貴方が隣にいる世界 -Cthulhu Mythos- 作:柳野 守利
起きた時にはもう日が高く登っており、時計の短針は午後一時を指し示している。食卓に向かってみれば、そこには俺と七草さんの二人分の昼食が用意されていた。多分、海音さんが用意してくれたものだろう。
椅子に座っていざ食べようと思った時、ちょうど七草さんがやってきた。その顔はまだ疲れが抜けていないように見えるが、彼女の髪は綺麗で真っ直ぐだった。どんなに彼女が疲れていても、彼女自身が綺麗であることには変わりはなく、またその輝きは失われないのだろう。彼女は俺を視界に収めると、疲れた表情から一変して笑顔になった。
「おはよう、氷兎君」
「おはよう、七草さん。とはいっても、もう昼過ぎだけどな……」
「帰ってきたの、ほとんど朝だったもんね……」
「もう二度とこんな距離走ってたまるか……」
俺の対面に座った彼女は、めずらしくため息をついた。さしもの彼女も明るく振る舞うことすら億劫らしい。いつも明るい彼女だったが、そんな彼女の別側面を見ることが出来て、彼女には悪いが……少し嬉しかった。
そうやって彼女を見ていたら、ご飯を食べようとした彼女と目が合ってしまった。彼女は何も言わず、ただ微笑んだ。俺は顔が熱くなるのを認識しながら、微笑み返して自分の昼食を口の中へと運んでいく。
そうして特に会話もなく……しかし気まずい雰囲気というわけでもない状態のまましばらく時間が経った。誰かの足音が聞こえ、扉の方を見ていると……これまた疲れた様子の先輩と、いつもの仏頂面を維持した西条さんがやってきた。
……なんで先輩はそんなに疲れきっているのだろうか。理由はわからないが、彼はズボンのポケットに手を突っ込んだまま挨拶してきた。
「よぉ、二人とも。おはようさん」
「おはようございます」
「おはよう、翔平さん」
「……疲れが抜けきってないところ悪いが、報告をしてくれ。夜間の調査はどうだった」
先輩と西条さんも席につき、俺と七草さんはご飯を食べる手を時々止めながら夜間の出来事について話し始めた。
山の調査を任された訳だが、そもそも山といったっていくつもある上に、山のどこに収容施設があるのかもわからない。闇雲に探していては時間の無駄だ。だから俺は、山の付近に車が多く止められている場所があるかどうかを探した。招待状に徒歩で来いとでも書かれない限り、確実に移動手段は車だ。しかも帰らないとなれば……車は放置されていることになる。
だが、問題はなぜ警察が車を見つけられなかったのかだ。警察が見つけられていないというのなら、おそらく隠されているのだろう。それか……車が大量に置いてあっても不自然ではない場所。登山用の整備された山の可能性が高い。
そうやって見当をつけて探した結果……見つけることができた。山に巧妙に隠され、しかし指示があれば見つけられるような場所に、コンクリートで作られた小さな建物があったのだ。その場所を覚え、俺と七草さんはまた走って帰ってきた。帰りついた頃には、俺も彼女も疲労困憊だった。家に辿り着いた時の記憶なんてものはろくに残っちゃいない。そんな疲弊具合だった。
説明を交えながらの報告をすると、西条さんは顎に指をそえながら満足そうに頷いた。
「……なるほど、中々考えたものだな。しかし大きな建物ではなかったか」
「見た目はそう大きくはないですね。でも、真新しい感じもしてましたし……夜間だったおかげで、機械の稼働するような音が聞こえましたよ。それもおそらく、下からです」
「地下構造か。確かに、地下ならどれだけ大きな収容スペースがあっても表沙汰にはならない」
西条さんは携帯でマップを見せてきた。それに俺と七草さんでどの辺だったかを話しながらおおよその場所をマッピングした。七草さんも小さく頷いているし、場所はまず間違いないはずだ。
西条さんは携帯をしまうと、椅子から立ち上がって俺達に言った。
「準備をしろ。さっさと片付けるぞ」
「……ちっと休ませてもらえませんか。俺も七草さんも、まだ疲れが……」
「……私、ちょっと身体が重い感じがする」
七草さんは自分の綺麗な足を触りながらそう言った。あれだけの距離を走ったのだ。流石に足の筋肉もパンパンだろう。できることなら、俺も今日ばかりは休みたかった。いやそもそも、昼間に突撃するのはやめてほしい。俺は昼間はまともに戦えないのだから。
そうやって抗議しようとしたが……めずらしいことに、先輩が西条さんに続いて立ち上がったのだ。彼の表情は、いつもの様子とは違い真剣そのものだった。
先輩は俺と七草さんに向き直ると、軽く頭を下げて頼み込んできた。
「悪い、二人とも……。でも、俺早くこの任務を解決してやりたいんだ。だから……頼む」
俺も七草さんも、そして西条さんも彼の行動に驚かされた。まさか先輩がそんなことを言ってくるとは思わなかったのだ。先輩なら俺達の体調を気遣って来ると思ったが……なるほど、先輩が疲れたような顔をしている理由と関係があるのだろう。それはきっと、他の誰かのため。となれば……海音さんか、白菊君か、はたまた両方か。
俺は七草さんと顔を合わせた。彼女は軽く頷いて、その顔を引き締めた。どうやら彼女はやる気らしい。まったく、男の俺よりも胆力がある。羨ましいものだ、っと俺は少し自嘲気味に口元を歪めながら返事を返した。
「……わかりました。じゃあ、行きましょうか」
「……助かるよ。でも、二人とも気をつけてな。怪我とかしないように」
「わかってますよ」
「私も大丈夫です。まだ、氷兎君のこと護れるよ」
俺の方を見て微笑みながら言ってくる七草さん。俺は立ち上がって、そんな彼女の頭を軽く叩くように拳を置いた。彼女が不思議そうに俺のことを見つめてくる。俺は彼女に言おうとした言葉を一旦飲み込んだ。なんとも恥ずかしかったが……俺は彼女に言った。
「……俺も、七草さんのこと護れるように頑張るよ」
「……うんっ!」
まるでお日様のような明るさの笑顔だった。彼女らしい笑顔だ。まったく……本当はそんなことを言いたかったわけじゃなかったんだがね。
俺のことなんて護らずに、自分のことを護ってよ。そう言うには俺はまだ弱すぎたのだから。せめて、俺が彼女を少しでも助けられたなら……いや、そんな事態にならないことを祈ろう。そうして俺達は各自で荷物を準備し始めた。
「………」
家を出る間際まで、先輩が海音さんのいるであろう部屋をじっと見つめていたことが気になったが、特に気にしないことにした。どうやら先輩は俺達の準備中に何かしていたらしいが……まぁ、先輩のことだ。きっと状況は悪くならないだろう。
日はまだ高い。身体能力が上がっていないことが少し恐ろしかったが……俺達は逃亡した男性研究員、
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現地まではタクシーを使っていった。先輩と西条さん。俺と七草さんに別れて二つのタクシーで移動したが……道中、七草さんは疲れからか寝てしまい、頭を俺の肩に乗せるようにして寝てしまった。非常に心の和むような時間だったということだけは確かだった。寝ていないのに眠気も吹き飛んだ。おそらく興奮のせいだろう。
……変態か。俺は逸る気持ちを先輩のアホ面を思い出すことで押さえ込んだ。
各自で必要な荷物を持ち、タクシーが離れていくのを見届けてから、早速俺達は山へと向かっていった。舗装された山道に入るのではなく、しばらく迂回するように移動して進んでいると……不自然に開けたような道が存在していた。
「確かここのはずです。奥に行けば建物があるかと」
「一般人のいる可能性もある。武器はいつでも出せるように隠しておけ」
西条さんの言葉通りに隠そうとしたが、服の中に銃を隠すことしかできなかった。槍はどうやっても隠せないだろう。仕方なく袋の中にしまったままにすることに。先輩と七草さんは武器を隠すのにも困らない。しかし西条さんはキツいのではないか。そう思っていたが……なんと彼はズボンの内側に刀を差し込み、上着で刀の上の部分を隠していた。
……なんだって俺だけこんな不便な装備なんだろう。今度ナイアに会った時は武器を取り出す魔術でもあるなら教えてもらいたいものだ。
「……そういえば、辿り着いたとして、俺達はどうやって中に入るんだ? 俺たちゃ招待状を持ってないんだぞ」
「確認してくる人物がでてきたなら、ソイツを鎮めて中に入る。機械ならば少し弄れば入れるだろう」
「お前まさか機械にも強いのか?」
「俺を誰だと思っている。金だけ無駄にかけられた世界トップ企業の息子だぞ」
皮肉げに言っているが、西条さんの持っている知識や技能はそこら辺にいる人を軽く凌駕しているだろう。戦闘能力、技術力、知識……隙がなさすぎる。やはりこの男は超人か。
「……あっ、見えた。あれだよね氷兎君」
七草さんの指さした方向に、コンクリートで作られた建物があった。来るものを拒むように重々しく作られた鉄の扉が見えている。見た限りでは、何か認証するような機械がある訳ではなさそうだ。
周りに気を配りながら近づいていくと、鉄の扉は俺達を迎え入れるかのようにひとりでに開き始めた。錆び付いたり油が切れたりしていないせいか、やけにスムーズにかつ静かに扉は開かれた。
中は殺風景な通路で電気がついて明るかったが、しかし人はいない。唾を飲み込んだ俺は、隣にいる先輩達を見ながら言った。
「……たんなる自動ドアじゃないですよね。明らかに誘われてますよ」
「パッと見監視カメラはなさそうだけどなぁ……」
「今の技術なら目につきにくい小さな監視カメラも設置が可能だ」
「うぇ……バレてんのか……」
「……どうしますか?」
行くか、退くか。どちらにせよ悪手だろう。俺達のことがバレてる状態で行けば迎撃に遭う。かといってここで退けば逃げられる、もしくは警備を強化される。
「……行こう」
先輩の声が聞こえた。彼の顔にはもう迷いはなく、静かにその先を見つめ続けていた。
その言葉に反対する人はいなかった。警戒を更に強め、俺達はその建物の内部へと侵入して行ったのだ。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
一体どれだけの人が、障害を患った人を本心で心配するのだろう。上辺だけのものでなく、心の底から心配する人は、どれだけいるのだろう。
……きっといない。母でさえそうだったのだから。関係のない赤の他人がそんなことを考えるわけない。ならば、私を一体誰が助けてくれるというのだろう。
昨日の夜、私は鈴華さんに当たり散らしてしまったけど……でも、きっと誰も私を責めることはできない。生きる権利を持ちながら、しかし生きる術を持ち合わせることの出来なかった私。そんな私を助けられるのだとしたら、どうやって助けてくれるんだろう。
石油王が私を助けてくれる? 医者が私の足を治せる? 私に全財産をなげうってくれる人がいる?
……ありえないことだ。そして、ふと思ってしまった。私を助けてくれるのは、もしかしたら『死』だけなんじゃないかなって。それ以外に、誰がどうして、私を助けてくれるのだろう。
「………」
バイクの音が遠くから近寄ってくる。次には誰かがポストに手紙か何かを投函していく音が聞こえた。そしてまた、音は遠ざかっていく。
……こんな私を、誰が助けてくれるのだろう。
やっとのことで、ポストまで辿り着いた。中にあったのは、白い紙にピンクの彩色が施された一枚の紙だった。
……こんな私を、どうやって助けてくれるのだろう。
その紙にはパソコンで入力された文字が書かれていて、裏側は地図が載っていた。表には、たった一文だけ文字が書かれていた。
『加茂 海音殿。貴方を幸せへと招待します』
……こんな私を、助けてくれるものがあったとするならば。
それはきっと『死』という名の救済か……そう、『魔法』のようなものだろう。
誰もいなくなった家を見上げてから、私は車椅子を動かしていく。
誰も私を責めることはできない。誰も私を咎めることはできない。誰も私を止めることはできない。
……私だって、幸せになりたい。
To be continued……