まちがいさがし   作:中島何某

8 / 25
8話

 

 

さよなら:誰かのはなし

 

 

 

「ねえねえ、はるかちゃん! 私プロポーズすることにしたの!」

 

「そう。誠実な人?」

 

「ちょっと! 五年も前から付き合ってるんだから知ってるでしょ!」

 

「ん、あれ、……うん、ごめん。がんばってね」

 

 

 

 

 

「はるかちゃん! 私結婚するわ」

 

「おめでとう。御祝儀、あんまり出せないよ?」

 

「新聞紙で割り増ししといたって構わないわよ。ここ数年大変だったでしょ? 披露宴来てほしいの。あーもう、お色直し何着よう! ウエディングドレスはレンタルなんかじゃなくて、きちんとしたものを買うことにしたの」

 

「へえ、じゃあじっくり見ようっと」

 

「やめてよー! 最近太ってきたんだから」

 

「幸せ太りだねぇ」

 

「えへへ」

 

 

 

 

 

 やった、やったわ。子供が出来た! 妊娠検査薬は陽性で、私のお腹の中には子供がいる。きっと、いいえ絶対暢君の子よ! 嬉しい、嗚呼、嬉しいな!

 

 

 

 

「はるか、俺、結婚するんだ。もう、不毛な関係に終止符をつけよう」

 

「ああ、そう」

 

 そうよ、だって私のお腹の中には暢君の子供が居るんだから! うふふ、なんて名前をつけようかしら、女の子? 男の子? うふふ、ああ、私幸せ!

 

「また後日、マンションに荷物を取りに来る。いいよね?」

 

「どうぞ」

 

「うん。……ごめん、ちょっと飲み物貰ってもいいかな」

 

「勝手にして」

 

「有難う。……なんでグレープフルーツ? それにジュースも。嫌いじゃなかったっけ」

 

「別に」

 

 

 

 

 

「んっ、ぐ、うぇっ。……は、はぁ、んぶっ」

 

 つわりってホントにツラいのね。ごはんの匂いも駄目だった。でも大丈夫、私は耐えられる。だってお腹の中には暢君の子供が居るんだから。うふふ、大丈夫。ちょっと我慢すれば暢君似のカッコいい男の子が産まれてくるんだから。だから後ちょっとの辛抱よ。大丈夫、大丈夫。

 

「……はるか?」

 

 ちょっとやめてよ。もうちょっと遅くか早く来てくれればよかったのに。人の家のトイレを覗くなんて最低。しかも私、女の子よ。もう帰ってよ。

 

「……子供か? 子供が、出来たの? 俺の」

 

「暢君の子よ。帰って、貴方には関係ないわ」

 

「はる、か」

 

 なにその顔どっか行ってよ私たちの問題に口を出さないで。貴方になんて暢君の子供の顔、見せてあげない。私の友達と結婚するんでしょうけど、貴方が居ないときにあの子に暢君との子供みせてあげなきゃ。ああそうだわ、彼女にも教えてあげなきゃ。そうよ、彼女は確か暢君のこと知ってたわよね。目の前の男が暢君の友達なんだから、そうよね。きっとよく似てるって言ってくれるんだわ。私より彼に似てほしいなあ。ううん、どんな顔でも暢君との子なんだからきっと愛せるわ。

 

「はるか、落ち着け。はるか、違うだろ」

 

「何が違うっているの、どうして顔が引き攣ってるの? 暢君の子よ」

 

「聞け! はるか、暢は!」

 

「聞きたくないわ喋らないでなによ言わないで聞きたくないききたくないききたくないきき、ッ」

 

「暢は、アイツは五年も前に! 一週間前にセックスをしたのは、俺とだ! 暢じゃない!」

 

「ちがっ、違う! 暢君の子よ!」

 

「はるか、君は五年も前の相手の子が出来ると思ってるのか!! 出来るはずがないだろ! 子供が出来たんだったら結婚はしない、責任も取る。彼女にも絶対近づけさせない」

 

「いらない、いらないいらないいらない! 暢君の子が出来たのよ! どうして邪魔するの嘘つくの大嫌い、貴方なんて大嫌い!」

 

「はるか、よく聞け! アイツは!」

 

「やめてっ――」

 

「五年も前に、死んだんだ!」

 

 ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!! 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ! 暢君が死んだわけないどうしてこの人はこんなに酷いことを言うの! 彼の友達じゃないの!? それなのにこの人は私と不貞を……! あれ、不貞、を? どうして、私はこの人と不貞を働いたんだっけ? 私には暢君が居て、この人にも私の友達っていう彼女が居た。なのに、あれ……? どう、して?

 

「あ……あ、ああ……」

 

「はるか、口にしよう。もう五年も前だ。認めてあげるんだ。暢は死んだ」

 

「暢君は……!」

 

 私は泣き崩れてこの人にしな垂れた。この人は私の背をぽん、ぽんとリズムよく叩いた。

 

「暢君は、貴方より優しかった」

 

「うん」

 

「手があったかかった」

 

「うん」

 

「頭だって良かったし、運動神経もよかった」

 

「うん」

 

「私のことはなんだって知っててくれたし、覚えててくれた」

 

「うん」

 

「キスも貴方より上手だった」

 

「うん」

 

「セックスだって貴方よりずっと上手だった」

 

「うん」

 

「でも、でも……暢君は一度だってゴムをつけなかったことはなかったわ」

 

 滲む視界に我慢が出来ず、泣き始めると彼は背中をさすってくれた。手は暢君ほどあたたかくはなかったけど、それでもとても心地よかった。

 そんなことを考えるのは、私の心が暢君から離れていっている、証拠?

 

「暢は、あのとき25歳で俺達はもう30歳だ。それにあのときは学生だった、責任なんてとれるはずもなかったんだ」

 

 私は返事もせずに立ち上がった。ふらりと体が揺れて、栄養が足りてないのかもしれないと思いあたった。でも、取り敢えず今はどうでもいい。

 

「お、おいっ、はるか? なんで外に……!」

 

 ふら、ふらと体の軸が決まらないまま歩いて、私はマンションの階段をゆっくりと上がった。

 

 

 

 

 カツン

 カツン

 

 

 

 カツン

 

 

 ヒールに階段が余韻を残したけれど、それを楽しむこともせずに私は錆びついた屋上の扉をあけた。

 

「はるか!? どうして急に、」

 

 私はフェンスに手を添えて、遅れて来た彼に笑い掛けた。彼は顔を真っ青にして戦慄いた。

 

「結婚、おめでとう」

 

「はる……」

 

「『はるか』なんて呼ばせたの、他人では貴方が二人目よ」

 

「馬鹿なことは止めるんだ! なあ、大丈夫だから! 俺は、お前のことを愛してる。どっち付かずの俺が全部悪かったんだ! アイツを騙してお前を傷付け続けた! でも、でも俺、お前たちのことはこれから一生守るから! だから……!」

 

「突然愛する人が死んだ喪失、不条理が整理できずに年々ごちゃごちゃして、頭がおかしくなった人間のことを、貴方は理解出来るかしら。理解出来なくっていいの。その言い訳、その態度、開き直り、後悔……どうしようも出来なくてもがく貴方、普通の人だわ。貴方のこと、好きよ。優しくて、精一杯。この五年は貴方にとって、悪い夢だったのよ。私はきっとサナトリウムなんかしなきゃいけなかったのね。誰にも迷惑をかけず、喪失を埋めなきゃいけなかった。貴方は悪くないわ。優しい貴方が不幸によって嵌った気の迷い。幸の薄い女を見ると手を出したくなる男のさが。貴方は愚かで、私が悪女だったの。たったそれだけよ」

 

 私は空の下に掌を掲げた。小指に嵌めたピンクダイヤのリングは、大学生の女の子がつけるようなデザインで今の私には少し浮いてしまう。でも、五年前の私の笑顔にならきっと似合った。自画自賛? ううん、彼がそう言ってくれたのだから間違いないわ。

 

「ねえ、誕生日に買ってくれるって言ったピンクダイヤ、一か月前だったのにもう買ってあったのよ? 彼の部屋で見つかったって、渡されたわ」

 

 ウェーブを描くリングに天使の涙のように繊細にきらめく宝石。昔はぴったりだったのに、今は少しゆるくなってしまった。

 

「わたし、取り残されてしまったわ。不条理で欠けた喪失を埋めるなんて不可能よ。私も彼も弱い人間だった。気を使ってくれる友人たちのように、貴方にも五年前の私たちは全てが満たされた人間に見えたかしら? 偶然惹かれて、お互いで足りないところを埋めていたのに、神様が私たちを乱暴に引き剥がした。天国で彼も泣いているわ。ゆるやかに結合部分がくずれて、離れたころにはすっかり繋がっていた部分が癒されて、不用意に傷付かずに別れた後も生きていけるはずだったのに、突然出来た喪失は大きくて惨すぎる。天国だって人間社会でしょ? 彼もこの五年きっと大変だったのでしょうね」

 

 私は向こうで呆然としている男性が愛らしく思えた。遊園地でお母さんとはぐれてしまった男の子みたい。

 

「ね、なにを言っているのか分からないでしょ。分からなくていいわ。アナタにとって死は、生から始まった尺度の終わりなんだから」

 

 私は微笑み、フェンスを乗り越えた。彼は手を伸ばしたけれど、馬鹿だなあ、そこからじゃ届くはずもないのに。

 

「欠けた喪失を癒す方法なんてないわ。欠けたものは埋めなきゃいけないんだもの。埋めてくれる彼が世界中から欠けたまま、私は彼を求め続けた。これって、彼を神様に祭り上げて、彼以外を偶像崇拝したのよ。私の脳が神様を錯乱したんだわ。彼の死によって私と彼で収まっていた世界は風船の空気みたいに解放された。なら、これってきっと冒涜ね。彼は神様じゃないもの。彼が弱い人間であったことを知っていた私が、彼を全能に押し上げてしまったんだから」

 

 人々の鋭利な面ですられ、剥き出しの断面のでこぼこを切り落として平静を装い、あんなに必死に生きていた彼を、不均一な紛い物にしてしまった。私が彼を信仰してしまった。信仰してしまったら彼は私の個を無辜の民として忘れざるを得ない。彼と手を繋いでいたのに、私の中の彼が私を忘れなければいけなくなる。この五年は、私の優しい夢だった。

 

「ね、そんな顔しないで。ありがとう。お幸せにね」

 

 でも、気付いたの。この愚かで優しい人が私に生きることの意味を注ぎ込み続けたお陰で、気付いてしまったの。

 精神でのセックスと、肉体でのセックス。快楽と苦痛の互換性。肉体の唯一性と、精神の永遠性なんて説く気はないけれど。

 

 かこっ、とコンクリートのヘリとヒールが擦れる音。男の叫び。空気を切るが耳を劈く。

 

 いちばん見せてあげなきゃいけない相手を忘れていたの。彼に、お腹の子を見せてあげなきゃ。彼の子供ではないし、彼の友人の子供だからちょっと複雑な顔で笑うと思うけど。でも、間違いなく私の子供なんだから。彼にこの子の手を握ってもらいたいの。夢の続きに身を投じれば彼と出会うことが出来て当然なんだもの。死は生から始まる尺度の終わりでは無いのだから。

 

 

 このお話に、続きなんていらない。これでお終いにして。どっとはらい。

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。