まちがいさがし   作:中島何某

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The sickness unto death.

 

 

「ジョン、この前の本は大ヒットだったな! 次の新作はサヴァンなんてどうだい?」

 

「うーん、そうだなあ」

 

「俺、レインマンが大好きでさあ。キミがサヴァンを題材にしてくれたらきっと興奮するよ!」

 

 はは、と俺は頬を赤らめて今だって充分興奮している友人の一人に笑い掛けた。カシャ、と無意味にキーボードを触りながらワープロを眺める。点滅するバーに、白紙。創造の一欠片もない状態がただただ繰り広げられていた。

 俺はジョン、大学を卒業してから物書きとして生きて来たイギリス人だ。ロンドンの下町っ子として育ち、ずっとコックニーと標準英語を使い分けて生きて来た。

 

「……ジョン? どうしたんだ」

 

「ああ、いや」

 

 ふ、と。大学時代のことを思い出した。大学で出来た友人のことだ。

 その友人は日本人で、留学生だった。彼は佐伯暢といった。最初、俺は大して興味も抱かず存在さえきちんと認識していなかった。それもそのはず、彼は当初一年間だけいるはずの日本の提携を結んでいる学校との交換生だったからだ。しかし同じ学科の友人が急に「日本人の留学生がウチの学校に編入してくるらしい」と言ったので遂に存在を俺の中で明瞭に確立させたのだ。

 彼と初めて会ったのは――いや、見かけたことは幾度かあったのかもしれない。ただ彼を佐伯暢として初めて認識して会話をしたのはということだ――学校の中庭でのことだった。昼下がり、黄色人種が中庭のベンチに腰掛けて本を読んでいたので俺は気さくに声をかけた。

 「やあ、何の本を読んでるんだい?」と。もしかして本はその黄色人種の国の本で、面白いものかもしれない、翻訳されているかもしれないと思ったのだ。同世代は本を読まない奴が多くて、真面目に読んでいると逆に馬鹿にする奴までいる。それに黄色人種が日本人だったら、特に勤勉で本をよく読むのではないかとも思ったのだ。――後で彼に聞いた話、日本人の殆どは本を読まないらしい。イギリス人の40%だって本を読む習慣はないけどな!――

 俺が話しかけると、その黄色人種はゆっくりと此方に振り向いた。その瞬間、俺は息が止まるかと思った。その黄色人種は人種の壁を越えたところで異様に白く、まるでミケランジェロの彫刻のように美しかった。ただ只管に統一のとれた顔に冴えた理知的な瞳が芸術性を兼ね備えさせたのだと思う。

 ここまで芸術的な外見の存在がいるものかと俺が言葉を失っていると、その黄色人種は怪訝な面をしてから手元の本に目を配った。そして「グレート・ギャツビーだ」と言った。

 俺は彼の声に意識を取り戻し、その素晴らしい響きのタイトルに感激して「グレート・ギャツビー!」と叫んだ。偉大なその本を読んだこともない白痴が俺の周りに溢れているものだから俺は凄く嬉しくなったのだ。そして黄色人種が読んでいたのは原書であった。――なんて素晴らしいんだ!

 それから俺は彼と顔を合わせるたびに文豪の話をした。彼は俺が話す文豪、小説、その小説の一節まですべてを知っていた。俺は素晴らしい本において共感できる人間というのがいて凄く嬉しくて、身の内に激しく流れる熱狂に任せて彼と語り明かした。

 しかし、突然。彼が自分と違う存在なのではないかという思考に駆られた。異常ではないか――本の一節まで覚えているのはと。興味もそうない本であっても彼は一度読んだという本の登場人物の名前は全て覚えていたし、構成・会話・細かな設定などすべてを忘れることなくその頭に密やかに息づかせていた。

 そして彼と会って一年が経った頃。俺は確信した。彼は他者と違う、非常に才に抜きん出た存在だと。しかし彼はその事実について顧みるどころか気付いてさえもいなかった。自身のそのあまりにも鮮烈でいて均整のとれた容貌、美しきクイーンイングリッシュ(時折俺の真似をしてコックニーさえしゃべるが)、読んだことは忘れのしない頭脳。彼はどれひとつとして自分のものであると思っていないようであった。まさしく彼は誰もが幼年期に夢見た一種恐ろしい“個性”を持ち得ていた。

 だから彼は悩むのだと俺は思った。

 彼は客観的に見た自分という存在を知らないからこそそのズレに苛まれて悩み苦しむのだ。その苦悩はあまりに長ったらしい。彼は人生の大半を苦悩に費やしているのではないかと俺は思った。他者を気にかけ、自身を知らず、多くのことを知り覚えている。おまけに知性的だ。その結果、彼はあらゆる可能性に怯えていた。幸福と不幸のすべての確率を順番に並び立てて、最もよい幸福を選び、その幸福までの道のりに落胆して再び黙り込み悩むのだ。

 俺は一切彼のことを馬鹿だと思った。彼は愚かではないにしろ馬鹿であることはかわりなかった。

 

『ジョン=ブル』

 

 いつだったか彼が自国の本――外装はすべてが緑だった――を読みながら俺を呼んだ。俺はいつでもジョンでありヨハンでありジャンでありジョヴァンニでありフアンでありイワンだった。母国語を人に合わせて使うように、惜し気もなく他の人間になろうとした。時として国境も関係なく。だから彼は俺のことを皮肉的にそう呼んだ。だから俺は彼のことを『ドリアン=グレイ』と呼んだ。日本人の名前は音節が特殊で発音しにくいということもあった。それが俺達の間での小さな秘密の共有だったのだ。余談だが、俺達が『アンクル=サム』と呼ぶ友人もいた。

 

『お前は失われた時間についてどう思う?』

 

 怏々とした声色で美しきクイーンイングリッシュを操って彼はそう言った。なにか鬱屈とした思想の中に溺れてうぬぼれたいようにも聞こえた。彼は時としてナルシシストを選択したがるときがあった。今回もそういうことなのだろうかと俺は思った。

 

『それは、死のことか?』

 

 彼は過去にゆっくりと首を振った。それは肯定でも否定でもなかった。まっすぐに俺を見据えて微笑み、愉快そうに『どう思う』とまた聞いた。

 

『……失われた時間は、自分より他人の方が尊いにしても儚いだろうな』

 

『残酷だと?』

 

『それ以外の何物でもない。エピクロスじゃないが、死んだ者はもう“死んだ”んだ。つまらないがな』

 

『まったくだ、つまらない』

 

『つまり、失われた時間というのは“失った本人”からすればただの過失だし過去だ。ただ他人の場合それは“失った本人”からの干渉だ。自分の喪失と他人の喪失では意味が、影響が違う。人間は自分より他人の言動に突き動かされる生き物だと俺は思うし、自分の喪失は絶望――死に至る病ではあるが、他人の喪失は傷であるし痛みだ。傷も痛みも自分の意思ではどうにも出来ない。度合いによっては時間でも解決しない。結局のところ遅かれ早かれ大きな喪失は死だろうな』

 

 俺はそう思う、そう仕舞うと彼は先程よりもっと穏やかに、優しげに微笑んだ。安心させる笑みだった、しかし同時に意味の分からない緊張と混乱も孕んでいた。過去に祖父の死体を見たときのようだった。穏やかに眠る顔は安堵と恐怖が表裏一体だった。申し訳ないが祖父が死んだという事実ではなく、“死”という事実そのものが。

 

『どうした、大地震にでもあったか?』

 

 死に至る病――キェルケゴールからその言葉を導いて彼に笑い掛けると彼は快活に笑って『まさか。まだ恋人を離すつもりはないね』と言った。日本人はどうだか知らないが、彼の彫刻のような美しさとアジアン(インド人でもパキスタン人でもなく、極東の資本主義国のことだ)の肌、髪のきめ細かさに、彼を求めるイギリス女はいつだって知性的ででしゃばりだった。彼女達は彼を手に入れるとエルンスト・バルラハの彫刻を評価出来る自分に満足したような顔をするのだ。

 まあ確かに、友人を見ればソイツのことがなんとなく分かるように彼氏を見ればその彼女のこともなんとなく分かってくるのと同じ思考だろう。故に、彼は友人の俺からしてみても彼の彼女からしてみても自慢の存在だった。

 

『いや、少し本を読んでいたら考えさせられただけなんだ』

 

『本? 本って今持っているそれか?』

 

『ああ』

 

『なんていう本なんだ?』

 

『ノルウェイの森。そういうんだ』

 

 それで会話はビートルズで盛り上がり、暗く理性的な会話は終わりだった。今でも鮮烈に浮かんでくる彼の顔を思い出して、俺は過去の彼のようにゆったりと微笑んだ。――ダメだ、上手く出来ている気がしない。どう考えたってあの男が特別だったのだ。

 

「……オイ、本当にどうしたんだ? ジョン」

 

 はっと俺は友人に声をかけられて過去の追想から現在へ舞い戻った。目の前には真っ白な原稿が広がっている。俺はなんとなしに首を振った。

 

「少し次の話が浮かんだんだ。すまないが出ていってくれるか?」

 

「ああ、そうか。次の新作も楽しみにしてるよ」

 

「ありがとう、それじゃ」

 

「じゃあな」

 

 俺は友人が出ていってパタンと閉じた扉に、ひとつ息を吐いた。真っ白なワープロは仕舞い込み、引き出しから便箋とペンを取り出す。久しぶりに彼に連絡をとってみることにした。携帯もパソコンもメールアドレスは知っているが手紙を書いてみたい気分だった。

 意気揚々と筆をとり、住所と名前だけは慎重に日本語で書いて締めくくる。俺はよし、と会心の出来の絵のような文字に胸を張った。返りが来るのが楽しみだ。

 

 それから数カ月後のことだ。俺は彼が他人に失われた時間を与えたこと知った。それは平等に、勿論俺にも与えられた時間だった。

 

 





過去作品修正終了です。
番外編に新たに書いたジニー視点を明日あげて、それ以降の更新日時を1話に書いた通り未定とさせていただきます。

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