貴方が隣にいる世界 -Cthulhu Mythos- 作:柳野 守利
何もない日というのは案外続くものだった。未だに任務を任されていない俺と先輩は、いつものように少し自堕落的に自室で過ごしていた。最近先輩の性欲もなりを潜めているようで、前みたいに突拍子もなくド下ネタをぶっ込んでくることはなくなった。
……試しに今度性欲剤を飯に混入させてみようか。そしたら先輩はどうするのだろうか。加藤さんにアタックに行って帰ってこなかったらそれはそれで面白い。
「……なんださっきからジロジロと。そんなに俺のことが好きか?」
「万が一どころか億が一にもないのでご安心を」
「あっ、そう……? それはそれで悲しいものが……」
さっきから横目で見ていたのがバレたらしい。アホな事をしていないで、小説の続きでも楽しむとしよう。そう思っていた矢先、コンコンッココンッとドアが小刻みにノックされた。そのノックの仕方から誰が来たのかを察した俺と先輩の顔が少しだけ歪む。先輩と顔を合わせると、行ってこいと手で指示を出されたので、仕方なく扉の前にまで向かっていく。
「……どちら様ですか?」
『せんぱい、私ですよ私! 暇なんで遊んでくださいよ』
「先輩、藪雨の奴が来ましたけど中に入れますかぁ!?」
「その前にボディチェックだ! それくらいわかるだろう!!」
「よし、まずパンツを脱いで両手を高くあげ、三回ワンッて吠えたら中に入れてやる。三回だよ三回、あくしろよ!」
『こんな廊下でそんなこと出来る訳ないじゃないですかぁ!?』
扉の向こうから媚びる声が聞こえてくる。その声と話し方がやけに神経を逆撫でする。俺はこんなに短気だっただろうか。いやそんなことは無いはずだ。短気は損気。うん、落ち着こう。
一呼吸ついて落ち着いた俺は、藪雨に向かって他の男に襲われないうちに女子棟に帰れと言ってから自分の椅子へと戻っていく。もはやあの後輩にさん付けするのも馬鹿らしくなってきた。
「なんでそんなに私の事邪険に扱うんですかぁ!!」
「何勝手に鍵開けて入ってきてんだお前!?」
いきなり扉の鍵がカチャリと開いて、藪雨が部屋に入ってきた。この前見た時もつけていた華の髪飾りを頭につけている格好だった。
……いや今はそんなことはどうでもいい。重要なことじゃあない。どうやって部屋の中に入ってきやがったんだ。そう尋ねると藪雨はなんてことないみたいな表情で、私鍵開けできるんですよぉ、と片手に持った針金を見せるように振りながら返事をしてきた。ジーザス。なんでこんな女にそんなスキルを持たせたのですか。
「あれ、私の『起源』教えてなかったですっけ? 聞きたい? 聞きたいですか?」
「聞きたくない。氷兎、例のスプレーを持ってこい。使用を許可する」
「あの鼻に来るスプレーはやめてください! アレ絶対ヤバいやつじゃないですか!」
「俺特製のゲキカラスプレーをくらいたくなければ、もっとお淑やかにしておくんだな。あとその汚い顔をどうにかしろ。七草さんを見習え」
「あんな女の子の理想の具現化みたいなのと一緒になれとかそれこそ無理です!」
考えてみればまぁ……確かにそうか。背丈、胸、すっぴん、スタイル。どれを比べても藪雨は七草さんには勝てない。そして内面でも勝てないときた。もはや居るだけで毒と化する邪魔者である。もう少しまともな仲間候補はいなかったのだろうか。
……まさか、この前売った喧嘩のせいでコイツを押し付けられたんじゃなかろうか。そう考えたら腹が立ってきた。クソが、上司なんて録なもんじゃない。内心上司に対して辛辣な言葉を吐いていると藪雨は気持ちを切り替えたのか、じゃあ今から発表しまーす、等と身体を翻して格好つけ始めた。
「ふふ、聞いて驚かないでくださいよ……。私の起源はズバリ、『忍者』です! そう、何を隠そう私はくノ一だったんですよ!」
「対魔忍かね。触手で嬲って差し上げろ」
「唐突なアダルトゲーの名前はNG。しかしお前みたいのが忍者とか恥を知れ恥を。忍者と名乗りたいなら天井裏から出直してこい」
「だからなんで私に対してそんなに辛辣なんですかぁ!? 唯野せんぱいは七草さんを扱うみたいに私に優しくできないんですか!?」
「……人生三回くらい繰り返したら優しくしてやらなくもない」
「そんなに嫌なんですか!?」
なんだかんだいじられて笑っている藪雨を見て、コイツのポジションが確定した。いじられキャラだ。本人は特に不満もなさそうだし、このまま適当にあしらっておこう。流石に毎日鍵をこじ開けて入ってきやがったら対応を考えねばならんが。
藪雨は俺達が帰れとアピールしているのにも関わらず、気にしていないような感じで空いている椅子に座った。仕方が無いので、俺は藪雨が飲むようの珈琲を作るべく立ち上がる。
「あれ、私の分作ってくれるんですか?」
「部屋に来ちまったもんは客だからな。もてなしくらいはするさ。先輩、戸棚にお菓子が入ってると思うので、それ出しといてください」
「……あ、ごめん。昨日ゲームしながら食っちまったわ」
「だろうと思ったんで板で区切って隠してあります」
「俺のことをよくわかってると言うべきなのか、それとも信頼されていないと落ち込むべきなのか、どっちなんだ?」
「両方ですよ。最近お菓子食べすぎですよ? 少しは自重してください。VRトレーニングだって、身体動かすわけじゃないのでエネルギー消費しないんですから」
「……そっか。確かに、動いてると錯覚しちまってるな。少し控えるか……」
「唯野せんぱいは鈴華せんぱいのお母さんですか」
ジトっとした目で睨んでくる後輩。ちょっとイラッときたので珈琲を濃い目に作っておく。しかし、珈琲は濃ければ濃いほど、俺の好きな香りがしてくる。この香りがたまらない。一種の麻薬のようなものを使っている気分になってくる。
「……せんぱい、顔が歪んで気持ち悪いです」
「今度余計なことを言うと口を縫い合わすぞ」
裁縫キットから取り出した針を持って見せびらかしながら警告しておく。いや流石に縫ったりしないが。麻酔がなかったら痛いだろうし、そもそも人体の縫い合わせなんてやったことがないのだから。
……麻酔があればやるのか? そう聞かれたら……いや、流石にやらないとも。俺は医者になる気はないのだから。
藪雨の声を無視しつつ珈琲を焙煎していると、部屋の扉がコンコンッと叩かれた。この叩き方は、菜沙だろうか。珈琲を作る手を止めずに、入っていいと伝えると、予想通り菜沙と七草さんが部屋の中に入ってきた。
……菜沙が藪雨を見た途端少しだけしかめっ面になったのを、俺は見逃さなかった。やっぱり菜沙も自分を偽る女の子は嫌いなんやなって。
「ひーくん、随分と藪雨ちゃんと仲良くなったんだね?」
「仲良くない。即刻部屋から連れ出してほしいくらいだ」
「酷いっ!! せんぱい、私の下着を脱がそうとしたくせにそんなこと言うんですか!?」
瞬間、ピシッと部屋の空気が凍りついた。背筋に寒気がする。振り向いてみれば、菜沙が笑顔を浮かべたまま俺のことを見つめていた。いや、目が笑ってない。ハイライトがついていない。なんだろう、前にやったギャルゲーのエンディングの一つが浮かんできた。俺は死ぬのだろうか。
「へぇー、ひーくんそんなに女の子の下着が見たかったの?」
「誤解です。断じて、俺はそんなことはしておりません」
「私に首輪をつけようとして、犬みたいに吠えてみろって脅してきて……」
「お前は黙ってろ藪雨ェ!!」
最早事態の収束が困難になってきていた。菜沙はジリジリと歩み寄ってきているし、七草さんはオドオドしててダメだし、先輩は両手を合わせて合掌しているし、発端の藪雨はニヤニヤと笑っているし……。
……後であの二人にゲキカラスプレーぶっかけてやる。俺はそう決意した。しかし菜沙の進行は止まらず、それに対する俺の決意は定まらない。土下座で許してもらえるだろうか。そう思った俺はゆっくりと姿勢を前のめりにしていくのだが……。
「……冗談だよ。ひーくんがそんなことしないって、知ってるもの」
「な、菜沙……」
「あんまり、藪雨ちゃんのこと虐めたらダメだよ」
至近距離まで近づいてきた菜沙は、コツンッと拳を頭を軽く叩くように置いた。その後彼女は少しだけ微笑むと、珈琲は甘めにお願いねっと耳元で囁いてから空いている椅子に戻っていく。
……やけに甘ったるい声が耳の中で反響していた。珈琲の焙煎を行っているせいだろうか。少しだけ、暑く感じる。その暑さを紛らわすように、俺はわかったと返事をしながら珈琲を作る作業に戻った。
「……なんでしょうねこの甘い空間は」
「羨ましいもんだ、本当……」
後ろの方で何故か仲良く話している先輩と後輩には、ゲキカラスプレーだけでなく、デスソースのオマケを後でつける事にした。明日のトイレは尻が痛くなることだろう。トイレで顔を歪める姿を想像すると……少しだけ優越感が沸き起こってきた。これが愉悦なのだろうか。
「……氷兎君が変な笑い方してる」
「ひーくん、流石におかしいよ」
「……すまない」
二人の声に我に返った俺は、出来上がった珈琲をそれぞれの元へと運んでいく。テーブルに出されたお菓子を適当に食べ、珈琲を飲みながら世間話に花を咲かせていった。平和な一時が流れていく……。
「………」
珈琲を飲みながら時々俺のことを見て微笑む菜沙と、時折目が合ってはにかむ七草さんを見て、次の任務も無事に帰ってこようと気持ちが切り替わった。
帰ってこよう。この場所へ。誰かが待ってくれているこの場所へ。彼女との、約束の為にも。
To be continued……
ようやく第4章にいけそうかな