私たちのモテない青春ラブコメ   作:貴志

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13.モテないし豚の餌を食べる(前編)

 調理実習が楽しみな時間でなくなったのは、いつからだっただろうか。

 二時間目の終わる時間が刻一刻と近づく中、智子は頬杖をついて、時計を眺めている。

 授業内容は聞こえているが、頭には入ってこない。集中できていない時の典型的な症状だ。

 三・四時間目の家庭科を間近に控え、智子は自身の半生を振り返っていた。

 

 小学校の頃、調理実習当日の朝は、心が躍って落ち着かなかったのを智子は覚えている。

 漢字や数式など、退屈なものとしか触れ合えない場所が、智子にとっての学校だった。

 そんな場所で食材を持ち寄り、火を扱い、包丁やピーラーなどの刃物に堂々と触れることができる。そんな素晴らしいことがあっていいのかと、智子は当時、半ば疑わんばかりの感動に身を打ち震わしていた。

 しかし現実とは、やはりそう思ったようにはいかないものだ。

 まず智子は、持ってくる食材を間違えた。

 作る料理は肉じゃがなのだから、肉とジャガイモを持っていけば間違いないだろう。そう決めつけて、話をきちんと聞いていなかったのがいけなかった。

 智子は周囲からの冷たい視線を浴びた。その時初めて自分が『タマネギ担当』だったことを知った。

 その後も散々だった。

 智子は、運動神経が悪いからという理由で、食材を切らせてもらえなかった。

 野菜の皮むきも『黒木さんはタマネギの皮むき担当だったからやることないよ』と、ピーラーに触らせてすらもらえなかった。

 あまりの冷遇されっぷりに、堪りかねた智子は、先生に自分の状況を訴えた。ため息をつきながらも先生は、一応班員に注意をしてくれた。

 ますます周りの自分を見る目の温度が下がったが、当時の智子は、自分が悪手を打ったことには気付かなかった。

 結果智子は『鍋の見張り』という役職を手に入れることに成功した。しかしそれは落とし穴だった。

 鍋に具をぶち込んだとたん、他の班員は散り散りになってどこかへ行ってしまったのだ。

 智子は広いテーブルに一人で、じっと鍋を見つめるハメになった。

 煮えたぎる鍋を虚ろに眺めながら、智子は笑っていた。笑う以外のすべを彼女は知らなかった。

 その後テーブルの隅で黙々と食べた肉じゃがは、家で食べるものよりもしょっぱく感じた。

 

 二時間目の終わりを告げるチャイムが鳴る。

 同時に智子の意識は現実へと引き戻された。

 このまま中学校まで振り返ろうかというところだったが、優がいただけで他は特に変わったこともなかったので、智子はそれ以上考えるのをやめる。

 つまりどういうことかというと、智子は調理実習が嫌いなのだ。

 

 授業終わりの号令も済み、教師が出ていくと、教室はにわかに騒がしくなっていく。次の時間の調理実習に向け、周りが準備を始めたのだ。

 皆立ち上がって、食材の確認をし合ったり、エプロン姿に着替えたりしている。各々が班で集まり、調理実習に向け士気を上げているのが伺えた。

 智子が所属している班(人数が余ったところに自動的に組み込まれた)も、すでに集まっているのが見える。

 持ち物を確認したり、お互いのエプロン姿の感想を言ったりして、笑い合う表情はとても楽しそうだ。

 本来であれば智子も、今すぐその空間へ飛び込むべきだ。彼女らとともに、実習前の高揚感へと身を包み込むべきなのだろう。

 『シックな感じが似合うー』とか、『その花柄がセンスいい』とかいう言葉で、実習前のコミュニケーションを取っておいた方がいいのだろう。

 智子は立ち上がる。しかしそれは、喧騒に身を投じるためではない。

 その体は自然と、教室の出口へと向かっていってしまう。

 さっさと保健室に身を隠し、ベッドの中で調理実習をやり過ごすためである。

 彼女は高校に上がってから、グループ活動系の授業ではずっとそうしてきた。

 たとえそれで班員の顰蹙を買うことになろうとも、長時間針の筵に晒されるよりは遥かにマシだったからだ。

 

 だが彼女は変化している。今この瞬間も変化し続けている。

 

 このまま教室を出ていくかと思われた智子の体が、ドアの直前でピタリと止まる。

 彼女は後ろ髪を引かれるような思いを、高校生活で初めて感じたのだ。

 本当にこれでいいのだろうか。このままで私はいいのだろうか。

 彼女は葛藤する。

 せっかく二年生からは、新しい学校生活をスタートさせようと思ったのに。

 クラスの友達をつくろうと決心したのに。

 最近、何かが変わってきているような気がしているのに。

 ここで自分が今まで通りに行動することは、今日までの全てを無為にしてしまうことのように、智子は感じたのだ。

 このまま教室から出ていくことは、振出しに戻ることだ。なぜか智子には、そんな気がしてならなかった。

 

 こんな時には決まって、あの男の姿が智子の脳裏に浮かんでくる。

 ありのままで良いと。

 お前はきっと大丈夫だと。

 アイツが言ってくれた時の温かさを思い出す。

 そうすると、これまでにない勇気が智子の内から湧いてくるのだ。

 

 とうとう智子の体が振り返る。

 ドアを背にしどんどんと、姦しい自分の班へと近づいていく智子。その顔は猛々しいほどの決意に満たされていた。

 班のメンバーが、近づいてきた智子に気づく。皆不審に思い鎮まりかえった。

 彼女らは何となく、智子は参加しないだろうと当たりをつけていたのだ。何のつもりで智子がやってきたのか、伺うような視線を向けるのも仕方がない。

 そんな注目を浴びせられて、智子の勢いは一回りも二回りも衰えていく。

 決意を新たにしたところで、本人の気質というものは急に変わらないものだ。

 それでもやっとの思いで、智子は班員たちと会話できる距離まで来る。

 いつの間にか智子の息は上がり、肩が小刻みに上下し始めていた。

 人類にとっては数歩の距離だが、彼女にとっては偉大なる数歩をここまで歩んできたのだ。

 たった五・六歩の距離をハアハア言いながらやってきた智子に、班のメンバーは若干引いた。どんだけ体力ないんだよこいつ。全員がそう思った。

 とは言え、智子も参加するのであれば、事前の打ち合わせに混ぜるべきだ。そう考えたメンバーの一人が、智子に声をかけようとした、その時だ。

 肩で息をする智子が、ぼそぼそと喋り始めた。

 

「こ……、これっ調理、実習の……材料……っ」

 

 そう言って差し出された、ぷるぷる震える手。

 そこには、今日の調理実習で使うタマネギと卵の入った袋が握られていた。

 意図が理解できずに、彼女たちは智子に呆けた表情を向ける。

 その目線から身を守るように、智子は手を前で組む。

 何回か呼吸を整え、やっとといった感じで、智子が追加の説明を口にした。

 

「あ……、あの私、気持ち悪くて……授業、出られないから……」

 

 そこまで聞いて、やっとメンバーにも智子の言わんとしていることが理解できた。

 そう。智子は食材を班員へ渡しに来ただけだったのだ。

 メンバーの一人は形式上、智子の身を案じる言葉をかける。

 震える手から食材を受け取ると、保健室へ向かう智子を、皆笑顔で見送った。

 

 保健室へ向かう廊下を、スキップをしながら歩く。

 智子は実に晴れ晴れとした気持ちだった。その胸の内は、事を成し遂げた達成感で溢れている。

 

――一年の時は班員に無断で早退して、顰蹙を買っていたのが、声をかけて食材まで渡せた! なんて成長しているんだろう私!

 

 よくよく考えれば、彼女が現状から逃避していることは変わらない。授業をサボることで、班員にも間違いなく迷惑をかけている。

 だがそんな時に決まって智子は、また脳裏に、腐った目の男が言ったことを思い浮かべるのだ。

 

――まあ大丈夫だろ。アイツもありのままで良いって言ってたし。私は大丈夫とも言ってたし。何とかなる何とかなる。ダメだったら全部アイツのせいだな!

 

 智子は軽やかなままに歩調を速めていく。その後ろ姿は、とても保健室へ向かう人のものとは思えない。

 八幡が智子に掛けた言葉は、智子にとって実に都合の良い、自分への言い訳に使われていた。事の全責任を、八幡に押しつけてやるくらいの勢いだった。

 そのことを八幡はまだ知らない。

 

 

 智子が保健室のドアを開くと、脇にショルダーバッグを携えた、妙齢の女性とちょうど目が合った。どうやら今から出ていくところらしい。

 養護教諭がいないとなると、より落ち着いて三・四時間目をやり過ごすことができる。

 智子は、昂る内心を隠しきれずほくそ笑む。

 

「おや黒木さん。また気持ちが悪くなったのかな?」

 

 その内心を推し量ることが難しい、作り物めいた明るい表情を彼女は湛え、智子に尋ねる。

 いつもと変わらない、こちらを見透かしたような対応に、智子は笑みを消す。そしてできる限り、具合の悪さを表情と姿勢でアピールした。

 わざとらしい不調っぷりを見せつけられた養護教諭は、一転して困った顔を見せた。

 

「そうなの……。でも今ベッドがいっぱいなんだ。ちょうど立て続けに二人来ちゃって」

 

 そう言うと、彼女はベッドへと視線を促す。

 見ると、確かに二つとも周りのカーテンが閉まっている。片方のベッドからは、かすかな寝息すら聞こえてきて、患者の存在が強調されている。

 

「あっ……、じゃああの、私どうすれば……」

 

 まさか追い出されるのかと、智子は不安におびえる。その心情を感じ取ったのか、養護教諭は大げさに手を振る。

 

「とりあえず体温測ってソファで待っててもらえる? 今いるのは二人とも男子だし、同衾するってわけにもいかないでしょ。私もちょっと出なくちゃいけないから。何だったらソファで寝ててもいいし」

 

 彼女の言葉を受け、智子はあからさまに胸をなでおろす。

 すでに寝る気満々だった智子の精神は、教室の喧騒に引き戻されても耐えられそうにない。彼女はすでに堕落してしまっているのだ。

 緩みきった智子の様子を見て、養護教諭の表情が一瞬苦みを帯びる。

 安堵で気もそぞろな智子は、それに気づくことはない。

 外出の準備を終えた養護教諭が智子を通り過ぎ、ドアの方へと向かう。

 智子は言葉もなく、視線だけでそれを見送った。

 ドアを潜り抜けた養護教諭の姿が角に消える。同時に智子は大きく一息つく。

 一応言われたとおりにしておこうと、温度計へと手を伸ばす智子。

 今にも掴もうかというその瞬間、ドアの方から突然声があがった。

 

「ねえ黒木さん」

「ぅえっ!?」

 

 完全に油断していた智子の体が痙攣する。反射的にドアの方へと体が翻る。

 そこには、今しがた出て行ったはずの養護教諭が立っていた。

 湛えた笑顔は変わらずに、閉じられたカーテンの内の一つを指さしている。

 

「手前のベッドを使っている男の子に言っておいてくれないかな。『都合の悪いことがあるたび逃げてたら、いつまでも成長しないぞ』ってね」

「あぅ、えっ?」

 

 唐突な出来事に、智子の思考は追い付かない。

 諦めたような笑みに表情を変化させた養護教諭が念を押す。

 

「あのどんよりとした目つきの男の子。ここに来た理由は黒木さんと一緒なの。だから、よろしくね」

 

 そう言って小さく手を振ると、再び彼女は智子の視界から消えていった。

 またやってくるのではないかと、智子はしばらくドアの方へと身構えた。

 だが、時計の秒針が一周しても動きはない。どうやら二度目はないようだ。

 智子はストンと、身を弛緩させる。

 

 がさり、と。

 何かが動いた音が、手前で閉じられているカーテンの奥から聞こえた。

 智子はゆっくりそちらに顔を向けると、相手側の動向を伺う。

 しかし、どうやら向こうから動くつもりはないようだ。カーテンの向こう側にいる気配も、身じろぎ一つせずこちらの様子を感じ取ろうとしているのだろう。

 その慎重さ、抜け目ない態度には覚えがある。

 ここまで条件が整ってしまえば、智子にはもう十分だった。

 智子は向こう側で、こちらを向いているであろう男に声をかける。

 

「おい」

 

 奥側のベッドで寝ている生徒を起こさないよう気を使い、最小限の呼びかけをする。智子の声は重く静かに、二人を隔てるカーテンを震わせる。

 彼にもそれだけで十分だったのだろう。

 大きなため息が聞こえてくるやいなや、二人を分断するものがスライドして消滅する。

 

「やっぱり来たか……残念だったな。ここはもう満員なんだ」

 

 そこにはベッドから足を投げ出し、肘を太ももについて、男が偉そうに座っている。

 比企谷八幡は相変わらずのふてぶてしさでそこにいた。

 

「いや、お前何でここにいるんだよ。今すぐ出てけよ。そして私にそこ譲れ」

「いや出ていかないから。いる理由はお前と一緒だ。さっき保健教師も言ってただろ」

 

 智子のにべもない言葉をあしらう八幡は、先ほどの養護教諭の言葉を取り上げ、答える。随分早い段階から、八幡は聞き耳を立てていたらしい。

 そう言われたところで、実のところ智子は、養護教諭の発言をほとんど覚えていなかった。

 なに分唐突な呼びかけだったのだ。言われた内容の半分も記憶に残っていない。

 だから智子はその内心通り、よく分かっていないといった風な表情を浮かべる。

 八幡はめんどくさそうに頭を掻きながら、全体の事情を話し始める。

 

「お前が今ここにいるのは、三・四時間目の調理実習をサボりたかったからだ。違うか?」

「はあ? 何で分かんだよ。お前やっぱり……」

 

 智子は立ち上がると、八幡から距離を取る。向ける視線を不審に満ちたものへと変化させる。

 八幡に自分の時間割を把握されているという事実に、智子は割とクルものがあった。

 

「おいだから止めろ。お前ごときでも女子にそういう目で見られるとトラウマ発動しちゃうんだからマジ止めろ」

「ごときだあ!? お前マジ通報するぞ!」

「いや、言葉の綾だ。だから静かにしろ。うるせえ」

 

 智子はハッとして、奥のベッドを覗き見る。寝息が一瞬止んだように感じた。

 一時、緊張が場を支配した。

 少しして、再び一定のリズムで吐息が聞こえてくるようになると、智子は安堵の息を吐く。

 多少冷静になった智子が居住まいを正す。

 それを見届けて、八幡が話を仕切りなおした。

 

「知らねえのか。今日の調理実習は隣同士のクラスで合同だったんだぞ。だから今日は俺のとこも三・四時間目は調理実習で同じってことだ」

「ぜ、全然知らなかった……」

「お前本当、人の話聞いてねえのな」

 

 八幡が責めるような表情を智子に向ける。

 智子は流石に、その表情に食って掛かる気にはならなかった。小中高の過去を通して、彼女には心当たりが多すぎたからだ。

 八幡の説明と現在の状況を、智子は脳内で必死にかみ砕く。結果、ある一つの結論に智子は行きついた。

 

「てことは、お前も調理実習サボりたくてここにいるのか」

「だから最初からそう言っているだろ」

 

 八幡はやっと話が終わったとばかりに、大きく首を落とし、息をつく。

 その大げさな動作が智子の鼻につく。

 智子は何か言ってやりたかった。しかし話を聞いていなかったのは自分が悪いので、不満げな目線を向けるだけで我慢する。

 

 八幡の事情は把握した。

 だがそれとは全く関係なく、智子はベッドに寝そべりたかった。

 しかしそれには、ベッドが一つ足りない。

 そのために、ガチの病人らしき奥の人物を追い出すわけにもいかない。ならば必然的に追い立てるべきは、目の前で偉そうにしている男ということになる。

 何とか八幡をここから追い出す、ぐうの音も出ないほどの正論はないものか。智子は考える。

 まず真っ先に思い立ったのは、先ほど聞いたばかりの、受け売りの文言だ。

 

「あのな比企谷。班で孤立するのが嫌だからって、実習授業のたびに抜け出してたらいつまでたっても成長しないぞ。だから」

「それ、思いっきりブーメランなんだけど。自分で気づいてないの?」

 

 ぐうの音も出ないほどの正論を返されてしまった。

 智子は記憶の中の養護教諭に思いっきり舌打ちしておいて、次の策を考える。

 

「まあ、あの人の皮肉はコイツには通じないわな……」

 

 その間、八幡が何やら呟くが、智子の耳には入らない。

 それほどに集中して、八幡の粗という粗を、智子は記憶から掘り出していた。

 出会った日からを振り返る。

 何か八幡を屈服させられる材料はなかったかと、検索に検索を重ねる。

 そうして智子はようやく見つけた。

 まさに今、言質にとるためにあったのではないか。そうとしか思えないようなものを、八幡の過去の発言から、智子は思い出したのである。

 智子はしてやったりといった表情を露わにし、八幡に向けて言い放つ。

 

「そういやお前、専業主夫希望だったんじゃないのかよ。それが調理実習に出ないなんておかしいだろ」

 

 そう。以前お昼に進路の話をした際に、八幡は堂々と公言していた。

 

『俺は働きたくないから、将来専業主夫になる』

 

 確かに彼はそう言った。

 長々と語られた八幡のその夢に、当時は相当八幡を軽蔑したのを、智子は覚えている。だからこそ、記憶に根強く残っていた。

 将来専業主夫に収まりたいのならば、家事ができなくては話にならない。

 料理はその中でも基本にして、最も大事な要素の一つだ。それを学ぶための調理実習を抜きにして、どうして専業主夫を語れようか。

 智子の理論には、一片の隙も見当たらなかった。これを逃れるには、八幡は自分を曲げるしかない。

 そして、比企谷八幡という男はそれをしない。

 その一点において、智子はある種、八幡を信頼していた。

 この追及を受けて、八幡が保健室を出ていくのは自明の理である。智子はそう確信していた。

 比企谷八幡の、人を食ったようなにやけ面を見るまでは。

 

「くくくっ。何だ? お前はその程度の理屈で俺を屈服させられるとでも思ったのか」

「はっ、はあ?」

「哀れだな。実に哀れだ。憐憫の情すら覚えるぞ俺は」

 

 智子は、八幡の立ち振る舞いを強がりだと思いたかった。

 しかし、こんな尊大な態度を取る八幡の背後には、必ず確固たる理論が控えている。智子は経験から知ってしまっていた。

 だから彼女は、なかなか彼の後ろ盾を探ることができずにいた。

 智子が身動きできずにいると、内からあふれる言葉を抑えきれないといった様子で、八幡は持論を展開し始める。

 

「いいか。調理実習ってのはな、料理を学ぶ場じゃないんだ」

 

 せわしなく口を動かす八幡の表情が、演説中の独裁者のごとく生き生きとし始める。

 智子は圧倒され、口をはさむことができない。

 

「あれは社会における分業制のシミュレーションなんだよ。会社を例にとれば、ある一つの仕事に対して、それに携わる社員のモチベーションというものは実に様々だ。その仕事に対して本当に熱意を持っている者もいれば、あくまで金のためと割り切っている奴もいる。それはちょうど調理実習における、料理に対する意識の差と全く同質と言っていい。料理を真剣に学ぼうと思っている奴もいれば、あくまで『がんばって手料理にチャレンジする私』というラベルが欲しいだけのやつもいるだろう」

 

 この時点ですでに、智子は八幡の言っていることを全く理解できていない。

 元より理解するつもりもないのだが、無駄に説得力があるのだけは伝わってきた。

 

「そうして一度事業を出発させてしまえば、後に生じるのは仕事の押し付け合いだ。やる気のないやつは、熱意にあふれている奴を見つけては自分の分担を押し付ける。そして空いた時間で仕事っぽいことをする。調理実習で言えば『ちょっと他の班の様子見てくる☆☆』だな。あれただくっちゃべって遊んでるだけなのに、なんで教師は何も言わないんだ? 教師が一緒になって場が笑いに包まれていた時なんか我が目を疑ったぞ」

 

 智子はその話を聞いて、自身の小学校時代を思い出す。八幡も同じような目にあっていた、ということなのだろうか

 結局どこの学校も、ぼっちの境遇とは大差ないということなのだろう。智子は悟る。

 

「そうして一つの事業に対する貢献度に明確な差が生じていたとしても、得られる対価は同じだ。頑張った奴と適当にやった奴で給料に違いは出ないし、食べる料理は同じだ。そして上司・教師は結果だけを見て『みんな、よく頑張ったな!』と一声かけて役割を全うした気になるんだ」

「……それで? それがどうしてお前が調理実習に出なくていい理由になるんだよ」

 

 ようやく話が一区切りついたようなので、智子は改めて八幡へ問いかける。

 それに対し八幡は、これでもかというぐらい鼻で笑い返す。

 智子のイライラは頂点に達しようとしていた。

 

「ッハ!! だから言っただろ。調理実習とは社会における分業の訓練だと。専業主夫になって社会に出るつもりのない俺には、全く必要性のないものなんだよ。どうして働くつもりのない俺が、労働の仮想体験をせにゃならんのだ? 逆に聞こう。それはなぜだ?」

 

 両方の手のひらを上に向けて、インド人がとるようなポーズをしながら、こちらを見下してくる八幡。

 そのあまりにこちらをなめ腐った有様に、とうとう智子の怒りゲージが降り切れる。

 

「知らねえよっ!! ごちゃごちゃわけ分かんねーこと言ってねえで、さっさとここから出ていけ! この根暗童貞ぼっち野郎!!」

 

 智子が開き直ってしまったことを八幡は察知する。

 これは面倒くさいことになってしまった。そう思いながらも、感情が昂っている八幡は、このまま押し切ることにした。

 

「何だ。結局は感情論かよ。いつも終いにはキレて怒鳴り散らすとは芸がないな! ぼっちの風上にも置けない奴だ」

「置かれなくて結構だっつの! むっつり! シスコン! キョどり魔!」

「お前さっきから悪口の大半墓穴だからな! そもそもっ……おい、まて黒木」

「あっ!? んだよ今更白旗か? そんなんで私が許すと思ってんのか!?」

「いやそういうんじゃなくて。後ろ。後ろ見ろ」

 

 いつの間にか八幡の顔色は、蒼白と言っていいほど色を失っていた。何かにおびえているように、すっかり威勢を失ってしまっている。

 そんな八幡の姿を見て、特に深く考えることもなく、智子は気をよくする。

 八幡を追い出すにはもう一息だとばかりに、声を一層荒げた。

 

「ハッ!! そんな手に乗るかよ! いいから出てけ! さっさとここから出ていけ!!」

「出ていくのは君らの方だよ」

 

 智子のものでも八幡のものでもない、妙齢の女性の声が静かに響く。

 どこまでも場にそぐわぬ、重く静かな声色に、一瞬幻聴かと智子は思った。

 だがその可能性は、目の前で瞼を閉じ、観念するように首を振る八幡により否定される。

 智子はゆっくり後ろを向く。そこにはいつものごとく、明るい顔を張り付けた彼女が立っていた。

 今この瞬間にも、その顔が般若のごとく変化するような気がする。

 智子は開いた口をふさぐことができない。

 

「随分と元気そうじゃないか。楽しそうな声が廊下の外にまで響いていたよ」

 

 予想は外れ、養護教諭は能面のような笑顔のまま佇む。表情を崩さないままに二人の所業を咎めた。

 この状況を何とかするため、八幡は養護教諭へと言葉を尽くそうとする。

 

「あー……あの、先生」

「比企谷君」

「ひゃいぃっ!?」

 

 しかし八幡は、彼女の低く冷たい声を浴びせられただけで、生物として屈してしまう。

 

「随分と面白い考えを持っているんだね。静ちゃんが気に入るのも分かる気がするよ。君は政治家にでもなると良い」

「は、はいっ。ありがとうじゃいましゅ!」

 

 こうなったら、とにかくへりくだってこの場をやり過ごそう。

 そんな八幡のたくらみは、次の彼女の言葉で脆くも霧散する。

 

「政治家になる身としては、社会勉強も大事じゃないかな? さしあたっては調理実習に参加してみるといい。もう気分も治ったようだし」

「……」

 

 自分の言葉をやり玉に挙げられてしまっては、もう八幡は黙るしかなかった。

 

――クソっ、情けねえな! それでもオスかよ。

 

 そんな八幡の惨状を、智子は内心で貶しまくる。

 何とか自分だけは助かろうと、智子が言い訳を全力で思いつこうとしていた時だ。

 

「黒木さん。言っておいた通り、体温は測ったかな」

 

 これだっ! 

 智子は養護教諭の言葉にあっさりと食いつく。

 

「は、はひっ!60度くらいありまひたあ!!」

 

 智子は話を盛りすぎる癖があった。

 そして今回も、その悪癖によって自らを追い込んでいく。

 

「そうか。それは熱いな。その熱をぜひ調理実習に費やしてくるといい」

 

 智子は目の前が真っ暗になった。

 

 

 気づいたときには、二人とも廊下に投げ出されていた。

 あの華奢な腕と体格で、養護教諭はいったいどうやって二人を追いやったのか。二人は全く覚えていない。

 お互いしばらく虚空を見つめ、呆然とする。

 それでも八幡はゆっくり立ち上がると、教室の方へ歩き始めた。

 智子は遠ざかるその背をぼんやり眺める。

 八幡にエプロンは似合うのだろうか。そんな益体もないことしか考えられない。

 順調に智子から遠ざかっていたその背中が、少し逸らされる。

 そこからこちらを覗く八幡と、ボーっと見つめる智子の目が合う。

 しばらく彼の腐った目を智子が眺めていると、八幡がまた頭をガシガシとかく。

 智子は最近少しづつ分かるようになってきた。あの動きは照れ隠しを表しているときが多い。

 案の定、智子の方まで八幡は少し戻ってきた。

 未だ廊下に座ったままの智子を見下ろしながら、八幡が訪ねる。

 

「お前、どうすんの」

 

 その質問の答えを智子は持ち合わせていなかった。

 だから、ありのままで言葉を返す。

 

「……どうしよう」

「あー、クソ……!」

 

 八幡は一度、大きなお辞儀をするように体を上下させると、智子に手を差し伸べた。その視線は斜め上に固定されて、智子のことを見ていない。

 智子はその手をどうしたらよいかわからず、ただ見つめる。

 そんな智子にしびれを切らした八幡は、その手の意図を再度伝えた。

 

「ほら、立て。さっさと行くぞ」

 

 目的地が告げられることはない。

 それでも、その差し伸べられた手がどこ行きのものなのかは、智子にも察することができた。

 だからこそ、智子はその手を取ることをためらってしまう。

 

「いや、あの、でも……」

「大丈夫だ」

 

 伸ばしかけた手を何度も揺らす智子。その頭上からかけられる彼の声は、はっきりと彼女の耳に届いた。

 智子は視線を上げる。いつの間にか八幡は、真っすぐ彼女に向き直っていた。

 ちょうど頂点に差し掛かっている太陽が、八幡の背景となって、腐った目も今はうまく隠されている。

 そんな八幡の姿はどこか非日常的で、心がぐらりと揺れるような気がした。

 八幡は口角をぐいと引き上げると、絞り出すような声で言う。

 

「言うだろ。『赤信号、みんなで渡れば怖くない』」

 

 太陽が少し移動し、八幡の顔がはっきりと見えてくる。

 その表情はこれまで見たことがないほど歪んでいて、あまりにも醜い。

 智子はあっさり日常へと引きずりおろされる。

 明らかに見て取れる、調理実習に対する八幡の動揺に智子は失笑する。

 そして、伸ばされた手をしっかりと握った。

 

「それ、お前が一番嫌うタイプのやつだろ」

 

 智子は八幡の力を借りて立ち上がる。

 携帯で時計を確認すると、まだ授業が始まってから十分も経っていなかった。

 

「……よく分かったな。『赤信号、みんなが渡って俺一人』が俺のモットーだからな」

 

 八幡が笑う。

 先ほどまでとは違って、偏屈さと矮小さに満ちた、実に卑屈な彼らしい笑みだった。

 二人連れだって歩く。

 流石に手はつながない。学校内で噂とかになったら恥ずかしいし。

 今からならまだ、途中参加も何とかなるだろう。

 そんならしくない前向きな思考に、智子は自分がおかしくて仕方なかった。

 だから、智子も笑った。今まで通りの自分でいられるように。

 そんな自分から一歩進めるように。

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