由比ヶ浜結衣はスカートの裾を握り、不安げに目線をチラチラさせながら二人に向き直る。先ほどから立ち尽くしたまま、彼女はずっと落ち着かなかった。その理由が、やっとといった感じで絞り出したその言葉に込められているのだろう。
「あのさ、……二人は本当に付き合って、ないの?」
比企谷八幡はその暗く淀んだ両目で、問いかけてくる目の前の少女を見る。その瞳の深淵がゆらりと蠢く。結衣の問いかけの、その意図を彼は探っているのだ。
彼女の疑問そのものは、至極まっとうなものだ。
同じ場所で昼ご飯をともにする男女を見かければ、青春真っ盛りの高校生がその発想に行き着くのは必定だと言える。
昼休み。唐突にベストプレイスへとやってきた結衣。彼女は二人並んで昼食を取る八幡と智子を見つけ、それから気まずそうに沈黙していた。今しがた問いかけたように、勘違いしてしまったのだろう。だが八幡にとって重要なのはそこではない。
目を見張るべきなのは、疑問を投げかける結衣の様子だ。気まずそうに、言いづらそうに、そして辛そうに問いかけるその姿だ。
本来であれば、もしも八幡と智子が付き合っていたところで結衣には関係ないはずだ。たとえ疑問に思ったのだとしても、もっとあっけらかんに聞いてみたっていいものだ。だというのに。
なぜそんなに戸惑っている。
なぜそんなに口ごもる。
どうして、苦しそうにする?
実のところ八幡は、すぐに一つの答えへ行き当たっていた。それは男子高校生なら真っ先に思い浮かぶ、あまりに直情的で、自意識過剰で……死にたくなるほど陳腐な回答だ。
当然比企谷八幡は、それを真っ先に否定し、打ち捨てる。もし仮にそれが正解だったのだとしても、後悔などしようはずもない。間違えて、勘違いして、またあの深い自己嫌悪に陥るよりよっぽどマシだ。
つまり由比ヶ浜結衣の動揺する様子など、いじらしく上目づかいで問いかけてくる姿など、比企谷八幡にとってどうでもよいということである。それこそが八幡が思考を重ねて導き出した、完全無欠の結論だった。
黒木智子の方を見やる。そこにはいつもの厭らしい笑みを浮かべて、八幡を横目で窺う根暗女の姿があった。先ほどから妙に静かだと思ったら、どうやらこの状況を面白がっているらしい。
――しょうがねぇなぁ。この場はお前に任せてやるよ。
三日月形に歪んだ瞳は、そう八幡に語りかけていた。彼女は傍観する姿勢のようだ。
面白がるつもりなら、いつもならば真っ先に『そう彼氏!』などと吹聴して場をかき回すのが智子の常だった。だから、その彼女の在り方は、やや珍しい。
今回に限って何か思うところがあるのか。それとも単により厭らしい性格になっただけなのか。だが、やはりそれも八幡にとってどうでもいいことだ。
智子が場を引っ掻き回さないのであれば、八幡にとっても都合がいい。未だ所在なさげに佇む結衣を、いい加減に救ってやらなくてはならない。彼は一つ咳払いをすると、淡々と感情なく、ただ事実を告げた。
「いや、付き合ってないが」
それだけで、その言葉だけで、結衣の表情は目覚ましい変化を見せた。
一瞬見開かれた瞳が細まり、眉が下がる。ほおが緩み、固くつぐまれていた口元が半弧を描く。軽く白んでいた肌は一気に赤みを帯び、着色された水を花が吸い上げるように華やぐ。
「あ、そうなんだ……」
その口から漏れ出た安堵の言葉は、努めて感情を乗せていないように平坦だ。だがそんな程度の小細工は、比企谷八幡には通じない。通じてくれない。
ついさっきだ。ついさっき結論を出したばかりだというのに、もう迷っている。めまぐるしく変化する、目の前にいる女の子の機微一つ一つが、八幡を動揺させる。
そして、完全にうち捨てたはずの思考がまた首をもたげ始める。
やはり、そうなのだろうか。由比ヶ浜結衣はやっぱり――
「やっぱり由比ヶ浜さんって、コイツのこと好きなの?」
「うふぇっ!?」
「はあっ!?」
とつぜん放たれた核心を突く言葉に、八幡も結衣も驚愕の声をあげる。
八幡の心情が漏れ出たのではない。それはもっと間の抜けた声で、八幡の隣奥から聞こえてきた。
すかさずその方向へと視線を向ける八幡と結衣。そこには当然智子の姿があって、口の端を持ち上げて脳天気な笑顔を浮かべていた。
顔をいっそう赤くし、パクパクと落ち着かない口元を動かしながら、結衣が聞き返す。
「ちょっと、もこっち何言ってんの!?」
「え、いや。そんなこと聞くってことは、コイツに気があるからなのかなって。誰だってそう思うと思うけど……」
結衣の勢いにやや押されながら、困惑するように智子が釈明する。直接的すぎる智子の言い分と向かい合ってしまっては、結衣の口ぶりもあからさまにならざるを得ない。
「そ、そんなわけないじゃん! ヒッキーなんてキモいし、デリカシーのかけらもないし! いっつも教室で一人で本読んでニヤニヤしてるし!」
「だから何でお前はそれ見てんだよ……」
「それ私もやってるかも……やっぱキモいと思われてるんだろうなあ……」
智子の言い分を否定したい結衣からは、ついつい八幡を貶す言葉ばかりが出てきてしまう。それが彼を傷つけることになるのだと分かっていても、暴走する感情を止めることができない。
「人が一生懸命作ったクッキー、毒扱いしてくるし!」
「いや、あれは毒だろ……二桁食べたら死ぬ自信あるぞ俺」
「……(豚の餌かと思ったなんて言えない……)」
結衣の思いは止まず、話題は二人が知り合うきっかけとなった依頼にまで行き着く。そのことを詳しくは知らない智子だったが、心の中で静かに八幡に共感していた。
「中二の依頼だって、手伝おうとしたのにっ、人のこと馬鹿にして! 断るし、嫌がるしっ! ヒッキーなんて、ヒッキーなんか……!」
「……ふー」
半分涙目になりながら、結衣の言葉はだんだんと尻すぼみになっていく。二の句を続けようとしてももう限界なようで、嗚咽にもにたうなり声がいたずらにのどを震わせるだけだった。
見るからに痛々しい結衣のあがく姿を受けて、八幡は不謹慎にも安心していた。自分がどうしても抱かざるを得なかった疑念を、考えたくなかった可能性を、何よりも結衣自身が否定してくれたのだ。これほどありがたいことはない。
ぐずる結衣とは真逆にすっかり落ち着いてしまった八幡は、事の発端となった智子を見る。彼女は一体どんなつもりであの言葉を言い放ったのだろうか。いまどんな気持ちなのだろうか。それが気になったからだ。
「……」
智子は顔を真っ白にして、目を見開き口をあんぐりとさせて、完全に放心状態となっていた。
その様子から、彼女が何も考えずに思ったままのことを言ってしまって、予想外に拗れてしまった現状にキャパオーバーになってしまっていることは、もう明らかだった。
八幡は呆れた。コイツは本当に、言って良いことと悪いことの区別も付いていないのだなあと、思いっきり見下した。嘲笑することさえできなかった。
何にせよ、こうなってしまっては場を治めるのは自分にしかできない。そう確信した八幡はいつものように口の端をもち上げ、卑屈な笑みを浮かべて、目を濁らせながら吐き捨てる。
「まあ、そりゃあそうだよな。ここ最近知り合っただけの女子に好かれるとか、どこのラノベの主人公だって話だ」
結衣の言葉を全面的に肯定し、なおかつこの話題に関しても終わらせることができる。最も理想的な台詞を言うことができた。八幡は満足して結衣に向き直る。
にも関わらず結衣の表情は、先ほどまでではないにしろ、どこか浮かない雰囲気を漂わせていた。完全に予想外なその反応に、八幡は眉をしかめた。思わず尋ねる言葉にも角が立つ。
「……なんだよ、お前が言ったことだろうが」
「やー、アハハうん……そうじゃなくてさ、ちょっと気になるというか、あれれーみたいな……」
言いたいことを言わずに、婉曲的な言葉でまごまごする結衣。そんな彼女の姿を、八幡は以前教室で見たことがある。それが彼女の処世術で、同時に結衣自身を苦しめる要因たらしめていた物であることも、八幡は知っている。
そして、彼女がとうにそんな自分から抜け出しているのを、変わろうとしているのを知っている。
だから、次の瞬間には彼女がしっかりと前を見据えて、自分の気持ちを投げかけてくることを、八幡には容易に予想することができた。
「ヒッキーさ、入学式のこと、覚えてない?」
決意を帯びた結衣の口から飛び出したのは、そんな昔のことを尋ねる言葉だった。いまいち結衣の意図を察することができず、八幡は首をひねる。
「入学式? いや、俺入学式の日は休んでたからな。何かあったのか?」
「何で休んでたの?」
『質問を質問で返すな!』とでも八幡は叫びたい気分だった。だが据わった目つきのまま、矢継ぎ早に迫る結衣の雰囲気に圧され、八幡は素直に答えてしまう。
「あ、ああ。当日の朝に事故にあってな。犬のリード離したまぬけな飼い主がいたんだよ。その犬が道路に飛び出したもんだからつい……」
「あ、あのね。その飼い主って……!」
よりいっそう瞳を潤ませた結衣の顔が近づいてくる。八幡は息をのみ、何やらただならぬ事態が生じていることを今更ながら悟った。
これはマズい。なんだかよく分からないが、とにかく良くない状況だ。八幡の脳内で、警鐘が一斉に鳴り響いて全く止みそうにない。
とりあえず結衣を落ち着かせようとその肩を押そうとした、その時だった。
「あれ? 由比ヶ浜さんに比企谷くんにっ……ご、ごめん。ぼく、また邪魔しちゃった?」
抜けるような白い肌をやや上気させ、タオルを首にかけた、ジャージ姿の生徒がベストプレイスに侵入してきたのだ。ラケットを手に持っているところから、テニスの練習をしてこちらを通りがかったのであろうことが窺える。
八幡はその生徒とどこかで会っているような、軽い既視感を覚える。事実向こうがこちらの名前を知っていることから、同じクラスの女子なのではないかとあたりを付け始めていた。
どうやら結衣は知り合いであるらしく、気分を切り替えるとさっと手を挙げ挨拶をしようとした。
「彩ちゃんだ。やっは」
「彩加じゃん! よっす!」
その声を、突然復活した智子の声がかき消す。結衣と八幡が振り向けば、実に親しげに手を掲げ、揚々とした表情で智子は彩加に手を振っていた。
「あはは。黒木さん、よっす」
相手が相手ならば失礼にしかならない智子の振る舞いに、しかし彩加は笑顔で手を振り返す。そのやりとりに一番驚いたのは結衣だ。
「え、なに? 二人とも、知り合いなの?」
どちらにでもなく投げかけた質問に、真っ先に反応したのは智子だ。瞳をらんらんと輝かせ、武勇伝でも謳い上げているように、声色高々に語り出す。
「そうそう! この前体育の補習でたまたま会って、もう運命を感じちゃって! もう、すぐに仲良くなっちゃったんだよ。ねえ、彩加!」
「うん、そうだね!」
智子の呼びかけに、笑顔で応じる彩加。どうやら智子の言っていることに嘘はないようだ。
いつまにやら女友達をこしらえていた智子に、八幡は素直に感心した。
「ふうん、良かったじゃねーか。よっぽどウマが合ったんだな。おめでとさん」
「え、ヒッキー?」
なぜか結衣が信じられない物を見るような目でこちらを見てくる。それを不審に思いながらも、八幡の意識は未だに喜々として落ち着かない智子に注がれていて、気にしている暇はなかった。
「そうなんだよ! 出会った瞬間ビビッときたって言うか……」
「な、なんだか照れるね……でも、黒木さんと比企谷君も凄く仲がいいよね」
気恥ずかしそうな笑みを浮かべる彩加は、これ以上話を掘り下げられたくなかったのか、あからさまに話題をそらす。その矛先となった八幡は怪訝な表情を浮かべ、疑問を露わにする。
「んん? やっぱりどっかで会ったことあったか? なんかすぐここまで出かかってるんだが……」
こちらのことをよく知っている人物のことを、自分は知らない。その気持ち悪さに八幡が頭を抱えていると、それを糾弾するように結衣が詰め寄った。
「はあ!? 信じらんない! 同じクラスじゃん!」
「ああ。そうだったのか、どうりで」
結衣の責め文句に、未だ実感がわかないながらも八幡は納得した。同じクラスであるならば、調理実習で二人でいるところを見られていてもおかしくない。一緒に肉じゃがを食べていたのを、『仲良し』であると思われたところで何の不思議もない。そう考え、八幡は思考を打ち切った。
「いや、すみませんねぇ。同じクラスの連中の顔と名前なんて、いちいち覚えてないもんだからさぁ」
「偉そうに言うことじゃないし……ヒッキーほんとキモい」
全く悪びれる様子のない八幡の態度に、結衣が呆れかえる。だがそこまで言われながらも、彩加は笑顔を崩さずに八幡に近寄った。
「あはは、そうなんだ。じゃあ……」
「ん? うぇっ、へ!?」
八幡は仰天した。ふと顔を見上げたら、すぐ目の前に彩加の顔があったからだ。
近い。互いの吐息がぶつかり合う程度には、近い。八幡が取り得る女子とのパーソナルスペースを、完全に越境されている。
「戸塚彩加です。今度は、忘れないでね。比企谷君!」
「う、うおぅ。へぁい……」
全く目を合わすことも、しっかり舌を回すこともできず、もぞもぞと答えることしか八幡にはできなかった。
――何なのこの子、俺のこと好きなの? 積極的すぎない!? もういっそのこと告白して振られちゃおうかな? いや振られちゃうのかよ!
動揺のあまり、脳内でボケてセルフ突っ込みをかますという高等技術をやってのける八幡。その彼を、面白がるような調子で智子があざ笑う。
「お前、どんだけ動揺してんの? かわいい子だったら誰でもいいの? 変態なの?」
「いや、無茶言うなよ。こんなん絶対照れるわ」
素直な心情を吐露する八幡を、おぞましい物を見るように身をよじらせ非難するのは結衣だ。
「ヒッキー、マジでキモいんだけど! どしたの!?」
「いや、お前がどうしたんだよ。今日やけに風当たり強くありませんかね……」
今日だけで一体何回キモいと言われたのだろうか。いくらなんでもキツすぎる結衣の様子に、いよいよ八幡は違和感を深める。しかしそれは結衣の側も同様らしく、お互いを疑うような視線が、自然と二人の間を交差した。
そんな余所の不穏な空気をものともせず、智子は食べかけの弁当を閉じると、彩加に近寄る。
「彩加は、もう昼練は終わったの?」
「え、うん。お弁当部室に置き忘れてきちゃったから、そのまま部室でお昼にしようと思ったんだけど」
彩加は智子の質問に答えながらも、ちらちらと八幡と結衣の様子を窺って気にしている様子を見せる。だが、そんな彩加の様子にも気付かずに、智子はどんどんと距離を縮めていく。
「ああ、そう! だ、だったら私も、残りは部室で食べようかな。それで、その後テニスしようよ! 最近ちょっと、はまっちゃってさあ!」
「う、うん。いいんだけど……いいのかなあ?」
肯定とも否定ともつかない返事をしながら、彩加がにらみ合っている二人を指さし、困ったように笑う。つられて智子も視線をそちらに送るが、すぐに首を振ると諦めたように嘆息してしまう。
「い、いいんだよ。あの二人はいつもあんな感じだし。痴話喧嘩につきあってたら、いくら身があってももたないって。さ、行こ行こ!」
戸惑う彩加の背中を押しながら、今度はそっと窺うように、智子は後ろを振り返った。その先では相変わらず八幡と結衣が、お互い全く譲らず何やら言い合っている。
二人がいったい何の話をしているのか。何でもめているのか。気にならないと言えば嘘になる。むしろ、智子は首を突っ込みたくて仕方がないくらいだった。
それでも、黒木智子は口を出さない。今までもなんとなく思っていたことだが、今日の一件で彼女は痛感していた。自分が関わっても、碌なことにはならないと。
結衣のためを、そして八幡のためを思うのであれば、きっと自分が引っかき回さない方が二人は上手くいく。そう確信したからこそ、智子は身を引くことにしたのだ。
この選択に後悔はない。だが、最後に智子は、八幡に一言、言ってやりたくて仕方がなかった。
だから呟いた。彼に聞こえるはずはなくても、願いを込めるような、そんな何気ない気持ちで。
「素直に受け止めろっつーの……拗らせすぎなんだよあのバカ」
智子の前を行く彩加が、その祈りにもにた言葉を聞いて、微笑ましげに口角を上げていたのを智子は知らない。
「ヒッキー……もこっち、行っちゃったけど」
智子と彩加が過ぎ去っていった方向を振り返りながら、結衣が呟く。相変わらずその意図が理解できない八幡は、ただ首肯する。
「ああ、そうだな。それがどうかしたか?」
「ヒッキーは、それでいいんだね。本当にもこっちのことは、なんとも思ってないんだ……」
捻っていた首を戻し、結衣が振り向き直す。その目は細められ、目尻が下がって、しかし口元は固く結ばれている。その視線に射貫かれ、八幡は責められているような気持ちになる。
「いや、何ともは思っていないが……まあ、良かったな、とは思ってるぞ」
それは八幡の素直な気持ちだ。本当に良かったと思っている。あの智子があれほどまでに懐ける相手がいたとは、奇跡のような確率だとさえ八幡は感じていた。日頃智子と関わっている彼だからこそ、その奇跡と、智子の頑張りを祝わないわけがなかった。
「お前は黒木と付き合い浅いから分からないかもしれんが、本当に凄いことなんだぞ。喜ぶ気持ちがないわけないだろ」
「ヒッキーは凄いね。あたしは……あたしはそうは思えない」
「うん?」
まただ。またこの感覚だ。
今日一日、全く結衣とかみ合っている気が八幡はしなかった。何か根本的なところでズレているような、違和感がずっと続いている。
「あたしだったら、悔しいと思う。ずっと一緒だった人が、やっと仲良くなれた人が、突然現れた誰かとあっさり仲良くなって離れて行っちゃったら……そんな素直になんて祝えない。絶対嫉妬するし、嫌な気持ちになる、……嫌な子になる」
「男と女じゃ、そこんとこ違うんじゃないか? 別に嫉妬するのが嫌な奴とも思わんが……」
「でも……ヒッキーはしないんでしょ?」
「ああ、全くしないな」
それだけは八幡は断言することができた。ずっとぼっちだった女友達に同性の友達ができて、その相手に嫉妬するような男は、この世界中探してもいないのではないかと確信さえしていた。
しかし、結衣があんまりこだわるので八幡は別のパターンも想像してみた。もし仮に、智子にできた友達が男だったら、自分はどう思うだろうか。できうる限りの思考を尽くして想定した。
結果は、……よくわからなかった。あまりにも経験が不足しているためだ。実際そうなってみないと分からないというのが本音だった。けれども、嫉妬はしないと断言することはできないことは確かだ。
「ねえ、一体どうしたらそんなに相手のことを思えるのかな? あたし何だか、自分の気持ちに自信がなくなってきちゃった」
八幡が思考の海に沈んでいる間にも、結衣はいっそう疑問をこんがらかせているようだった。だから八幡は慰めるような気持ちで、結衣に自分の思いついたままを語り聞かせる。
「んなこと言われてもなあ……まあ正直、戸塚が男だったりしたら、多少は違ったかもしれんが」
「へ? 彩ちゃん男の子だけど」
一瞬の静寂。
風が止んだ気がした。いや、もとから風など吹いていなかったか。ならば世界が止まったのか。とにかく何かが止まった。止まったのは八幡の思考かもしれない。
蚊が止まれば叩くように。熱湯に触れれば体が飛びのくように。八幡は何も考えないまま自然と聞き返していた。
「男? 戸塚だぞ?」
「だから彩ちゃんでしょ? え、ヒッキーもしかして知らなかったの? 同じクラスなのに」
その瞬間、八幡にとっての世界が確かに歪んだ。視界が定まらず、立ち位置もはっきりしない。彼の脳みそは今、過去類を見ない程に混乱していた。
――戸塚が男? え、じゃあなに俺は女ってこと? いや、違うな俺は男だ。じゃあ戸塚は? 男? あんなに可愛いのに? じゃあ黒木は、由比ヶ浜は、てか性別って何だ。誰が決めた。いやそんなことはどうでもいい。じゃあ何がどうでもよくない? そうだ俺は戸塚に迫られて、それで――
八幡の脳裏に、つい今しがたの出来事が蘇る。
『お前、どんだけ動揺してんの? かわいい子だったら誰でもいいの? 変態なの?』
『いや、無茶言うなよ。こんなん絶対照れるわ』
――ん? 今このクソみたいな目つきした男は何て言ったんだ? よーし、もう一回聞いてみよう。
『いや、無茶言うなよ。こんなん絶対照れるわ』
――んんん? 聞き間違いかな? きっとそうだ、さあもう一度。
『いや、無茶言うなよ。こんなん絶対照れるわ』
――あれれー? この人言ってることがおかしいぞー? ほら、ここ、ここ!
『こんなん絶対照れるわ』
男相手に。
こんなん絶対照れるわ。こんなん絶対照れるわ。こんなん絶対照れるわ。こんなん絶対照れるわ。
「ぬぅぐぉおおぉ……!!」
「ええ!? ちょっとヒッキー、大丈夫!?」
一気に押し寄せてきた羞恥の波に、八幡が頭を抱えてうずくまる。苦しそうに座り込むその様子に、心配した結衣が仰天しつつも寄り添い、背中をさする。
それが思いのほか気持ち良くて、八幡は泣きそうになってしまう。ありがたいことだが、今だけはそっとしてほしかった。このままでは、より一層無様な姿を見せることになってしまう。
そのため八幡は、血液で真っ赤になりそうな視界と、荒く切れ切れになる呼吸を何とか抑えながら、結衣に退去を願い出た。
「ゆ、由比ヶ浜、雪ノ下との、約束は……ぅぐっ! い、いいのか?」
そう。もともと結衣は、雪乃との罰ゲームでジュースを買いに行く途中、ベストプレイスへと立ち寄ったのだ。いい加減戻らなくては、雪乃の雷が落ちること請け合いだ。いや、もう手遅れかもしれないが。
「え、あ! そうだったヤッッバ!? あ、でもヒッキーが……」
戻ろうか、そうすまいか、悩んでいる結衣の姿を認めて、八幡は笑う。
自分に迫っている危機を自覚しつつも、目の前にいる他人の安否の方を気遣うことができる。由比ヶ浜結衣は、やはり十分素敵な女の子だ。
だから八幡は、結衣の疑問に答えることにした。何とか立ち上がり、呼吸を整えると、宣言する。
「なあ、由比ヶ浜。さっき俺は嫉妬なんてしないといったな。あれは嘘だ」
「どうしたの急に?」
突然先ほどまでの話題をぶり返した八幡に、結衣は困惑の声を上げる。それでも、視線ははっきりと八幡を捉えて、その続きを待っている
結衣の興味を引くことに成功したと確信し、八幡はしたり顔を浮かべる。
「戸塚が男だと分かった今、はっきりと分かったんだよ。なるほどな、確かに悔しくないわけがないよな。俺の方が先に知り合っていたはずなのに、知らないうちに他の相手と仲良くなっててもう手が出せないなんて、こんなに残酷なことはない」
「そ、そうだよね! そっか、ヒッキーでもそうなんだ……あっ! でもそれって」
八幡の言葉に、結衣は安堵すると同時にあることに気づいてしまった。
そうだ。彩加が男だと分かって嫉妬するということは、八幡はつまり、智子のことを――
「ああ。俺は今、黒木にたまらなく嫉妬している」
「ええっ、そっちなの!? やっぱヒッキー、キッモッッ!!」
結衣はあふれ出る嫌悪感に耐えきれず、八幡を残してさっさと行ってしまう。
後には一人。虚空を眺め、どこか吹っ切れたようにさわやかな顔に腐った目をひっ付けた、奇妙な男が一人残っているだけだった。
比企谷八幡。その人生にまた新たな黒歴史を刻んだ、16歳の春だった。