「絵里、お願いがあるのですが……」
学校が終わって家で一息ついていた絵里は、友人の突然の訪問に面食らっていた。
「あら、どうしたの海未……ってその子は?」
絵里は海の胸元に抱きかかえられている物に目を向けた。
「はじめまして!えりちゃん!ほのかはほのかだよっ!」
一見すると子犬サイズの小人。頭部にはクマのような耳が生えている。
「私が飼ってるほのくまの穂乃果です」
「こんにちは!」
「はい、こんにちは。ふふ、元気な子ね。自分から挨拶するなんて偉いわ」
思わず笑顔になった絵里は穂乃果の頭をそっと撫でる。穂乃果も気持ちよさそうにそれを受け入れていた。
「今夜1日だけ穂乃果を預かってもらえませんか?久しぶりに家族揃って出かけることになったのですが、流石に穂乃果を連れて行くわけにはいかなくて……」
「別に構わないけど、なんで私?ことりや希の方が適任じゃないの?」
「あの二人には既に声を掛けました。ですが、どうやら二人も手放せない用事があるみたいです」
絵里は自分で言っておいてなんだが、少し腹が立っていた。先にあの二人に声を掛けたということは、少なくとも海未は穂乃果を預ける件に関しては絵里よりも頼りになると判断したわけである。絵里の中で希達への対抗意識が仄かに芽生える。
「ふーん、わかったわ。別にペット禁止のマンションじゃないし、今日だけなら特に問題ないでしょ。何か気をつけておいた方が良いこととかあるかしら?」
「恩にきります!そうですね。ご飯とお風呂に入れてくれれば大丈夫だと思いますよ。服はこの袋の中に入っていますから、よろしくお願いします」
「了解。それじゃあ食べる物は……」
かくして、この奇妙な生物は1日だけ絵里の家族となったのであった。
『絵里とほのくま(2016絵里誕生日記念)』
「わー、かわいいおうち!」
「こらこら、走ったら危ないわよ」
見知らぬ世界に好奇心が刺激されているのだろう。絵里の家に招かれた穂乃果はキラキラと目を輝かせながら駆け回る。そのあまりの愛くるしさに絵里は叱っているかのような口調ながら、どこか楽しげなトーンになっていた。
「ふかふかのべっどだー!」
絵里の部屋に駆け足で入り込んだ穂乃果はベッドをトランポリンに見立ててポヨンポヨンと跳ねる。
「ふふふ、ベッドがそんなに珍しいの?」
「うん、うみちゃんちはいつもおふとんだから!あ、でもだからおふとんがいやってわけじゃないんだよ!うみちゃんがいつもいっしょにおとなりでねてくれるし!」
「いつも一緒に、か。へえ、海未は貴方が大好きなのね」
「うみちゃんおこるとこわいけど、いつもはとってもやさしい!だからほのかうみちゃんだいすきっ!」
その時だった。部屋のドアが突然開けられた。
「お姉ちゃん、さっきから誰と喋って……」
部屋の中を覗き込んだ絵里の妹、亜里沙は、ベッドでくつろぐ穂乃果を目にした途端、目を輝かせる。
「うわー♪かわいいー♪」
「ほのくまの穂乃果よ。友達から今日一日だけ預かってきたの」
「穂乃果ちゃんって言うんだ!私、亜里沙!」
「ありさちゃん!ありさちゃん!」
穂乃果はピョンピョン跳ねながら亜里沙に飛びつく。
「えへへー♪よしよし♪」
「あら、もう仲良くなっちゃったわね」
「ねえねえ!ありさちゃん!いっしょにあそんで!」
だが、亜里沙は気まずそうに目を伏せる。
「えっと……実は亜里沙もうすぐテストが……」
「てすと?しってる……てすとのときはうみちゃんもあそんでくれないの……がくせーのほんぎょーなんだって……」
暗く沈んだ穂乃果をしばし見つめる絵里。やがて諦めたようにため息を吐いた。
「……あまり根を詰めてても勉強の効率が悪くなっちゃうしね。普段亜里沙も頑張ってるし、今日くらいなら大丈夫でしょ」
「わーいやったー!ありがとうお姉ちゃん!穂乃果ちゃん、何して遊ぼうか?」
「うた!だんす!」
「まあ、穂乃果は歌とダンスが得意なのね?」
「うん!ほのか、うたとだんすだいすき!」
「もしかしていつもは海未と一緒に?」
「あのね!うみちゃん、いつもてれびのまえであいどるのものまねしてるんだよ!」
「へー、あの海未がねえ」
絵里は自覚があるのかはわからないが、口元に不敵な笑みを浮かべている。
「アイドルの曲なら亜里沙もいっぱい知ってるよー。どれにしようかなー?」
CDを箱から漁り始める亜里沙。穂乃果の小さな体を目一杯使ったダンスはバレエの経験を持つ絵里ですら見てて楽しいと思えるものだった。
「おー!ほのか、これはじめてたべるー!」
「これはねー。ボルシチって言うんだよ」
日が沈んだ頃、二人と一匹はリビングでテーブルを囲んでいた。今日は絵里も得意なロシア料理のボルシチである。
「ぼるしち?ぼるしち!」
初めて見るロシア料理に興奮が隠せないようだ。元々穂乃果は感情表現豊かではあるが。
「いただきまーす!」
海未から事前に聞いていた通りに、穂乃果の食欲は旺盛だ。あっという間にお椀の中身を平らげてしまう。
「ぼるしちおいしー!」
「ふふ、ありがとう。おかわりならいくらでもあるわよ。今日はちょっと多めに材料買ってたから」
「わーい!」
「そう言えば、穂乃果は苺が好きなのよね?」
「うん、ほのかいちごすきっ!」
「はい、どうぞ」
「いちごー!」
食事を終えた後、みんなでテレビを見て時間を過ごす。時計が就寝を告げるまであっという間であった。
「穂乃果ちゃん!一緒にお風呂入ろ!」
「うーん、ほのか、えりちゃんとおふろしたい!」
「ええっ?」
「むむ……お姉ちゃん……ずるい!」
「そ、そう言われても……」
「えりちゃんとおふろ!」
「ごめんね、亜里沙」
ほっぺたを膨らませる亜里沙をなだめながら、絵里は穂乃果を連れて湯船へと体を沈ませていく。穂乃果は何故か絵里の体を見て驚いているようだった。挙句にその小さな手を伸ばす。
「おおー!うみちゃんよりおっきい!」
もにゅもにゅ
「ひゃあ!……な、なにが?って聞くのは野暮かしらね……」
風呂から上がった絵里は、すぐさま亜里沙に穂乃果を奪われてしまった。そんなに長い間入っていたつもりはないはずだが、穂乃果を気に入った亜里沙には無限に近い程の時間が過ぎていたらしい。
「「すぅ……すぅ……」」
「もう、二人してそんな格好で寝てたら風邪引いちゃうわよ」
「おねーちゃん……」
「うみちゃん……ほのかもうおなかいっぱいだよー……」
「もう仕方ないわね」
ソファーの上で抱き合ったまま寝ている二人をクスクスと笑いながらも、そっとシーツをかけていく。普段手のかからない妹でいようとする亜里沙らしかぬ姿に、思わず笑みが溢れてしまっているようだ。
「今日くらいは私も一緒に寝ていいわよね?」
その中にこっそり絵里も入り込んでいくのだった。
次の日の朝、海未がインターホンを鳴らしてきた。
「ありがとうございます、絵里。穂乃果が面倒かけたりはしませんでしたか?」
「いいえ、それどころかすっかり亜里沙と仲良くなってくれて。人見知りのあの子があそこまで楽しそうに笑ってるのを見るのは久しぶりよ」
「ふふふ、そうでしたか。それは良かった」
海未は静かに笑うと遠くを見つめ始めた。
「私も穂乃果にはいつも元気を貰っています。何度あの子の無邪気な笑顔に救われたことか……もうあの子がいない人生なんて考えられません。ゆえに穂乃果には飼い主として出来ることは全てしてあげたい」
海未の表情は真剣そのもの。だから絵里も黙って聞き入れていく。
「……だからこそ、あの子のためを思って厳しく躾を行なっているつもりなのですが、もしやそれが原因で本当は嫌われてるのではないかと不安でしかたないのです」
海未は生真面目で、自分を押し殺して他人に厳しく接する傾向にある少女だ。そのせいであらぬ誤解を受けてしまうことも多い。そして、それを本人も密かに気にしていた。そんな彼女を絵里は笑って応える。
「そんなことないわよー。海未ってずいぶんと穂乃果から慕われてるのね。私の家でも海未の話をよくしてたわ」
「そ、そうなのですか?」
「例えばー、家ではよくアイドルの真似をしてるとか♪」
「ご、後生です!その話はみんなに絶対しないでください!特に希には!」
「はいはい。わかったわよ」
「約束ですよ!絶対ですよ!」
顔を赤らめる海未の後ろでは、亜里沙に手を振りながら玄関に向かう穂乃果の姿があった。
「ありさちゃんまたあそぼーねー!」
「ほら、貴方の大事な家族よ、海未」
亜里沙に別れの挨拶を告げた穂乃果は、海未の胸元にピョンと飛び乗るのだった。
「うみちゃん、ただいま!」
「ええ、おかえり穂乃果」