四
ひと月が流れた。その間、各鎮守府や泊地から出撃した艦隊が深海棲艦の基地周辺にある拠点を次々に占領していった。総力戦の様相を呈した今回の作戦は、いつしか『決戦作戦』と呼ばれ、かつてない規模の戦いへと深化している。自らの総本山を守るため、枯れぬ泉を思わせる量の深海棲艦どもが続々と艦娘たちの前に立ちはだかった。大本営によると、やはり姫級を中心に構築されたコロニーの真下にあると目される『深海基地』から、彼女らが異常発生しているのだった。
呉は『深海基地』を海底の大陸斜面から引き剥がすための爆撃任務を任されていた。指定座標の水深五百メートル地点で爆雷を起爆させ、『深海基地』を海底に固定している建材を破壊する。その後、横須賀の別働隊がクレーンで『深海基地』を海上に引き揚げる。それが『決戦作戦』の勝利条件だった。
◇
水平線を遮って妖しく揺らめく黒い幽鬼。身に纏う漆黒の天鵞絨が夜のようにはためき、彼女の白い肌と冷酷な微笑を一層美しく見せていた。その深海棲艦の目は余裕を
直後の着弾による轟音と爆風、そして吹き払われた煙の中から、幽鬼を守るように現れた一頭の巨腕の怪物がほとんど無傷で立っている。海面下からの出現と同時にその油膜に濡れた腕が砲弾を滑らせ弾いたのを、長門と陸奥はその目で見た。怪物は両腕を高々と上げて咆哮する。
「ウオオオオオオオオオオオ!」
「見た? 長門。徹甲弾だけを狙って弾かれたわ。まったくこれは一筋縄じゃいかなそうね」
醜悪な怪物の顎部を慈しむように、幽鬼はその滑らかな腕を這わせて撫でた。この二体こそが幾多の艦娘を沈め、畏怖と戦慄と絶望をこの海にもたらした者、姫級深海棲艦『戦艦棲姫』だ。長門の率いる決戦艦隊は、ついに敵の首魁と会敵していた。呉の侵攻が基地直上の最前線まで辿り着いたことを示している。決戦作戦も、深海棲艦との戦争も、決着の時は近づいてきていた。
姫の背後に構えた巨大な怪物は、唸り声を轟かせ続けている。砲塔が軋むほどの空気の震動に、艦隊全員の表情は険しさを増した。気がつくと、辺りにふわふわと宙を舞うボーリングの球ほどの大きさの球体飛行物体があった。それはバルーンか雪玉のように艦隊の周りを浮遊しては、一帯を回遊している。しかしある瞬間に「ぐちゃり」と水を打った音がして、球体の中心は真一文字に裂ける。グロテスクな口が艦娘たちを嘲笑うように開いた。姫が引き連れている怪物の背後の陰から、もう一体の人型深海棲艦が姿を覗かせた。
身にまとう漆黒のドレスは姫級のものとは違いゴシック調だ。しかし同等の禍々しさがその身から発される。彼女自身も宙を浮遊し、周囲の飛行物体を自在に使役する――絶対不遜の鬼級深海棲艦『離島棲鬼』。彼女の放つ艦載機に、艦隊は既に包囲され逃げ場はなかった。
「ようやくお出ましみたいだ陸奥。あの木偶の坊、こちらの長距離射撃をすべて叩き潰して随分機嫌が良さそうだ」
「ええ、これで勝ったつもりでいるのならお笑い草ね!」
艦隊の中で唯一、長門と陸奥だけが口端を狂喜に歪ませていた。戦艦棲姫は長門と視線を交錯させ、喉を掻き切るような挑発の動作を取る。
「オオオオオオオオオオオ!」
再度轟く咆哮の中で、長門は静かに船速を上げた。
「すまん陸奥、どうやら直々の指名らしい。この長門が、売られた喧嘩を買わないわけにはいかんよなあ。厄介払いを頼んでもいいかな」
そう言って長門は艦隊からたった一人、悠然と戦艦棲姫の真正面へと向かっていこうとした。周囲の飛行物体が群れから離れた彼女を討たんと顔を向け、そして次々に飛来した砲弾に穿たれて爆散した。陸奥が煙の上がる砲塔を上空の鬼に向け直す。
「いちいち言われなくても、長門の背中は私が守るって決めてるから。それに、頼まれなくてもアイツだけは私が沈める」
陸奥の瞳の底には怨嗟の炎が揺れていた。
「雪風の……沈んでいった艦娘たちの仇、私が討つ!」
爆音降りしきる静寂の中で、長門と戦艦棲姫が向かい合った。三尺五寸も無い距離で、長門は二基の連装砲を海中に投げ捨てた。
「丁度良かった。大艦巨砲主義とはいうけどな、実は砲撃戦にも飽き飽きしていたところだったのだ。折角艦から人となったこの人生。一度この身を全力でぶつけられる相手が欲しかったところさ」
長門の黒髪が潮風になびいている。
「フフフ……バカナヤツダナア……飴細工ノヨウニ、ヒネリツブシテヤロウ…………」
姫の冷笑の背後で、怪物が巨腕を振りかぶった。
「はは、この世では馬鹿が一番強いのさ。戦艦長門、参るぞ!」
長門は向かっていく。支柱の如く太く、岩盤の如く厚い怪物の腕と、か細くしなる長門の腕が交差した。直後、戦艦棲姫は怪物共々三間の距離を吹き飛んでいた。
◇
時は加賀と赤城が、呉の元空母寮を訪れた雪の日にまで遡る。二年前の加賀の身辺整理の為に使われなくなった施設内に踏み入った二人は、加賀の部屋に入る前にある話をしていた。
それは赤城が経験したある任務での航海中の話だ。過去に海難事故があったとされるその海域は、その日も事故の日と同じく濃霧に包まれていた。その視界不良の海域を無事に抜けるため、赤城を旗艦とする艦隊は、お互いに点呼を取り合って進むことにした。単縦という縦に一列に並ぶ隊列をとり、前の艦の声が聞こえてお互いが衝突しないぎりぎりの距離と船速を保って、十秒おきにお互いに声を掛け合って濃霧を抜けようとした。そして点呼の体制を保ちながら濃霧を無事に抜けたあと、艦隊全体が集合するのには実に二時間も掛かったという。そして濃霧の途中でブロッケン効果と目される現象に艦隊は出会ったらしい。十秒おきの点呼が成立していたのに二時間の空白が生まれている矛盾は、神秘的なブロッケン現象の場所で時空がねじ曲がったためではもちろんなかった。
(もし雲の向こうに見えた影がブロッケン効果による自分の影ではなく深海棲艦の影だったならば――)
あきつ丸は加賀の部屋の中、偶然聞こえてきた赤城の話を耳に入れながら、十秒の点呼から二時間が生じた矛盾を解く為のシナリオを頭の中で描きだしていた。もっともそれは物語というよりは、いたずらの計画という意味の『シナリオ』だ。
(そいつは随分と子供っぽい深海棲艦でありますな)
あきつ丸は呉の出撃記録を完全に記憶していたため、赤城の言う艦隊の面子がすぐに分かった。そのとき艦隊は、しんがりから、衣笠、青葉、山城、扶桑、不知火、赤城の順で、縦一列になり点呼し合って濃霧の中を進んでいた。
点呼のルールはシンプルで、前の艦が自分の名前を点呼するのが聞こえたら、十秒待って自分の名を点呼するというものだった。それを艦隊の端まで繰り返したら、折り返す。これを繰り返すだけ。突然表れた濃霧を踏破するために赤城が即興で立てた案であるし、複雑なものよりも単純な命令を繰り返したほうが確実だという判断だった。無線によって司令室と連絡を取ることはできたが、《標識》の衛星探査も大本営にしかできないことで、実際に艦隊が何メートル離れているか、どの方向に進めばよいかの指示はできない。海を行くのに頼りになるのは艦娘たちの力だけという状況だった。
「…………!」「山城……!」「青葉です!」「衣笠!」濃霧の中、仲間の声だけを頼りに艦隊は進んでいく。進行方向も位置も、声で把握するしかない。だから――
「青葉です!」
(例えば自分の目の前の艦の声がごく近い位置で聞こえたら、衝突の危険があると判断して船速を緩めるのは妥当な判断だ)
あきつ丸は考える。
(このとき衣笠殿は船速を緩めるだろう。しかし直前に聞こえたこの声が偽物だとしたら、青葉殿と衣笠殿の距離は離れることになる。そして実際にそれは録音再生機器と、艦娘の船速に付いていける航行能力があれば容易に可能だ。その深海棲艦は、青葉殿と衣笠殿の間に入り、録音した青葉殿の点呼の声を再生し、衣笠殿がそれを聞いて自分の速度を落とすことで二人の距離を必要以上に開けた。そしてその深海棲艦は同様のことを、今度は艦隊の旗艦側、不知火殿と赤城殿にも施した。不知火殿の偽物の点呼の声が聞こえて、ぶつからないように船速を上げた赤城殿によって、不知火殿との間の距離が空く。
録音された赤城殿の声を不知火殿が聴き、彼女の点呼の声を聞き遂げたあと、深海棲艦は今度はしんがりから二番目と三番目の間、つまり青葉殿と山城殿の間に入り込み、同様のことをした。この作業をする際にポイントとなるのは、本来の前の艦の声が聞こえるより数秒から十数秒早めに音声を再生させることと、狙った艦娘以外には聞こえないような音量と距離で鳴らすこと。それさえできれば霧のなかで同様に、ぶつからないように青葉は船速を落とし、後方にいた衣笠との距離が縮まる。そうして『合流した』青葉と衣笠二人の点呼は通常通りに行われる。
このような手法で、艦隊を合流させることも、分離させることもその深海棲艦には容易だった。しかし二時間分も距離を離すとなると、それは容易ではない。霧の中で複数の深海棲艦が、録音再生機器を操作しながら艦娘たちを騙し続けることは可能だったか? 統率が取れていなければ逆に艦娘に囲まれてやられてしまう可能性の方が大きい。条件から浮かび上がる犯人像は単独で、録音再生機器を静音で飛ぶ艦載機に括り付けて艦娘たちを自由に操れるほど操縦能力に長けた者だと自分は考える。それは一介の深海棲艦ではないのは明らかだ)
艦娘たちの命を一度その手に握っておきながら弄ぶだけに留まった、いたずら好きの深海棲艦。おそらくは姫級――。
「恐ろしい話もあったものだ……しかし、この話の肝に気づかなかったとは天才と言われる今の加賀殿も案外大した事がないでありますなーはっはっ」
あきつ丸は自分の導いた解答に半ば身震いして半ば満足して独りごちていた。どちらかというと、いやかなり、独り言の多い艦である。そのときかちゃりと扉に手がかけられる音がした。変装セットと加賀の日記は懐に忍ばせてある。
準備オーケー、であります――