「ねえ、あなたはご馳走があったら好きな物は最初に食べる方?」
目の前の女性は一護の胸を刺したまま続ける。
「私ね、一番好きな物は最後の最後の最後に回す方なの」
何が起こったのか、何をされたのかゆっくりと事態を飲み込んでいく頭に女性の言葉も入ってくる。
「だって――――」
痛覚が徐々に胸に広がり、同時に痛みが熱を帯びていく。
剣に滴る血の一滴一滴が地に落ちる度に止まっていた時が動き始める。
今まで一護に目を向けていた女性は視点を変え、一護の右下に落とす。
「その方がより美味しくいただけるでしょう?」
言い終わると自分に刺していた剣を抜き取ろうとする。
駄目だ!
とっさに抜こうとしたロングソードの鍔と刀身を掴みそれを阻止する。
「がぁっ……!?」
全身の血液が逆流し、心臓に一気に襲い掛かるような激痛に襲われる。
だがここでこれを離してはいけなかった。
抜けば目の前の人間は確実に双馬を斬る。
「双馬、逃げろ」
一言一言がこんなにも痛みを伴うものだとは知らなかった。
痛覚を無視して胸に出来る限りの酸素を吸い込み、肺から激痛と一緒に吐き出す。
「早く! 来た道に交番があっただろそこに行け!!」
血の気が引いた顔をする双馬に喝を入れるべく怒鳴り散らす。
ハッと我に返ったように双馬が自分の顔を見上げる。
怯えた顔は自分だけがここから逃げる事を躊躇っているのだと分かる。
心内は分かるが今はそんな事はいっている時ではない。
「お前を殺す気なんだぞこいつは!!」
そうだ、目の前の女は躊躇いも躊躇もなく自分を刺した。
たまに相手をしていたそこらへんの不良なんかとは違う明確な殺意と行動。
明らかな異常性。
確実にそこらへんの不良とは違い常軌を逸脱している。
今でさえ人に剣を刺したまま顔色一つ変えやしない。
「――――ッ! あ、あああああああああああ!?」
整った眉が逆八の字になり、引こうとしていた刀身を逆に一護の体内に刺し戻した。
ほんの少し身に親しんだ痛みがまた熱を持って体を襲う。
双馬に注意が向いていたから気が緩んでいた分、咽から叫びが止まらない。
新たに肉を切り分けズブズブと剣が進んでいく。
押し留め様と両手に力を入れるが、女性は剣に体重をかけている。刀身を握っていた手の平が擦れ皮が切れ、さらに痛みが生まれる。
この数秒痛みで何度気が遠くなったか分からない。
「あらあら、剣を離してくれませんからてっきりもっと刺激が欲しい方だと思ったんですが……違いました?」
そう言う女性の声色は会った時と変わらずに平坦なもの。
本当に人の命を奪うことになんの躊躇いも無く、当たり前の事のように済ませようとする。
やばい、と失いかけていた気を引き締める。
痛みと出血で腕と足に力が入らない。
「……ッ」
片膝をつき女性を見上げる体勢になる。
女性は抵抗の消えた剣を一気に引き抜いた。
刀身が一護の体内から抜き出た瞬間、剣の軌道を追うように傷口から鮮血が弧を描いて吹き出た。
一護の血を雨と一緒にその身に浴びた女性は恍惚した表情を浮かべ、天を見上げる。
「ああ……」
声を上げたのは女性だった。
まるで極上の蜜を舐めるように血を手の上で回し、口に含ませる。
ワインのように血を味ききし、吐き出す。
「平凡な味。神器の欠片の気配もしない、本当にただの人間なのね。神器は惹かれ合うって仮説は訂正した方がよさそうね」
剣という支えを失った一護はうつ伏せに倒れた。
受身を取らずにコンクリートに体をたたき付け、水しぶきがあがる。
急速に体内から失われていく自分の血液。
気と視界が段々と遠くなっていく感覚。
もう腕の一本も動かせない。
かろうじて指や口は動く。
目に入ったのは雨と混ざって広がっていく赤い自分の血。
人間は体内の血液が三分の一流れ出ると死ぬらしい。
今自分の周りに広がっている血液はそれに相当するのだろうか。
ゆっくりと静かに広がっていく赤を眺めながらそんなことを考える自分に気づく。
(そうか俺、死ぬのか)
いきなり通行人に刺されて、訳も分からずに死ぬ。
地に広がった血液が街灯の光に反射して、鏡のように一護の顔を映した。
血に映った自分の顔を見て呆れた。
痛みで歪むでもなく、無念で泣くでもなく、生きる事にすがり付こうと必死になるでもなく、無表情だった。
――――無。
一護は驚いていた。
迫る死に自分はなんの抵抗もなく迎えようとしている。
動く口からは過呼吸が漏れるだけで、死にたくないと叫ぶこともしない。
ただ胸と手の平の痛みだけがまだ自分が生きていることを証明している。
一護は思う。
自分は死ぬことに未練が無いんだと。
恐怖はある。
痛いのは誰だって嫌だ。理不尽でしかたない。
だが過去の記憶が無く自分が誰なのか分からないまま生活する日々は無感だ。
家族が出来た。
それでも自分の中の空白は埋まらない。
手探りで探すようにバイトを始めてみた。
それでも空っぽのままだ。
何も無い。
まるで雲一つない青空のようにどこまでも果てしなく遠く、在って無いもの。
だったらここでこのまま死んでもいいかもしれない。
と、自傷するように思ってしまう。
そう考えると、まるで以前にもこんなことをしていた気さえしてくる。
雨に打たれ地に付して死にかけている。
そんな自分の思考に笑ってしまう。
ぱしゃりぱしゃりと、すぐ隣を歩く足音が聞こえる。
そして誰かが自分の体を揺っている。
「――――お兄ちゃん! お兄ちゃん!」
双馬が自分に向かって懸命に声をかけていた。
白く濁った視界から辛うじて見える双馬の姿。
(何やってんだよ……)
確かに自分は逃げろと言った筈だ。
だが逃げていない。腰が引けたか、逃げる暇がなかったのか、双馬は自分に声をかけつづけていた。こんな自分に。
双馬の後ろの黒い影。
おそらくはあの女なのだろう。
ブレた視界では明確なことは断定できない。
――――ああそういえば、こいつは双馬を――――
その瞬間、自分は女を押し倒していた。
どうやって足に力を入れて立ち上がり、いつ腕を突き出したのか覚えていない。
ただ自分を見て滑稽な顔をした女の表情だけはよく見えた。
無防備に背中からコンクリートに叩き付けられ肺からむりやり酸素が無くなる。
痛みに呻く女の手から剣を奪い、それを支えにして一護は逃げだす。
「双馬行くぞ!」
それに続くように双馬も走り出す。
出血からくる目眩がさっきの動作で酷くなった気がする。恐らく一瞬でも気を緩めると自分は気絶するだろう。
「――――ッ!」
奥歯を噛み締め、自身の感情を高ぶらせる。
今するべきことを鮮明にし、速度を上げる。
瞬間。
ガン、という鈍い音と同時に後ろからついて来た筈の双馬が、自分を越して前に跳んだ。
雨水によってコンクリートとの摩擦係数が減った地面を双馬は転がり続け、やがて止まった。
「……双馬?」
自分を跳び越え、転がり、止まる。その動作の全てを見ているしかできなかった。
球だ。
バスケットボール級の赤く輝く球体が双馬の腹にめり込み、残光を残しながら跳んでいった。
「おい、双馬!!」
言って一護は駆け出した。
死に絶えたように動かない双馬へと。
「――――ああ、面倒ですね」
「! ――――がっ!?」
後ろからあの女の声が聞こえた。
その瞬間、一護は脇に衝撃を感じそして左へと吹き飛んだ。
低木の植樹帯にぶつかったことで衝撃は緩和したが、重い痛みが脇腹を襲う。
「ああ面倒。面倒です。こんなに時間を費やしてしまうことになるなんて、私の計画にはなかった筈なのに。本当なんですよ? すぐに殺して、すぐに気絶させてハイ、オシマイだったのにどうしてこうなってしまったんでしょうか」
落ちた剣を拾い上げ、女は歌うように語り掛けた。
両手を広げ雨にその身を捧げる姿は画家のモチーフとしては文句ないのだろう。
「しかし、ええしかし、過ぎてしまったことは悔やみきれませんが諦めましょう。生き物とは悩むことで進歩する信者なのですから。ですのでこの失敗を元に第一対象から処理することにしましょう」
広げた手はそのままに、女の背から羽が生えた。
黒い羽。
鴉の羽を彷彿とさせるその羽は恐ろしく綺麗で、そして汚れているように見えた。
人としてはありえない異物を持った女。
天使。にしてはあまりに猟奇的過ぎる。
女は動かない双馬に近づき、剣を大きく振りかぶった。
「大丈夫ですよ、死にはしません。ただ逃げられないように足と腕の腱を斬るだけですからね」
女はにこやかにそういい剣を振り下ろす。
「やめろおおおおおおお!!」
一護の怒声を無視し女は双馬の足を切った。
■ ■
――――はずだった。
狙いは確実、確かに子供の両足に向かって剣を下ろした。
だが、剣が足に触れる前に自分が子供から離れてしまった。
いや違う、離されたのだ。
意識の無い子供の体が突然輝き始め、光の衝撃波が自分と子供の距離を数メートル引き離した。
子供はまだなお輝き続けている。
「そんな馬鹿な、神器が所有者を守ったとでもいうの!?」
在り得ない事柄でない。
所有者の危機での覚醒は行く度々事例が存在する。
しかもその場合、覚醒する神器の能力は高い。
好都合。
ここで神器の明確な能力が知れれば、態々他の奴等に渡さずに自分が取り込む事もできる。
子供はまだ目を覚まさないが光が肉体から徐々に上へと移動する。
ついに光源は宙へと浮き上がり停止し、造形を変化させる。
それは一本の剣。
刀身が反ったブロードソード。
派手な装飾もなく外装にはこれといった特徴は見当たらない。
しかし油断はできない。
神器の『システム』の真髄は見た目ではなく能力。
しかも所有者ではなく神器そのものが主を守る為に、自ら無理やりに覚醒したのだ。
……自我の在る神器ですって!?
まさか神獣でも封じられているとでもいうのか。
だとすれば危険過ぎる。
「――――完全に目覚める前に封じなければっ!」
そのためにはあの神器を一度子供の中へ……!
そう考え自分が動く前に、一人先に剣を掴んだ奴を見た。
「なっ――――!?」
自分が嬲り殺しにした筈の男。いつの間にかそいつが神器を既に手にしていた。
「嘘でしょう! 何でただの人間が……いえ違う! 主でもない者が神器を手に出来るなんて!?」
混乱する思考の海から一筋の真実がゆっくりと浮かび上がってしまう。
(まさか、まさか……!?)
「神器が自ら認めたっていうの? 主でもない男を!」
(あり得ない、有り得ない、アリエナイ!!)
我等堕天使たちが幾つもの工程と思案と犠牲を払って手にした『移植』という手法を無視した現実。
(殺す! こんな理不尽も! 目の前の男も全て何もかもを!!)
■ ■
(……熱い)
手にした剣から感じる熱量。
血の気の引いた手でも確実にその存在感が伝わってくる。
しかし、手に馴染まない。
それは自分がこの剣の本来の主ではない事を剣自身が伝えている。
「――――んな訳ねえか」
この現状をなんとか打破すべくと咄嗟に掴んだ剣。
なんで双馬からこの剣が出てきたのか、目の前の女が何者なのかも今は関係無い。
今すべきことは敵を倒すこと。
一護は双馬の前に立ち女と対峙する。
「死ねえええええええええええ!!」
動きがままらない内に女の方から向かってきた。
初動は上からのかち割り。
一護は体を揺らし無理やり回避を行う。
柳のように靡かせる風格が女を更に逆上を誘う。
「何でよ! 何で死に底無いがその神器を使えるよの!」
荒れ、切り裂き、叫ぶ。
刃の風切り音が乱舞し、一護を斬り裂き続ける。
刃の軌道が赤く染まった。
一護の体を紅の線が刻まれ続けた。
一筋、一筋、受けきれず、かわしきれずに届く刃を一護は黙って耐える。
時間が経つに連れて加速する剣筋は一護を切り裂き続けるが、決定打には届かない。
「死ねって言ってんでしょうがあああああああ!」
躍起になった女は剣を大きく横に振りかざし、
その瞬間、一護は女の懐に入っていた。
「――――なっ!?」
腕を広げたことで空いた胴体に一護は身を縮めて潜り込む。
目を見開く女の顔を睨み、下からブロードソードを振り上げる。
「チッ――――」
舌打ちし女は一護が振り上げるよりも先に翼を広げ空へと舞う。
今度は一護が驚く番だった。
読まれていたのか、とっさの判断だったのか、どちらにしても失敗だった。
渾身の一撃。
長期戦を望めない体ではもうここで決めるしかない。
が、届かない。
すでに女は空高くへと飛んでしまい剣の間合いから逃げてしまった。
空振りと分かっている振り上げだがもう肉体はモーションを止めない。
それは滑稽でしかない。
一護がもう動けないことを分かっているからなのだろう、飛ぶ女の表情は歓喜に満ちている。
――――届け。
自分の限界を知らせるように肉体が悲鳴を上げる。
――――届け。
振り上げた瞬間、自分は地に伏せ動かなくなる。
そしてあの女が後ろの大切なものを奪う。だから――――
「――――届きやがれえええええええええええええええええッ!!」
――――斬。
白刃の閃光。
届くはずのなかった斬激が届いた。
一閃は歩道に設置してある防護柵もろとも女の右腕と翼を斬り捨てる。
「―――――!?」
油断した所を瞬時に斬られた女は左右のバランスを崩し、地に堕ちた。
ドシャリ。
と翼をクッションにし、衝撃を緩和させた音が聞こえたがそれでも結構な音が一護の耳に届く。
嘔吐するように一護の口内から血がこぼれた。
剣を杖代わりにし、貧血で倒れることを防ぐ。
もはや立っているだけでもやっとだった。
(立つなよ……)
手負いにはしたが決定打ではなかった一撃。
祈るように倒れた女を見つめるが、女はゆっくりと体を起こした。
「うふ。うふふふふふふっ」
額から流れる血が笑う女の顔を不気味に色飾る。
「ふふふふふふふふ……まさか、まさか、まさか――――神器を扱うなんて、ここで殺すには惜しい逸材ですわ。ああ本当、本当に残念です」
一歩、一歩、ゆっくりと近づく女を一護はもはや構えることなく迎えていた。
白く霞が掛かる視界はもはや役に立たない。
聴覚だけが女が近づくのを知らせられた。
(――――また、護れないのか)
また? またとはなんだ。
幻覚ではなく自分の幻想が思考を巡る。
こんなことは初めてだったはずだ。
だれが好き好んでこんな展開を何度もするか。
「ですからせめて、せめて苦しめて貴方を殺すことで私の――――」
言葉を閉ざし女はあらぬ方向を見た。
「――――この魔力、まさかこんな所で悪魔がくるなんて。クソが!!」
女は悪態をつくと翼を広げ空へと去っていく。
名残惜しそうに一護たちを見下ろすがまた同じ方を見ると慌てて速度を上げる。
「……終わった、のか?」
いきなり終止符を告げた死闘に呟く。
女の独り言と遠ざかる羽音が雨に混ざって一護の耳に届く。
数秒後、ようやく頭で理解するとドッと体に負荷が襲い掛かった。
カランとブロードソードが手から離れるが、一護は後ろにいるはずの双馬へと振り向く。
手探りで顔を探し、息を確認する。
弱く不規則な呼吸が、震える一護の手にかかる。
(やばい!!)
このまま雨に打たれたままでは不味い。
双馬をかかえ病院へと送ろうとするが――――
――――グシャリ。
腹部を貫かれ、全身を切り刻まれた体ではもう何もかもが遅すぎた。
肉体から離れた血液の量を臭いが知らせる。
視力は役にたたず、手の震えが悪化を加速している。
……バシャ。
雨音も聞きにくくなった耳に何かが跳ねた音が聞こえた。
バシャリ、バシャリと一定のリズムで大きくなる音。
(人、か……?)
足音だと思える音はちょうど自分たちの前で切れた。
トンと優しく自分の肩を誰かが揺する。
「ねえ、大丈夫!?」
声色は女性らしかった。
一護はとっさにガシッと女性の片足を掴む。
きゃっ!? と脅えた声を出し離れようとするが、離す訳にはいかない。
「――――た、助けてくれ……」
寒さで震える口を強引に開き一護は懇願した。
「え、ええ! 早く血を止めないとっ!!」
(……血? 何を言ってんだ――――)
「――――!? 違うっ!!!」
自分が倒れて覆っていたからなのか、女性には双馬が見えていないのだろう。
「ちょっと! そんな体で動いたら――――!」
「俺じゃねえ!!」
体を起こし双馬が女性に見えるように胸へと抱きかかえる。
女性の息をのむ音が聞こえようやく双馬を認識できたのだろう。
「俺はいい、だから頼む。この子を早く病院に――――!!」
それが最後だった。
もう耳も手も頭も何もかもが使えない。
一瞬かすかに蘇った視界が女性の姿を鮮明にさせた。
黒く短い髪と整った容姿とどこかで見たような制服。
小さな唇が開き、ハイと動いたように見えた。
――――ああ、よかった。
一護は眠るようにまた白く染まる世界より前に目を閉じた。