてあげるのが正しいのかという、完璧な正しさを捨て去ることに成功したのだ。

 

 けれども、彼のその無個性さは変わらない。だから彼女は隣にい続ける。なぜなら、本当に彼のことを好きな人が出てきたら、彼は断れないから。是認するのが正しいのだと思ってしまうから。だから隣にいないといけない。彼が本心で好きな人と一緒にいれるように。

 

 やがて時が経ち、彼は成長することもなく、周りが成長していった。ようやく同じ土俵に立てた。彼にとっては、その状況はとても簡単だった。精神が同じ程度ならば、話もしやすい。彼は人々の空気になりつつ、その流れを変える力も磨きあげつつあったのだ。

 

 幼馴染は彼を否定しない。そして、その優しさで隣に居座ろうとする。それを護ってやるのが役目だと、正しさだと、彼は感じていた。彼女を守るためなら、何をやっても許されるのではないか。あの後クラスの人たちから何も追求されなかったように。女子生徒からは褒められたように。彼女を護ることは、何も間違いではないのだ。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 布団から起き上がる。緑のクローバーが散りばめられた布団には、今しがた流れ落ちた涙のせいでポツンッポツンッと染みができている。心の中に空いた穴が無性に虚しさを掻き立てる。

 

 何か大事なものを忘れてしまった。そんな気がしていた。

 

「あっ、おはよう菜沙ちゃん」

 

「おはよう、桜華ちゃん」

 

 食卓に向かえば、そこには既に桜華ちゃんがいた。最近料理が少しできるようになったからか、朝ごはんを作ってくれたりする。素直に助かるから、嬉しかった。

 

 椅子に座って、彼女が作ってくれたものを口に運ぶ。けれども、味があまり合わない。もっと美味しいものがあったはず。なんだっけ、思い出せない。

 

 いやそもそも、私はなんでここに居るんだろう。

 

「桜華ちゃん。私って……なんでここにいるの?」

 

「なんでって……それは……あれ、なんでだろう?」

 

 桜華ちゃんも、何か疑問に思っているみたい。今度は味噌汁を啜ってみる。ちょっと薄い。でも、何と比べて薄いんだろう。

 

「ねぇ、あとで翔平さんのところに行ってみよう? 私たちが感じてる疑問とか、何かわかるかも」

 

 彼女の提案に、頷きかけている自分がいた。まるでそうするのが自然なようで、けれども私の心はそれを不自然だと言っている。

 

 そもそも、私はどうしてここにいる。どうやって鈴華さんに出会った。なんで桜華ちゃんと一緒にいる。わからない。何も、わからない。

 

「……ごめん、桜華ちゃん。ご飯はもういいや」

 

「えっ? どうしたの? 具合悪い?」

 

「……私、帰るね」

 

 適当な服に着替えて、必要なものだけポケットの中に入れて、私は部屋から飛び出した。後ろから桜華ちゃんの声が聞こえてくる。それでも、不安で仕方がなかった私は足を止めることをしなかった。ここで止まったら、何もかもを失ってしまうような、そんな最悪な気分だったから。

 

 地下から地上に上がって、ビルからも出て、電車に乗って自分の住んでいた場所に帰る。そもそも、私には理由がない。鈴華さんたちと一緒にいる理由が、わからない。どうして私は、あそこにいたんだろう。

 

「………」

 

 住宅地にまでやってきた。目の前にある家は、私が住んでいた家。中には両親が過ごしているはず。けれども私の視線はまた別の方向に向く。まるで前からそうしていたように、ごく自然と。

 

「……誰の、家?」

 

 私の家ではない、誰かの家。表札に書いてある名前は、掠れて読めない。中には、誰かがいるような気配もない。まるで空き家のような、そんな感じがする。

 

 ふと気がつけば、足はその家の敷地の中に入り込んでいた。堂々と、躊躇いもなく。まるで自分の家のように、前へと進んでいく。扉の横にある雨水の通るパイプの裏。下から5番目の支えの場所に、鍵はある。それをどうして知っているのか。いや、身体が勝手に動いて、自然とそれを取ってしまっていた。

 

「………」

 

 扉を開けて、玄関を過ぎ、リビングにやってくる。壁には不自然に補強された部分が残っている。まるで穴でも空いていたかのように。

 

 ……とても、懐かしい。そんな気分だった。知らない他人の家だというのに、とても落ち着く。けれど、私の足はそこで止まらない。階段を上って、奥にある部屋の前までやってくる。しばらく掃除されていないのか、ドアノブは汚れていた。

 

「……ここ、は」

 

 扉の先にあった部屋。簡素なベッドに、本棚。勉強机などの質素な部屋。部屋の中心まで来て、深く息を吸い込んだ。それが肺に満ちていくと、心まで満たされる気がした。知っている。この部屋を、私は知っているんだ。

 

『───菜沙』

 

「えっ……?」

 

 誰かの声が聞こえた。周りを見回しても、誰もいない。

 

『───菜沙』

 

 また聞こえた。その声は不思議と心が落ち着く。そして、ゆっくりと脈が速度を早めていき、やがて暴れ出す。落ち着きと凶暴性を孕む、不思議な声。

 

『───菜沙』

 

 その声がどこから聞こえるのか。必死に探そうとしたら、目に入ってくるものがあった。勉強机の上に、さっきまで何も無かったはずが、写真立てが置かれていた。恐る恐る、それを手に取ってみる。飾られている写真には……学生服を着た男女が並んでいた。中学校を背にして、女の子は笑って。男の子は、困ったように頭を掻いている。

 

 その女の子は……私だ。じゃあ、この隣にいる男の子は……?

 

「ッ───」

 

 頭に一瞬鋭い痛みがあった。呼吸が不規則になって、何度も落ち着けようと息を吸う。けれどもそれが逆効果になって、私の意識はだんだんと薄れていくのを感じていた。

 

 苦しい。なんで。貴方は、誰なの。

 

 手からは写真立てが零れ落ち、それは地面に当たると粉々に砕け散る。そして、まるで元から何もなかったかのように黒い靄になって消えていった。

 

「ぁっ……ぅ……」

 

 その場に崩れ落ちる。身体にはもう力が入らない。視界が少しずつ暗くなってくるのがわかる。怖くて、叫びたくても声すら出ない。必死に誰かに助けを呼ぼうとする。誰か。誰か。誰か。

 

「ぅっ……っ、ぁ……」

 

 苦しくもがく私の身体に、暖かな温もりが感じられるようになった。それは、私の胸元の辺りから感じられる。必死になってそれに手を伸ばした。掴んだものは……首から提げられていた、ネックレス。それが淡い緑色の光を発していた。

 

『……俺は、最低だ』

 

 また、声が聞こえてくる。悲しそうで、苦しそうで。思わず手を握ってあげたくなるような、そんな声。

 

『菜沙じゃなかったら助けなかった』

 

 その声が、その言葉が。胸に空いた空白を埋めていく。

 

『……俺は、酷い人間だ』

 

「……それは、違うよ」

 

 誰に言うでもなく、その声に向かって。私は話しかけていた。誰かが隣にいてあげなくてはいけない。自分の本性をさらけ出せるような、そんな誰かが。

 

「誰よりも、他人を理解したかっただけなんだよ。楽になっていい。自分を抑えなくていい。貴方の本性も、私は否定しないよ。だって、私を助けてくれた時の貴方は、確かに貴方だったから。そうだよね、ひーくん」

 

 零れたその名前が、私の胸を締め付ける。口元を抑えて、必死に何度もその名前を頭の中で繰り返した。

 

「ひーくん……それって……」

 

 パキンッと何かが割れるような音が頭に響いた。それと同時に、一斉に過去の記憶が流れ出していく。私の隣にいた男の子。ずっと一緒にいた男の子。恥ずかしくて一緒にいれなくなっても、護ってくれた男の子。

 

「……嘘」

 

 なんで、どうして忘れていたの。こんな大事なこと、忘れちゃいけないはずなのに。

 

 ポケットの中から携帯を取り出して、電話帳の中から彼の名前を探す。けど、そこには彼の名前はない。何もかも、消えてなくなっていた。写真すらも。

 

「っ………」

 

 電話をかける先を変える。私じゃ何もできないから。彼らに助けてもらうしかない。早く、助けないと。彼がいなくなってしまう。

 

『───はい、もしもし』

 

「鈴華さん、お願い助けて。ひーくんが、ひーくんがいないの!!」

 

 携帯の向こうにいる鈴華さんに助けを願った。けれども彼は、何を言ってるんだと笑うだけだった。

 

『変なことを言うなよ。ひーくんなんて人はこっちじゃいない。寝れば会えるだろ』

 

 ……あぁ、皆おかしくなってしまった。私以外、皆……この状況を、理解できていなかった。彼が消えてしまったこの世界は、間違っているのに。

 

 

 

 

 

To be continued……




ちなみに、前回氷兎は1度も登場してないんですよ。

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