月曜日の早朝。
早起きな学生諸君と忙しい社会人の皆さんが軽くダウナーな気分になるその時間。
少年、碇シンジは一周廻って元気だった。
昨夜はそれはもう悶々と悩んだのだが、よくよく考えてみれば綾波レイという少女が『本当の姉』である可能性もあるのだ。それに、学校では既に『碇姉弟』として定着し、ノリの良い教員などは既に『碇姉』、『碇弟』という呼称でレイとシンジを呼ぶことすらある。
今更シンジがレイを『お姉ちゃん』と呼んだところで何か変わるはずがあろうか、いや、無い。即ち、シンジがそれによって被る被害も無いのだ。
そう開き直ってみれば、寧ろ、シンジが『お姉ちゃん』と呼ぶことで困惑する周囲を眺めて愉悦に浸るのも一興ではないかとすら思える。
ネルフでも姉弟のように振る舞えば、レイがゲンドウの隠し子なのかどうかもハッキリするだろう。それによりゲンドウの立場がマズい事に成ったとしても、それはそれで十四年も孤児院に捨てられていた意趣返しになるだろう。
「うん。何というか、僕に罰ゲームと言うか、巡り巡って父さんに罰ゲームだよね」
気分良く鼻歌など歌いながら今日のお弁当であるチンジャオロースを炒めるシンジ。レイに配慮して肉の代わりに高野豆腐を使ったそれは、本物の肉とは味わいこそ違うがシンジの腕前もあり、なかなか美味しく仕上がっている。
「やっぱり、中華はガスじゃないとね」
電磁調理器では火力が足りない、などと考えながらメインとなるチンジャオロースを作り終え、胡麻和えの製作に取り掛かる。
そんな中、チンジャオロースの香りに釣られてミサトが部屋から這いだしてきた。
「ふぁぁあ、むにゃ。……おはよー。随分ご機嫌ねぇ、シンちゃん」
「あ、おはようございますミサトさん。お皿に取り分けてある分のチンジャオロースは食べても大丈夫ですよ」
「じゃ、頂きまーす。……うん、おいしー。……ビール欲しくなるわね。」
「朝からは駄目ですよ。……晩御飯はゴーヤーチャンプルーですから」
「マジ? ……じゃあ、我慢の甲斐もあるわね。楽しみにしてるわ」
「任せて下さい。……よし、お弁当完成。じゃ、学校に行く準備してきますね」
「はいはーい。……ご飯はジャーの奴で良いの?」
「はい。それで良いですよ」
ミサトの声に答えてからシンジは自室に引っ込み、カバンにテキパキと弁当や水筒、授業用のノートパソコンといった何時もの道具を鞄に放り込み、パジャマにエプロンという姿からカッターシャツにスラックスという学生らしい格好に着替え、お気に入りの音楽プレーヤーをポケットへと突っ込んで自室から出る。
「じゃ、行って来ます!!」
「行ってらっしゃーい。あ、シンちゃん、今日は五時からシンクロ測定だから忘れちゃダメよ?」
「了解です!」
元気良く駆けていくシンジ。
その背中にヒラヒラと手を振るミサトは、麦茶でチンジャオロースを流し込んでいた。
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「おはよう、トウジ、ケンスケ」
「おう、センセか。おはようさん」
「おはよう、碇。……約束覚えてるか?」
「当たり前だよ。僕は流石に昨日の事はまだ覚えてるからね」
「まだ……って、その内忘れるんかいな」
「トウジ、かつてニーチェはこう言った。『忘却はよりよき前進を生む』と。つまり、忘却は脳髄のフォルダー整理の結果であり、不要な情報はいずれ忘却される物なんだよ」
「……今日のセンセは朝から無駄に小難しいのう」
「……羞恥心が一周廻ってハイテンションなんじゃないか?」
「あー、成る程。納得やわ」
通学路をだらだらと進むバカトリオ。年中泣きやまぬ蝉の声をBGMに、他愛もない会話を繰り広げ、お互いにふざけ合う彼らが歩く速度は当然ながら遅い。
走ればせいぜい10分、歩いて15分の道のりを20分掛けて登校すると言えば、何となくその速度が分かるかと思われる。
そんな、蝸牛の如き歩みを進める彼らに、横合いから声を掛ける者が一人。
第三新東京市立第壱中学校二年A組のお母さん、もとい、委員長の洞木ヒカリである。小走り気味に学校へ向けて進む彼女は、どうやらトロトロと歩いている三人を見かねて声を掛けたらしい。
「おはよう、三人とも。……あなた達は朝から元気よね」
「おはよう、洞木さん」
「お、委員長か。おはよう」
「おはようさん、委員長」
「うん、おはよう。……ところで、今日は朝礼があるから、急がないとヤバいわよ? じゃあね」
そんなアドバイスと共に軽やかに駆けていくお下げを三人はポケッとした顔で見送った後、何とか再起動を果たす。
「ヤバいぞ、碇、トウジ!!」
「生活指導のオッサンにド突かれん内に急ぐで!!」
「分かってる!!」
通学鞄を小脇に抱えて通学路を駆け抜ける三馬鹿は委員長を追い越し、他の生徒を5人程牛蒡抜きにしながら校門へと突撃する。
現在午前七時二十分。
月曜日はまだ、始まったばかりである。
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さて、何とか遅刻を免れた面々は何時も通り適当に授業をこなし、昼休みに突入している。
今日は若干雲行きが怪しいため、昼食は教室で食べることに相成った。
最近席替えをしたばかりの座席配置は、今回の席替えが『自由』だったためか、シンジ、レイ、トウジ、ケンスケ、そして委員長の五人の席が近くなっている。委員長は先生から内密に依頼されたらしい三馬鹿の見張りが目的だが、それ以外は本当に自由に座っているのだ。
そして、レイは当然のように自分の机で小説を読みふけっている。
「綾波、昼飯食わんのか?」
「あ、委員長もどう?」
「ありがとう相田君。ご一緒させて貰うわね」
「お姉ちゃん、一緒に食べない?」
「……食べるわ」
しっかりと罰ゲームのルールを遵守しているシンジに、レイは少しだけ苦笑混じりの笑顔を浮かべて挨拶を返す。
「お姉ちゃん、これ、今日のお弁当」
「ありがとう」
「……ホンマに違和感ないんやな」
「……こうしてみると、マジで姉弟だな」
言い出しっぺのケンスケですら違和感の無さに驚くその光景に、事情を知らない周囲が驚かない訳がない。
違和感が余りに無さ過ぎて、『あぁ、やっぱり姉弟なのか』と完全に信じ込んだ連中が大量発生するなかで、委員長であるヒカリがトウジにこっそりと尋ねる。
「……ねぇ、鈴原」
「……なんや、委員長」
「……碇君と綾波さんって本当に姉弟なの?」
「……分からん。……センセは『腹違いの姉弟』ちゃうかて言うとったけどな」
「……プライベートには踏み込まない方が良いわね」
「……せやな」
ひそひそと密談するトウジとヒカリ。
そんな二人の会話を気にすることなくレイとシンジは和やかに雑談している。
「……今日のお弁当は、何?」
「高野豆腐のチンジャオロースとほうれん草の胡麻和え、中華風玉子焼き、あと枝豆入り炒飯だね」
「中華?」
「うん。今日は全体的に中華にしてみたんだ」
「そう」
「あやな……じゃなかった、お姉ちゃんは中華は好き?」
「ええ。……肉料理以外なら」
「それなら良かった。……明日のメニューは何が良い?」
「……和食」
「分かった。献立考えとくよ。……さて、そろそろ食べようか」
シンジの言葉で、五人は各々の昼食を机の上に取り出して手を合わせる。
シンジとレイは中華弁当、トウジは購買のカレーパン、ケンスケは同じく購買の玉子サンド、そして、委員長は女の子らしいお弁当。
「いただきます」
その声と共に開始された昼食は、委員長という新たなメンバーも加えて一層賑やかになり、シンジの昼休みはなかなか楽しい時間となった。
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そして、ある意味本番とも言える午後五時。
現在、シンジとレイはネルフ本部にあるテストルームでシンクロテストに取り組んでいた。
さて、その中でシンジは本日第二の目標に挑んでいる。
目標、というのは、先日レイから聞いた『エヴァには心がある』という情報の確認。即ち、エヴァとの対話である。
シンジからすれば、『使徒』であるサキエルと会話が可能なのだから『人造人間』であるエヴァとの会話は案外すんなり行きそうにも思える。事実、先程から一方的に話しかけているだけではあるが、シンジは確かに手応えを感じていた。
「それでさ、最近はオムレツの中身をいかにトロトロにしたまま表面を焼き上げるかに全力を……」
「学校で習ったんだけど、セカンドインパクトって本当に隕石なのかな? 普通、隕石が降ったら舞い上がった粉塵で日光が遮られて寒冷化すると思うんだけど……」
「最近買った『私を月へ飛ばせて』って曲なんだけど、結構お気に入りなんだ。それで……」
と、まぁ、兎に角多種多様な話題を振り続けた結果、シンジが感じ取ったのは、ある確信であった。
初号機が食い付いた、というか、反応した時には、エントリープラグ内でシンジが腰掛けているインテリアが前進し、苦手な話題の場合後退する。
そして、エヴァが特に食いついた話題は『委員長から聞いた女子のお化粧事情』、『最近デパートに出来たファンシーショップの噂』、『星占い』、『最近発売された新作ケーキ』。
此処から導き出される結論は単純明快。
「……エヴァって、女の子なのかな? …………そう言えば、エヴァンジェリンって名前の女優さんがこの前映画に出てたし、エヴァンゲリオンは全員女の子なのかも」
もし此処にサキエルが居れば、「シンジ君そもそもエヴァとは聖書で言う『イヴ』とほぼ同一の女性名なのだよ」などと補足を入れてくれたかも知れないが、まぁ、シンジの予想が外れで無いのは確からしく、インテリアがかなり前進した。
「うーん、当たりなら、話題も考えた方が良いよね。……女の子が好きそうな話題か。……うーん」
むむむ、と唸るシンジは、暫く考えた後、はたと閃いた。
「……女の子のことは、女性に訊けば良いんじゃないかな?」
そうと決まれば善は急げ。パイロットの集中力を乱さないために切断されていた無線をオンにし、此方をモニタリングしているリツコとマヤへと声を掛ける。
「リツコさん、マヤさん、質問があるんですけど」
『あら、シンジ君、何か異常でもあった? さっきからシンクロ率は順調に伸びてるけれど』
『先輩だけじゃなくて、私にも質問ですか?』
「はい。……女の人が好きな話題ってどんな話題ですか?」
『はい?』
シンクロテスト中に何故その質問が必要なのか分からない、と言いたげな二人の顔が通信画面に表示されたのを見て、シンジは慌てて情報を補足する。
「さっきからエヴァに話し掛けてたんですけど、何となくエヴァが女性っぽいので、女性向きの話題を振ればシンクロ率が上がるかな、と思ってたんです」
『なるほど……。私は研究所に籠もりきりだからアドバイスし辛いけど、マヤは何か思い付く?』
『うーん、ランチに行ったりすると良く聞くのはゴシップネタですね。誰々が不倫したとか、誰々が付き合ってるとか……』
「なるほど……」
ならばゴシップ方面で喋り掛けてみるか、と考えたシンジは、マヤとリツコに礼を言って通信を終了し、エヴァにネタを振る。
「そう言えば、今日は色々あって綾波さんの事を『お姉ちゃん』って呼んでるんだけどね。幾ら何でも僕と綾波さんの顔が似過ぎなんだ。……そこでなんだけど、僕は綾波さんは父さんの隠し子なんじゃないかと思ってるんだよ。だって、僕と綾波さんが同い年ってことは、母さんが不倫したってことは無いでしょ? 子供が産まれるには三百日ぐらいかかるって学校で習ったからさ。となると、父さんが不倫した結果生まれたのが綾波さんじゃないのかなって思うんだけど……」
シンジが語るそれは、彼の知りうる限りで最大のゴシップネタである、『ネルフ総司令碇ゲンドウ不倫疑惑』。
その情報に対するエヴァの反応と言えば。
「エヴァ初号機、両腕固定具を破壊!!」
「まさか、暴走!?」
「いえ、コレは……」
マヤとリツコが戦慄する中、エヴァは自由になった両手でもって人間が悩むときの如く腕を組んで眉間を揉んでいる。
その姿は、明らかに暴走、というより、理性的な行動。
その姿に戸惑いを隠せないリツコとマヤ、外の様子を知らぬが故にペラペラと喋り続けるシンジ、『考える人』のポーズで何やら悶々と苦悩する初号機。
完全にカオスに陥ったその試験場で、レイと零号機だけが黙々とシンクロテストを行っていた。