まちがいさがし   作:中島何某

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19話

 

 

 魔法界唯一の銀行、グリンゴッツには支店が幾つかある。ついこの間ウィーズリーの実兄ウィリアムがエジプト支部で働き始めたように。小鬼という集団は差別よりも利益を優先する正真正銘の近代資本主義者なので(小鬼個々人はまた別だが)、マグル側にもその支部は幾つかある。ちなみにマグル側にある支部はポンドからガリオンの交換は出来ず、また本部の金庫にあるガリオンをポンドに交換したものの引き出しのみになる。

 そもそもキリスト教が蔓延するイギリスで、幾らカルヴァン派が広まっていたとしても銀行という金を動かすだけで利益をあげる職業はしばしば倦厭・揶揄・差別される。非魔法族と魔法族の結婚が現実的な現在、マグル文化に疎い世論では正体不明の差別にもなり得ている。最低な話、ユダヤ人の代わりに小鬼が働いてくれて万々歳というところだろう。北アイルランド人の半分はカトリックなのが現実なのだから。

 

 ついでながら先程述べたように小鬼は正真正銘の近代資本主義のため、本部があるイギリスの通貨のみならず第二次世界大戦後ブレトンウッズ体制の下中央銀行に対して米ドルの金兌換を約束し名実ともにキーカレンシー、つまり基軸通貨になった米ドルとガリオンの交換も行っている。第一次世界大戦後、アメリカが特需によって経済が急成長したときから狙いはつけていたらしいが。

 まあ、そのアメリカもベトナム戦争によって約10年も軍事に国家予算を回した所為で三分の二もしくは二分の一以上金が銀行の金庫からなくなりニクソン・ショックが起きたが。ドルからオンス、オンスからドル交換はストップ、事後承諾でキングストン体制に。そうして双子の赤字を抱えたアメリカは日本、欧州と五カ国でプラザ合意を結び円高ドル安で輸出産業を伸ばそうとしたのが佐伯暢の生まれる一年前の話だ。

 

 久しぶりに思い出した名前に俺はくっと唇の右端をあげた。佐伯暢という名前を、俺はいつまで覚えているのだろう。生まれて数年、まだウィーズリー家にいるときは紙に日本語で単語やその名前を書き、懐かしみながらも無力感を覚えて書いた紙に罵声を浴びせつけていた。しかしその行為が心の安寧と情動の揺らぎを一緒くたに鳴らすものだからいつの間にかやめてしまった。

 キツく目を瞑り、思い切りよく開く。精神が不安定なのはひどく生きづらい。いくら非生産的でも愚かでも、生き方としての忘却はもがき苦しむのよりはいいと俺は思っている。それが究極に愚劣な行いであってもだ。……問題は俺の記憶能力が他人より優れているらしい点にあるのだが。

 

「Mr.Weasley」

 

 背後に立たれて名前を呼ばれ、立ち上がる。そこにいるのはいつものようにパンツタイプのスーツを着た眼鏡の女だった。俺が今座っていた待合室の銀行は、イギリスに幾つかあるグリンゴッツ銀行のマグル支部のひとつだ。

 以前、俺は本を出版した。一度書いた乱雑な魔法や魔法薬学の考察をルパートに細やかに書き直しさせられ、出版社に持ち込まれたからだ。俺は無駄だろうと言ったが挑戦したと息巻いたのは彼だった。一体誰の挑戦だと呆れながら、俺はそのとき肩を竦めることで妥協を表してみせた。ことは上手く進まないだろうと思ったからだ。誰だって手持無沙汰で書いたものが生産性ありと評価されるとは思うまい。

 しかし実際は出版までこぎ着けた。ルパートの熱気と手腕、それから編集者の提示した改善点が明確な上容易だったことが完遂の理由に思える。加えて、研究に対する非魔法族の構造と魔法族の体制の違いだ。研究施設も学者も足りない上非魔法族ではあちこち立ち上がって星の数ほどある学会がそもそも殆どないので、特殊環境下でのみ達成し得る成果だ。

 論文は本来、稚拙であろうと優れていようと構わないのだ。兎にも角にも出れば出るほど他者のヒントになる。その内人類を一歩進める理論が日の目を見る。

 いや俺が以前基礎研究の学徒だったから言ってるのではない。ほんとほんと。

 

 ともかく、俺は内容の手直しをボランティアの間に行い、休日に編集者と打ち合わせしては文の構成を指図するルパートの監督の下、最後のページまできっちりでかし無事本は世に出ることとなった。

 そのあと、ルパートが上梓を理由に銀行に口座を新たにつくって通帳を俺に渡した。印税その他諸々の利益など六年間も住ませたガキの出費と等価交換にもなりはしないと全て持っていけばいいものを、「俺は金には困っていない」の一言でバッサリ切り捨てた。途方に暮れつつも、彼には俺が子供であるという意識があるのだと判断し、俺は懇切に礼を言いその銀行と資金を用いることにした。杖の分や小遣いとして貰っていた金もルパートは「俺を貧乏人扱いするな」と受け取りを拒否した。

 ここまでくれば狂気の沙汰だとは思いながらも、俺はその金を本やマグルの世界にある魔法使いの酒場“オールドトム”に行く時の代金とした。ウィーズリー家には学校を卒業してから仕送りとして渡していくのが最もスムーズだろうか。

 

 パンツスーツを着た眼鏡の女性にいつものように魔法使い専用のスペース(柱の中)に招き入れられ、いつものように書類を書いてガリオンとポンドを両替した。本部では必要ないのだが、如何せんマグル側ではそうはいかないらしい。俺はポケットに札束を突っ込んで能面みたいな顔の女を後にした。

 

 

 

 いつものようにオールドトムに入ると数人の客がいた。カウンター席にそのまま真っ直ぐ進むとカウンター越しの店主は「ロータス」と俺の名前を呼んだ。

 

「いつものか?」

 

「いや、暫くこないからそれを伝えに来た。もう俺のためにあそこを空けておいてくれなくてもいいよ」

 

 俺は「お前が来ると思ってあけておいた」と店主のトムがよく厭味ったらしい笑顔をするのを思い出しながら言った。すると彼は「律義だな、クソガキ」と言って黒ビールを差し出した。口に含むとぬるい上にあまりうまくない。バドワイザーは軽くてあまり好きではないし、ダークカラーのエールは香ばしくて苦手だ。第三のビール(金麦)を死ぬほど冷やして出してくれ。俺はそれで充分だ。

 正直に顔に出すこともなく無表情で飲み進めるも、周りは「まだ16じゃないだろ」と止めることはない。俺は昼から夕方までにここに来たいし、ルパートは平日の昼は仕事なので目の前の老爺、トムの親族ということになっている。昼のパブはファミレス的立ち位置にあるので周りは託児所代わりと判断しているらしい。殆どGPSのポートキーを持っていることもあるだろう。

 忠告のかわりに隣の出来あがった男に「Hi Mate!」と肩を組まれた。甘ったるい酒の匂いが纏わりついて俺は眉を顰めた。

 

「リンゴ酒の方がいいんじゃないかぁ? チビスケ」

 

「……黙れホモ」

 

 Mateは親しい男性同士の呼びかけに使われ、訳するなら「相棒」といったところだろう。ところが正式な使い方は「配偶者」や「つがいの片方」という意味合いだったりする。絡んできたのはよくこの酒場にいる男だし、もはや俺の名前も思い出せないくらい出来あがっているからそう呼んだんだろうが、酔っ払いに絡まれるのは誰もが好きじゃないので俺は冷たく切り捨てた。

 しかしブラックジョークが大好きな国民は腹を抱えて笑い始めた。

 

「ぶあっはっは! ロータスから離れてやれカイン」

 

「げほっ、ぶっ、ハハハ! 離れてやれカイン、娘がホグワーツに入学したばっかりだってのに、ホモでカミさんに捨てられたくねえだろ?」

 

「く、ぐふぅッ! ロットに手ぇだしたらホモっつうよりペドだぞ!」

 

 笑いころげるオッサンたちに乗って俺もグラスに口を付けながら「まったくだ」と言いながらポケットからビールの分の金を出した。今までの分も兼ねて色を付けて出すと、正規の値段と色の半分だけ回収された。

 にわかにホモとペド疑惑の浮上した酔っ払いは両手を振りまわして暴れるように言った。

 

「ホグワーツに入学した娘はもう就職したわぁあ! 決まったのは甥っ子のサロメだあ!」

 

「サロメは女の名前だぞ、酔って頭が回らなくなったか。昼間っから出来あがってお前はよォ」

 

「いいや、甥で間違いねえ! サッカー好きのアイツは姉さんの子だあっ…! それに休みに何したって俺の自由だろぉがあ」

 

 ずる、と掲げていた手を降ろし、うーうー言いながらカウンターに頬を擦り付けた男はそのままデカいいびきをかいて寝こけた。さっきまで男をからかっていた連中は肩を竦め、店主は舌打ちをひとつした。俺は隣の男にひとつ訊ねた。

 

「彼の名字はなんていった?」

 

「名字? 確かグラスゴーだ。どうした?」

 

「いや、その甥と小学校が同じかもしれないんだが……姉の夫の名字まで分かるか?」

 

 最初に質問した男は首を振ったが背後のテーブル席に座っていた男が急に「俺は知ってるぞ」と言った。

 

「テイラーだ、いいとこの息子で確かハッフルパフだよ。俺の同窓だ。どうだ、同じ小学校か?」

 

「二重姓だとすればおそらくな」

 

 偶然ってあるもんだなあなどと零す男に俺も頷く。まさか同じ小学校に魔法使いがいるとは思いもしなかった。小学校一年生のときに同級になったサロメという少年は、そういえば確かに“ウィーズリー”という名字を聞いたとき驚いていた気がしなくもない。だが確か、そのときは適当な理由を考えて問いはしなかったはずだ。

 そういうことか、と一人勝手に頷きながら残りのビールを煽る。カウンターにそれを突き返して立ち上がり、ポケットの中にポートキーがあるかどうかを確かめた。ルパートの家の鍵がポートキーになったそれは札の塊の奥でチリ、と掠れた金属音をたてた。

 

「もう帰るのか。どこでもいいが魔法学校に入るんだろ? 休みには来るのか?」

 

「そうだな、長期休暇にマグルの方にこれたらルパートを連れて来るかもな」

 

 そうかそうかと頷いた客の一人である男は乱雑に俺の頭を撫で上げた。「お前は俺たちの息子みてえなもんだ、顔出せよ」と言われて曖昧に頷く。店主の老爺はグラスを片付けながら「ルパートにもたまには一人でも顔出せって言っておけよ」と言って、更に続ける。

 

「ああ、そうだ。お前にゃ興味がないかもしれないが、高名な占い師が今日来てるんだ」

 

 酒場の奥を親指で指差した店主は「元気でやれよ」と言って俺がいつも行く扉を杖でぱたりと閉めた。彼の指差した方を見るとニカブを纏った女がいた。目があって「こんにちは」と挨拶される。その小さくも厭味ったらしく、それでいて慈愛に溢れるような声に俺は一瞬固まったあと「こんにちは」と挨拶した。

 

「ムスリムの方ですか?」

 

「そうよ」

 

 占い師染みた格好をしたいわけじゃないの、といった彼女に俺は手持無沙汰に困ってついといった感じで頷いた。正真正銘の教徒であるならば昼間っから酒場にいるのは如何なものか。ムスリムに飲酒は大罪だ。イスラームの女は俺の想像の中だとあまりににも厳粛だった。(飲酒は実際、国や状況によって限定的解除もよく聞く話だが。売る側は纏まった金になるし、買う側に至っては、個人ならいざ知らず人類で酒という魔性を一度手に入れてから完全に手を切れた存在を見知ったこともない)

 そもそもこの女、魔法族である店主が存在を公に見知った者として認識するくらい非絶対神の領域である“魔法”の領地に足を踏み入れておきながら、なにがムスリムだ。冗談も通じやしない。占いに至っては酒と同じく地域差があるが、店主のような魔法族の言う割合に緻密な未来の予測である占いは唯一神の掌中であるはずで、それを信じ行使することは悪魔への接近という大罪に等しい。もはや存在そのものが怪しい限りだ。

 

「みんながみんな、そうじゃないの。私は学校にだって通った」

 

 にこり、と口許が見えずとも笑ったのが分かった。内心を読まれたような感覚にぞっと身の毛弥立ちながらもメンタリズムを思い出して俺は黙り込むことにした。開心術を使われた感覚は今のところないが、そういう魔法を独自で開発したという可能性も考えられなくはない。

 疑うのも信じるのも面倒だと小さく思っていると、彼女は笑みを崩して瞬きを繰り返し「アナタってとても珍しいわ」と言った。俺は眉を顰めた。

 

「少し、見たいわ」

 

「いや、いい。冗談じゃない」

 

 嘘でもホントでも冗談じゃなかった。それらしいことを言われるのも、本当に中身を覗かれるのも冗談じゃない。プライバシーの侵害だ。魔法界にはそういった法律がないことを改めて恨んだ。個人の内面を粗雑に扱い過ぎる傾向は、いつだってエスノセントリズムの中で健在だ。魔法使いなんてエスノセントリズムの最大手みたいなもんだ。

 

「そう言わないで、ボウヤ。……お互い外見と年齢の齟齬は言いっこなしよ」

 

 掴まれた腕の力に、俺は背筋を撓らせた。この細腕とホワイトアフリカの白い肌のどこにこんな腕力が隠されているんだ。内心の動揺を隠すように、俺は全く別の着眼点を見つけるのに忙しかった。外見と年齢の齟齬だとか。こんなにつまらないことも珍しいからだ。

 

「アナタ、記憶力がいいのね……」

 

「そう、ですかね?」

 

 俺は冷や汗を垂らしながら小さく笑った。

 

「ええ、よかったわね。アナタ、それがなかったら死んでたわよ」

 

「それは、」

 

 「未来の話? それとも過去の話?」そう聞こうとして押し黙った。結局未来の死亡確率は100%だし、過去に死んでいるのも事実だ。しかし女は無遠慮に自分が崇高だと信じて疑わない様で笑った。

 

「未来の話よ、ロット」

 

 ねっとりと甘い声に聞こえたのは、俺がこの女のことを恐ろしがっているからだろうか。得体の知れないものはかく恐ろしい。俺が俯くと彼女はすっと腕から手を離した。

 

「ごめんなさい、でも警告したかったの」

 

 苦笑しながら彼女は緩やかに目を瞑った。

 

「アナタの人生はこれからツラいものになるでしょう。でも、アナタが希望を捨てなければどんなふうにでも変わるわ」

 

 クソッタレ。その言葉が口から出るのをどう抑えたのか、俺の努力を語るに一日では足りない。その言葉は誰にでも適用され、さも俺を気遣っているように苦笑してみせた女は性悪だ。ツラくない人生なんてあるものか。だとしたら佐伯暢のように25歳やそこらで死んじまったような人生だけだろう。しかしそれさえも些細な絶望や悲哀に濡れたものだった。歓喜や興奮がそれらより大きかっただけで。

 俺は彼女を見据えた。だからなんだというのだと。怒りでも恨みでもなく理性的に(故に阿呆らしく)見据えた。震える拳を固め、深く息を吐く。本当に彼女が俺のことを“見え”たとしても、そんなことはどうだっていい。彼女になにが出来る。こんな小さなガキを興奮させただけで、未来ひとつを変えることさえ出来やしまい。

 

「精々豚でも食って自殺しろ、性悪女」

 

「あら、いやだわ性悪だなんて」

 

 初対面の人に見抜かれたのは初めてよなどと笑った女に俺はもう興味がなかった。彼女の方もそうらしかった。自分が性悪であることを肯定する奴は大概成熟しきれていない青臭さが鼻を突く。俺は疾うに彼女に落第点をつけ、オールドトムを後にした。もしルパートと会わずじまいで、“ロータス・ウィーズリー”として生きていくことを決めていなかったら彼女の言葉に傾倒していたかもしれないなと思いつつ。

 

 


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