セリムの胃痛日記
○月×日
今日から、日記という物をつけることにする。
きっかけは、姪のパティが鼻歌交じりに、楽し気に机に向かっているのを見かけたことだ。何をしているのかと聞いてみれば、ショウタ君と一緒に遊んだ出来事を記録に残しているという。ご丁寧に、二人並んで手を繋いでいる絵まで添えられている。
なるほどと、素直に感心した。面白い趣向だ。
どんなに楽しい記憶でも、忘れたくない大切な思い出でも、いずれ風化して頭の中から消え去ってしまう。強く意識して、ずっと覚えていようとしても。流れる年月を前にしては、その努力など儚い物でしかない。仕方のないことだ。それが、人間なのだから。
俺自身、幼い頃の思い出など断片的にしか残っていない。そのわずかな残滓にしたところで、実際にその記憶通りのことが起こったかどうかは怪しい物だ。王都時代の辛い記憶だったら、不思議と細部まで鮮明に、克明に覚えているんだけどな。ははっ。
だが、この日記という物は違う。曖昧な記憶ではなく、確かな記録。時が過ぎ、例え本人が全てを忘れ去ってしまったとしても、そこに記された内容はずっと変わらずに残されている。後から読み返すことで、こんなこともあったなと、当時を思い出すこともあるかもしれない。これは画期的な手法だと言えるのではないか。
しかし大変に残念なことに、この日記という行為には、見逃せない弱点がある。利点は確かに大きな物だが、決して無視の出来ない欠点が存在するのだ。
まず、字が書けなくてはならない。絵心はまあ、なくても構わないだろう。最低限、何を描いたかがわかれば問題はないし、いっそのこと文字だけでも目的は十分に果たせる。だが、字を書けないことには話にならない。
そして、もう一つ。思い出の記録という趣味的な行為に対し、紙という高価な品物を使えるだけの財力が必要だ。
この二つの理由から、日記をつけることが出来るのは、上流階級に属する者に限られてくるだろう。興味がそそられるのは確かだが、どうやら自分には縁がなさそうだ。
と、思っていたのだが。
しばらく後、俺の手に数冊の「だいがくのーと」と「ぼーるぺん」が届けられることになった。恒例の勉強会の際に、満面の笑みを浮かべたショウタ君から手渡しされた。パティから、俺が日記に興味をもっていると聞いたらしい。
何かにつけ、俺にプレゼントを渡そうとしてくるショウタ君なのだ。こうなることは予測してしかるべきだった。正直にいうと俺自身、心の何処かでこういう事態になると、そう思っていたのかもしれない。
だからこの贈り物は、割合と素直に受け取ることが出来た。ただちょっと手が震えて、恨めしい目でパティのことを見て、そして色々と諦めたってだけのことだ。まったく、俺も随分と図太くなったものだ。
○月×日
今日は領主様のお屋敷を訪ねた。ショウタ君の誕生日祝いの席で誘われた新しい事業について、詳しい話を伺うためだ。
あれは場を盛り上げるための戯れ言にすぎなくて、実際にこちらまで話が来る事なんてない。と、言うなら、胃の痛い思いをする必要などなかったのだけど。現実は無情だ。
いや、頑張ってみるつもりだよ、俺。ショウタ君に宣言もしちゃったし。だけどさ、ほら。少しくらい夢を見たっていいじゃない。穏やかな暮らしを、望むくらいはいいじゃない。
ちなみに、お屋敷までは馬車で向かうことになった。俺は当然、自分の足で向かうつもりだったっていうのに、あのときと同じ馬車が迎えにやって来てしまったのだ。乗客は、俺一人。貴き方々仕様のあの馬車の中で、一人きり。ほんと、やめて欲しい、こういうの。
おそらく、無限に等しい体感時間を過ごすことになるのだろうと。さぞ、キリキリと痛む胃を抱えて耐える羽目になるのだろうと。そう、覚悟していたのだが。実際には、馬車に乗ったと思ったら、もう目的地に着いていた。御者の方がやけに必死な顔をしながら俺を揺さぶりつつ、到着したと教えてくれていた。
どうやら、馬車や景色に目を向けることもなく、思考に集中してしまっていたらしい。なお、何を考えていたかは、良く覚えていない。心配そうに、少し休まれた方が良いのではと言ってくださったけれど、大丈夫。思考が飛ぶなんて、良くあることですので。
そして、先日と同じ四阿へと通されて、領主様にお目通りしたのだが。何故、お話を伺うのが俺一人だけなんでしょうかね? 他に誰かいないの?
領主様と差し向かいとか。メイドさん達もいるけれど、言葉を発するのは辺境伯閣下と俺だけとか。何処かへ飛んでいきそうな意識を逃がさないよう、一生懸命に捕まえていた。とにかく必死だった。恐れ多くも自分などに随分と配慮してくださっているのだ、無礼な真似など出来ない。配慮がなかったとしても、できっこなんてないけど。
領主様のお気遣いは、すぐに察することが出来た。誕生会の時と同じ場所に案内されたのも、領主様があの時と同じ服をお召しになられているのも、少しでも俺の気が楽になるようにという心配りなのだろう。本当に、下々の者にも優しいお方だ。これに応えずして、何が男か。頑張れ、俺。
こうして、おそらくは寿命が片手の指の年数ほどは縮まりつつ、お話を伺う心構えができた。
領主様はおっしゃられた。この街に、平民が通うための学校を作りたいのだと。王国が百年の太平を得るための、これは第一歩なのだと。
現在の王国は帝国との仲も良好で、既に数十年の平和を謳歌している。だが、この安寧が永久に続くなどと言うことは、決してない。確かに、現王陛下は賢明なお方で、平和を愛されている。王太子殿下もまた気質を同じくされており、おそらくこの先も数十年は安泰だろう。
だが、その先がどうなるかは、誰にもわからない。王家を批判するわけではないが、暴君や暗君が生まれないという保証はどこにもないのだ。
この世界に、王という存在は必要だ。だが、王の意思により全てが決定する体制は、危うさをも含んでいる。故に、王が誤った場合にはそれを糾すための法を定め、そして全ての国民の目で王の資質を見極める、そういう社会を作らねばならぬのだ。
その視点を持つ未来の国民を作るための、これは試金石である。ゆくゆくは全ての街や村に学校を作り、全ての国民が様々なことを学べる場を作っていきたい。
これが、領主様の夢だという。そして俺には、その学校で教鞭を執って欲しいというのだ。
心が、震えた。
子供達に学問を教える。教育という名の種をまき、生徒の成長という収穫をして、子供達とふれあいながら生きていく。これは、俺自身が望んだ生き方でもある。そしてそれが、この国の礎になるというのだ。
俺は一も二もなく、心の底からの承諾をした。領主様の差し出す右手を、躊躇いもなく掴み取った。そうだ、これが俺の生き方なんだ。教師こそ、俺の天職なのだ。
その役割を担える運命に、出会いを繋いでくれたショウタ君に、妖精の導きに、感謝を。
それに、まあ。同僚の多くは平民だというではないか。即断することが出来たのは、これも大きい理由の一つだ。
教職にふさわしいだけの学問を修めている人材となると、まずは貴族の方々が候補に挙げられる。けれど、なり手がいないというのだ。
それは確かに、わかる話。平民が学問を修め、知恵をつけることに難色を示す貴族は多いだろう。ましてや実際に自身が子供達と接するなど、もってのほかなのだろう。
だがしかし、俺にとってはそれが好都合。貴き方々と肩を並べて仕事するなんて、俺に出来ると思うか? いや、出来はしない。出来るわけがない。
平民とはいっても、おそらくは商家の出が多いと思われる。俺よりずっと育ちがいいに違いない。それでも、同じ身分と言うだけでどれだけ気が楽か。穏やかな生活、万歳。
こうして俺は、太平の世の礎となる、天職を手に入れたのだった。
○月×日
学校長が領主様のご令嬢だなんて聞いてないんですけどっ!!
○月×日
昨日は動揺してしまって、日記をろくにつけられなかった。
とりあえず、何が起きたかを記しておこう。温泉街の外れに建てられた平民学校の校舎にて、事業に関わる者達の顔合わせが行われたのだ。
予想通り、同僚となる教師の大半は商家の出が多かった。現在、驚くべき勢いで発展している温泉街では、本格的に拠点をこの街に移してきた商会もかなりの数に上っている。その商会主の血筋でありながら、家を継げない次男や三男といった者達。彼らは使い潰されるくらいなら、新しい事業に挑戦したいと願ったのだろう。
他にも学者の家系の者などもいたが、農家の出身なのは俺一人だけだった。まあ、予想通り。王都にいた頃のように、格下と認定されたらこの先が面倒だと。そうも思ったのだが、仮にも領主様が集めた人材なのだ。同じ条件で選ばれた立場の者を、さしたる根拠なく侮るような浅はかな人間はいないようだ。正直、助かる。彼らとなら、良い関係を築いていけそうだ。
問題なのは、学校長として紹介されたのが、領主様の末のご令嬢であったこと。話が違うじゃないかと、思わず意識が飛びそうになった。震えるだけですんだ、自分の成長を誇りたい。
だが、よくよく考えてみれば、これは俺が悪い。考えが足りていなかった。辺境伯家が主導する事業なのだ、いくら実務に関わる者が平民中心とはいえ、責任者までもが同じというわけがなかったのだ。むしろ、領主様の直系が統括なされるというあたり、本気の具合がわかって歓迎すべきことなのだろう。胃の壁が鍛えられる。
学校長の年齢は俺より十歳ほど下の、十代半ば。この年ならば、世間知らずの箱入り娘であるのが普通だろう。しかし彼女は、そんな常識ではかれる存在ではない。才女であり、そして女傑であらせられると、領民の間でも評判の高いお方なのだ。
彼女の果断さを示す事例として、婚約者が逃げ出したというものがある。逃げられたのではない、逃げ出したのだ。伴侶となる相手の有能ぶりに恐れをなし、婚約の破棄を願い出たというのだ。
いかなる理由であろうと、貴族のご令嬢が婚約を解消するなど、醜聞の種になりかねない。しかし彼女は、能がないだけではなく根性までなかったかと、躊躇うことなくバッサリと、その男性を切り捨てたという。ちょっとだけ相手の気持ちがわかってしまうのは、いけないことだろうか。
なお、会合の席で、このことを話題に上げた馬鹿者がいた。うっかりと口を滑らしたという体であったが、失言に気付いたそいつの顔は見事に青ざめていた。俺の顔も真っ青に染まっていた。
けれど学校長はそれを気にした風もなく、ニコリとひとつ微笑んで、胸を張るようにして誇らしく、こう言ったのだ。違約金と迷惑料、これでもかと毟り取ってやりましたわ、って。
なるほど、女傑だ。
この方には、何があっても逆らわないようにしよう。それを決めた瞬間だった。おそらくはその場にいた一同、全員が。
○月×日
平民が学問を学べる環境を整える、その事業の準備は着々と進んでいる。既に授業の内容は決定し、それぞれの専門に合わせて教える教科を決め、学校の存在を温泉街の民に広く知らしめた。もういつでも、開校の出来る状態だ。
だが、たった一つだけ、根本的な大問題が解決していない。肝心の生徒がいないのだ。
温泉街の発展にあわせ、この街に移住してきた民は多い。街を作る職人や、街の周囲で作物を育てる農民。様々な品物を取り扱ったり、娯楽を提供する商人。街が受け入れられる許容量を超えてしまいそうな程の勢いで、波及してセージ村の人口までもが随分と増えたほどだ。
家族が揃って移り住んできた家庭も多く、子供の数も当然、増えている。学校側が想定している生徒の年齢の子供も、もちろんだ。それなのに、授業を受ける立場の者が集まらない。
貴族の子弟は、それぞれの家で教師を雇う。商家の子供は、親の手伝いをしながら計算や商法などを学ぶ。だが農民には、自ら学ぶ手段が存在しない。それにもかかわらず、何故に彼らは学校に消極的なのか。
会議参加者の視線が、俺に集中する。やめてくれよ、胃に来るから。
いや、彼らが言いたいことはわかるよ、農家の人間は俺だけなんだから。何か良い案があるんじゃないかって、期待されるのもわかるよ。でも、大勢からの視線って苦手なんだ、そんなに見ないでくれ。特に学校長、あなたの視線は刺さるように鋭いんです。穴が開きます。
何故に農民の子が学問を求めないのか。それは単純に、生活に必要がないからだ。学んだ知識を生かす場がない。それなのに苦労して修めたところで、意味がない。
これを根本的に解決するには、社会の構造自体に大きな改革が必要だろう。現状では、農民の子供は基本的に農民になるしかない。だが、能力次第で身分や出自に関わらず望む職に就ける社会であるならば、積極的に学ぼうという者も出てくるというもの。
領主様が目指しているのはそういった社会なのだろうが、一朝一夕に成し得るものではない。十年、二十年、更に長い時間が必要になってくるだろう。
なら、少し目先を変えてみよう。学校に通うことで、利益が生まれるようになればいい。
農家の子供達は、力不足とはいえ稼ぎ手の一人だ。彼らが勉強に時間を取られればそれだけ仕事が出来なくなり、生活の水準にも関わってくる。なので、その分の稼ぎに変わるものを用意すればいい。
具体的には、金を渡す。身も蓋もないが、それが一番手っ取り早い。金額的には、文字通りに子供の小遣い程度の、本当に少額でいい。例え銅貨の数枚でも、現金での収入に乏しい農家では貴重なものだ。
他には、家の手伝いが出来ないほどの幼子を預かる施設を用意してみるとか。
セージ村でのパティがそうだったように、より小さい子の世話をするのが仕事だという子供も多い。その仕事を肩代わりすれば、面倒を見ていた側の子供の手が空き、学校に通わせられるようになる。幼子に対しても、遊びながら勉強の基礎を教えることが出来る。
特に優秀な子供がいたなら、成績次第で更なる報酬を渡すのもいい。利益に直結するなら、賢い子を持つ親は積極的になるだろう。
こうなってくると、いくら公共事業とはいえ支出が馬鹿に出来なくなってくるかもしれない。けれど、これは投資と割り切るべきだ。将来的には、他の街にも学校を作っていくことになる。その際に、教師が足りなくなってくるのは目に見えている。そこで、かつてこの学校で学んだ子供達の出番というわけだ。十年後を見越して、人材を育成するのは決して無駄にならない。
農村の立場からしても、村の子供が領主様の文官として雇われるなど、出世もいいところ。大歓迎だろう。それに、これは能力があるなら出自に関わらず職を選べるという社会の、第一歩にもなる。
皆からの視線に急かされるように、これらの考えを話してみた。所々で噛んだりどもったりしてしまったのは、見逃して欲しい。そこを責められたら、もうしゃべれなくなるから、俺。
ありがたいことに、俺の出した案は概ね好意的に受け入れてもらえた。予算の見直しなども必要になってくるが、まずはやってみようといったところだ。元々、全くの新しいことを行おうとしているのだ。試行錯誤はどうしたって必要だろう。
とりあえず、ほっとした。頭ごなしに否定してくる面々じゃなくて、本当に良かった。王都では、俺の意見ってだけで却下されるか、誰かの手柄として奪われるか、そんなことばかりだったからな。
俺、何とかこの中でもやっていけそうだよ。目立たず控えめに、コツコツと縁の下で頑張るよ。
○月×日
どうしてこうなった。
○月×日
諦めて、昨日の日記を書くこととしよう。諦めるのは得意技だ。
試したことが成功したり、失敗したり。色々あったが何とか生徒も集まって、ついに学校が始まることになった。
一応、正式名称としてクレイ辺境伯領立ハコネ温泉街領民学校、という名前がある。けど、この街では単に学校としか呼ばれていない。他に学校なんてないしな。
開校するに当たって、俺は何故が主任教師という役職を賜ることになった。重圧がすごいけど、これはまあ、いい。胃に来るけど、この痛みとはもう長い付き合いだ、愛おしさすら感じる。ごめん、流石に嘘。
中途半端に偉いせいで、上から下から仕事が沢山、これでもかと回ってくる。久々に顔を合わせたショウタ君が、中間管理職だねって苦笑いをしていた。俺の立ち位置を一言で表している、上手い表現だなと思ったものだ。
とにかく忙しい立場となり、仕事を押しつけられている感がなくもないが、これも構わない。仕事が多いのは、無いのに比べれば遙かにいいことだ。やり甲斐もあるし、頼られていると思えば、胃が痛い。違った、意外に悪くない。表面上だけ取り繕うのは上手くなったよ、俺。
でも、だ。これだけは受け入れがたいんだ。
本当に、どうしてこうなった。
何で、俺の机が学校長室にあるんだ? おかしいだろ、何故に姫君と二人きりで仕事しなくてはならないんだ?
指示を出すのにいちいち呼びつけたり、他の部屋に行ったりしなくてすむからという、彼女の一声でこうなったのだが。一言、言いたい。あなた、そんなに俺の胃をいじめるのが楽しいんですかと、尋ねたい。
まあ、こんな台詞、面と向かっては絶対に言えないんだけど。というか、もしこの日記を見られたらとか。想像するだけで、もう胃に穴が開きそう。
退職という単語が頭をよぎるけど、そんなことしたら絶対に怒り狂うよな、学園長。
慣れるしか、ないのか。
○月×日
ショウタ君が差し入れを持ってきてくれた。顔色悪いよと心配してくれて、小さなガラス瓶を渡してくれた。ああ、職場の環境が、ちょっとね。主に机の場所について、少しね。
瓶の中に入っているのは、全て均一に同じ形、同じ大きさをした小石程度の大きさのもの。それがびっしりと詰まっている。正体はわからないけど、ショウタ君の持ってくるものだ。覚悟を決めるべきだろう。
果たして、予想通りだ。これは、胃の薬らしい。薬なんて高価なものを、こんなに沢山だなんて。ああ、もう。
相変わらず、この子は俺の胃を痛くする。でもこの薬を飲めば問題ないねって、そんな笑顔で言うんじゃない。いじめか。
でも、差し入れはともかくとして、ショウタ君の顔を見れたのは嬉しかったよ。こっちに住むようになってから、彼と会う機会が随分と減ってしまったからね。
色々と言いたいこともあるけれど、俺の大切な友人だ、ショウタ君は。年は離れているけどね。って、最近、年齢について考えることが多くなったな、俺。これが年か。ああ、また。
しかし、彼もこの街に住んでいるはずなのに、村にいた頃より顔を会わす機会が無いのは何故なのか。まあ、答えは単純に、パティがいないからなんだろうが。
今日だって、パティと一緒に来ていたよ。二人並んで、手を繋いでいたよ。まったく、何年経っても、相変わらず仲の良いことだ。
○月×日
ショウタ君、本当にありがとう。
俺もう、これがないと生きていけないかもしれない。
○月×日
学校の経過は順調だ。生徒数も増えたし、街にとって無くてはならない施設となりつつある。
色々あったけど、本当に大変なことばかりだったけど。あの薬がなければ、絶対に血を吐いていたと思うけど。それでも俺、この仕事に就けて良かったと思うよ。
そして今日、ついに初めて、一人の生徒が学校から巣立つ日を迎えた。
規定の年数を通ったわけではないけれど、もう十分に学業が身についたと判断されて、飛び級という形での卒業だ。
それに、ただ卒業すると言うだけじゃない。その子は、学んで身についたことが認められて、大商会に雇われることになったのだ。農民の子供である、あの子がだ。
領主様の夢、今となっては俺の夢でもある、誰もが望む職に就ける社会。その、第一号だ。自分の力で未来を掴み取ったあの子を、そしてその手助けが出来た自分のことを、とても誇らしく思う。
俺が経験してきたあれこれを思い出すと、とても心配だけれど。でもきっと、彼なら大丈夫だろう。俺なんかより、ずっと優秀な子だ。それに、俺より遙かに図太い。あの神経は分けて欲しい。切実に。
最後に、あの子が挨拶に来てくれた時。先生、今までありがとうって。そう、言ってくれた時。泣いちゃったなあ。思い出しても恥ずかしいくらいに、大泣きしちゃったなあ。
みっともないから涙を拭きなさいって、ハンカチを差し出してくれた学校長の目にも、涙が浮かんでいた。思わず、呟いちゃったよ。鬼の目にも涙って。
でも、だからといって、あれは無いと思います。
貴族のご令嬢なんですから、流石に蹴りはどうかと思います。
○月×日
学校長との二人きりの空間にも、いつの間にか慣れてきた。胃薬の力を借りることも、無くなった。
すまん、無くなってはいない。以前と比べれば、いくらかは減った。これが正しい。日記の中でくらい、見栄を張ろうとしてもいいじゃない。変に罪悪感を感じて張り切れず、速攻で暴露したっていいじゃない。
まあ、もう何年も顔を突き合わせているんだ。仕事の合間に世間話に興じる程度には、学校長に慣れてきたのは事実。そして今日の話の中で、領都にも平民向けの学校を建てる計画が持ち上がっていると聞いた。
我が校の成功を受けての話だというのは、間違いないだろう。まだまだ試行錯誤は続いているとはいえ、この学校はそれだけの実績を積んできたと、自信を持って言える。俺もその末端に携わっていられることに、誇りを覚える。
そして、ここから先は世間話では済まないのだが。どうやら新しい学校の長として、姫君が招かれるかもしれないらしい。その際には、ここで経験を積んだ人間を何人か連れて行きたいらしい。
それは確かに、必要なことだろう。ここの人員が薄くなることは厳しいが、経験者がいるといないとでは、運営の難度は大きく変わってくる。手探りでやっていく厳しさは、俺もよく知っている。
誰が良いだろうか?
ああ、あいつが良いかもしれない。肩書きは持ってないけれど、とても優秀な奴がいる。むしろ、俺の主任という立場を譲ってやりたいくらいに。穏やかな性格で気配りも出来るし、新しい環境でも緩衝材になってくれるだろう。姫君、キツいから。色々と。
あるいは、見習い教師をやっている卒業生から何人かって言う手もあるな。授業を受ける立場で過ごした経験は、きっと向こうの生徒達のためになるだろう。
そんな意見を伝えてみたら、何故だか姫君の機嫌がすこぶる悪くなった。解せぬ。
○月×日
あっ!
姫君がいなくなったら、もしかして次の学校長って、俺?
無理無理無理無理、無理だってっ!
○月×日
もしかしてなんですけど、万が一のことなんですけど。学校長がいなくなった後、次の長は自分ってことですか?
その可能性に気付かないでいた、そんな自分にふがいなさを感じて、学校長は怒られたのでしょうか?
姫君の怒りは今日になっても収まっていなかったので、恐る恐るそう聞いてみた。
大荒れになった。解せぬ。
○月×日
私ももうすぐ二十歳を迎えることだし、いい加減に新しい婚約者を見つけないといけないかしらね。
雑談の中で、学校長がそんな愚痴を零してきた。
そうですね、やはり母君の家系である侯爵家に縁のある方の中からお選びになられるのが、よろしいのではないでしょうか。
貴き方々の常識なんてよくは知らないけど、何とか無難そうな答えを返してみた。
大層、荒ぶられた。解せぬ。
○月×日
待って。お願い、待って。頼むから、ちょっと待っててば。
何で俺。どうして、俺。こんな事態になっちゃってるの?
一体、何を何処でどう間違えたっていうんだよっ!
これより、数十年の後のことである。
クレイ辺境伯領立ハコネ温泉街領民学校という名の、小さな学び舎から始まった、ある思想。それはやがて、辺境伯の全ての街に、更には王国中へと広まっていった。
その流れは、多くの国民や貴族達すらをも巻き込んでいくことになる。そしてついには、全ての国民の目で王の資質を見極める社会をつくるという、その目的を見事に果たすまでに至ったのである。
王国の政治形態は、絶対君主制から立憲君主制へと、移行することになった。武力を伴わない革命。それを、王国は成し遂げたのだ。
この活動に最初期から関わり、百年の平和を手にする原動力の一因となった、とある人物がいる。
常に右手で胃のあたりを押さえつつ、伴侶の尻に敷かれながら、人々のために尽くし、駆けずり回る彼のことを。
人は、「平民宰相」と呼んだという。
こぼれ話は今回の他に、
「パティのバレンタイン」「翔太の温泉街観光」「ラニとジョウジのはじめての」
の、3本が予定されております。
それでは、またそのうちに。