「えい、えい」
ぽふ、ぽふ、と気の抜けた音がする。
「怒った?」
まさしく天使、と言わんばかりの顔で笑いかけてくる。
もしかしなくても今流行りのあのアニメの真似だろう。
叩かれた私はイアちゃんの言葉に『怒ってないよ』と返す。
アニメになぞらえるならそうするべきだ。
実際のところ、痛くも痒くもなかったし。
「怒った♡」
「……えっ」
かわいさのあまり悪戯心が湧いた。
私の反応が予想外過ぎたのか笑顔のまま、表情が凍り付いた。
「怒った♡」
「え、ちょ、ちょっとゆかりん。待って? 待って?」
私が近づくたびに後ずさっていく――けど、部屋はそう広くない。ほんの少し動いただけで背中が壁に当たる。
「怒った♡」
「ま、ご、ごめん。ゆかりんなら見てるって、待って、アニメの――」
私を見上げる目が少し潤んでいる。
少しやり過ぎた――と、一瞬思っても、悪戯心は消えることはなく、むしろもっとやれと煽ってくる。
「怒った♡」
「ごめんなさい――――!?」
頬にキスを落とす。
「え、あ?」
「怒った?」
「え、ううん?」
逆の頬にも。
「怒った?」
「えっ、えっ?」
視線が落ち着きなく動いている。
唇も小さく震えている。
視線も、唇もそれに吸い寄せられるように――
「自分が何やったか分かっとんのか……」
「イアちゃんに壁ドンして、キス攻めにしました……」
幻覚か、錯覚かいつもより面長なオネちゃんに頭をハリセンで叩かれる。
「だ、ダメだよゆかりん……だって、私たちはまだ……」
「夕ご飯の前にお姉ちゃんを使い物にならなくするなんて……本当に、もう」
オネちゃんの言葉通り、イアちゃんは私のあれやこれやのせいで壁に寄りかかりながらふにゃふにゃとしている。
「可愛かったので、問題ありません」
キメ顔で言ってみたら、今日一番爽快感のある音で叩かれた。
*******
「あっ、そうだゆかりん」
「なぁに?」
いつも通り。
あくびが出そうになるくらいにいつも通り。
それでも貴女と一緒だと、それがかけがえのない時間になる。
「明日までに私が先に大人になっちゃったらどうするか考えておいて」
何気ない、いつもとそう変わらないやり取り。
そんな中で不意に彼女はそう言った。
どこか――そう、あえて言葉にするならきっと影のある。そんな雰囲気の笑みを浮かべながら。
「それじゃ、また明日」
固まった私をよそに、白い髪は教室の戸から消えていく。
「おとな……大人?」
今まで見たことのない顔。イアちゃんの筈なのに別人のようだった顔。
まるでイアちゃんが私の知らない別の何かになってしまったかのような……不安感が胸を埋め尽くす。
「大人になったらって……え?」
さっきのイアちゃんでさえ、いつものイアちゃんじゃないのに……本当に大人になってしまったらどうなってしまうのだろう。
「待って、待って、待って、待って……?」
ようやく動いた体は遅すぎて、先に出て行った小さな背中は廊下の遥か彼方にあった。
足は重りを着けているかのように重く、足を進めても一向に白い背中に追いつけない。
「待ってよ……イアちゃん」
「いあちゃんっ……」
「ゆかりん?」
……頭がズキズキする。
目を開くと心配そうな顔のイアちゃん……あれ、この柔らかい感じは。
「イアちゃん?」
「大丈夫? うなされてたけど……」
いつもと変わらない……いや、心なしか頬の赤いイアちゃん。
夢の中のどこかミステリアスなイアちゃんはどこにもいない……そうか、あれは夢だったんだ。
「イアちゃん!」
「わっ、急に抱き着くなんて……苦しいよ」
温かい。背中に抱き返す細くて柔らかい腕の感触。
ここにいる。
イアちゃんの腕の中にいるという安心感が夢の中にあった不安感を押し流していく。溶かしていく。
「なんだか、甘えんぼさんだね、そんなに怖い夢を見たの?」
「はい……イアちゃんが」
「私?」
「……遠くに行ってしまう。そんな、夢でした」
背中に回された腕に力がこもる。
「そっかぁ」
それは檻の様で。
「……そっかぁ、まだ寝ぼけているの?」
「イアちゃん?」
「ゆかりん、私ね、今少し怒ってるの」
それは鎖の様で。
「イ、イアちゃん?」
「眠っているなら、ちゃんと目を覚ましてあげないと……ね?」
腕の力が緩む。
それに意識を向ければ、目の前にイアちゃんの顔が迫ってきて――。
「おはよう、ゆかりん」
「おっ、おはよう……ございます?」
「起きたなら早くご飯食べちゃってよ、片付かないから」
どこか投げやりなオネちゃんの声。
「もう、オネったら!」
「はいはい、ごちそうさま」
「あは、ははは……」
不安感は夢の様に……文字通り夢から醒める様に消えていた。
*******
「ゆかりん、ゆかりん」
「どうしたの?」
「私の事、どれくらい好きか教えて?」
「……いっぱいちゅき」
「わぁい、私もゆかりんの事いっぱいちゅき!!」
「イアちゃぁぁぁん!!」
「さてはバカップルだな、オメー」
「ステイ、ステイです。オネ姉さま」