24歳の僕が戦車道で有名な黒森峰女学園の高校教師になって2年が経った。
アパートで暮らし始めた当初は、巨大な学園艦という閉鎖的な場所での人付き合いに苦労したものだ。
今まではずっと陸にいたから、海上での天気や潮の匂いなんかには慣れるまで時間がずいぶんとかかった。
女学生しかいない学校で教師をするよりも。
学校では最初のほうは珍しい男性教師に女生徒たちから興味を持たれていたけれど、時間が経つに連れて落ち着いていった。
最も僕が若く、身長も170㎝とそれほど高くもなくて髪型は男にしてはちょっとだけ長めで、男らしいガッシリとした体格でないからか、年上のお兄ちゃんや男友達みたいな軽い感覚で接してくる子たちが少しはいるけれど。
そうして親しく生徒たちと過ごしながら、担当である世界史の授業を悪くない評判で続けていた。
うまくやっていけそうだと安心していた時に1人の女子生徒に気に入られ、今では授業以外にもよく会うようになった。
それは悩み相談や雑談、時には一緒に食事をしたり何の会話もなく穏やかに過ごしたりと僕自身も気に入っている時間だった。
◇
今日は梅雨が多い6月のよく晴れた日。
僕は学校の中心から離れている第2社会科準備室で世界史の教科書を見ながら、午後でやる授業の要点を見返して勉強をしていた。
準備室は8畳ほどの広さな部屋で校庭が見える方向に窓があり、天井あたりまで届く棚と教師が使う机がふたつ置いてある狭い部屋だ。
少し倉庫代わりにも使われているこの部屋は色々な教科に関する本が置いてある。
僕が使ってない机の上には電子レンジや電気ポットがあり、休憩時間には大変便利に使わせてもらっている。
お昼休みのチャイムの音が鳴ると、棚から常備しているカップ麺を出す。
普段は安いカップ麺だけど、今日は250円もする高い物だ!
どんな味かウキウキしながらポットからお湯を入れて自分の机へと持っていく。
そんな時に扉がノックされ、扉の擦りガラス越しに何度かここに来ている女生徒の姿が見えた。
「どうぞ」
その言葉を聞いて扉を開けたのは、弁当箱が入ったバッグを持つ1年生の西住まほ。
彼女とは僕がした授業の中の雑談で、その話のひとつが物凄く気に入ったらしく、続きを聞きに来たことから交流が始まった。それからは学校や友達付き合いから離れたいときにはこうしてやってくる。
西住まほは、首筋あたりまで伸びる茶色がかった美しい黒髪を持っている。首を傾げるだけで、髪がさらさらと綺麗に揺れるのは目を奪われることが結構ある。
まだ幼さがある顔立ちはよく整っていて、無表情だと目つきが厳しく感じるが仲が良くなるとそれすらもがかわいい。
黒を基調とした制服は落ち着いた色もあって、まほ自身の落ち着いた雰囲気が上品に見える。
「こんにちは、先生。少しお邪魔してもいいかな」
少々低めのかっこいい声が静かな部屋へと響く。
出会ったころ、まほは初めのうちは僕に敬語を使っていたけれど、生徒相手なのに妙に落ち着かない僕のためにふたりきりの時は敬語をあまり使わないと言ってくれた。
それは『先生』と慕ってくれる生徒がいるなかで、気を使わなくてもいいのは楽になる。
「どうぞ、歓迎するよ」
そう言うとまほは静かに扉を閉めては僕がいる机へとやってきて弁当箱を置くと、もうひとつの机がある方から椅子を持ってきて僕の目の前に座ってくる。
肩がぶつかりそうなほどの距離でお互い机に向かい、僕とまほの食事の準備ができると僕とまほは「いただきます」と同時に言っては食べ始める。
僕のほうはまだラーメンができあがってないから、一緒には食べれないけど。
食べ始めたまほだが、僕へと悲しげな視線を送ってくる。
「今日もまたラーメンなのか」
ため息をついて言う、まほの弁当はいつもながら立派といえるもので、見栄えもよく、使われているおかずから見てバランスがよさそうで健康的に見えるものだった。
「でもいつもと違って高いラーメンだから」
「それでも変わりはないだろう? 若いうちから健康に気を使えば、歳を取ってからでも元気だとうちの母が言っていた」
「弁当まで作る元気がないから、これでいいよ、僕は」
そう答えるとまほは不満そうにしていたが、僕はそれをあまり気にせずラーメンの蓋を取る。部屋中に広がった湯気の香りに満足し、味付けの粉末を入れて割りばしでかき混ぜていく。
混ぜ終わり、いざ食べようとしていると隣から強い視線を感じて振り向く。そこにはまほが鳥のからあげを箸で持っていた。
「これを食べるといい」
「生徒からもらうのはダメだよ」
「食べてくれ」
「僕にはラーメンが―――」
「食べろ」
あまりにも強気な姿勢に僕が降参して口を開けると、まほは満足そうにからあげを口の中へと入れてくる。
「私は先生とここで会って10回目になるが、ずっと気になっていたんだ。そんなにラーメンばかり食べるというのは」
からあげを噛みながら、おいしい味を堪能しつつ、まほの言葉を聞いた。
食べ終わると今度は厚焼き玉子だった。
それを食べてから『もういらない』と手のひらを向けると、ようやく彼女は自分自身の食事に戻っていった。
でも、そんなに不健康に見えるだろうか? ただ学校での昼ごはんに毎日ラーメンを食べているだけなのに。
そう思うのは彼女自身が健康に特に気を使っているからかもしれない。
西住まほは戦車道で有名な黒森峰学園の期待の新人だ。実家は西住流という戦車の世界では物凄く有名らしい。らしい、というのは僕は戦車についてはさっぱりわからないからだ。
そういう実家だからか、幼い頃から大事に育てられていて、体を大事にしない僕がよっぽど気になったかもしれない。
でもわざわざ食べさせてくるほどでもないと思ったけれど。
特に異性の口へとあげるのは。
僕が教師で安心できるからだろうか。もしそうなら、期待を裏切らないように彼女にはここで思うように過ごしてもらいたい。
お互いに食事を終えると僕は立ち上がって自分のマグカップを棚から取り出し、ドリップコーヒーを淹れていく。ミルクと角砂糖も忘れずに。
まほはというと、ぼぅっと部屋の隅を見て静かに過ごしていた。そんな彼女に僕はいつものように声をかけた。
「何か飲むかい?」
「先生と同じものを」
まほが来るたびに同じことを聞き、いつも同じ返事を聞く。
僕は棚から紙コップをふたつ重ねて取り出し、さっきと同じコーヒーを作っていく。
できたコーヒーをまほへと渡し、昼ごはんを食べていたように同じく並んでコーヒーを飲んでいく。
部屋の中に広がっていくコーヒーの落ち着く匂い。
お互いに会話もない今の時間は気分が落ち着く。
静かな場所であるここは、時々廊下を通り過ぎていく誰かの足音が聞こえるぐらいだ。
コーヒーが飲み終わる頃、まほは小さなため息をついた。
「珍しいね、ため息だなんて」
「ここに来ると気が緩んでしまってな。いつもは気を張っているが、ここだと違う。……先生が先生らしくないからかもしれないな」
「僕はクラスメイトよりも話しやすいのか」
友達としてなら嬉しいことだけど、教師としてはとても複雑。
新人教師として威厳がないのはわかっているけれど、自分が思っているよりも威厳がないのを理解してしまうのは辛いものだ。
「先生には言ったと思うが、私には西住流という形が押しかかってくるんだ。みんなその『西住』という名前ばかりに注目してくるから辛いものがあるさ。最も私自身を見てくれる友達もいるが」
「戦車道を知らない僕にはわからない世界だね。それと僕は親が教師というわけでもなく、周囲から期待の目なんかはなかったし」
「そういう先生だからこそ、先生だ。学校で私に過剰な期待も見下されることもなく、普通に扱ってくれるのは」
「授業の点だけは期待しているけどね」
まほはその言葉にほほえみを向けてくれる。
「僕が教師として問題にならなければいいさ」
「それは女子生徒である私と理由もなくいる時点で問題ではないのか?」
「問題だけど、まほなら構わないさ」
まほみたいにかっこよくもあり美人な子と会話できる利点の代わりなら、だいぶ大きな問題だけど受け入れようと思っている。
僕自身、まほと一緒にいることは教師以外の一面も見てくれるから。
まほは僕から急いで目をそらすと「堂々と恥ずかしいことを言うものだな、先生は」と表情と同じように恥ずかしそうに言ってきたのは新鮮味があった。
「それで今日は相談があったりするかい?」
「ない、といつものように言いたいがちょっとだけあるんだ」
「授業でもなんでも言ってごらん。これでも男だから恋愛相談だっていけるさ」
力なく言うまほの姿に冗談めかして言うものの、顔が晴れることはなかった。
「……私は西住流本家の人間として流派の関係している戦車道の過去の記録を見ているのだが、わからないんだ。いったい何を学べばいいのかと」
僕の前で弱みを見せてくれるまほに、信頼されているんだと嬉しく思うけど、その言葉にうまく返事ができない。
今では仲良くなっているけど、僕は彼女について全然知らない。
信頼してもらっている僕が、中途半端なことやただの励ましの言葉なんてしたら失望されると思う。
だから何も言えない。
「先生は世界史を教えているが、先生らしく私に言葉をかけるとしたら何と言う?」
何も言いたくないが、まほにこうして期待されていると言葉をかける必要がある。
僕を頼る言葉に世界史と乗せてきたのだから、その教師らしい言葉が必要なのだろう。
まほよりも少し長く生きている人生の先輩として良いことを言おうと悩む。
「僕は世界史について大学で学んでいた。それがまほにも同じことを言えるかもしれない」
「先生が学んだことは気になる。ぜひ、それを言って欲しい」
目をきらきらさせ、上目遣いで見てくるまほの姿はとてつもなくかわいい。
迫ってくるまほの顔に片手をあて押し返すと、まほは僕の手を両手で手にとって、ぎゅっと握りしめてくる。
あまりの期待にプレッシャーが大きくなるが、ここは短い教師人生最大の山場な気がしてならない。
まほに手を握られながら、一生懸命に言葉を考える。
「人が歴史から学べるのは、歴史からは学べないということだよ」
「それだと世界史や日本史の授業を学ぶ意味がないという意味に聞こえるのだが」
「過去を学んでも人は間違いを繰り返すんだ。それは歴史が証明している。学校での歴史の勉強は将来の役に立つとは大声で言えないけど、過去のことを知るのはその物事がどういう過程でできたかがわかるというところがあるんだ」
僕の言葉を聞いたまほは、僕から手を離すと口に手をあてて床をじっと見つめ始めた。
長時間の思考の態勢に入ったのを見て、僕は次の授業の準備を始める。
教員用の教科書にノート。あとは世界史に興味を持たせる雑学を書き留めたノートを。
それらの準備を終えたあとは、ラーメンの汁が残ったカップとコーヒーを飲んだマグカップを持って給湯室へと向かう。
部屋を出る際に「ちょっと洗ってくる」と言い残したが、まほは気づかない状態だった。
何でも真面目なまほに僕は苦笑し、部屋を出ていった。
―――6分ほどして洗ったマグカップを持って部屋に戻ってくると、まほは窓の外の景色をぼうっと眺めていた。
僕がマグカップを置き、隣へと座って顔を眺めていても反応はなかった。
なにか考え事をしているかもしれないから、僕は声もかけずに次の授業の時間まで適当な本を読んで時間を潰していた。
そうして時間が近づくと本を閉じて立ち上がる。
「まほ、もうすぐ授業だよ」
「あぁ……早かったな。さっきの話はまだ考える必要がありそうだ」
僕が教科書などを手に取ると、まほはバッグを手に持ってから座っていた椅子を元の場所に戻す。
僕のあとに続いて部屋を出て、部屋の鍵を閉めると何の前触れもなく手をぎゅっと握ってくる。
「どうかしたかい?」
「たいしたことじゃない。ただ、先生のような人が兄だったらなと思って」
「やめてくれ。もし妹だったら、僕は可愛がり過ぎてしまうよ。そしてダメな人にしてしまいそうだ」
「そういうダメ兄だったら、兄への調教のやりがいがあるというものだ」
力強い笑みを浮かべ、僕の先を歩いていく。僕はそれに続いて、彼女の後ろをついていく。
もし実際に兄だったら、本当に妹によって色々鍛えられそうだなと苦笑してしまう。
一緒に手を繋いだまま歩いて行くとすぐに階段という分かれ道になり、まほは僕から手を離す。その手を振りながら階段を下りていった。
姿が見えなくなるまで僕は手を振り返し、幸せだなという気持ちになる。
年下で教え子。人前では力強く、僕の前では弱い自分を見せてくれ、平穏な時間を求めるまほ。
彼女と会い続けるのは一歩間違えれば教師として危なくなってしまうけど、そういう危険性に近づいてでも彼女といる時間は穏やかで充実している。
だから、そんな日々が続けばいいと思う。
僕も彼女も楽しいと思う時間を。