――刹那、俺の愛刀『影太刀』が宙を舞う。
「なにっ」
思わず声を上げる。俺こと足利義光は自身を寡黙な男であると自負しているのだが……。
そんな俺が声をあげてしまうとはな。情けないことに、そうとう気が動転しているらしい。
それほどに俺の同位体――ブライト・<ソーディアンマスター>・ウッドストックの放った技は強烈なものだった。
俺の動揺を見てとったのか、ブライトが膝をついているこちらを見下ろし高笑いをあげる。
「フハハハッ! かの剣豪将軍すら凌ぐと言われている剣技の持ち主といえども、我が秘剣『鏡たる千剣の閃光』<サウザンブレイド・オブ・ミラージュ>の前では無力よ!!」
そう言ってブライトは再び剣を振りかぶる。奴の秘剣は相手のあらゆる技、術、能力をコピーし、高速で一千回叩き込むというものだ。
これでは相手は死ぬしかないだろう。
そう、俺を除いては。
「ふっ。すかさず同じ技とは芸の無いことだ。わが手の内へと還れ! 『影太刀』!」
つぶやいた瞬間、飛ばされていた愛刀が俺の手元へ舞い戻る。
「かかっ! 今更剣が戻ったところで、もう遅いわっ!!」
ブライトが音速を超えてこちらへと踏み込んだ。俺の剣術のすべてを完全に模倣した千の剣が襲い掛かる。
「流石に速いな。だが、俺には一太刀あれば十分だ。行くぞ……秘太刀『虚無』」
それに対し俺は、ゆっくりと影太刀を構え、そして静かに振り下ろす。
一閃、ブライトの剣技と俺の剣技とが交わり、激しい閃光となり周囲を焼いた。
しかし光は急激に収束し、その全てが影太刀へと吸い込まれていく。
光が完全に収まると、交わった刀の向こうに愕然とするブライトの顔が浮かび上がった。
「ば、馬鹿なっ……! 打ち消した……だとっ!?」
「今度はお前が驚く番だったな」
笑みを浮かべる俺と、青筋を浮かべ怒りを露わにするブライト。二人の立場は完全に逆転していた――
「はあ、疲れる……」
八幡は原稿の束から目を離し、どっしりと背もたれに体重を預ける。
学校の図書館に配置されている椅子は、お世辞にも座り心地がいいとは言えず、八幡が思ったよりも体の倦怠感が回復することはなかった。
「どうした八幡よ。活字疲れか? 貴様も活字離れをして久しい現代若者の類型だったとは。嘆かわしいことよ」
相手のことを気遣っているようでむしろ貶しているのは、八幡が持つ原稿の執筆者、材木座義輝である。
図書館で大量のラノベに埋もれているその光景は、義輝の読書への熱意と遠慮の無さをよく表していた。
八幡は原稿を机の上に放り、向かいの義輝へと悪態をつく。
「違えよ。このラノベと言えるのかどうかもよくわからん物体に接するのに疲れたって言ってんだよ」
原稿をバンバンと叩き、八幡は自身の苛立ちを表現する。
それに対し、義輝は全く理解ができないと言いたげに眼鏡を上げる。
「ほむぅ。我が執筆しているのは紛うことなき『ライトノベル』であるのだが……どこか至らぬ部分があったのなら、進言として一考しておかんこともないぞ」
自分から小説の批評を願い出ておいて、あくまで居丈高な姿勢を崩そうとしない義輝。
その態度に我慢の限界だった八幡は、声を荒げて作品の粗を羅列していった。
「……まず『同位体』という言葉の意味について小一時間問い詰めたいところだな。何でこのキャラ口調も名前も技名も、ことごとく主人公と違ってるんだ? 全く似てない奴を同位体に設定する必要あんのかよ」
「うごふっ!」
「主人公も、自分で寡黙って言っておいて口数多すぎだろ。敵キャラより喋ってんぞ。ボケなの? ツッコミ待ち?」
「むべらっ!?」
「後、致命的に技名が中二臭えよ。<サウザンブレイド・オブ・ミラージュ>って、元の『鏡たる千剣の閃光』の『閃光』はどこ行ったんだよ。ルビ振るなら最後まで諦めんな」
「うぴゃああぁ!!」
八幡の容赦ない言葉の連続に、とうとう義輝は床に転がり身もだえ始める。
放課後の図書館には人がまばらとは言え、見苦しい事この上ない。
――本当、懲りないな。こいつも……
転がりつかれたのか、未だ床に寝そべりながら義輝は体を痙攣させている。あまりにみすぼらしいその姿を見下ろしながら、八幡は嘆息した。
材木座義輝は、奉仕部への依頼人である。
その内容は『自主制作小説の評価、感想が欲しい』というものだ。
その依頼の解決に当たっては、初めは奉仕部の全勢力でもって臨むはずだった。
即ち雪ノ下雪乃、比企谷八幡、そして由比ヶ浜結衣の三人である。
しかし数々の事情によって、今回の依頼は全て、八幡に委任される形となってしまったのだ。
まず、義輝が女子生徒とはまともに会話できないというのが一つ。
次に、義輝の風貌・雰囲気から、女子部員が彼とのコミュニケーションに消極的にならざるを得ないということが一つ。
そして何より、雪乃の評論は酷虐に過ぎ、結衣は全くの活字不精だということ。
これら消去法の末、八幡が犠牲になること以外にこの依頼を達成することは不可能という、実に残念な結論に達してしまったのである。
それ以降、八幡は時々奉仕部を訪れる義輝を引き連れては、ここ図書館で依頼の対処に当たっている。
八幡が持ち込まれた小説を読みふける間、義輝は図書館の貸し出し図書に目を通し時間をつぶす。完全下校時間が近づいてきたら八幡は読んだところまでの率直な感想を述べ、義輝はショックのあまり悶絶する。
それからまたすぐ、懲りずに新作を書き上げた義輝が、鼻息荒く奉仕部に持ち込みに来る。八幡はため息をつきながらもそれに当たる。
そんな一連の流れが、ここ数日間で二人には出来上がっていた。
八幡は義輝のしつこさにうんざりしながらも、すっかりこの関係性を受容してしまっていた。
毎回、毎作品、ことごとく酷評されておきながら、それに発奮して諦めない。どこまでも自分を貫く義輝の執念を、八幡は認めているのだ。
まだ完全下校時間までは、随分間がある。
時間が余った時、普段であればもう少し細かい批評をしたり、その場で修正したりといったことをすることもある。しかしそれも、義輝の気力があればこそ。
もはやぴくりとも動かない義輝を見下ろしながら、今日はもう切り上げようかと八幡は考慮する。
衝動に任せ、ドストレートに感想を述べることの危険さを八幡は反省していた。
せめてもの償いとして、義輝が転がった際に散らばったラノベを片付けている時だった。
「あれ? 何してんだお前。エロ本は図書館にはないぞ」
声がした先を八幡が振り向くと、そこにはご機嫌な智子がラノベ片手に突っ立っていた。
ラノベにはバーコードが貼ってあり、それが図書館のものであることを示している。
八幡は依頼の件もあり、ここ数日は図書室に通い詰めている。その彼をして、智子をここで見かけたのは初めてだったため、八幡は素直な感想を述べた。
「黒木か、珍しいな。殺すぞ」
妄言に対して苦言を述べておくことも、もちろん忘れない。
全く冗談ではない。八幡は、智子のあまりの無知蒙昧っぷりに頭を抱える勢いだ。
「エロ本なんか読んだことねえっつの」
「はあ? 何それ、どうせ嘘でしょ?」
「ハハッ! 俺がそんなくだらない嘘つくかよ」
高らかに宣言する八幡の目は、自信に満ち溢れていた。
一片の曇りなく淀んでいるという、ある種器用な八幡の目つきに智子は尻込みする。
思春期男子は性欲に全行動を支配されているという、智子の理念がぐらつく。
智子は知らない。八幡の性欲処理関連は全て、スマートフォンが一手に担っているということを。
八幡は現代っ子なのだ。
「まあいいや……。で、何してんの?」
勝ち目のなさを感じ取った智子があからさまに話題を転換する。
できれば追及されるのを避けたかった八幡は、喜んでその提案に乗っかった。
「ああ。こいつの書いた小説を読んでたんだよ」
そう言って八幡は床に転がる丸太を指さす。
相変わらず寝そべったまま動かないそれを見て、智子は目を細める。
「何これ、お前のお友達?」
「いや、奉仕部への依頼人だ。で、俺が任された」
八幡はあっさりと智子の予想を切り捨てる。『蜘蛛は害虫』と言い切るような潔さがそこにはあった。
あまり良い思い出のない名前を聞き、顔をしかめる智子。反射的に、当時のことが智子の脳裏をよぎる。
「また奉仕部かよ……。任されたって、何だかお前やたら働いてない?」
「いや、そんなはずはないと思うんだが……。うーん?」
言われて八幡は首を傾げる。
一応八幡は、納得して事に当たっているはずだった。だがそう指摘されると、確かにいつもの自分とは、何かが違っているような気がする。
自分は間違ってはいないか。どうあるべきで、どうしたらいいのか。
八幡は改めて黙考した。
そうして一人唸っている八幡に対し、智子は顔を向けたり、逸らしたりする。
その視線が、何か言いたげにちらちらしている。
「……まあ、そういうのお前らしいけど」
八幡を直視しないまま、智子は小さくつぶやいた。
ともすれば聞き逃してしまいそうなその声に対し、しかし八幡は大きく反応した。
「いや、それは違う! 働いている俺なんて俺じゃない!」
「ふへ?」
割と決死の思いで告げた自身の思いを、真っ向から否定された智子。開け広げられたその口から、間の抜けた声がぬける。
唖然とした表情を浮かべる智子へ、続けざまに八幡がまくしたてた。
「あっぶねえ、俺としたことがいつの間にか自分を見失いかけてた。何で俺が放課後の貴重な時間削ってまで人助けなんかせねばならんのだ。やってられるか! 助かったぞ黒木。よくぞ気づかせてくれた」
「お、おう……?」
八幡の熱い視線を受け、智子はとりあえず返事をしておく。
彼が何を言っているのかはよく分からないが、感謝されて悪い気はしなかった。
「そうと決まれば帰るしかないな。よし帰ろう。今すぐ帰ろう。じゃあな黒木!」
戸惑う智子をよそに机上の荷物を抱え上げる八幡。
足早に去ろうとするその足元に、野太い影が飛びついた。
「まってよハチえもおぉぉおん!!」
「うおっ! 材木座、お前意識あったのか!?」
「行かないでくれよ、ハチえもん! 我他に頼れる人いないんだよおぉぉ」
「とりあえず離れろっつーの! 気持ちわりい!」
縋りつく義輝を振りほどこうと、足を振り回す八幡。
しかし義輝は、顔を蹴られ、涙や鼻水で顔を濡らしながらも、決して離そうとしない。そこには恐ろしいまでの、作品と八幡への執着が体現されていた。
「離さないもん! 我ただの依頼人じゃないもん、八幡の友達だもん!」
「お前、聞いてたのかよ! てか、どんだけ必死なんだよ……」
じゃれつく二人の様子を眺めながら、智子は目じりを下げる。やはり自分の予想が当たっていたのではないかと、その目は確信していた。
あまりにストレートな義輝の友達アピールに、八幡は引きながらも否定はしていない。つまりはそういうことなのだろう。
比企谷八幡という男は、したくないことのために放課後の時間までつぶすようなことはしない。今さっき本人が言っていたことだ。
奉仕部の依頼とは言え、そこまで相手をするということは、義輝との関係をある程度大事に思っているからなのだ。
そこまで考えると、智子はがぜん義輝とその作品について興味が湧いた。
「あ、あのぉ。ざ、ざいも? もざいく君?」
「ふえぇ……?」
智子がうろ覚えで名前を呼ぶと、顔中液体まみれの義輝が振り向く。
その醜悪な顔は、智子に今気づいたといった表情を浮かべ、彼女に視線を送っている。
そこにすかさず、八幡からの修正が入った。
「材木座、な。何か用か黒木?」
まともに会話のできる状態ではない義輝に代わり、八幡が対応する。
智子は二人に体を向けると、意を決して自身のアイデアを提案した。
「あぅ……。ざ、材木座君の小説読むの、私も手伝おうかな……とか」
智子の発言に、義輝は顔を輝かせて驚き、八幡は顔を曇らせて驚く。
「え、マジすか!? 八幡ナニコレ、この子我のこと好きなん?」
「落ち着け、口調が素だぞ。……黒木、何のつもりだ?」
気持ち悪い勘違いをしている義輝は放っておくとして。
訝し気な目線を向ける八幡に、智子は理由を添えて答える。
「いや、ちょうど次読むラノベ借りに来たところだったし……」
「ならやめとけ。こいつのこれはラノベじゃない。アリの行列眺めてる方がまだ楽しいレベルだぞ」
「我の小説、虫の生態以下なの!?」
智子が用意した理由の一つがすげなく否定される。
すかさず智子は二つ目の理由をあげた。
「それ読みきらないと、お前帰れそうにないし」
「大丈夫だ心配ない。材木座の死体を越えていく」
「流石に死ぬ前に手離すよ我!?」
二つ目の理由もあっさり否定されてしまう。
ならばと智子は、できれば言いたくなかった最後の理由を示すことにした。
「お前のこと、てっ、手伝ってやりたいし……」
「っ! お前、それは……」
「ひゅーひゅー! 八幡ひゅー!」
「うぜえ」
これにはさすがに八幡も戸惑っている様子だった。
義輝を踏みつけ静かにさせると、ばつが悪そうに智子に向き合う。
「だとしても、必要ねえよ」
八幡が口にした言葉は、結局最後まで、はっきりとした拒絶だった。
智子は眉をひそめる。ここまで断られるのは、正直予想外だったからだ。
自然と、理由を尋ねる言葉も刺々しくなる。
「は、はあ!? 何でだよ、理由は?」
「お前には関係ないからだ」
言い切る八幡の目は、依然として暗く淀んでいる。
その仄暗さは、出会った頃から全く変わっていない。
八幡から漂う負のオーラにたじろぐ智子。そんな彼女をよそに、八幡は理由の続きを述べる。
「お前は奉仕部じゃない、いわば部外者だ。なら依頼に首突っ込むのはおかしいだろ」
「別に、協力するくらいはっ!」
「そりゃ協力者を募ることはあるがな。だがこの依頼は俺に任されている。そして俺は協力を必要としていない」
「っ!!」
必要ない。
その言葉に智子は少なくないショックを受けた。
まるで自分が無価値な人間だと断ぜられたように感じた。
もちろん八幡にそんなつもりはないだろう。だが意図していなかったとしても、智子にとって八幡の言葉は凶器足りえてしまった。
自分の言葉が曲解されていることには気づけず、八幡は更に畳みかけてしまう。
「『可哀想』とか同情して、それを押し付けようとするのはやめろ。これは俺の問題なんだ」
その言葉が止めとなってしまった。
智子はうつむき、目のうちから溢れようとするものを必死に抑えようとした。
その体がぷるぷると震える。
今にも泣きだしそうな智子を見た八幡は、言い過ぎたことに気付き、後悔する。だが言ったことは紛れもない本心であり、否定も訂正もするつもりはなかった。
こうしてこいつも俺から離れていくのか。
そう考えた瞬間、八幡の中にえも言われぬ不安感が沸き起こる。それは拒絶だった。
このまま智子と疎遠になっていくことを、八幡の心が嫌がっているのだ。それは理性でもっても御しがたい、並外れて強い感情だった。
しかし八幡には何もできない。
自分は何も間違ったことをしていないのだから、それを曲げることはすなわち自分を曲げること。八幡が最も忌避するものだ。
この状況は詰んでいる。
八幡と智子にはどうすることもできず、ただこのまま時間が過ぎ去るのを待つしかない。
「はっちまあぁぁあん! 勝手に話を進めるでなーい!!」
そこに一人の男が割り込んだ。言うまでもなく材木座義輝である。
自身を抑えつける足を払いのけると、飛び上がるように八幡と智子の間に立ちふさがった。
「我は! 女子に! 読んでもらいたいっ!!」
義輝は両手を掲げ、高らかに宣言する。
その一言で八幡の理屈は全て吹き飛ばされてしまった。
他ならぬ依頼人の望みに、八幡の信条は全くの無意味だ。
義輝は宣言したまま動かない。気まずい沈黙が流れる。
そして、今度は八幡がお願いする立場だった。
八幡は未だうつむいたままの智子に、恐る恐る話しかける。
「あー……黒木、そういう訳だ。まあアレだな。これでWINWINっつうか」
「土下座」
「ん?」
突然の智子のつぶやきに追いつけず、八幡は聞き返す。
いつの間にか智子は顔を上げていて、その真っ赤な目はまっすぐ八幡を睨み付けていた。
「土下座しろ」
「いや、ちょい待て! さっきのアレはだな、ちょっとした行き違いというか」
「土下座しろ」
「事故みたいなもんだ。誰も悪くない。この世界に敗者はいない!」
「土下座しろ」
智子の頑なな態度に、八幡は冷や汗を垂らす。
このままでは、土下座コース待ったなしである。
実のところ八幡は、土下座自体に全く抵抗はない。むしろこれ以上ないくらいその行為を評価していると言ってもいい。
あっさりと負けを認め、その場を乗り切るための手段として、土下座以上に便利なものはないとさえ思っている。
しかし今回の土下座は、義輝の願いを叶えるために行うものだ。まずそれが、八幡にとって嫌な要素の一つ。
そして何より八幡は、智子相手に土下座することで、今後ネタとしてからかわれるようになることを危惧していた。
これまで付き合いの薄い相手に土下座してきたことはあっても、友達相手にやるのは初めてなのだ。どうでもいい奴とそうでない奴とでここまで違うのかと、八幡は自分の感情のズレに戸惑っていた。
「はちまぁん!!」
「ざ、材木座!」
自身の感情を持て余している八幡に、義輝が呼びかける。八幡はそこに光明を見た。
先ほどの詰んだ状態を吹き飛ばしたのは義輝だった。
ならば今回もこの男が盤面をひっくり返してくれるのではないか、そんな期待を込めて八幡が視線を向ける。
義輝は八幡に向け手を合わせると、それを打ち、離してはまた打ち鳴らす。
そのまま何回か拍を刻むと、コールを始めた。
「はーちーまん! どーげーざ! どーげーざ! どーげーざ!」
「お前に期待した俺が馬鹿だったよちきしょう!」
義輝が全くあてにならないことを痛感し、八幡は地面を蹴る。
そのまま床を見つめながら、八幡は自分はどうすべきかを改めて考えた。
そういえば、常に八幡が頼りにしてきたのは己の思考力である。義輝などではない。
そのことに気づいた時初めて、八幡は自分が全く冷静でなかったことに気づいた。
八幡は目をつむり黙考した。
その間鳴り響き続ける義輝の土下座コールも、既に八幡には聞こえていない。
長い思考の末、八幡は思い出す。自分らしさとは何かを。
相手がどうとか、感情がどうとか、そんなものに左右されるものが果たして自分足りえるのか。
答えは否だ。比企谷八幡はそういう人間じゃない。
媚びる時はプライドを捨て全力で媚びること。それが彼にとってのプライドだ。そうだったはずだ
目を開け、八幡は智子に正面から向き合う。そして、その赤い瞳に語りかけた。
「分かったよ、黒木。土下座をしてやる」
「……?」
とうとう土下座を認めた八幡に、しかし智子は不穏な空気を感じた。
土下座をするために腰をかがめ、床に手をつく。
八幡の所作は終始淡々としていて、人間味のようなものをまるで感じさせない。
プログラミングされた動きを、何の感情もなく再現する機械のように、その動きは洗練されていた。
智子は漠然とした不安を感じる。
自分は何か間違えているのではないか。
何かやらかしているときに抱く焦燥感を、今智子は過去断トツに感じていた。
それを打ち消したくて、智子は八幡の背中を挑発する。
「な、何だよ。マジでやるわけ? プライドとかないの?」
智子の声に反応し、八幡が顔を上げる。その眼を見た智子は言葉を失った。
彼の目は、蛍光灯の光を正面から受けてなお、光を湛えていない。
すべてを吸収する黒。
八幡の瞳は何も反射することなく、また何も映していないように見えた。
「何言ってんだお前。必要だからやる。それだけだろ」
智子は恐怖した。
今の彼に頭を下げさせたら、今までの関係が全て崩れ去るかもしれない。
その結果得られる対価は、智子がちっぽけな溜飲を下げることだけ。
この釣り合いのとれなさは不味い。
この状況の何とばかばかしいこと。
しかもそれを招いたのは他ならぬ自分だということ。
それこそが智子の恐怖の原因だった。
相変わらず状況を読まず、未だに土下座コールをしている義輝に、智子は慌てて問いかける。
「ざ、ざいもく? くん! し、小説どこ!?」
「どーげ、……ひぇ? わ、我の?」
女子に話しかけられると思っていなかったのか、間の抜けた声と表情で義輝が聞き返す。
焦る智子には、その呑気さが癇に障ってしょうがない。
「他にっ! 何がっ!!」
「ひいぃ……! そこの机……」
もたもたしていては八幡が土下座を完遂させてしまう。鬼気迫るといった雰囲気の智子。
その迫力にビクつきながらも、義輝が自分の原稿を指さす。
智子は義輝の横を通り過ぎ、乱雑に原稿の束を手に取った。
一体どうするのかと、義輝と八幡がその様子をうかがう。
すると智子は、もの凄い勢いで原稿をめくり始めた。
速読技術を身に着けた人もかくやといった速度で原稿をすべてめくり終わる智子。深く息をつくと、彼女は高らかに叫んだ。
「お、おもしれええ!!」
「「……」」
明らかな棒読みは、図書室に虚しく、そして騒々しく響きわたる。
八幡も義輝も、訳の分からないものを見るように、視線を智子へ向けた。
注目を受けた智子は、さらに冷静さを失い、感情の全くこもっていない言葉を叫び続ける。
「わ、技名とか超格好いいし! コピー能力と打ち消し能力のぶつかり合いなんて夢のようだし!? いや本当名作だわ!」
「いや、もういいから。何がしたいんだお前」
無茶苦茶している智子の有様に、流石に心配になった八幡が立ち上がると、その行動の意図を問う。
智子はその眼を確認する。
いつも通りの腐った目がそこにあるのを確認し、深く息をついた。
自分の作戦がうまくいったことを確認すると、智子は笑みを浮かべ、建前しかない言葉を言う。
「材木くん! き、君の小説、面白いからっ。こ、これからも読ませて!」
「ふみゅっ!?」
これまで一度も言われたことのない、夢のような甘言に、義輝は返事にもならない声を上げる。
聞き間違いではないだろうか。義輝は、どうしても疑ってしまう。
彼はすがるような思いで、智子にその真意を確認した。
「わ、我の小説、そんな良かった……?」
「う、うん。最高!」
「うおおおおおおお!!」
義輝は泣いた。
追いかけて追いかけて、求め続けた言葉をかけてもらって、嬉しくないはずがない。
彼は今人生の絶頂の中にいた。
義輝が使い物にならなくなったことを八幡は悟る。いよいよ彼は、半ば責めるように智子に詰め寄った。
「お前いい加減にしとけよ。こんなことして……」
「というわけで、これからは私も一緒に読むから、よろしくな!」
食い気味に智子が宣言する。
それは、八幡が受けている依頼に自分も干渉するという意図が、明確に含まれていた。
その智子の意思は、先ほど八幡によって否定済みである。
しかし智子は、それを逆手に取ることを、すでに成功させていた。
「わ、私はただ、材木君の小説を、個人的に、読みたいだけだ! お、お前には関係ないから!」
「……そういうことかよ」
八幡はそれで全て合点がいった。
智子を攻める姿勢をやめ、頭を掻くと体の力を抜く。
自分の理屈をやり返された。ただそれだけのことだ。
だがそれは、八幡にとっては抜群に効く良い方法だと言えた。
同情でも押し付けでもない。『ただ自分のことを、自分がやりたいようにする』ことを強調された智子の意思を、八幡は否定することなどできなかった。
「なら、勝手にしろ。後悔しても俺は知らねえからな」
ぶっきらぼうに智子の参入を肯定する。
嬉しそうなニヤけ面を浮かべているだろう彼女の顔を見るのが憚られて、八幡は意図的に顔を逸らした。
未だ感涙にむせぶ義輝に近づくと、その肩をたたく。
「よかったな材木座、また一人読者が増えたぞ」
「八幡よ、我はやるぞ。いつか、本当に『面白い』と言ってもらえるような小説を書いて見せる……! 今日我は再び決心した」
「一応嘘だとは分かってたんだな……」
義輝という男は、案外冷静だったようだ。
何はともあれ、これで義輝の依頼が解決に近づくのであれば、八幡にとっても言うことはない。
いつの間にか完全下校時間もすぐ近くに迫っていた。
今度こそ帰宅しようと八幡はバッグを抱え直す。
一応声をかけておこうと、智子の方に向かおうとする。そこに、義輝からの質問が飛んできた。
「時に八幡よ、あの女子はぬしの何ぞや?」
「ああ? 友達だよ」
特に迷うそぶりも見せず、八幡は答える。
そうはっきりと認めてもらえる智子に、義輝はわずかながら嫉妬する。
そんな内心をおくびにも出すことなく、隠すように義輝は笑った。
「そうか。いい友を持ったな八幡。また明日会おうぞ、ムハハハハ!」
それは義輝の、精いっぱいの強がりと、ほんの少しの本心だ。
義輝は大きく手を振り、今日の別れを示す。
義輝の言葉。智子のことを肯定する彼の心意気に、若干八幡の心の奥底が、ほころんだようにくすぐったくなる。
「明日も来んのかよ。……じゃあ、またな材木座。次はもうちょっとマシなの持って来いよ」
だがそれは、きっといつもの勘違いだ。八幡は自分の心に向き合わず、目を逸らす。
手は降り返さずに、あきれたような表情と声色で、八幡もまた別れの言葉を告げた。
いつもお読みいただきありがとうございます。
活動報告の方ではもう書かせていただきましたが、これから更新頻度が下がります。
申し訳ありませんが、長い目でお付き合いいただけたらと思います。