7月も終わりに近づいた日曜日。
今日の学園艦は日本本土に寄港し、艦にいる多くの人が陸へと遊びや買い物へと行く。一時的に学園艦にいる人数が減り、静かになっている晴れた暑い日の今日だ。
教師である僕は校舎内に人がほとんどいない学校に来て、スーツをしっかりと着ては職員室で午後にある行事の準備をしていた。
職員室はあまり落ち着く場所ではないけれど、少しはここで仕事をしないと他の教師に文句を言われるために仕方なくやっていた。特に今日は中学生向けの学校説明会なんてのが午後にあるから。
でもそれは午前の3時間ほどで終え、準備室へと向かっている。
窮屈な場所から自由で落ち着いた時間を過ごせることにテンションが上がり、さらには今日はカップラーメンを食べることに文句を言われないことが嬉しい。
若い男であるから、体に悪いものだって食べたいものなのだ。
今日は何のカップラーメンにしようか、と考えながら階段を上って準備室へと向かっていると、その部屋の前に1人の女子生徒の後ろ姿があった。
でもそれはうちの生徒ではない。薄黒いシャツに真っ黒のスカート。その制服は黒森峰女学園中等部の制服だ。
両手には薄い青色のバッグを持ち、首筋あたりまで伸びている明るい茶色の髪。
その子は準備室の扉へと手を向けて、ノックしようかどうしようかと悩んでいる様子だった。
「何か用事かい?」
怖がらせないように優しく声をかけたが、その子はビクリと体を震わせる。ゆっくりと体を僕の方へ向け、はじめは怖がっている表情だったが僕の顔を見て安心したようだ。
中学生らしく幼い顔。優しげな雰囲気が全体から感じ、準備室でよく会うまほと比べると小柄な体もあって癒し系かなと思ってしまう。
そう思いながらも僕と彼女はお互いにじっと顔を見つめあい、その子が誰かに似ているような子だなと考えていると、その子は一瞬だけ僕から視線を外してから声をかけてきた。
「あ、あの、あなたは世界史の先生ですか?」
「そうだけれど。準備室に何か用だったかい?」
「……世界史担当で、準備室にこもりっきりの不健康な先生?」
まさしくその通りだけれど、初対面の子にそう言われてしまうとちょっとだけ頬が引きつりそうになるもなんとか笑顔を維持する。
中学にまで僕は知られているんだろうか。授業は高校生までしかやっていないのに。
「あ、その、すみません! いきなり変なことを言ってしまって。お姉ちゃんから先生のことをよく聞いていて。つい言ってしまったんです」
慌てて僕に謝ってきたけれど、ひとつ気になることを言っていた。
僕のことはお姉ちゃんから聞いている、と。妹持ちでそこまで仲のいい生徒だなんて僕は1人しか知らない。
「西住まほの妹?」
「はい、妹の西住みほです。いつも姉がご迷惑をおかけしています」
「君があの妹さんか。時々まほからかわいい妹として話は聞いているよ」
まほはクールな美人さんだけれど、妹のほうはかわいらしい女の子だ。姉妹なのに雰囲気が大きく違うことに驚き、上から下までじっと見てしまった。
でもそれは口に出さず、もしかしたら性格が似ているかもしれないと思って余計なことを言わないようにと心の中にしまう。
「それで妹さんは今日は何の用事? 学校説明会なら時間はまだあるけれど」
「先生と会ってみたいなと思ったんです。お姉ちゃんがよく話題にするから」
「あまり僕が聞きたくないことを言ってそうだ。時間があるなら準備室に寄ってくかい?」
そう言いながら僕は準備室の扉の前に近づき、妹さんが横に移動したところで鍵と扉を開ける。中からは蒸し暑い空気がぶわっと体にまとわりつくようにしてやってくる。
部屋の中に入り、リモコンでエアコンのスイッチを入れてから妹さんへと振り向くと、彼女は困ったような笑みを浮かべていた。
「はい。今日は1人ですから」
学校説明会は親と参加することが多いけれど、慣れている黒森峰だから子供だけで参加したんだろうか。親は西住流の家元だから予定が合わなかっただけかもしれないけれど。
理由を思いついては納得するが、僕には寂しげな表情がよく印象に残った。
妹さんが部屋に入り、扉を閉めたところで顔を明るくしてもらいたい僕は両手を軽く広げて明るく振る舞う。
「ようこそ準備室へ。まほに続いて君がここに来た2人目だ。ここは教師とか学生生活から離れて気楽に会話をする場所だよ」
そう説明しては、普段からまほが座っている席へと妹さんを案内する。
妹さんは僕の行動に驚きながらも案内されるままに席に座り、バッグを持ったまま部屋を物珍しそうに見回している。
僕はまだ部屋が涼しくなっていないから、スーツの上着とネクタイを外して自分の机へと放り投げる。そうしてから、飲み物を出そうと思ったけれどコーヒーしか出せないことに気づいた。
この部屋にはポットしかないためにお湯しかない。冷たいものが飲みたいときは缶ジュースを買ってくるから、そういうのを準備しようと考えたことはなかった。
でもまほとか来るようになったから、そういうのも必要かなとも思う。できれば学校側のお金で冷蔵庫なんかを揃えたいところだ。
僕は妹さんにバッグを机の上に置くように言い、バッグを置いた妹さんに声をかけた。
「コーヒーでも飲むかい?」
「いえ、大丈夫です」
「そっか。まほは飲みたいときはいつも僕にお願いしてくるんだ。だから同じようにしてもらっても構わないよ」
頷いたのを見て、僕はマグカップにコーヒードリップをセットしてポットからお湯を入れていく。
コーヒーを淹れている間はお互い静かなままだ。少し緊張しているような気もする。
目的を聞いたあとに何か楽しい話でも必要かなと思いながら自分の席に戻り、味わいながらコーヒーを飲み始める。
「今日は何か僕に用事があるのかい?」
「用事というか、お姉ちゃんがいつも話に出す先生がどういう人か興味を持ちましたので」
「それはさっきも言っていたね。で、実際に見た感想は? 正直に言ってくれると、次にまほと会ったときに文句を言えるからね」
「その、『私が見ていないと先生はすぐにダメ人間になりそうだ。授業もそんな面白くないし、新任の教師だから色々と不安なことが多い。……でも心優しい、信頼できる人だ』って嬉しそうに言ってました」
はじめは落ち込んだものの、後半の言葉を聞いて嬉しくなり、顔がにやけてしまいそうなのを手で口元を押さえる。
だけれど、妹さんの視線は優しく暖かいものだった。
恥ずかしくなるが生徒に褒められるのなら教師としては嬉しいことだ。そう、何も恥ずかしがることなんてない!
「先生もお姉ちゃんと同じで仲がいいんですね。えっと、それでですね、先生はお姉ちゃんと恋人関係なんですか?」
「…………なんだって?」
突然の言葉。いったいなんでそう思ったのだろう。まほの妹とはいえ、中学生である子からそう言われると心が一瞬にして冷える。
これが噂となり、大勢の人に広まってしまえば、噂といえど力を持ってしまう。教師陣から僕は疑われ、まほにも悪い影響が出るだろう。
今のは冗談だとわかってはいるけれど、にらむような視線を向けてしまう。
「え、あの、すみません!」
「あぁ、いやごめん。その手の話には教師として敏感になっちゃって。怒ってないし、不機嫌にもなってないから」
大声をあげて謝り、頭を下げた妹さんの姿に僕はなんでもないように言う。
すると恐る恐る顔をあげた妹さんは僕を上目遣いで見る形となり、美人なまほとは違ってかわいさがあって一瞬だけときめいてしまいそうになった。
「でもなんでそう思ったのかは知りたいね」
「それはお姉ちゃんが嬉しそうに男の人の話をするなんて初めてですし、先生も呼び捨てで呼んでいたので。だから教師と生徒以上の関係かなって」
つい今まで怯えていたというのに、この子の目は輝くようにキラキラとした表情で僕を見てくる。
女性というのは恋愛話が好きで、この子も同じらしい。でも姉がこんな歳の離れたおっさんで心配じゃないのだろうか。
「8歳も年齢差があるんだよ? まほは美人だし、かっこいいし。もっといい相手がいるよ」
「愛に年齢差なんてありません」
にっこりとした微笑ましい笑みを浮かべて力強く言う妹さんに僕は言葉をなくし、どう言っても肯定されてしまいそうなので黙ることにした。
ついでに目をそらし、コーヒーに集中している振りをする。
あぁ、暖かい視線が辛い……。
「私と違って、お姉ちゃんは綺麗で自分に自信があってかっこいいですよ。やりたいことがあれば、きちんとやり遂げますし。それに今はダメでも卒業を待って付き合えば何も問題は……あ、でもお母さんに話が伝われば家に呼び出されて婿にふさわしいか確かめられますし、それが問題―――」
「話を進めないでくれ」
一気にコーヒーを飲み干し、次々に展開していく姉自慢と結婚話を止めさせる。このままだと俺とまほが相思相愛となってしまい、その話がまほに伝わってしまうに違いない。
そうなったら気まずいどころではない。まほがもうここに寄り付かなくなってしまうかもしれない。
まほとの関係は崩したくない。僕にとって、まほと話す時間は楽しいものだから。
「僕とまほの関係は教師と生徒としての親しい関係だよ。まほと時々話すだけの関係が楽しいんだ。そんな関係が崩れてしまったら、僕はひどく後悔するに違いない」
「後悔、ですか?」
「そうだとも。僕の教師人生として初めての親しくなった生徒であり、妹を持ったような気分になれるからね。前にも妹みたいな人はいたけれど、それよりも仲がいい感じで落ち着ける関係というか……あ、このことは内緒にして欲しい。もし知られると、まほにこのことで長くいじられそうだからね」
最後のあたりで小さな声で内緒話といった風に言った僕に対し、妹さんは「わかりました」と嬉しそうに言った。
お互いに笑いあったときに廊下のスピーカーから、昼休みの時間に入ったことを告げる鐘の音が鳴る。
それが終わった頃に、僕はまほに変な下心を持っているわけではないことを伝える。
「初めて準備室にやってきてくれたまほと仲良くすることを選んだ僕は、自分の選んだことに後悔しないようにと思って生きているんだ。西住流や有名人とかそんなことを気にせずにね。出会ったときに戦車道の知識がほとんどないことも良かったのかもしれない。それにここは誰かが来るのは滅多にないし。だから気楽に話ができるんじゃないかな」
「……なんだか先生は変わってますね」
「僕は生徒を大事にしたいと思っているからね。教師という範囲内で自分がやりたいことをやっているだけだよ。僕は良い先生でありたいから」
「後悔しないようにという生き方は素敵ですね。なんだか憧れます、そういうの」
「妹さんもそういうのがしたいなら、意思をしっかりと持ち続ければできるものだよ。後悔しないようにすれば、後々に思い返しても気分は悪くならないからね」
そう話を終え、机の引き出しを開けてカップラーメンを探す。出すのは秘蔵である300円の高いカップラーメンをふたつ取り出して妹さんに差し出そうとしたが、妹さんは考え事をしていたらしくて受け取るのが遅くなった。
「お昼がまだなら一緒に食べようか。弁当があるとか学食で食べてみたいというのなら遠慮せずに言ってね」
「あ、ごちそうになります。お姉ちゃんがよく言っていた先生の悪いところはカップラーメンばかり食べるところだと言ってましたので。実際に体験してみたかったんです」
一緒にいたずらを共有するような笑みを浮かべた妹さんと一緒に、僕たちはお昼ご飯を食べた。
そのあとは準備室の時のまほの様子を教えたり、逆に家でのまほの生活や戦車道のことを聞いていた。
楽しい話をしていると時間はすぐに経ち、腕時計を見ると学校説明会の時間が近づいてきた。
「そろそろ時間だね」
「あ、そうですね。先生、今日は楽しいお話が聞けてよかったです」
「こっちも楽しかったよ。またね、妹さん」
妹さんは席を立ちあがり、扉を開けて部屋を出ていこうとするが立ち止まって僕へと振り返る。
なにか言いたいことがあるのか、僕はそのまま待つ。
「次に会うことがあったら、みほって呼んでください。先生になら名前で呼んでもらったほうが嬉しいです」
顔を赤くして恥ずかしそうに言ったと思った瞬間には急いで扉を閉め、廊下を走っていく音が聞こえる。
西住と呼ぶと、まほも西住で僕自身も違和感があったから妹と呼び続けていたけれど、本人がいいと言ってくれたのだから次に会ったときには名前で呼んであげようと思う。
「また会おう、みほ」
みほには聞こえない言葉を1人呟き、来年になって彼女が入学してくるのが楽しみになった。
さっきまでのように、なんでもない会話がまたできればいいなと思って。場合によっては来年よりも早く会うかもしれないけど。
そうだったとしても、また会ったときにはみほと名前を呼んで再会したのを喜ぶことにしよう。