貴方が隣にいる世界 -Cthulhu Mythos-   作:柳野 守利

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第3話 現実の証明

 常々思っていたことだ。こんな現実が、夢であればよかったのに、と。けど、現実を否定しようにも俺には証拠が見つからない。現実を肯定する証拠なら簡単に見つかるのに。

 

 軽く頬を叩けば、ほら……ここが夢ではなく痛覚のある現実世界だとわかる。だがしかし、痛みすらも味わうことの出来る電子世界もあった。なら、痛みは現実を証明する証拠にならないのかもしれない。

 

 ……まぁ、俺に痛覚なんてないんだがね。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 ───ひーくん。

 

 その言葉が聞こえるだけで、俺は夢から覚めるようになった。中学時代はそんなことはなかったはずだ。いくら土曜日に互いに部活がなくて暇だからと、俺の部屋まで起こしに来てその台詞を言われようが、俺は全く起きなかった。夢から覚めるようになったのは高校に入ってからだ。むしろ、彼女に起こされなければ俺はずっと眠っているのではないだろうか。

 

「ひーくん、起きた?」

 

 寝ぼけ眼で、机に突っ伏した状態から首だけを動かして彼女を見た。彼女の口角が少しだけ上がっており、所謂ニヤケている、と言った状態だ。ズルいものだ。男がニヤけているとキモがられるのに、彼女がニヤけるとまるで微笑みを見ているような気分になる。

 

「……終わったよ?」

 

「……うん。準備するから、待ってて」

 

 体をグイッと伸ばすと、背骨がポキポキと音をたてた。これがなんとなく気持ちいい。机の横にかけておいた鞄のチャックを開けると、何故か中身が整頓されていて持ち帰るべき荷物がしっかり入っていた。俺が眠る前に荷物を準備するなんてことはない。となると……。

 

「ふふ、私がやっといたよ」

 

「……何故に」

 

 チラッと時計を見ると、いつもの時間よりも少しだけ遅かった。といっても、そんなに時間が経過していた訳では無いが、彼女の部活が遅く終わるというのはまずないので、おそらく俺が中々起きなかったのだろう。

 

「……俺そんなに寝てた?」

 

「ううん、いつも通りだよ。ただちょっと……寝顔を見てただけだから」

 

 ……だからニヤけていたのか。人の顔を見てニヤけるなんて余程の変態と思われる。まぁ、ほとんど互いのことを知り尽くしているので並の変態よりも理解しているのだが。流石に情事までは知らん。そもそも菜沙は彼氏を作らない。告白現場を見たことがあったが、彼女はスッパリと断っていた。真面目そうで、顔もよく、スタイルも中々。これでモテないほうがおかしいというものだ。イケメンに告白されていたことも何度かあったような気がする。

 

 ……まぁ、俺は告白されたこと一度もないんですけどね。そりゃそうだ。俺は至って平凡。魅力の欠片もない男だからね。突飛した才能があるわけでもなし。顔も良くはない。彼女と並んでいると自分がやけに醜く感じた。

 

 いや、この学校の顔面偏差値で言えば俺はそこそこのはずだ。そういうことにしておこう。

 

「ひーくんは昔から格好いいよ?」

 

 そんなことを話しながら、昨日約束した通りに七草さんのいる孤児院まで向かう途中、菜沙は俺にそう言った。お世辞とわかっていても、どうにも気恥ずかしくて頭を片手で掻きながら答える。

 

「世辞はよしてくれ。格好いいのなら今まで告白されない訳がない」

 

「……ふふ、そうね」

 

 菜沙が口元を抑えて上品に笑っていた。どこか黒いものを感じた気がするが、気のせいだろう。それにしても、モテる基準というのは成長するに従って変わってくるものだと思う。

 

 例えば、小学生。小学生の頃は足の速い奴がモテた。後は普通に格好いい奴。次に中学生。あの頃は、部活だな。部活で活躍してる奴はモテる傾向があった。あと顔が良い奴。そんで、高校生。これはもう突飛した才能だろう。コミュニケーションが上手く取れる奴、何か部活で特化した奴。ちょいワル系は学校による。後は顔だな。

 

 ……おい、顔ばかりじゃないか。結局顔面偏差値が高い奴がモテるのか……。顔、顔、顔、人として恥ずかしくないのか!

 

「人以外の発言は認めないわ」

 

「人なんですけど発言してもよろしいか?」

 

「ダメよ」

 

 菜沙は悪戯をする子供のように、無邪気に笑った。俺もそれに対して笑い返す。昔から休みの日は一緒にゲームやってたりしたし……案外女子もゲームをやるっていうことを彼女から教わったな。ネタをネタで返してくれるのは有難いことだ。

 

「ひーくんがやってるから好きなだけよ」

 

「……それってどうなのさ」

 

「別にいいじゃない。何が好きで何が嫌いなのかは、自分で決めるものだもの。私が好きなのは、つまり……そういうこと。わかった?」

 

「……なんとなく?」

 

 昨日も通った河川敷を、二人で手を繋いで歩く。春の間は、ここの河川敷にズラっと並んだ桜の木が満開になってとても綺麗な場所になる。けど、今は全部青い葉をつけていた。それもそうだ。もう夏だからな。鬱陶しい暑さのせいで、額には少し汗が出てきてしまっている。これだから夏は嫌いだ。互いに夏に対する愚痴を零していると、不意に菜沙は植えられた木を見上げながら、ある話を振ってきた。

 

「桜ね……ひーくんは一年中桜が咲いていたらどう思う?」

 

「……多分飽きるな」

 

「うん、私も同じ。短い期間だけしか咲かないで、咲いてもすぐに散ってしまう。けど、だからこそ咲いているその一瞬がとても綺麗に思えるのかな」

 

「……まっ、そうだな」

 

 春に咲く桜にこそ意味がある。雪が少しだけ降る中で桜が舞い散るというのも、中々見てみたいような光景ではあるが、やはり桜は春に咲いて、散ってしまうのが合っているのだろう。日本人固有の考え方でもある風情が絶妙なまでにマッチしているのが桜だ。俺は桜は結構好きだし、菜沙も好きな方だろう。

 

「桜とはまた別なんだけどね、サクラソウって知ってる?」

 

「サクラソウ……」

 

 確か、桜の形に似ているからと名付けられた花だったか。西洋では『死と悲しみ』を象徴していた。花の女神フローラの息子が恋人を亡くし、悲しみに暮れて死んでしまう。フローラは息子を不憫に思い、サクラソウに変えてしまったんだとか。後はドイツ語で、『鍵の花』とも呼ばれていたか。俺のどうでもよさげな話を、菜沙は少し驚いた様子で聞いてくれた。

 

「そんな由来があるんだ……それは知らなかったかな」

 

「神話については多少詳しいからな」

 

 ほとんどがゲームに感化されて調べた知識だけど。これでも多少なりは神話とかについてわかっているつもりだ。無論、にわかの範囲を出ないのだとは理解しているが。しかし、菜沙が言いたかったのはそうではないらしい。

 

「私が聞きたかったのは、花言葉の方。初恋、純潔、青春、少女の愛。こんな感じで女の子っぽいのが沢山あるの」

 

「さっき俺が言った由来とは違うな」

 

「ほら、色とかでも花言葉って違うから」

 

「ふーん。じゃあ、ナズナの花言葉は?」

 

 ちょっとばかし興味が出たので聞いてみる。菜沙の名前の元となった春の七草の一つだ。尋ねると、彼女は顔を少しだけ赤く染めながら、えっとね……っと躊躇いがちに答えた。

 

「……貴方に私の全てを捧げます、だよ」

 

「……そうだったのか」

 

 彼女にお似合いの花言葉だ。見ての通り身持ちは固いし。一度誰かを好きになれば、菜沙は尽くすタイプだろう。右手を握っている菜沙が、チラチラと俺に視線を送ってくる。何かしら答えた方がいいってことだろうか。

 

「菜沙にぴったりだな」

 

「ふふっ……そう思ってくれるの?」

 

「もちろん」

 

「……ありがと、ひーくん」

 

 菜沙の歩くスピードが少しだけ早まった。手を繋いでいる俺も、必然的にペースを上げることになる。こうやって二人で手を繋いで歩いていて、何度誤解されたことか。俺と菜沙はただの幼馴染で、それ以上でもそれ以下でもない。付き合いが長いせいで、俺達のこういった行為というのは、もはや特別なものではないように思える。何事も慣れてしまえば、なんとも思わなくなってしまうものだ。

 

「ひーくん」

 

「ん、なに?」

 

「あんまりデレデレしちゃダメだよ?」

 

「……したつもりはないんだけどなぁ」

 

 七草さんのことだろう。確かに昨日彼女の笑顔を見て、かわいらしいと思ったが、デレデレしたつもりはない。だというのに、菜沙は頬を膨らませて握る力を強めてくる。

 

「そんなに大きいのが好きなの?」

 

「そういう訳では……」

 

 いやまぁ、確かに彼女はでかい。何がとはあえて明言しないが、彼女は確かにある種の選ばれた人なのだろう。菜沙は自分の胸に手を当てて、寄せてみたりしているが、悲しきかな彼女の大きさは無い訳では無いが、ある訳でもない。確かに存在しているが主張するわけでもない。へこんでいない事を喜ぶべきだな。

 

「………?」

 

 もうすぐ孤児院に着くといった所で、ふと何かの視線を感じた気がした。ここはもう海の近く。海の砂を防ぐ防砂林が所狭しと植えられ、反対側は強く波が押し寄せている状態だ。周りは人がいるにはいるが、両手で数え足りるだろう。

 

 だとすれば、この視線はどこから感じるのか。そういえば昨日、海の中を漂う奇妙な影を見た。いいや、それは見間違いだということにしたはず。きっと不気味な光景に思えて、無意識に怯えてしまっているだけだろう。

 

 感じる視線は気のせいだ。どこか逃げるような考えをしている中、菜沙は何も気づいていないようで、いつもの夢についての話題を振ってくる。

 

「そういえば、今日はどんな夢を見たの?」

 

「ん……確か……」

 

 ……どうにも思い出せない。何の夢を見ていたのか。流石に時間が経ちすぎたのかもしれない。いやでも、夢って結構長いこと覚えていられることもある。すぐに忘れてしまったということは、それはきっとどうでもいい夢だったんだろう。忘れてしまった、と彼女に告げると、対照的に彼女は嬉しそうに話し始めた。

 

「私はね、また夢を見たよ」

 

「どんな?」

 

「ひーくんと一緒にいる夢」

 

 菜沙は嬉しそうに頬を綻ばせた。面と向かって言われると、流石に恥ずかしい。けれど……彼女のその言葉には、俺にとってどうにも夢がないように感じる。頭をガシガシと強く掻きながら答えた。

 

「それはつまらないな。現実と特に変わらないじゃないか」

 

「だからいいんだよ」

 

 彼女は笑っている。しかし俺にはわからない。夢は夢であるべきで、現実と差異がなければならない。夢が現実ならなぁ、とよく言うだろう。つまり、現実からかけ離れているのが夢、ということだ。なら、現実に近い夢ならば、それは夢と呼べるのか。体感したことも、何もかもが現実に近ければそれは現実の延長上ではないだろうか。

 

「確かに、現実ではできないことをやる夢も楽しいのかもしれないよ。けどね、夢が現実と変わらないっていうのは、私は素敵だと思う。だって、夢でも現実と同じように過ごしたいと思っているってことでしょ?」

 

「……菜沙も女の子だな」

 

「ちょっと、聞き捨てならないんだけど」

 

 まぁ、彼女らしいと言えば彼女らしい答えではある。現実が充実しているのなら夢を見る必要も無い。欲しいものが手に入らないから人は夢に見るのだ。そして、現実での動力源にする。夢に見た世界に到達するために、人は動くのだ。そして、夢を叶えられればラッキー、叶えられなければそれまで。悲しいことに、夢を叶えられる人は限られる。最初から決まってるんだ、そういう奴は。才能という名の超能力を持って産まれてくる。

 

 生憎俺にはそんなものは無いが……しかしこれらを踏まえれば、夢と現実が同じであるというのは確かに素敵なことなのかもしれない。頷く姿を見て彼女は勝ち誇ったように言ってきた。

 

「でしょ? 現実でも夢でも、ひーくんは変わってなかったよ。いつも通り、優しくて、ちょっと捻くれてて、そして私の隣にいるの」

 

「全く変わらんな」

 

 俺が現実を夢見たというのなら、つまらないと吐き捨てることだろう。現実では現実でのみ体験できることを、夢なら夢でのみ体験できることをしたいと、俺は思う。人が自力で空を飛ぶことなんて出来やしないんだ。それを夢見ることは悪くないだろう。

 

 だから、別に異世界転生してお姫様を助ける夢を見たっていいじゃないか。可能ならば、その夢を現実であると立証したいところだが、何度も言うように俺にはそれを証明できない。現実を現実だと証明する手立ては多くあるというのに。

 

「〜〜〜♪」

 

 例えば、隣で鼻歌を歌いながら歩く女の子の手の温もりとかな。

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 海から波が強く押し付けられている高台に、潮風孤児院は存在している。昨日も来たこの場所だが、やはり堀に書かれた不思議な絵に目が引かれてしまう。孤児院の本館が目の前に建っており、その裏側には子供たちが遊ぶ庭のようなものがあると予想できた。なにせ、本館の奥の方から子供たちが元気に遊ぶ声が聞こえてくる。

 

「……あれ、七草さんかな?」

 

 菜沙が指差す場所を見ると、孤児院の入口の側で座り込んでいる女の子がいた。彼女はこちらに気がついたようで、暗かった顔が途端に明るくなって、駆け寄ってきた。走る度に彼女の豊満なアレが軽く揺れている。それに、彼女は汗をかいていて、白い服が少しだけ濡れて透けてしまっているようだ。なんとも目に毒だが……白、いやこれは……薄いピンクか……。

 

「……ひーくん?」

 

 見てないですから握る手の力を強めないでください。すいません出来心なんです仕方のないことなんです。思春期だから許してくださいなんにもしませんから。

 

 隣から向けられた絶対零度のような視線に晒される俺の様子とは正反対で、七草さんは笑顔で近づいてきて俺と菜沙の手を取ってきた。

 

「氷兎君と菜沙ちゃん! 来てくれたの!?」

 

「お、おう。昨日約束したからな」

 

 しどろもどろになってしまうのも仕方が無い。彼女は俺と菜沙の手を握ってぶんぶんと勢いよく振っているのだから。こんな反応アニメかラノベの中だけだと思っていたよ。貴重な体験をした気がするが……それよりも、気になることがある。

 

「七草さん、ずっと待ってたの?」

 

「うん、来るかなーって座って待ってたの」

 

「どれくらい?」

 

「んー、どれくらいだろう……」

 

 先程まで彼女が座っていた場所を見ると、雑草は潰されたまま直ることなく、しなだれたままになっている。そこそこ長い時間その場で待っていただろうと予想することは出来た。流石にこれには怒らずにいられない。

 

「別に来たら呼びに行くから、中で待っていればよかったのに」

 

「外で待ってた方が良いかなって思って……」

 

「お前今の季節考えてるのか? 夏だぞ、熱中症になったらどうする気だ」

 

「うぅ……ご、ごめんなさい……」

 

 シュンっと項垂れてしまう七草さん。可哀想に思えるかもしれないが、俺としては心配なのだ。流石にこの汗の量的に脱水症状を起こしていても不思議ではない。それに汗を拭くタオルすら持っていないときた。とりあえず水分を補給させて、汗を拭かせた方がいいだろう。

 

「菜沙、水筒の中身残ってる?」

 

「えっと……残ってない、かな」

 

「……仕方がないかぁ」

 

 菜沙と手を離して鞄の中からタオルと水筒を取り出した。タオルを七草さんの首にかけ、水筒の蓋を外してそこに中身を入れて彼女に渡す。七草さんは不思議そうに首を傾げて、渡された水筒の蓋を見つめている。

 

「この季節にその状態はまずいって。とりあえずタオル貸すから、それとその中身も飲んでおきなよ」

 

「……いいの?」

 

「脱水症状になる方が怖いって」

 

 そう伝えたら、七草さんは中身を少し口の中に含み、飲みこんだ。その後は美味しそうに、中身を一気に飲み干した。随分と喉が渇いていたらしい。飲み終わると彼女は、美味しかったと笑顔でお礼を伝えてきた。

 

「まだ飲む?」

 

「うん!」

 

 再度蓋の中に中身を注ぐと、彼女はまた美味しそうに飲み始める。なんだか餌付けをしているような気分になった。彼女はまるで主人の帰りを待っていた犬のようだ。お尻辺りから尻尾を生やし、それをブンブンと勢いよく振るのが簡単に想像できる。そうこうしている内に、七草さんはあげた分をまた飲み切った。彼女は再度お礼を言ってくる。

 

「ありがと、氷兎君!」

 

「……おう」

 

 笑顔が眩しすぎる。天真爛漫と例えるべきか、純真無垢と例えるべきか……ともかく彼女は俺が今まで見てきた中で一番かわいい、ということだろう。夢の中で出会った人も含んでも一番だと答えられる自信はある。最もほとんど忘れてしまっているが。

 

「でれでれしない」

 

「痛ッ」

 

 菜沙に頭を叩かれた。首が勢いよくガクンと下に向く。加減というものを知らないんですかね、この娘。

 

「さてと、どうします?」

 

 来たのはいいが、何をするかなんて全く決めていない。時間もあまりないし、遠くには行けないだろう。菜沙も何も考えていない様子だ。七草さんは、行きたい所や、やってみたいことが多くて決まらないみたいだ。

 

「あまり遅くまでは無理だよね。近くでどこか行きたい場所はある?」

 

「んー……わかんない、かな。それに、何して遊ぶかも……」

 

 まぁ、当然といえば当然か。高校生にもなると、『遊び』というのも限られてくる。子供のように走り回る、という訳にもいかない。心の成熟と共に、そういった行為は減る傾向にあると思う。まぁ、無邪気とはかけ離れた成長をしたからとも言えるかもしれないけど、少なくとも俺はこのクソ暑い中走り回ろうとは思わない。むしろ、木陰で一緒に話したりする方がいいと思う。男子高校生が集まった場合、すぐに携帯取り出すからな。男女が集まるとなると、それくらいしか思いつかない。

 

「近くに公園があったよね。とりあえず、そこに行ってみる?」

 

「……まぁ、いいんじゃないか。七草さんはどう?」

 

「私は大丈夫だよ」

 

「……じゃあ、行きますか」

 

 そう思い、移動しようとしたのだが……また、視線を感じた。なんとなく孤児院の方をチラリと見ると、やはり堀に書かれた絵が目に入ってくる。動物園にいるような生き物に交じる、二足歩行の魚。意識しなくても入ってくるあたり、情けないけれど心のどこかで怯えているのだろう。堀の絵から視線をぐるりと回すと、孤児院の玄関の部分の扉からこちらを見ている人を見つけた。背丈が高い、女性のようだが……。

 

「………っ」

 

 目が合った。とりあえず会釈をすると、向こう側も薄らと笑って返してきた。

 

 ……なんだろう、あれは。正直気味が悪い外見をしている。腫れぼったい唇に、限界まで開かれたような目。顔のパーツも全体的に崩れているような気がする。それでいて、首もずんぐりと太い。なんというか……生理的に受け付けない見た目だった。人間かどうかすら疑わしく思える。一体……なんなのだろう。

 

「……氷兎君?」

 

「え、あ、あぁ……悪い」

 

 呼ばれて彼女に視線を戻したが、どうにも視線が突き刺さる。首だけを回し、後ろを見るとやはりまだあの女の人がこっちを見て笑っていた。気味が悪い。先程よりも、何割か増して不気味だ。すぐ後ろを歩いている七草さんに、あの女性のことを尋ねてみる。

 

「……なぁ、七草さん」

 

「ん、なに?」

 

「いや……その、孤児院の人に顔が変っていうか……なんか、崩れたような人っている?」

 

「崩れたようなって言われてもわからないけど……見てくれる大人はなんか皆変な感じ、かな?」

 

 ……見てくれる大人が、皆変な感じだと? まさか、あの女の人みたいな大人が沢山いるというのか。正直俺じゃ耐えられないぞ。そういったものを患って産まれた人もいるが……あれは違う。何かが違うんだ。人間だと断言できるような見た目じゃない。もっと根本的な、本質のようなものが異なっている。そんな気がした。

 

「変な感じって、どう……?」

 

「うーん……私達となんか違うっていうか……そんな感じ? 私達みたいな子供はそうじゃないんだけど、大人はなんか違うかな」

 

「……そっか、悪いな変なこと聞いて」

 

「ううん、平気だよ!」

 

 彼女は笑った。先程まで見ていたあの女性の笑顔とはまるで別物だ。いや、別物とすら形容しがたい。あれは……なんだろうか。とてもじゃないが言葉にするのは難しい。

 

「………」

 

 差別、とかそういう気はまったくないが、あれはまた別種だろう。人のようで人でないと言うべきか……のっぺりしているのに、所々がぼこぼこと盛り上がっているというか……。決して、人の顔ではないような、そんな感じだった。

 

「氷兎君?」

 

「……なに、七草さん?」

 

「その……私といて、嫌じゃない?」

 

 彼女は泣きそうな顔で俺に尋ねてきた。俺、何かしただろうか。不安に思う中でそう聞き返すと、彼女は俯きながら答えた。

 

「だって……なんか、嫌そう……」

 

「嫌そう……?」

 

「ひーくんがさっきから上の空だからだよ」

 

 菜沙の私的にハッとなった。いやけど、仕方がないだろう。思考のほとんどが持ってかれるくらい衝撃的なものを見てしまったような気がするんだ。しかし、上の空になってしまったのも事実。軽く頭を掻きながら謝った。

 

「……悪い。そういう訳じゃないんだ。嫌だとかそんなこと思ってないよ」

 

「本当?」

 

「本当だよ」

 

「……よかった」

 

 心底安堵したように彼女の顔が緩んでいく。並んで歩いているわけだが、俺の隣に菜沙、そして少しだけ後ろに七草さんがいる。なんとなくこの距離に壁を感じて、彼女がまだ色々と遠慮している部分があるのかもしれない、と思った。とりあえず、距離を縮めていくにはいい機会だろう。俺は彼女に手招きをして近くに来るように誘った。

 

「そんな後ろ歩いてると話しにくいだろ? もっと前に来なよ」

 

「えっ……う、うん……」

 

 少しおどおどした形で彼女は俺と菜沙の間に入ってきた。昨日俺達に、木に蹴りあとをつけるところを見せつけていた彼女と比べると、だいぶ雰囲気とかが違うと感じる。というか差が明らかだ。柔らかくはなったものの、まだ対人関係に慣れていないのだろうか。

 

「七草さんは、他の子と遊んだりとかしてないの?」

 

「……うん。皆私よりも幼いし……それに、私のこと怖がるから……」

 

 まぁ確かに、幼い子供には七草さんのやったアレは怖いかもしれない。俺が子供の頃なら、うわすげぇって言って近づいていくかもしれないけど。戦隊モノを間近で見ているようなもんだよ、アレは。それくらいに俺の幼い心には響くものだと思う。あれだな、某ゲームのどーんっ、だな。雑魚敵確殺の裏技。素晴らしい。

 

 なんて、彼女の立場になっていない俺だからそう考えられるものの。彼女としては中々難しいところもあるんだろう。ここは少しでも、場を和ませながら会話をしていったほうがいいのかもしれない。

 

「まぁ、俺達にそんな気を使うなよ。気楽にいこうぜ、気楽に」

 

「……まぁ、壁ができるよりはいいからね」

 

 菜沙はどこかむすっとしていた。そんなことには気づかず……というか、わからない、と言った方がいいのか。七草さんは笑顔で俺達に、ありがとう、と伝えてきた。そんな無垢な彼女を見て菜沙は大人気なく感じたのか、少しバツが悪そうにしている。菜沙に向けてニヤリと笑ってやった。

 

「やられたな、菜沙」

 

「……なにがよ」

 

 クツクツと声を押し殺して笑った。菜沙は未だそっぽを向いており、真ん中にいる七草さんは不思議そうに首を傾げるばかりだ。

 

 そんなことをしていると、俺たちは無事に近くにあった公園までたどりついた。公園といっても、そこまで大きいものじゃない。あるのは、滑り台、シーソー、ブランコ、後はベンチが設置されているくらいだ。子供が遊ぶには少し物足りないだろう。事実、子供は誰一人としてこの公園で遊んでいない。

 

「まぁ、日陰でゆっくりとすることにしよう」

 

 ベンチは草によって作られた屋根で日陰になっている。日陰に入ると、外とは比較できないほどに涼しく感じた。日陰に入るだけでここまで体感温度が変わるとは、流石に思わなかった。息を深く吐いて、涼しいなここ、と言って座り込んだ。

 

「本当だね。日光が当たってないだけでこんなに違うんだ……」

 

「うぅ……また汗かいちゃった……」

 

 七草さんの首元には、会った時と同じくらいに汗が滴っていた。その汗の辿る先を見ていくと、胸元目がけて滑り降りていき……。

 

「ひーくん?」

 

 はいすいません。思春期なんです。なんか、男子高校生が思春期だっていうとその程度のことは許されそうな気がする……しない?

 

 流石に菜沙の視線がキツくなってきたので、鞄から先程返してもらったタオルを取り出して彼女の首にかけた。別に汚いとか思ってない。だって女子だし。そこまで気にすることでもない。菜沙なんて俺が汗拭いたタオル持って帰って洗ってるし。

 

「ほら、タオル」

 

「あ、ありがと」

 

 タオルをかけられた七草さんは、恥ずかしそうに俯いていた。これはアカンな。体温が上がってきそうだ。世の中の女の子は七草さんを見習って、どうぞ。なるべく彼女を見ないように屋根を見つめながら、心の中で呟いた。

 

「そういえば……氷兎君と菜沙ちゃんって恋人なの?」

 

 七草さんがそんなことを聞いてきた。菜沙と恋人なのか……か。恋人ではないな、幼馴染だし。まぁもし菜沙に彼氏が出来ても、俺はその彼氏以上に菜沙を理解している気がするけど。しっかりしているように見えて、たまに抜けてたりするからな。思い返せば、彼女に料理を教えるのは大変だった……。今では俺と同じ程度にはできるけど、昔の菜沙は塩と砂糖を間違えるというテンプレを繰り返していた。買い物に行ったらキャベツとレタスを間違えたりな。

 

「ただの幼馴染だよ」

 

「……そうだね。ひーくんと私は幼馴染で、昔から一緒によく遊んだりしてるの」

 

 よく遊ぶというか、毎日……だよなぁ。だってコイツ家に帰るんじゃなくて俺の家に帰るし。それで風呂の時間に家に帰って、次の日の朝一緒に登校って感じだ。

 

 普段の俺達の様子をを伝えると、七草さんは目を輝かせて、羨ましそうに見つめてきた。

 

「良いなぁ……仲良いんだね、二人は。羨ましいなぁ……」

 

「……七草さんも、そうなれるよ」

 

「本当に?」

 

「本当だよ。なぁ、菜沙?」

 

「そうだね……。きっとなれるよ」

 

 嬉しそうに彼女は笑う。その笑顔は、まるで太陽のように明るく感じる。彼女は話しているとよく笑う娘だった。俺と菜沙が馬鹿なことをやっていると、つられて彼女も笑う。菜沙と七草さんの二人で、ガールズトークのようなものをしていても、彼女は笑っている。他人に合わせる笑い、というものがある。これはきっと生きていく上で必要なものだと思う。それを俺らは生活していく中で身につけていくのだが、彼女にはそれを感じなかった。

 

 楽しいから笑う。面白いから笑う。素敵だから笑う。本音なんて隠さないで、本心で笑っていた。

 

「………」

 

 だからこんなにも、彼女の笑顔が素敵なものに見えるのか。菜沙と二人で話している彼女らを見て、そう思った。時計を見てみると、もうすぐ日が暮れる頃だった。そろそろ帰らなければならない。

 

「もう、帰っちゃうの?」

 

 七草さんは悲しそうにそう伝えてくる。服の一部をぎゅっと掴んでいて、別れるのがどれほど悲しいのかわかってしまった。また会えるというのに、どうしてそうまで悲しがるのか。

 

 ……あぁ、なるほど。そういった経験がないのか。子供の頃から友達と遊んでいれば経験するだろう。親が迎えに来ても、もうちょっと、後少し。そうやって時間を伸ばして遊んで、さよならをするのを拒んだ。明日も学校で会えるというのに。きっとその想いが今の彼女にあるんじゃないか。良くも悪くも、彼女は子供ということだろう。

 

 そんな彼女を安心させるべく、彼女と向き合って約束をした。

 

「大丈夫。また明日も来るよ」

 

「本当っ!?」

 

「あぁ。約束しただろ、暇な時は来るって。何しろほとんど暇だからな」

 

 受験生だというのに褒められたことでもないか。まぁ、彼女が笑顔になるのなら、それはそれでいいんじゃないかなって思うところがあったりする。菜沙も彼女の言葉に頷いて答えていた。

 

「それじゃ、帰るか」

 

 来た時と同じような並びで俺達は歩き出す。ただ、少しだけ七草さんと俺達の間の距離は縮まっていた。帰り道で話している間も、彼女は俺と菜沙との会話で笑っていて、こうして仲良くなることができてよかった、と内心安堵した。

 

「………」

 

 帰り道、また変な視線を感じた。それはまた海辺でのことで、嫌に背中がぞわぞわと来た。思い出したのは、孤児院にいたあの女の人。あの顔を思い出すと、背中にぞくりと嫌なものがはしった。

 

 会いたくないと願いつつ、俺達は孤児院までたどり着いた。明かりは灯っており、中からは子供たちの声が聞こえてくる。扉の前まで駆けて行った七草さんが振り返って、胸元で小さく手を振りながら言ってきた。

 

「じゃあ……またね。氷兎君、菜沙ちゃん」

 

 それぞれさよならを言うと、彼女は孤児院へと入っていった。今は視線は感じない。しかし……なんとなく、変な気分だった。視線を感じていた時の感覚が残留しているような感じ。正直、この場でさえ少し薄気味悪く感じる。明かりが灯っているはずなのに、温かさを感じさせない。孤児院の構造のせいだろうか。見える範囲で、窓は二つしかない。かなりの大きさだというのに。

 

「ッ────!!」

 

 七草さんの消えていった扉が開かれる。そこから現れたのは……あの女の人だ。ゆっくり、ゆっくりと一歩を踏み出す。片足が前に出たら、身体を不自然に揺らしつつ別の足を出す。その表情は笑み。相手との共感を図るための笑みじゃない。その不気味さは、まさしく恐怖を植え付けるためのものだ。人の姿をした、何か。

 

「菜沙っ、早く帰ろう!」

 

「う、うん」

 

 菜沙も気味悪がっているのか、握っている手に力が入っている。人なのに、人じゃない。距離は十分離れているのに、生臭い匂いが鼻につく。あの堀に書いてあった絵は、あの女性を描いたものじゃないのか。そうとしか思えない。あぁ……夢に出そうだ。

 

 

 

 

 その後家に逃げるように帰ると、何事もなく一日を終えた。菜沙との間で、あの女の話は出ない。言葉にしたら、すぐそこにまで来そうな気がした。七草さんと会う時も、ちょっと孤児院から離れた場所に来てもらい、なるべく近寄らないようにした。そんなことを、一週間くらい続けた時だったか。

 

 俺達の日常は、いとも容易く崩れ去ってしまった。

 

 

 

 

To be continued……


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