貴方が隣にいる世界 -Cthulhu Mythos-   作:柳野 守利

113 / 136
第113話 思い出

 高海 菜沙の精神的な錯乱とも呼べる異常事態に対して、いち早く現状を理解し、自分の状態を分析できたのは西条だった。彼の培ってきた知識と経験。それらが現状の不可解さを捉えた。

 

 そもそもがおかしい事だらけだ。菜沙がいるはずのない人を探し続けるのも、翔平が寝れば会えると戯言を吐くのも、そして……西条自身の『Nhは何か』という問いに答えが必要なく、その問いかけこそが重要なのだと認識を変えられていたこと。これは明らかな認識変化だ。頭の中の回路をごっそりと変えられてしまっている。

 

「……それで、高海。唯野 氷兎という人物がいたというのは確かなことなんだな?」

 

「間違いないです。ひーくんは、ちゃんとここにいたんです。お二人と一緒に、任務にも出ていたんです」

 

 翔平の自室では玲彩を除く全員が集まっていた。菜沙が無理やり全員を集めたのもあるが、西条自身も何かがおかしいという認識のズレを感じていたため、すぐに全員に集まるように指示を出した。唯野 氷兎という人物がいなくなった。その名前を聞いても、菜沙以外の人物は皆首を傾げるばかりだ。

 

「……最近夢のことで悩んでいたのは記憶にある。だが、そこから何か記憶のズレが起き始めていた。俺が鈴華に問いかけた質問も、答えではなくその行動に意味があると認識がすり替えられている」

 

「なんでそうわかるんだ?」

 

「俺がそんな無駄なことをすると思うか?」

 

 自分のことを誰よりもわかっているのは自分だ、と西条は言う。翔平も頭を悩ませながら、自分の右手を見て「何もない」と呟く。すっかり癖になってしまったその仕草を、西条は見逃さなかった。

 

「鈴華、その右手になんの意味がある?」

 

「手に、『現実』って書いた気がするんだ。それがないと夢なんだなって、そう思ってた」

 

「今は何もないな。本当に書いていたのか?」

 

「書いてたはずだ。間違いない」

 

 何度か右手を握りしめながらそう答える。三人の会話に、桜華と藪雨はまったくついていけなかった。二人で飲み物を飲みながら適当に菓子の袋を開けて食べている。なんとも緊張感がなかった。

 

「……なーんか、物足りないですよね。せんぱいたちもそう思いません?」

 

「私も、なんとなく藪雨ちゃんの言ってることわかるかも。足りないっていうか、寂しいっていうか……」

 

 コップに注がれた飲み物は市販のジュースだ。それらを飲む彼女たちは寂しさや物足りなさという感覚を覚えたという。菜沙はそれがどうしてなのか、わかっていた。

 

「だって、いつもはひーくんが珈琲を淹れてくれたり、お菓子も作ったりしてくれるから。物足りないのはそのせいだよ」

 

「……確かに最近紅茶が不味くなった気がしたが、なるほど。確かに高海の言うように、誰かいたんだろう」

 

「待て待て。そもそもこの話がこっちで起こること自体変なんだって。こっちは夢だろう?」

 

 訳の分からないことを言い出す翔平に、皆の白い目が向けられた。西条は椅子から立ち上がると翔平の前まで歩み出て、右の手のひらでかなり強めに翔平の頬を引っ叩く。パチンッと痛そうな音が響いて、女性陣は一瞬みを竦めた。もちろん、やられた翔平とて黙ってはいない。

 

「いってぇな……なにすんだよ西条ッ!!」

 

「いい加減目を覚ませ。お前の言う通り、俺たちは夢と現実を行き来していたんだろう。だが、いつの間にかすり替えられていたんだ」

 

「すり替えだぁ?」

 

「外部からの力がかかっているのはわかっていた。ならば、俺たちの行動を逐一監視しているはずだ。それを利用し、現実と夢の境が曖昧になったところで逆にしたんだ。最初は恐らく、唯野 氷兎がいない方が夢であり、途中からは唯野 氷兎がいる方が夢になった。お前の手の文字も、すり替えの段階で逆にされたか、そもそもすり替えられてから字を書いたかの二択だ」

 

 西条が胸ポケットから手帳を取り出す。あるページを開いて、そこに書かれているものを全員に見せるように机に置いた。内容は、マグカップ、時計、ゲーム機、服……などなど、一貫性のないものばかり。けれども西条には、これがなんなのか理解していた。

 

「これはなくなったもののリストだ。恐らく唯野 氷兎が使っていた私物。身の回りのものが少しずつなくなっていき、本人が消えた段階で夢と現実を反転。この場合、少しずつというのが厄介だ。人間の脳は順応することに適している。つまり、少しずつの変化だと人間はそれを不自然だと捉えずに当たり前のことだと錯覚してしまう」

 

 部屋の中に設置されていたホワイトボードを引っ張り出してくると、そこに現状についての説明をつらつらとわかりやすく書いていく。チーム随一の頭脳と戦闘能力を持つ西条は、既に自分たちが罠にハマっているのだと確信していた。

 

「これは長期的な認識変化と暗示だ。自分の目的を他のものにすげ替え、消えた人物が元からいなかったものと錯覚させられる。俺たちは、完全にしてやられたということだ」

 

「……薊さんの言っていることが正しければ、の話ですけどねぇ。間違ってたら黒歴史どころの話じゃないですよ?」

 

「向こう一年は弄り続けられる自信があるな」

 

「真面目に考えろ。俺は不愉快で仕方がないんだ。そもそも、昔の俺が今こうしてお前たちと会話しているわけがない。何かしら、誰かしらが俺とお前たちとを結びつけない限り、繋がることのなかった(えにし)だ」

 

 昔の西条。家庭環境と周りからの待遇によって他者に対して冷徹な対応をしていたときのこと。今でこそ丸くなっているが、彼自身わかっているのだ。ここにいる人たちと自分がすんなりと仲良くなれるわけがないと。その間のワンクッションを誰かが置かないといけなかった。では、その人物は。今はどこにもいない。西条は既に、唯野 氷兎という男が実在していたのだと信じきっている。

 

「……西条さんは、ひーくんとよくぶつかっていました」

 

 悪くなる雰囲気の中で、菜沙の声が響く。全員が彼女に注目し始めた。菜沙は両手を腿の上でギュッと固く結び、心の中にいる彼のことを忘れないように思い返しながら、今までの記憶を語っていく。

 

「誰も寄せつけない態度で、ひーくんは近づく度にぶつかって。それでも特訓の師範になってもらったり、難しい話をずっとしていたり、時にはチェスや将棋なんかで競ったりしてました。ひーくんは、勝てたことはなかったけど」

 

「……師範、か」

 

 西条は顎に手を添えて、自分と真っ黒な誰かで組手をするのを想像する。不思議と難なく相手の動きが想像でき、それに対して自分がどのように動いていくのかが手に取るようにわかる。腹に膝蹴りを入れて、蹲っても歯を食いしばって見上げてくる真っ黒な誰かに向けて手をさし伸ばした。切磋琢磨とはいかずとも、相手は自分の技と動きを吸収し、こちらは自分の欠点を洗い出して更に強固な技術を身につける。

 

 想像の中でしかない、いるかもわからない人物。けれども確かに二人は手を握りあった。

 

 

 ───パキンッと何かが割れる音がする。

 

 

「鈴華さんは、ひーくんと一番仲が良かったです。どこに行くにも一緒で、正直ちょっと嫉妬しちゃったりもして。けれど、傍から見ても羨ましくなるくらい、信頼し合っていました。ひーくんはよく言っていましたよ。先輩は背中を任せられる相棒で、頼りになるんだって。時々センスのないオヤジギャグを言うのが玉に瑕だけど、優しくていい人で、自慢できる友人だって言っていました」

 

「……相棒?」

 

「はい。最初の任務の時から、ずーっと一緒です。辛くて苦しくても、二人で乗り越えていくうちに、ひーくんたちは集まってチームになりました」

 

 翔平は菜沙の言葉を聞き、頭を悩ませる。相棒とも呼べる人物。いつでも一緒にいる友人。同じ部屋で生活して、一緒にゲームをして。更には掃除や洗濯、ご飯まで作ってくれる。時には叱ってくれたり、まるで母親のような態度をとる。苦しい時も、いつだって二人で乗り越えてきた。

 

 ……翔平の頭の中に燃え盛る炎が浮かび上がる。何もかもを燃やし尽くしていき、逃げ惑う人々を銃で撃ち抜く黒の外套を纏った組織の人たち。誰一人逃れることはなく、呆然とその場に立ち尽くす翔平と、座って動けない誰か。その行為を止めることはできず、あとに残ったのは灰や死体なんてものではなく、犯した罪だけ。

 

 木を背もたれにして座り込んでいた誰かは、立ち上がるとふらふらとした足取りでその場から離れていく。それを追いかけて、翔平は肩を貸して二人で歩いて行った。田舎の星々が上から見下ろす中で、この罪を背負っていくのだと、そして友の為に強くなろうと決意した日。

 

 

 ───パキンッと何かが割れる音がする。

 

 

「藪雨ちゃんは、一緒に過ごすようになった頃はひーくんと鈴華さんに煙たがられてた。仕草だとか、態度だとか、そういったものがどうしても癪に障るって、愚痴を言ってたっけ」

 

「……なんか、私の扱い酷くないですか?」

 

「それでも、藪雨ちゃんはちょっと嬉しそうだったよ。二人にいじられながら、それでも輪に入っていって。それで、ひーくんとお話したって聞いたよ。今までの自分を否定せず、かといって無理に肯定することもなく。これから少しずつ変わっていけばいい。もうここには、藪雨ちゃんを虐めるような人はいないんだよって」

 

 虐めるような人。その言葉を聞いて思い浮かぶのは藪雨の中学時代。他人からの嫉妬や偏見。それらのせいで人格にまで影響を与えてしまった暗い時代。そのまま逃げるように高校へ進学して、そこで新たな自分を作り上げた。自分の気持ちを押し殺して、耐えて忍ぶ。笑顔を絶やさず、また本音も言わず。

 

 そんな彼女を変えたもの。それは蛇人間による生贄が秘密裏に行われていた街に任務で出かけた時のこと。彼女は今でも確かに記憶に残っている。ベランダで月を見上げている誰か。その隣にまで歩いて行き、一緒になって街を見下ろしていた。隣にいる誰かは、ただじっと彼女の話を聞き、そしてやや挑発的に彼女を窘める。向かい合わせになった視線は逸れない。それだけ、その誰かは彼女のことを案じていたというだけの話だ。好き、嫌い、男、女。そんなものはそこでは一切関係がなかった。ただひたすら、真っ直ぐな言葉が彼女を刺し貫く。

 

 内心認めたくはない。けれども、そのあまりに誠実で優しい言葉が今までの過去を全て包んでくれるような。そんな希望を感じてしまう。苦虫を噛み潰したような顔で、けれども誰にもわからないくらい小さく微笑んで、彼女は言葉にならないお礼を心の中で告げた。

 

 

 ───パキンッと何かが割れる音がする。

 

 

「桜華ちゃんは……」

 

 その先を言おうとしていた菜沙の口が、キュッと力強く結ばれる。彼女の心の中は、揺らいでいた。それが桜華に対する嫉妬なのか、羨望なのか。彼女自身にもわからないが、良くないことなのは確かだった。七草 桜華は純粋だ。穢れのない白無垢のようで、触れば壊れてしまうような儚さと、何もかもを壊してしまうような力強さ。それらを内包する、不思議な女の子。

 

 その純粋さは確かに彼に影響を与えている。彼の紛れもない本性。本能。それらをさらけ出させようとする。一緒にいる時の嬉しそうな顔や、紅潮する頬。それらが表す答えは、菜沙にはわかっていた。

 

 彼が菜沙と一緒にいるのは、菜沙がそう望んだから。彼の歪んだ精神は菜沙の想いを知らぬ間に汲み取り、それを当然の事として認識している。今となっては、菜沙は自分こそが彼にとって枷になってしまっているのだとわかってしまった。

 

 彼の理性が望む人。彼の本能が望む人。未だに彼は、理性で己を騙している。自分の気持ちは間違いだと逃げようとする。そんなこと、もう既に幼馴染はわかっていた。

 

「……私たちが出会った時のこと、覚えてる?」

 

「うん。忘れるわけがないよ。河川敷の橋の下で、私を助けようとしてくれたんだよね」

 

 その言葉に、菜沙は静かに首を横に振る。

 

「違うよ。助けに入ったのはひーくんで、けどむしろ助けられちゃったんだよ。不良を倒したのは桜華ちゃんで、私たちはそれから友達になったんだよ」

 

 学校が終わって、時間が許す限り遊んで。話したいことを沢山話して、そして日が暮れたらお別れをして。そんなことを続けているうちに、事件に巻き込まれてしまった。

 

 思えば、あの出会った日から彼は桜華に惹かれていたのかもしれない。一目見た段階で、彼の心が、本能が惹きつけられていた。人はそれを、一目惚れというんだろう。きっとそうだ。そうに違いない。菜沙は握る手を更に強く握って、悔しそうに唇を噛み締めた。

 

「私たちを護るんだって、何度も何度も繰り返して。必死に……努力してたんだよ。辛くても、苦しくても、護るために強くなるんだって」

 

 海に行った時、幸せそうに花火をする桜華を彼はじっと見つめていた。その幸福を感じている彼女を見て、彼は何を思っていたのか。護りたい。支えたい。それは彼にしかわからないけれど、それでも……今まで幸福を感じる機会のなかった女の子に、幸せを味わわせたい。そんな願い。

 

「……貴方には、忘れないで欲しかったな……」

 

 菜沙の両目から涙が零れ落ちていく。握りしめた両手に、ポツリポツリと雫が落ちて、弾ける。

 

 海。真っ暗な中で線香花火をしていた。それに似ている。落ちて、弾けて、消えてしまう。一時だけの儚い火花。

 

 幸福とは何か。桜華は時折考えることがある。けれど結論はいつも同じだ。大好きな人と一緒にいたい。祭りではぐれてしまった時、独りで寂しく待っていた。迎えに来てくれたのは、二人。どちらも桜華にとって大切で、大好きな人。ちゃんと助けに来てくれたことが嬉しくて、つい抱きついてしまった。

 

 これからもよろしくと言って、手を差し出している誰かがいる。それに迷うことなく手を伸ばして握りしめる。暖かくて、ちょっと硬いその手は……桜華の心を幸福で満たしていく。

 

 

 ───パキンッと何かが割れる音がする。

 

 

「………」

 

 誰も、何も言わない。静謐な空間には呼吸音と小さなしゃくり上げる声だけが響く。大切なものが失われてしまった世界。誰もそれを覚えていない世界。それは、酷く悲しい世界。それを思い出してしまった少女だけが取り残される。世界にも、彼からも。

 

「───氷兎は、どこだ?」

 

 ……震えている。その声も、身体も。この場にいる全員がそうだった。

 

 このままでは終わらない。彼らの目には友を消し去った存在に対する明確なまでの敵意が揺らいでいた。

 

 

 

 

To be continued……




難産でした……(遠い目)
評価してくれる人が増えて、日間ランキングに三日間も載り続けるという素晴らしい出来事が起きました。
読んでくださってる方々、並びに評価や感想をくださる方々、本当にありがとうございます。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。