怪物が人形を壊して遊んでいた。関節は可動域を越えて曲がるようになっており、体の中に通っている針金は伸びきっていた。壊れた人形を両足で立たせるとがくがくと震える動作が滑稽なので、もっと長く遊ぶためにも体のパーツをいちいち切断するようなことはしなかった。その代わり自分の両の手のひらで、遊べるだけの動きを試す。今では右手のひらに握り込まれた人形の頭部が、力を込めると赤い液体を滲み出させることを発見して、全握力を使ってそれを絞り出そうとしている。時折人形の上半身が引き攣ってびくりと動くのを手の中で感じる度に、怪物は背筋を撫でつけられるような快感を覚えていた。
「長門お!」
陸奥が叫んだ。上空を飛び交う無数の渡り鳥が、太陽を覆い尽くして海の上に暗黒の世界をもたらしていた。時折空の光が漏れて飛翔体の犇めく壁に隙間ができる。そこから長門が戦艦棲姫の率いる怪物に敗北している様を陸奥は垣間見せられた。艦娘の体ほどはあるだろう太い腕に吊るされて、長門の命の炎は尽きかけていた。陸奥は喉を絞って長門の名を叫ぶが、長門の姿はすぐに飛翔体の大群に隠されてしまう。
空を飛んでいるのは渡り鳥ではなかった。幾万もの飛翔体は全て離島棲鬼が操る艦載機だ。海域一帯を囲まれて、陸奥たちは長門を助けることも、退くこともできない状況に陥っている。
「クソっ! 長門、すぐに助けるからあ!」
長門との間を阻む黒い壁に向かって陸奥は戦艦の主砲の一斉射を浴びせるが、跡形もなく消し飛ばした空間を埋めるように離島棲鬼の艦載機が飛び回り壁を作る。対空砲火が無意味になるほどの物量に打つ手がなく、陸奥は歯噛みした。そんな無様な艦娘の姿を笑うように、宙に浮かぶ離島棲鬼がけらけらと笑っていた。
「アナタノアイテハ……ワタシデショウ? ウフフ」
雲霞のごとく空を埋め尽くす球体の大群。それら全てが一斉に爆雷を落としたら、陸奥たち艦隊は跡形もないだろう。すぐにそうしないのは離島棲鬼自身も爆撃に巻き込んでしまうからだと陸奥は考えた。恐らく離島棲鬼は、大量の艦載機を飛ばせる代わりに一機一機を細かく制御することはできない。その証拠に数百数千の艦載機を『群れ』として動かして巨大な壁を作ったり爆撃を仕掛けることはできたが、対空性能は著しく低く、味方の空母が飛ばす戦闘機によってそれらは容易に撃墜することができた。今では怪しげな動きを見せる敵の艦載機の群れを発見して味方空母たちが先んじて撃墜することで、上空の安全は辛うじて確保できている状況だった。とはいえ均衡は危うく、制空権は明らかに相手に握られていた。
「こんなの多すぎるわよ! キリがないわ!」
「同感です。どうしたものか」
決戦艦隊に編成された瑞鶴と加賀が劣勢を見かねて言う。二人が発艦する戦闘機『烈風』と『烈風改』は上空を渦巻くように昇っていっては球体を次々と撃ち落とすが、すぐに次の波が艦隊の上空を包もうとする。このままでは空の防衛線が割られるのは時間の問題だろう。
「陸奥さん、本体を落とせますか!」
「今やってるってば! くっ」
陸奥の砲撃は離島棲鬼の不規則な飛翔に躱され続けていた。鬼は大型の飛行体に寄りかかるように搭乗し、推進力不明の飛び方で軌道を読ませなかった。陸奥の砲の射線から素早く外れ、ゴシックスカートを押さえて上下反転した鬼がけらけらと笑っている。
「アーアーガッカリ……カンムスノ最大戦力トイッテモ所詮コノ程度ナノデスネ? モット楽シマセテクレルト思ッテマシタワ!」
鬼が構えた武器型深海棲艦の砲撃が、陸奥の四十六センチ三連装砲の一基に直撃した。主砲は衝撃で歪み、跳弾の破片で瞼を切って陸奥は、刮目して鬼を睨みつけた。
瑞鶴と加賀の後ろで、暇を持て余していた艦娘が二名いた。重雷装艦北上と大井だ。笑いながら飛び回る鬼と、真っ黒に蠢く空を見上げて北上がため息をつく。
「大井っちー。ひょっとして私たち……暇してない?」
「そ、そんなことありませんよ! 皆さんに申し訳ないです北上さん!」
「でも実際戦闘に参加できてないことは事実だしー、私たちにできることってこの状況でなくない? せめて誰かにアドバイスを貰おうにも無線も通じないみたいだし」
彼女たちの腰には尋常ならざる威力を持った酸素魚雷が装填されていた。直撃すればどんな怪物でも沈めてしまえる必殺の対艦兵器。しかし上空の敵に対しては全くの無力だ。
「帰る? ここにいても邪魔だし」
「駄目です北上さん! 今からでも遅くないです長門さんの方に加勢しましょう!」
大井が帰ろうとする素振りの北上の袖を慌てて引っ張った。艦隊の各々が手一杯なために誰も北上の言動を気にする暇のないのが幸いした。北上の不謹慎な発言を叱ろうにも強く言えない自分が大井はいじらしい。球体吹き荒れる黒い嵐の隙間から戦艦棲姫と圧倒的劣勢の長門の姿が時折覗いていた。手の空いている自分たちこそが行くべきだと大井は焦るも、北上はそれ以前の現状を見つめていた。
「あっちに加勢したいのはやまやまなんだけどさ大井っち、実際問題この丸いやつの大群の中をどうやって近づくのさ」
軽巡並の装甲しかない二人にとって、航空爆撃は一撃たりとも受けられない。だからこそ加賀と瑞鶴が展開した戦闘機の防衛線の下で保護されているしかない有様だ。手も足も出なかった。
「むむむー」
手も足も出なかったので、北上は上空を飛び回る鬼をぼーっと見ていた。
「なんか水吸ったら重そうな服だねー。それに、あんな風にぐるぐる回って気持ち悪くならないのかなあ」
暇すぎてついに脳で思ったことをそのまま呟くようになってしまった北上。鬼の漆黒のゴシックドレスがひらひらと揺れて目が回りそうだった。不安になった大井が北上の形の良い顔を見上げていると、北上は突然無表情に「あ」と言う。
「北上さん?」
「大井っち、私いいこと思いついちゃったよん」
いたずらっぽい瞳が大井のことを見た。
怪物に首を捕まれ、長門は高々と持ち上げられていた。
「ぐが……き、貴……様……」
長門は睨みつけるが、艤装の捻り潰された無様な姿は姫によって一笑に付される。
「フフ……イイコデショ、コノコ」
そう言って姫が怪物の腕につっと指を這わせた。灰色の腕に浮き出た血管が黒く太く脈打っていた。
「イタミヲカンジナイノヨ……。ダカライツダッテ『ゼンリョク』ナノ」
怪物が何度目かの咆哮を上げる。全身に漲り昂る憤怒が抑えきれず吐き出されているようだった。ぱっと手を離して海面に投げ出された長門に向かって、サッカーボールを蹴るみたいに豪腕が振り抜かれる。飛んでいって海水に半身を沈ませた長門を捕まえて、何度も。何度も腕を降り下ろす。血飛沫が飛び。海が赤く滲んだあと、壊れた長門の艤装が浮力を失って沈む前にまた海から体が引き揚げられる。
血と海水に塗れた長門の耳元まで近寄り、姫は囁く。
「アナタガドウシテ砲ヲ捨テルナンテ奇行ニデタノカ分カルワ。……怖カッタンデショウ? 本当ハ戦ウノガ怖イカラ、ソウイウ風ニ逃ゲタンデショウ? ソノ気持チ、手ニ取ルヨウニ分カッテイルワ……」
「ちが……違う…………そんなことはない……」
「違ワナイワ。自分ノ体ヲ見テミナサイ。ホラ……」
長門は自分の中空に投げ出されている手足を、岩戸のように腫れ上がった瞼の隙間から見た。――震えていた。気づいた瞬間、心底から震えが来るのが止められなかった。
「これはッ……違う…………! わ、私の体じゃない……! 震えているのは私じゃっ……」
「フフフ……ソオ?」
「ああ……私じゃ……私《の》じゃないんだっ……し、信じてくれ……お願いだから……」
姫は長門の腫れ上がった頬を撫でる。
「信ジテアゲル……。――アナタノ口カラ、『ワタシハ艦娘ノ恥サラシダ』ッテ言葉ヲ、聞カセテクレタラネ。ソウシタラ私タチノ仲間ノ元ヘアナタヲ連レテ行ッテ、同ジコトヲ言ワセルワ。負ケ犬ダッテ、言ワセルワ。言イナサイ、今ココデ。『ワタシハ負ケ犬ダ』ッテ。『恥サラシ』ダッテ。ソウシタラ、アナタガ立派ニ戦ッタコト、勇敢ニ武器ヲ捨テテ戦ッタコト、アナタガ可愛ラシイ犬ダッテコト、ワタシハチャアント信ジテアゲルノヨ?」
「ううう…………ああぁっ……あぁ……。
私は……私はっ……艦娘の…………」
長門の咽喉が悔しさに鳴る。もはやほとんど意識を保てていないのだろう。心身共に己れの玩具となった弱々しい戦艦の姿に姫の笑いは止まらなかった。姫は知らなかったが、実際に長門の身に起こっている震えは、内なる恐怖から来るものだった。空が暗かった。そのことを条件にして長門の記憶の底にある恐怖が彼女の身体を震え上がらせていた。海戦の興奮状態、深刻な身体ダメージからくる譫妄状態がもたらした意識レベルの低下のなかで、艦の記憶が、闇の暗さに黒い雨を見せる。上空を飛行体が包んだときから長門の動きは精細を欠き、そのせいで両手足は容易く潰された。そして今では長門は陥落していた。
「……違う……私は…………震えているのは……これは違うんだ……はは」
長門は敵に向かって何事かを語りかけていた。姫は何を言うのかと思った。
「『夜が怖いんだ』……私は……っ……だから私は…………本当は怖いものなんて無いんだよっ……そうなんだよ…………信じてくれよ……違うんだ……」
これは傑作だと、姫は口元が引き攣るのを止められそうになかった。自分から弱点を敵に曝け出すのは、服従のポーズだ。あの戦艦長門が、目の前で唯の犬に成り下がっている。支配してくれとせがんでいる。上手に告白できた犬には、ご褒美をくれてやらなければならない。姫はガーターリングに仕込んであったナイフを取り出して軽く握った。それから長門の顔の前で一文字にナイフを振るった。両目から血が溢れ、長門の喉が震えた。
「がああああああ! ――――――――――!」
長門の世界に真の暗黒がもたらされ、絶叫が二度と訪れない朝にさよならを告げていた。
『長門? こんなに重たい主砲を持ててそんなに強いのに、夜戦ができないの?』
夏の日差しにきらめく金色の髪。島風が飛沫をあげてこちらを振り向いた。長門が片手で抱えられる四十一センチ三連装砲を、島風が支えてみようとしていたが、重たくて海の上に尻もちを付く。ここは太平洋の沖で、まだ陽が高いうちから鎮守府に帰投するところだった。
「どうして?」
濡れた髪の下で笑って、屈託のない瞳で覗かれて、長門は返事に窮する。何と答えたらいいものだろうか。島風のことだから、自分がいるせいで艦隊が夜戦をできないことを糾弾しているのではないのは分かる。純粋な好奇心で聞いているのだろう。だが自分が夜戦をできない理由を言ったら、臆病者だと思われてしまう。弱いのを我慢して、我慢して、苦しんで生きていることを、島風に分かられてしまう。それは何か悪い影響を、島風に与えてしまう気がしたのだ。だが、しばらく逡巡して結局、長門は正直に言うことにした。艦の記憶が蘇ってしまうのだと島風に説明した。
「それってどんな感じなの? 夜が怖いって」
「おいおい、それを思い出させるなよ」
「ごめんね。でも島風は夜戦が嫌いじゃないから。夜の海の中にバーンって灯りが点いて。ちょっとだけワクワクするの。ちょっとだけだよ?」
夜戦を悪く思っていない駆逐艦や軽巡洋艦は少なくなかった。夜間飛行のできない航空機の脅威は去り、小さな艦ほど闇に紛れて機体性能を最大に活かすことができるからだ。だから島風の気持ちも分からなくはないと長門は思う。
それから長門は島風の質問攻めにあった。眠るときはどうしているのかとか、呉に来る前はどうだったのかとか。島風はカウンセリングの真似をして、彼女なりに長門の心の病気を治そうと考えているらしいことが分かった。その気持ちだけで長門には十分だった。
「目を閉じたら真っ暗なの? 長門」
不意に島風はそんな質問をする。目を閉じたら訪れるのは闇だろう。長門は電気を消して眠ったことは無かったが、自分の生活上の動作によってもたらされる暗さでは問題はなかった。意識をしっかり保っていれば、必ずパニックになるというわけでもない。だけど島風はそういうことを訊ねたのでは、もちろんなかった。
「瞼の裏でね、血が流れているのが見えるんだよ。だからちょっとだけ目の裏が赤いんだよ。目を閉じていてもね。……えへへ、島風物知りでしょー。
――でもね、それだけじゃないんだよ長門」
暖かな赤味が輪郭をとって、島風の眩しい笑顔に変わってゆく。
『皆いるからね、長門。目を閉じても、真っ暗でも、隣で皆が笑っているからね――』
――ああそうか、私は人間だったのだなあ。
長門の胸は悲しみで満たされていた。体には雨が滴っていたが、記憶が見せる幻覚だと知っていた。雨に打たれたところが鈍く痛い。それは今では怪物に嬲られた傷だと分かっている。それ以上に胸が苦しい。長門は自分が強者ではなく、戦艦の成れの果てだと思っている。自身の無力さが腑に落ちて、自嘲する一言が漏れそうだった。
――本当に無様だなあ、私は。
すまん皆。島風。陸奥。
長門は立ち上がる。真っ暗闇の海の上で、崩れそうになる体を何とか起こす。膝は体を支えるのがやっとで悲鳴を上げていた。腕にも力が入らなかった。それでも。
――私はもう少し、頑張ってみることにするよ。
それから軋む関節に構わず右腕を振った。緩慢な動作で、闇の向こうにいる何かに当たった。上体を逆に捻って、左腕を突き出した。虫も殺せないような突きだった。長門はもう音も聞こえていないことを知った。だが何かが見えていた。光の尻尾のようなものが見えた気がした。それは闇の向こうで長門を待っている島風の太陽の髪の色だった。背後には陸奥が腕を組んでいて、艦隊の皆が各々自由な格好で笑い合っていた。遠く帰るべき場所には呉鎮守府の司令官たちがいて、艦娘たちが働いていた。長門には見えていた。そこへ向かって手を伸ばすべきだと知っていた。長門は繰り返す。右腕を前に出し、上体を捻って、左腕を前に出した。
滝のように降り落ちる海水は、海中で北上と大井が酸素魚雷を爆発させたのが原因だった。それぞれの箇所から射角を打ち合わせて射出した酸素魚雷を、鬼の真下に定めた地点で衝突させる。爆轟(デトネーション)はお互いの魚雷中の純酸素を喰い尽くし、水圧を捻じ曲げて空高くまで昇っていった。高速で直進する片方の魚雷に一方の信管を当てる離れ業は、歴戦の重雷装艦ペア、北上と大井でなければできない奇策だった。
全身を濡らす潮の雨を受けて、北上は手で庇を作って自分の戦術の効果を眺めていた。直前で味方空母は艦載機を甲板に戻したらしく損害は軽微で、空中の敵の機体は大部分が水圧にやられ破損したり水没したりしていた。敵の大群を一層したあとの、天気雨のような空の明暗が見事だった。
「あははやったねえ大井っち! あたしたちでも制空権取れるんだねえ!」
「さ、流石の発想です北上さん! でも何も同時に撃つ必要なかったのでは?」
片方の魚雷を固定して海に浮かしておけば、もっと確実に魚雷に命中させることができただろう。しかし設置時に狙い撃ちされる危険は冒せなかったということに思い至り、そこまで考えられているとは流石だと大井の北上への尊敬は半自動的に膨れ上がった。
「そこはやっぱり、気分の問題だよね~」
しかしまさかこれほどの威力になるとは、と大井は驚嘆していた。そしていつになく興奮している様子の北上の表情を真横で眺められて至福であった。しかも全身が濡れ、素肌に制服が密着している――大井は目の前の眼福を愉しむことに集中したかった。
周囲の海水を一瞬で蒸発させる熱量と圧力が、空高くまで届く滝を作り上げた。その噴き上げをまともに受け弾き飛ばされた離島棲鬼が、今や雨に紛れ、逃げ帰るように海域を立ち去ろうとしていた。全身に水を含んだせいで、自重を支えるので精一杯になった球体飛行体に寄りかかり、撤退しようとしていた。
「イ……イッタイ何ガ起キタッテイウノヨ……? イジョウキショウ? カイテイカザン? カンレイゼンセン? ダウンバースト?」
ずぶ濡れの鬼の浮遊。その動きは彷徨う西洋の幽霊のようで、緩慢だった。鳴り止まない滝の音の中、鬼の遥か後方で静かに砲塔を構えている艦がいた。戦艦陸奥という艦娘にとって、この敵艦は仲間の仇だった。雪風の仇だった。ここで逃す道理が、彼女の中には存在しなかった。
陸奥は北に這うように逃げる鬼に主砲を向け、脳裏に展開する回転座標系にピンを差し込んだ。何度も何度も繰り返した射撃の経験が、地球の自転を体に染み込ませていた。コリオリの力。砲弾の重量、仰角、距離、風速、標的がまるで止まって見える、流れるような計算は検算の必要のないほど確信に裏打ちされる。戦艦陸奥の超長距離射撃が、ドゥンと大気を撃ち抜いて、標的が降りしきる雨の中に呑み込まれていくのを陸奥は見届けた。
陸奥は急いで長門の姿を探した。そして暫くして、見つけた。長門は海の上に一人で立ち尽くしていた。上半身を振り続けて、拳を空無に突き続けていた。その場に相対していたはずの戦艦棲姫の姿はなく、後には血に染まった海と、海没しきらなかった姫の衣服や砲塔の破片が浮かんでいた。長門はあの地獄のような戦闘に勝利していたのだった。しかしどうやって――? 疑問を置き去りにして陸奥を絶句させたのは、生き残った彼女の多くを失った姿だった。血塗れで、艤装は壊れ、腕も折れ、他にも様々な大切な部分が壊されていた。
それでも腕を振り続ける長門に陸奥は息が詰まった。気付いたら、陸奥は長門の背中を強く抱きしめている。不意に温かな抱擁を感じて、長門の動きは止まった。浅い呼吸の中で、やり遂げたように長門は陸奥に語りかけた。
「やっと見つけたぞ、陸奥」
「…………随分こっぴどくやられたのね。初めの威勢も、どこかへいっちゃったわね」
砲撃戦ではつきようもない傷を見て、陸奥は言う。
「聞いてくれ、陸奥。流石の私も打たれすぎて、目が醒めたんだよ」
「目が醒めたの?」
長門が笑った。
「ああ陸奥。……私はやっぱり『駆逐萌え』だ」
「長門が、打たれすぎてついにおかしくなっちゃった」
「おー!」と背後で北上が声を上げた。
空に大きな虹がかかっていた。天気雨にかかるそれは鮮明に綺麗で、触ることだってできそうだ。
「陸奥、仇は取れたか?」
長門が訊く。
「ええ」
陸奥が答えた。
「私も、取った。仇をとっても、気分は晴れないものなのだな」
「うん」
空が底抜けに明るかった。目が潰されても、長門が普通に振る舞えていることに陸奥は気が付いていた。
「すまんな、陸奥。私はお前に迷惑ばかり掛けてしまっている」
そう言って長門は謝る。珍しく弱気だった。
「私はこの二年間ずっと、陸奥に迷惑ばかりかけてきたのかなあ……
それでもさ、これからも、私は陸奥の隣にいてもいいのかな?」
そう言って、しょんぼりして一回り小さくなったように見える長門の肩を、檄するように陸奥は拳で叩いた。
「なーに言ってんのよ。ほんと、乙女心の分からない人なんだから!」
何度も叩いた。
「今更だし、もう慣れてるわよお……!」
「あいたた、痛いよ陸奥。折れてる、折れてるからっ」
「あ。ご、ごめん……」
「お……乙女心?」
長門が聞き直す。
そ、それはまあ。と陸奥は言葉を濁しそうになった。だが結局、二年間、胸の内に秘めてきた言葉を口にしようと思うのである。
「長門のことが好きなの。長門のことは私に守らせてよ……」
きょとんとして、長門は陸奥に肩を抱かれていた。
言ってから、だんだんと顔が赤くなった陸奥はついに目を逸らす。
そんな陸奥を、長門は真顔で受け入れるのだった。
「もちろんだよ。陸奥に負けないくらいに、私だって陸奥を守りたいんだ」
陸奥は驚いて、顔を俯けた。それから額を長門の肩に付けた。少しの間だけと、自分に言い訳しながら。
その一部始終を見ていた北上が顔を赤くして大井の裾を掴み、大井の方は顔を両手で覆っていた。指の隙間から、しっかりと両目が覗いていた。
少し離れて、瑞鶴と加賀も空を眺めていた。
「綺麗な虹。翔鶴ねえと見たかったな……」
「あら、私とでは不満ですか?」
「まぁた、色々と雰囲気をぶち壊すんだから……。あんたは絶対あっち行っちゃダメだからね」
瑞鶴は長門と陸奥の方を指す。
「行くわけないじゃないですか」
どういう艦だと思われているのか、加賀は心外だった。
「そういえば加賀、今日は私の動きにぴったり合わせてたじゃない」
「ええ、まぁ」
先ほどの鬼との戦闘のことを語っていた。飛行体の波状の襲来をたった二人の空母で食い止めきった、呉の主力部隊。あのとき目配せだけで意思疎通のできた、息の合った二人の連携は大自在の域に至っていたんじゃないかと瑞鶴は思う。
「何か心境の変化でもあった?」
そう訊く。加賀は少し考えてみたが、よく分からなかった。
「いつも通りですよ」
だから、そう答える。
「……加賀さ、珍しく先輩が褒めてるんだから少しは嬉しそうにしなさいよ」
「えっ、褒めてたんですか」
「あれー伝わってない?」
加賀は別動隊にいる赤城はどうしているだろうかと考えていた。呉の最大戦力である自分たちの艦隊、決戦艦隊は今作戦においては囮役に過ぎない。基地に打撃を与えるための爆雷を運ぶ別動隊こそが本命だ。そこには赤城が編成されている。
この決戦作戦では芦木の指揮する艦隊が姫級の討伐、瀬名の指揮する駆逐艦隊が周辺住民への避難勧告、そして仁蔵の艦隊が深海棲艦の基地の破壊を担っていた。全てを決める重要なポイントは、仁蔵司令が握っている。任務を終えた加賀たちは、あとは彼の艦隊に任せ、作戦の成功を祈るしかない。
自分たちの仕事を終えた一同は、たとえ一時でも安堵していた。
あとは別働隊が爆雷を仕掛けるだけだ。これで戦争も終わるだろう、と。
「み、みなさん!」
大井が叫んだ。酷く慌てていた。
「たった今長官から入電がありました……。仁蔵艦隊が、突如出現した姫級と会敵! 直後、原因不明の爆発を受けて艦隊は壊滅状態! 爆雷で自爆したものと思われる! ただちに救援に向かえと!」
長門たちの表情が驚愕の色に変わる。
「ちょっ、加賀! 待ちなさい!」
報告を聞いた加賀は、瑞鶴の制止の声も耳に入らず、仁蔵艦隊のいる方角に単身疾走した――