そこで主人公は、一枚の絵画と出会う。
この絵画との出会いが、後に主人公に恐怖を齎す事となる……。
あの日の事は今でも鮮明に覚えている。
茹だるような真夏の猛暑。蝉時雨が嘶くのを窓越しに聞きながら、俺は冷房の効いた部屋でテレビから流れるバラエティー番組を見ながらソファーで優雅に寛いでいた。
都内の大学に合格し、大学入学を機に一人暮らしを決めた俺は、実家から暫くした所にあるアパートに一人移り住んだ。それから二年。大学二年となった俺は今日、本当なら数学の教師から出された課題をやらないといけないのだが、こう熱いとやる気が出る所か逆に滅入ってしまう。まぁ、常日頃から面倒臭がりな俺が真面目に課題に取り組むはずがないのだが。
しかし、かれこれ一時間以上こうしてダラダラしていると流石に飽きてしまう。やることもないから、そろそろ課題をし始めるかと俺は重い溜息を吐いた。
そんな時、俺の携帯電話が震えた。
液晶画面を見てみると友人からの電話だった。電話に出ると友人から近くで開かれているフリーマーケットに行かないかとお誘いの電話だった。この炎天下の中に外へ出ることに対して抵抗はあった。だが、それ以上にこの飽きを満たしてくれるであろうお誘いは、とても魅力的だった。
俺は二つ返事で了承した。
フリーマーケットが開かれているのは、俺の自宅であるアパートから約五分した所にある公園だった。公園には噴水があり、道中に比べると公園内は少し涼しかった。
公園に入ると、公園のあちらこちらに露店が設置されており、直射日光を遮る簡易屋根の下、様々な物品が商品として並べられていた。公園内は、フリーマーケットに参加して露店を開いている売り手たちと商品を品定めする買い手たちで大変賑わっていた。
公園中央にある噴水前で待ち合わせていた友人たちと合流すると俺たちもその賑わいの中に溶けていった。
暫くぐるりと一通り見て回ると、友人の一人が各自それぞれ見たいように回ることを提案し、俺も皆もそれに賛成した。そして最初に待ち合わせた噴水前にまた集合することとなった。
決まると同時に友人たちが四方八方に散っていくのを見送った後、特に見たい物もなかった俺は、宛もなく適当にもう一度露店を見て回ることにした。
流し目で露店の商品を眺める。子供用の服、骨董品、玩具と出品されている品は様々だった。
そんな時、俺は一つの露店の前で足を止めた。そして吸い寄せられるようにその露店へと近寄っていった。
「いらっしゃいませ」
近づいてきた俺に店主の女性は笑顔でそう言ったが、俺には一切聞こえていなかった。
まるで世界が静止したような静けさが一瞬俺を包み込んだ。実際には周りの人々は動き回っていたし、喧騒を鳴り止んではいなかった。しかし、あの時の俺には本当に時間が停止したような無音を感じた。
俺にそんな錯覚を齎したのは、吸い寄せられるように立ち寄った露店。そこに出品されている一つの品物だった。
それは一枚の絵画だった。
俺の上半身と同じ大きさのその絵は、木製の額縁に収められていて、木陰の下、その影の中で静かに立て掛けられていた。
影の中、辛うじてキャンパスの中に描かれている絵を視認することができた。
背景は、洞窟なのか夜の森なのか、兎に角薄暗い闇を思わせる景色が広がり、その中央には、純白に輝くドレスを身に纏う長い黒髪の女性が描かれていた。
俺は別段、絵画が好きな訳でも、画家やデザイナー志望でもない。絵を見て思いを馳せることもしないし、絵画に携わることもしていない。好きか嫌いかと問われたら別にどちらでもない、普通だと答える位の感覚だ。
しかし、“その絵”は違った。
まるで名を呼ばれたような感覚を感じ、感覚のする方へと視線を向けると、“その絵”があった。普通の絵ならそこで何だと興味を失せるはずだ。だが、俺の興味は失せる所か増々興味を抱いていった。その時の感情を興味と呼ぶには少し語弊があるな。言い表すなら、“一目惚れ”と読んだ方が正しいだろう。
俺は迷い無く店主に言った。
「この絵をください!」
その言葉に店主は驚愕した。まるで青天の霹靂を目の当たりにしたような表情で俺と絵を交互に見る。
「この、絵ですか?」
店主の女性は恐る恐るといった感じで確認してきた。その時の店主の表情を例えるな、小柄でガリガリな体型の女性が、十人前分の大盛り料理を注文した時のものに酷似していた。怪訝と驚愕が混じり合ったような表情だった。その時の俺は何をそんなに驚くのだろうかとちょっとムッとした。確かにアンティーク感溢れる絵画を購入しそうにないであろう風貌だろうと自分でも思う。しかし、あそこまで驚くことはないだろうっと思った。だか、店主のその表情の意味が後々、痛い程身に沁みるとは、その時の俺は露ほども思っていなかった。
最初こそ驚いていた店主だったが、俺が冷やかしなどではなく本当に絵を購入したいのだと分かるやいなや大喜び。俺が幾らか値段を尋ねようとするのを遮って、絵を俺に押し付けてきた。店主曰く、全く売れなくて困っていたから、処分という形で俺に無料で譲るとのことだった。
俺は驚喜した。
一目惚れした高そうな絵画を無料で手に入れたのだから、喜ばない方がどうかしている。
俺は嬉々として店主から絵を受け取ると、意気揚々と集合場所に戻って行った。
この時に俺は気づくべきだった。その絵の違和感に。
友人たちが集合場所に戻って来た時、全員が全員を驚き怪訝な表情で俺を見た。正確には、俺と俺の持つ絵画を。
友人たちは俺らしからぬ買い物に当初は冗談やネタかと笑っていたが、俺が一目惚れだと答えると皆引いた感じでまた俺と絵を交互に見る。
そんな友人たちに構わず、俺は良い買い物をしたと上機嫌でその日は帰宅した。
急に絵画を購入した俺の噂は家族や友人たちに広まり、真意を確かめる為とからかい目的で後日俺の自宅に人が訪れた。
思えば異変はその時から始まったのだと思う。
自宅に訪れた人たちは最初こそ絵と俺を見比べてからかい笑っていたが、暫くすると全員が全員眉間に皺を寄せ怪訝な表情で購入した絵をジッと見つめる。
何をしているのか尋ねると全員が曖昧な返事で言葉を濁す。そして話を逸らすように別の話題を話しだしてそれ以降は一切絵に見向きもしなくなる。
その時の俺は特に気にもせず、自宅で一人の時も他に人がいる時も、絵を見つめながら幸せな雰囲気に包まれていた。
そんなある時、友人の一人が申し訳なさそうに俺にこう言った。
「何か、あの絵、嫌な感じする」
その言葉に俺はイラっとした。自分が好きを否定されたり貶されれば誰でもムッとするだろう。
「嫌って何が?」
俺は苛立ちを隠さずそう言った。
「上手く言えないけど、何か近づきたくない感じがするんだよ。何ていうか、余り関わりたくない人の傍に居るみたいな?」
俺の苛立ちを見て友人は険悪な雰囲気を回避するように返答の最後に冗談交じりにそう言った。
何となくだが言いたいことは理解できた。好き嫌いは人それぞれ。苛立ちは収まっていないが、場を険悪にしたくないのは俺も同じだ。友人はあの絵が生理的に受け入れられないということでその場は収まった。
しかし、その後、俺の部屋を訪れた人たち全員が、その友人と同じようなことを言いだした。
曰く、絵から視線を感じる。絵の傍に居ると寒気を感じたり、気分が悪くなったりする。絵自体から嫌な感じがする等々。
俺の我慢も限界だった。一目惚れして購入したお気に入りの絵をここまで悪く言われて怒らずにいられなかった。俺は声を荒げてそう言った奴らに怒りをぶつけた。これが原因で長年の友人何人かと絶交までしてしまった。そのことは今でも悔やまれる。
俺が激怒した次の日から、誰一人として俺の自宅に訪れる者はいなくなってしまった。それどころか、外で俺に近寄る人さへいなくなっていた。
しかし、その時の俺は全然寂しくなかった。あの絵があったから。どんなに周りの連中があの絵を気味悪がっても、俺には全然そうは思えなかった。一目惚れして購入してから日に日にあの絵に対する愛着が強くなっていった。それはもう恋人との逢瀬と錯覚するほどに。
そんな日々が数日続いた頃、俺は体調を崩す様になった。原因は疲労か夏バテかと思った。ここ最近、俺は大学とバイトと忙しなかった。学生なら当たり前だろうと思うだろうが、近頃の俺は絵に現を抜かし過ぎて他を疎かにしていた。それが形となって生活の至る所に表れた。大学では友人との関わりが減った事も相まって課題の提出やレポートでミスが多発。以前は無かったことだ。講師の一人がこのままだと単位が危ないと言っていた。バイト先のファミレスのキッチンでも同様にオーダーの間違いや食器を割ってしまうなどのミスを連発して先輩や店長に説教されてしまった。
ミスを挽回しようと努力するが、成果は実らず依然としてミスは続いた。その都度説教され苛立ちと焦燥が自分の中で沸々と込み上げてくる。このループで俺は肉体的にも精神的にも参ってしまっていた。そんな時でも、あの絵を見れば幸せな気持ちに包まれ、癒しを感じられた。だが、それは俺の思い込みであることをその時は気づきもしなかった。
そんな日々を送るある休日。久々に友人の一人が俺の部屋を訪れた。その友人は以前、最初にあの絵を気味悪いと言い出した友人だった。
「何の用だよ?」
俺は不機嫌そうに尋ねた。日々の疲れとストレスを絵を眺めてい癒していた所を邪魔されたうえに、その邪魔をしたのが心の拠り所であるあの絵を悪く言った奴とくれば、気分は最悪だ。そう尋ねるのも仕方ないというものだ。
友人はそんな俺の態度に眉一つ動かさず、ジッと俺の顔を凝視していた。
「何だよ。一体何しに来たんだよ」
尚も友人は何も答えない。そんな態度が俺の神経を一層逆撫でする。
「何とか言えよ!」
語尾が強くなる。俺の怒声に友人の方がピクッと跳ねる。そこで漸くその重たい口を開いた。
「お前、大丈夫か?」
突然の安否確認に俺は怪訝な表情を浮かべて友人を凝視した。こいつの意図が分からない。何の為にそんなことを聞くのかと、その時の俺は疑心暗鬼になっていた。
「……何が?」
警戒心を露にしながら俺は友人にそう尋ねた。
「お前、自分の顔、鏡で見て見ろよ」
そういうことか。俺はこいつの意図を理解した。疲労困憊で参っている俺の事を嘲笑いに来たのだ。何て嫌な奴だと俺は腹立たしく思った。
「不細工とでも言いたいのか? 俺を馬鹿にしに来たんだった帰れ! 迷惑だ!」
そう言って俺は力任せに扉を閉めようとした。それを友人は慌てて締まる扉の隙間に両手を突っ込み無理やりに扉が閉まるのを止めた。
一歩間違えば指を切断してしまうような危険な行動に俺は目を疑った。危ないと思いドアノブを引く手を止める。
「危ないだろう! 指が切れたらどうする!?」
俺は無茶な行動をした友人を怒鳴りつけた。嫌っていても目の前で、それも俺の行動で見知った顔が大怪我をするのは心が痛む。
そんな俺の怒鳴り声を気にも留めず、友人は必死な面持ちで訴えかけるように言った。
「違うんだ! お前を馬鹿にしに来たんじゃないんだ! 今のお前から生気が全然感じられないんだよ。だから、心配になって……」
心配になって。その言葉に俺は嬉しさを感じた。絵の事で怒鳴ってから俺に関わろうとする奴は一人もいなくなってしまった。絵を眺めていれば寂しさなんて感じなかった。しかし、疲労困憊で弱っている所為もあったのか、それとも最初から心の何処かに寂しさがあったのか、面と向かって真剣な眼差しで俺のことを心配してくれている友人の言葉が、その時とても嬉しく感じた。
「お前と喧嘩したあの日は、俺もつい頭に血が上って喧嘩になっちゃったけど、それから中々謝るタイミングが掴めなくて。あれ以来、お前周りと一切関わってなかったから猶更声掛け難くて。タイミングを伺ってる時に日に日にお前の顔色が悪くなっているような気がして、心配してたんだ。今日お前と面と向かってやっぱり顔色が悪いのが目に見えて分かる。お前、あの絵を買ってからお前の周りで変なことが起きてるんじゃないか?」
心配そうな面持ちでそう言う友人の言葉に、その時の俺は苛立ちを感じはしなかった。絵のことを言われているにも拘らず。確かに友人の言葉には思い当たる節が無い事もない。しかし、それは俺があの絵にかまけて怠惰になったからだ。あの絵が関係してると言えばしているが、根本的な原因は俺にある。
「……心配してくれて、ありがとう。確かにここ最近はバタバタしてて疲れとストレスが溜まってるけど、それは俺が時間を忘れる位にあの絵を眺めてるから起こった事だ。俺の怠惰が招いた事で、あの絵は関係ないよ」
俺は素直にそう答えた。
「いや、多分関係あると思う」
真剣な眼差しで友人はそう言った。
何故そう思うのか、俺は友人に尋ねた。
「自分自身でも、何であの絵がそんなに気味悪く感じたのか分からなくて。聞けば、他の人たちも同じように気味悪く感じるって言うから、これはきっと何かあると思って、知り合いで霊感の強い子がいたからその子に相談したんだよ。そしたら、その絵を見せて欲しいって言うだ。お前からしたら、お気に入りの絵にいちゃもん付けられて気分悪いだろうけど、頼む! その人にあの絵を見せてやってくれ! 今のお前、もう見てられないんだよ……。この通り、お願いします!」
そう言って友人は深々と頭を下げた。
その姿に俺は戸惑い、何も言うことが出来なかった。
友人の言葉通り、お気に入りの絵にいちゃもんをつけられれば以前の様に怒鳴っていただろう。しかし、何故かその時の俺は全くそういう気になれなかった。ただ、俺の事を心配してくれる友人の切実な様を目の当たりにして、その時の俺は漸くあの絵に対する不信感を抱き始めた。
暗い部屋の中、ベッドに横になる俺はただ天井の一点を見つめていた。
あの後、頭を下げ続ける友人の姿を見ていられなくなった俺は首を立てに振りそうになるのをギリギリの所で抑えた。
俺の事を心配する友人の言動に嘘偽りが無い事はヒシヒシと伝わってきた。しかし、あの絵を見て幸せに包まれた感覚も本物だ。あの絵を信じたいという思いが、俺の体を止めたのだ。
だが、友人の懇願に近い頼みを無碍にも出来なかった俺は「少し、時間をくれ」と言って、友人への返事を後日にしてくれる様に頼んだ。
俺の身を案じる友人は最初こそ渋ったが、苦渋とも言える様な俺の表情を見て、渋々といった感じで了承してくれた。
そして友人が帰ってから暫くの間、俺はベッドに倒れ込む様に横になった。考えが頭の中でグルグルと回る。思い返してみれば、確かにあの絵にはおかしな所があった。購入時の店主の態度だ。いくら要らなくなったとはいえ、フリーマーケットに出品した商品をただ同然で譲るか?
それに持ち帰る時もそうだ。公園は噴水で少し涼しげだった。絵を売っていた店主も日影の中で露店を開いていた。ある程度暑さを妨げる事は出来ていたと思う。しかし言っても真夏の炎天下だ。直射日光に晒されていなかったとはいえ、辺りの気温はまだまだ暑いと言える程だった。そんな中にあったにも関わらず俺が絵を抱えた時、絵はひんやりと冷たかった。まるで冷房の効いた部屋に長時間置かれていたかのように。
考えれば考えるだけ不可解な点が浮上してくる。しかし、それは俺の勘違いではないか? 思い過ごしなだけではないのか?
あの絵の不可解な点が浮上すると同時にそれを否定する感情が湧き上がってくる。友人を信じたい思いとあの絵を信じたい思いが均衡している。
「どうしたらいいのかな……」
誰に言うでもなく俺の呟きは暗い部屋の中に溶けていった。
静寂に包まれる部屋の中。暗い部屋に目が慣れていき、耳が部屋の中の微かな音を聞き取る。
群青よりも暗い部屋は自分の部屋ではない様に思える程、雰囲気が違う。闇を纏った様な部屋をカーテンの隙間から射しこむ月光だけが照らす。そんな部屋から微かに聞こえてくる冷蔵庫の稼働音と時計の針が進む音。目を凝らし耳を澄ませば、こんな小さな部屋からでも様々な景色や音が見聞きできる。
不図、俺は視線を絵の方へと向けた。
俺の部屋は正方形の形をしており、西側に玄関があり、玄関を潜って左側に浴槽とトイレが並んでいて、そのまま真っ直ぐ進むとリビング兼寝室としている俺の部屋がある。部屋は南側の壁際に横にしたベッドが置かれていて、その対面の北側の壁際にテレビ台とテレビが置かれている。そしてこの部屋に入って左手にキッチンがあるという作りだ。そんな部屋の中、あの絵は良く見えるようにテレビの横に簡易の土台を置いてその上に飾っている。
友人の言葉を聞けばいいのか駄目なのか迷う俺は、無意識に物言わぬ絵に答えを問いかけようとしたのだと思う。
その瞬間、俺の全身が凍りついたように硬直した。
薄暗さに目が慣れていた為、闇の中に置かれている絵を見つける事は簡単だった。しかし、何かが変だった。いつもなら絵を見ることで幸福感を感じて癒やされていたのだが、その時は違った。
絵が視界に入った瞬間、言い様の無い不快感を感じた。これが友人たちの感じたものかと、その時の俺は漸く理解した。
そして俺は凍りついたように動かない全身が、金縛りに掛かっていることを実感した。
何が起こったと俺は混乱した。それと同時に動かせずにいる目線の先の絵を見て驚愕していた。
いつもは夜の闇の中に佇む純白のドレスを纏い聖母の様に微笑む女性の絵から漂う儚さ、神秘さ、美しさを見て幸福な感覚に癒やされていた。しかし、今俺の視線の先にあるその絵は、夜の闇ではない人を恐怖させる闇の中、佇む女性が浮かべる微笑みは聖母などとはとても言えない蠱惑で悪意に満ちた悪魔のような笑みを浮かべていた。
俺の中に恐怖が生まれた。そしてそれは物凄い速さで成長していった。俺は今までであんな絵を見て幸福感と癒やしを感じていたのか? いや違う。確かにあの時の絵は夜の闇に立つ聖母の笑みを浮かべた女性だった。俺に幸福感と癒しを齎してくれていたのは、そんな絵だったはずだ。
まるで俺の混乱する様を見て嘲笑っているかのように今の絵は見える。錯覚なのか、広角がどんどん釣り上がっているように見える。
それは錯覚ではなかった。
絵の女が嗤っている。楽しんでいるように嗤っている。
そんな女から一刻も早く視線外したかった。それ以前にこの部屋から逃げ出したかった。
しかし、それを金縛りが許さなかった。呼吸や瞬き以外の一切の動きが出来ず、只々絵を見る事しか出来なかった。
「(誰か助けて!!)」
俺は心の中で叫んだ。しかし、音にならぬその声は、念は虚空に消えてしまった。
誰も居ない静けさ、助けの来ない孤独が恐怖を呼ぶ。俺の目線の先の女が、闇の中に佇む絵の中の女が恐怖を齎す。
俺は震え、助けを懇願し続ける。
そんな俺を見ながら、尚女は嗤っていた。そして、女の口が笑みとは違う形に動く。
“死” “ネ”
ハッキリと作られたその音を発する為の形。
音が無くとも分かる。脳内に語りかけてくるかの様に理解できた。
その言葉を理解した瞬間、俺の意識は闇の中に落ちていった。
翌朝、俺は友人からの電話で目を覚ました。
全身が汗でぐっしょり濡れていてまるで水を被ったかのような状態だった。
電話よりも先に俺は絵の方に視線を向ける。そこにはいつも自分を癒してくれたあの絵があった。
昨夜の事は只の夢だったのだろうか? いや違う。根拠が無くとも俺には分かる。昨夜の悪夢は現実にあった事だ。
視線の先でこちらに微笑むあの絵が、あんなに大好きで依存していたにも関わらず、今はとても恐ろしく思えて仕方ない。
まるで美女の皮を被った悪魔の正体を知ってしまったようだった。
悪夢を思い出し震える俺は鳴り続ける携帯の音で我に返り、慌てて通話ボタンを押して電話に出た。
「もしもし! 大丈夫!?」
中々電話に出ない俺を心配したのだろうか、電話に出るなり焦った友人の第一声がそれだった。
その声を聞いた瞬間、先程までの恐怖が消え安心感が俺を包み込んだ。そして俺は思わず泣いてしまった。年甲斐もなくわんわん泣き散らした。
一通り泣き散らした後、俺は友人の話を受けることを電話越しに当人に伝えた。
電話を切ってから数分後、友人は一人の女性を連れて俺の部屋にやってきた。駆けつけた友人の姿にまた俺は泣きそうになってしまった。
何とか涙を堪えた俺に友人は連れてきた女性を紹介した。
「彼女は僕の親戚のお姉さんで、この人が僕が相談した霊感のある人だよ」
紹介された女性は「どうも」と俺に会釈する。それに釣られて俺も彼女に会釈する。
挨拶を終えた彼女はすぐさま視線を俺の左側に向けた。あの絵にが置いてある方に。
彼女の視界にその絵が映った瞬間、彼女の顔が歪んだ。慣用句ではなく正に苦虫を噛み潰したような表情だとその時は思った。それほどまでにあの絵は嫌な物なのだろうと傍目から見ていた俺はそう思った。
彼女は絵を凝視したまま数分の間ジッと微動だにしなかった。何が行われているのか分からない俺と友人はその様子を固唾を呑んで見守った。
暫くの間、絵を凝視し続けた彼女は数分後、胃の中の淀んだ空気を吐き出すように息を吐くと、立ち眩みを起こした様にフラッと倒れそうになった。
慌てて友人と俺は彼女を支える。彼女の顔は血の気が失せた様に真っ青になっていた。先程とは別人に見える程に。
自分を支えてくれてた俺たちに礼を言った後、彼女は血の気の失せた表情でもう一度絵を凝視した。
「この部屋に入った時から、あの絵から嫌な感じがしてた。私には視る事しか出来ないから、あの絵を霊視してみたけど、黒くて嫌な靄が絵の中で蠢いてる。ねぇ、この絵、何処で手に入れたの?」
黒い靄と聞いて俺の脳裏に昨夜の出来事がフラッシュバックしてきた。恐怖で体が震える。
何処で手に入れたか、彼女のその質問に俺は震える口を必死に動かして自宅近くの公園で開かれたフリーマーケットで購入したと答えた。その時、自分が絵にあまり興味がない事、にも拘らず絵に惹かれた事、店主の態度やタダ同然で譲り受けた事を洗い浚い全て答えた。
「きっと君はその絵に魅入られたんだと思う。魅入られたから突然その絵が無性に好きになって依存してたんだと思うわ。恐らく、絵を売っていた店主も君と同じ経験をしたから絵を処分しようとしてフリーマーケットに出品したんだと思うわ」
「処分って、別に売らなくても捨てるなりすればいいんじゃないの?」
友人が言った事に俺も同意見だ。一々売り物として出品するよりもゴミとして捨てた方が手っ取り早い。
「恐らく、捨てても意味がないから売りに出したんだと思うわ」
「どういう事?」
彼女の言葉に俺と友人は首を傾げた。
「以前にもあった事なんだけど、持ち主が憑かれてたり、そう言った存在の力が強くて捨てられなかったり捨てても戻ってくることがあるの。詳しくは分からないけど、多分この絵もそう言った物だと思う」
そう言って彼女はあの絵を指差した。それに釣られ俺と友人の視線も絵の方へと向いた。
俺たち三人の視線を受けながら、絵の中で佇む女は静かに微笑んでいた。
その後、俺は彼女の紹介で絵をお祓いしてもらえる事になった。しかし、お祓い先を紹介してくれた時の彼女の表情は何処か曇っていた。
俺は気になって彼女に尋ねた。
「あの、他にも何かあるんですか?」
突然の俺の質問に彼女は戸惑った表情を浮かべた。そして言い難そうに重い口を開いた。
「霊感のある私が、この絵を視ただけで凄く嫌な感じがした。霊感の無い人たちでもそう感じられるってことは、これは相当ヤバイ者ってことだと思うの。お祓いをしてくれる人は、私がとてもお世話になってる人で力もある方だから大丈夫だと思いたいけど……」
“もしかしたら駄目かもしれない”
躊躇いがちに呟かれた彼女のその言葉は、ハッキリと俺の耳に飛び込んできた。
駄目かもしれない。その言葉が意味する事を想像して俺の体から血の気が引いて行くのが感じられた。
いや、きっと大丈夫だ。俺は自分にそう言い聞かせながら友人の運転する車に乗り彼女が紹介してくれた場所に向かった。
目的地に着いた時は既に日が傾いていた。都会から遠く離れた自然に囲まれた神社の神主。それが彼女が紹介してくれたお祓いをしてくれる方だった。
彼女が事前に電話で用件を伝えてくれていたらしく、いきなり訪れた俺たちを快く受け入れてくれた。
絵の事も事前に彼女から聞いていたのだろう。最初に俺たちを見た瞬間、神主さんは怖い顔で俺の事を見た。
その神主さんの表情が一層俺に不安感を抱かせた。
俺たちは神主さんの案内で御堂に通された。そこで神主さんに持ってきた絵を見てもらった。
俺の部屋で絵を視た彼女同様に、神主さんも絵を凝視したまま数分の間微動だにしなかった。
時間にするとたった数分たが、あの時の俺にはその数分が何時間にも感じられた。それほどまでに御堂には張り詰めた空気と重い沈黙が漂っていた。
数分後、絵を視終えた神主さんは俺の方に視線を向けた。その時の表情はとても申し訳なさそうな表情をしていた。
その表情で俺は悟った。神主さんでも駄目なのだと。ここに来る前に彼女が言った事が、頭の中で木霊した。
“もしかしたら駄目かもしれない”
その瞬間、俺は自分の死が見えた気がした。そして、その現実から目を逸らす様に、縋り付く様に神主さんに尋ねた。
「俺、助かりますよね?」
帰って来る答えは聞かなくても分かっていた。絵を視終えた神主さんの表情が全てを物語っていた。俺も、友人も、彼女も、神主さんの表情を見て察した。
しかし、それでも一縷の可能性に縋り付いた。あの表情は、手の施しようがないという意味ではなく、手強くて対処が難しい為にあの表情になったのだろう。俺はそう願った。
「申し訳ないが、私ではどうする事もできない」
帰ってきた答えは想像通りの言葉だった。それでも俺を絶望に突き落とすには十分だった。
分かっていた。神主さんがそう言うことは。しかし、一縷の可能性に縋り付いてしまった。その所為で必要以上に傷付く結果を自分で作ってしまった。俺は自分の愚かさを悔いた。
自分は死ぬのだ。あの絵の女が言っていた通り。嗤いながら、俺に死ねと言って来た通りに、俺は死ぬのだ。あの女に殺されるのだ。
恐怖と絶望で涙が溢れてくる。抑えようのない嗚咽が口から漏れ出し、俺はその場に蹲った。その姿に周りは何も言ってはくれなかった。いや、きっと何もかける言葉が無かったのだろう。
俺は御堂で仏さまに見守られながら、また赤子の様に泣きじゃくった。
周りはそんな俺が泣き尽くすのを、静かに待ってくれていた。
泣いて、泣いて、泣き喚いて、泣き叫んで、涙が枯れるほど泣き続けた。漸く泣き止んだ時には、外は既に夜の闇に覆われていた。
暗い御堂は、神主さんが持ってきた蝋燭の火の明かりだけがぼんやりと照らしていた。
その明かりをぼんやりと眺めながら、嗚呼、俺は死ぬのかと、まるで自分の命の灯を見ているように思えた。
「俺……死ぬんですか……?」
虚ろな表情で俺は神主さんに確かめるようにそう尋ねた。
「申し訳ない……」
神主さんはそう言って俺に深く頭を下げた。
嗚呼、やっぱり俺は死ぬのか……。
自分で分かっていても、誰かからハッキリと告げられると、現実なんだと思い知らされる。
これからどうすればいいのだろう。いつどのように俺は死ぬのだろう。一瞬想像した時、あの女の姿が脳裏に浮かび、俺はそれ以上想像する事を辞めた。
「神主さん、この絵って一体何なんですか?」
友人が恐る恐る神主さんにそう尋ねた。
この重苦しい空気に堪えかねたのか、それとも俺を死に追いやろうとする者の正体を俺の代わりに尋ねてくれているのだろうか。
どうでもいいと思った。しかし、知りたいと思ったのも事実だ。俺は何も言わず神主さんを見た。
「この絵はね、恐らく人の血を混ぜた絵の具で描かれた物だろう」
「人の、血?」
友人の鸚鵡返しに神主は頷く。
「この世界には、同様に血を混ぜた絵の具で描かれた絵や血そのもので描かれた絵が何枚も存在する。その血も動物のものから、人のものまで、または両方使われている場合もある。それを使って絵を描くに至った原因は様々。芸術家の狂気的な創作意欲が齎したもの、殺人者の快楽や道楽、はたまた恨み辛みを込めた呪いの様なものと、色んな事柄がそう言った絵を産んできた。そして厄介な事にそう言った絵の殆どが、霊的なものを呼び寄せる霊道となったり、霊よりももっと邪悪な何かになってしまう事が多いんだ。並の悪霊や呪いなら私でも払うことは出来るのだが、この絵は……」
そう言って神主さんは言葉を止め、向かい合う俺たちの間に置かれた絵に視線を落とした。それにつられて俺たちも視線を絵に落とす。
俺の方からは逆さに見える絵の女が、俺の方をジッと見ているように見えて一層恐怖を感じた。
「この絵を描いた人物は、余程深い恨みを抱いていたのでしょう。霊感の無い者にまでこの絵の怨念が感じられる程に。恐らくこの絵を描いたのは、ここに描かれている女性だと思います」
「え!?」
神主さんの言葉に俺たち三人は声を上げて驚いた。
「この絵から感じられる怨念は、若い男性への執着心と独占欲。女性に対する嫉妬と激しい怒り。そして……」
“怨念を生むほどの深い恨み”
「ッ!」
神主さんがその言葉を言った瞬間、御堂の空気が一瞬にして変わった。
恨み、その言葉と同時に俺たちの間に置かれていた絵が大きく鼓動した。心臓の鼓動の様にも聞こえたその音は、込み上げる怒りをぶつける為に壁を殴りつけた音だと、俺は咄嗟に思った。
何故そう思ったのかは自分でも解らない。恐らく、絵の女が俺に憑りついているから、女の感情が俺にも流れ込んできたのだろう。後で神主さんに話した所、神主さんはそう言っていた。
「この女性は、生前付き合っていた恋人を他の女性に奪われてしまったのでしょう。奪われた後も恋人への想いは消える所か益々燃え上がっていった。それと同時に、奪った女性の事を恨んだのだと思われます。それからどういった経緯でこの女性がこの絵を描く事になったのかは分かりません。ですが、この絵から感じる怨念の大きさからして、相当な数の人の命を喰らって来たのでしょう」
命を喰らう。神主さんのその言葉に誰かが息を吞む音が聞こえた。俺たちの目の前に置かれているこの絵は、一体どれ程の命を喰らって来たのだろうか。俺も直にこいつに喰われてしまうのだろうな。
そう思うと、とても恐ろしくて体中が震えてしまう。
「この絵がどれだけの年月を経て来たのかは分かりません。その間、発端となった恋人と女性を始めに罪の無い方々がこの絵の標的になっていったのでしょう」
「どうして、彼が標的になったんですか?」
彼女が神主さんにそう尋ねた。
俺も知りたい。何故俺が選ばれたのか、どうしても知りたい。
「この女性は、恋人の心を取り戻そうと様々な呪いを取り入れ、それに自分の血を混ぜた絵の具で絵を描いたようです。その呪いの中には、復縁や恋愛成就等の恋の呪いもあったのでしょう。複雑に混じり合った呪いと女性の歪んだ想いは、恋人との復縁ではなく、恋人とそれを奪った女性の魂を喰らうという形で彼女の願いは成就しました。しかし、それで女性は止まらなかった。女性の死後、絵は女性の歪んだ想いに突き動かされて恋人を探し求めた。今までこの絵に喰われてきた男性たちは、皆彼女の恋人と間違われてしまった。君も、その一人なのだよ」
間違われて?
俺の頭は真っ白になった。間違いで俺は選ばれ死ぬのか。そんな理不尽な事があるか? 怒りが込み上げてくる。今すぐにでも目の前に置かれているこの絵をズタズタに引き裂いてやりたい。先程まで感じていた恐怖と絶望は怒りに呑まれていった。そして俺は怒りの衝動を抑えきれず、感情の赴くままに俺は行動した。
目を見開き、歯を剥き出しにして、怒りと憎しみの表情を浮かべた俺は絵に飛び掛かった。まるで肉食獣が獲物に襲い掛かる様に。
額縁を掴み頭上に振り上げ、思いっきり絵を床に叩きつけた。
物と物がぶつかる衝突音が御堂に響き渡る。
突然の俺の行動に友人と彼女は目を見開いて驚いていた。神主さんは驚きもせず、申し訳なさそうな表情で俺の行動の一部始終を見届けていた。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……」
肩で大きく息をしながら俺は叩きつけた絵を見下ろした。こんな事で俺の怒りが収まる訳等ない。俺は衝動の赴くままに叩け付けた絵を踏みつけた。
何度も何度も。狂った様に踏み続けた。足蹴りし、踏み躙り、絵を破壊する為に力の限り踏みつけた。
荒れ狂った俺の行動を止めようとする者は居なかった。
「クッ、このッ、クソッ、こいつッ!」
憎い。恨めしい。腹立たしい。胸糞の悪い。ムカつく。忌まわしい。煩わしい。苛立たしい。厭わしい。鬱陶しい。疎ましい。
あらゆる負の感情が俺の中で渦巻く。
一向に動きが止まろうとしない。自分でも止める気はないし、体が止まるきも無いらしい。
「止めなさい」
静かに、しかしとても強く重い言葉で神主さんが言った。その言葉に先程まで止まる気が無かった俺の心身が一瞬にして動きを止めた。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……」
肩で息をする。そんな肩に神主さんは優しく手を掛ける。それだけなのに俺の中で渦巻いていた負の感情が静まっていくのを感じた。
「負の感情に支配されては、君も悪霊の一部になってしまう。気持ちは分かるが、冷静になるんだ」
優しげな口調だが、その言葉からは力強いものを感じた。神主さんは不思議な人だ。自分が死ぬのだと言われれば、もっと早くに暴れまわっていたと思う。しかし、神主さんと向き合っていると心が穏やかになる様だ。今だってそうだ。負の感情に突き動かされていた俺を言葉だけで止めて見せた。そして肩に手を置いただけで負の感情を鎮めてくれた。この絵から感じていたものとは明らかに違う。これが人の温もりと優しさなのだと、この時改めて思い知った。
「神主さん、彼が助かる方法は、本当にないんですか?」
友人が神主さんに尋ねた。その表情はとても悲痛に染まっていた。
「彼が絵と長く居過ぎて、もう手の施しようが無いんだ。日が浅ければ、二人の縁の糸を切る事が出来るが、既に二人を繋ぐ糸は複雑に絡み合っていて切ることも解く事も出来ないんだ」
神主さんが縁の話をした時に見えたあの糸の事だ。俺と絵を繋ぐ雁字搦めになっている糸。先程見た光景を俺は思い浮かべた。
「しかし、方法が全く無いという事は無い」
「本当ですか!?」
神主さんの言葉に俺たち三人は身を乗り出した。
助かるかもしれない。その可能性があるのなら、どんな事でもやる。五体満足じゃなくても、生きられるのなら何だってやってやる。
俺は食い入るように神主さんを凝視した。
「だが、とても危険な方法だ。これは一か八かの賭けだ。一歩間違えば、彼どころか私までも喰われてしまう。それだけじゃない。君たち二人も喰われるかもしれない」
一か八か。五分五分の可能性。しかも、俺だけじゃなく友人や親戚の彼女、神主さんまで巻き添えになってしまう。俺だけなら、いざと言う時の覚悟は出来る。でも、他の三人は……。
「俺は構いません」
友人は迷いなく言った。
「私も構わないわ」
彼女も迷いなく即答した。
俺は驚愕して二人を見た。
「何言ってるんだ! 失敗したら二人も死ぬんだぞ!? 何の関係もないのに、俺の所為で死ぬかもしれないんだぞ!?」
自分の所為で二人が死ぬ。一瞬、このまま一人で死ぬよりも、誰かを巻き添えにしようなんて考えが浮かぶ。絵に当たり散らしていた時も、自分に降り掛かった理不尽に他の奴らに対する逆恨むを抱いた。
でも、それ等は神主さんの言動で静まった。今でも黒い感情が零れる事はある。しかし、二人の迷いの無い言葉、揺るぎない眼差しが、黒い感情を吹き飛ばす。
他人である俺の為に命を賭ける二人が信じられない反面、俺の為に命を賭ける二人の決意が、無性に嬉しかった。
「確かに、死ぬのは怖い。でも、それ以上に此処で君を見捨てたら、俺は一生後悔する。君を見捨てて幸せな日々を送れる程、俺は冷徹にはなれないんだ。それに辛い時に傍に居て手を差し伸べるのが、友達だと思うから」
「そうよね。私は君と会って日が浅い。会って間もない人の為に命を賭けるなんて、自分でも馬鹿だと思うわ。でも、泣き叫んで荒れ狂う君の姿を見て、是が非でも助けたいと心の底から思ったの。だから、私は君を助ける。命を賭けてでもね」
二人は優しくも強い意志を込めてそう言った。さっき枯れる程泣いたにも関わらず、また涙が出そうになった。それは辛いからでも悲しいからでもない。嬉しいからだ。今までの人生、俺の為にここまでしてくれる人は家族の中にも居なかった。だから嬉しかった。誰かが俺を思ってくれている優しさが、身に染み入る程に。
「……ありが、とう……」
情けない事に、二人に対して出た言葉は、振り絞ってもそれだけしか言えなかった。言い訳するなら、言葉に出来ない程の感謝だったからだ。
「これ程の友人に出会える事はそうない。君は良い友人に巡り合えて良かったですね」
優しくそう言う神主さんに、俺は何度も頷いて答えた。涙を堪えるのに必死で言葉が出なかった。
神主さんの言う通り、他人の為に命を賭ける程の覚悟を持つ人はそう居ない。皆、どんなに綺麗事を並べても、最後は自分が大事なのだ。二人が嘘を言っている可能性もある。土壇場で怖くなって自分だけで逃げるかもしれない。しかし、何故か二人はそんな事をしないと思えてしまう。俺の思い込みかもしれない。でも、不思議とそう思えてならなかった。
「分かった。二人が覚悟を決めたのなら、私はもう何も言わない。一か八かだが、全力で君を助けるよ」
世の中ってのは、存外他人に冷たい。誰も面倒事に巻き込まれたくないし、関わりたくもない。人は自分で思っている以上に他人に興味がない。だから、一人で苦しんでいる人が沢山いる。
そんな世の中で、今自分が相当恵まれている事を俺は実感している。
世界は冷たい。それでもそればかりではない。誰かの為に全力を尽くす人、苦しむ人の傍に寄り添う人、お節介と分かっていながらも世話を焼き続ける人、人を孤独にさせないようにしている人、この人たちの様な人たちも、この世界には沢山いる。
「はい……よろしく、お願いします……」
堪えられなくなって溢れ出て来た涙で顔がぐちゃぐちゃになりながらも、嗚咽交じりに振り絞りながら、そう言って俺は深々と三人に頭を下げた。
今から俺たちが行う方法は、絵に潜む女の怨霊を引っ張り出し、怨霊の中に溜まりに溜まった負の念を吐き出させるというものだった。
怨霊の根源は、作者である女の恋人への歪んだ想いと恋人を奪った女性に対する恨みから来ている。それに加えて今まで恋人や恋人を奪った女性と勘違いして多くの人を喰らって来た為、その分怨霊の力は増しているらしい。
神主さん曰く、怨霊の媒体となっている絵を結界の中に閉じ込め、俺たちは生きたいと強く念じながら神主さんの後に続いて呪文を唱える。怨霊の中にある負の念が全て吐き出されるまでそれを続けるとの事だった。
相当な精神力を使うと神主さんは言っていた。怨霊の中にある負の念も、どれほどあるのか分からない。もしこちら限界以上のものなら、俺たちの負けである。
万が一の為に除霊用の形代や力のある仏像を辺りに置き、結界も何重にも張ったと神主さんは言っていた。神主さんが今できる最高の結界を張ったと言っていた。
除霊場所は、神社の中で最も霊的な力の強い裏の社で行われる事になった。
神社の後ろにある石階段を上ると、大きな鳥居を潜ったその先、辺りは注連縄が結ばれた木々に覆われ、鳥居と向かい合う形で小さな祠が存在した。
木々の前に仏像と形代を設置し、中央を囲む様に五芒星を幾重にも重ねる形で神主さんは結界を張っていった。
これで準備は整った。
注連縄の木々や仏像の見つめる先、幾重にも重なった五芒星の中央。怨霊が宿る絵を神主さんがそっと地面に置いた。
そして神主さんは急ぎ足で祠の前に行き俺たちも祠の許へと集まった。
「さぁ、始めよう」
俺たちを庇う様に神主さんが前に立ち、俺たちはそんな神主さんの背中越しに絵を見た。
嵐の前の静けさか。不気味な位に辺りは静寂に包まれていた。鳥の声も、虫の声も、風の騒めきも、何聞こえない。聞こえるのは、忙しなく動く自分の心臓の鼓動の音。
夏の夜ともあって蒸し暑い。汗が頬を伝っていく。この汗は、熱いからだけではなく、これから行われる俺たち四人の生死を賭けた戦いに対する緊張からも来ているのだろう。
誰ともなく唾を飲む音が聞こえた。
一歩間違えば、俺たちは死ぬ。他の三人は、俺の巻き添えで死ぬ。死ぬことも恐ろしい、それ以上に自分の所為で皆が死ぬ。
体が震える。
そんな俺を手を両隣の二人が強く握り締めた。
二人もやはり怖いのだろう。俺同様に二人も震えている。
「(怖がっちゃ駄目だ。諦めちゃ駄目だ。絶対に生きるんだ!)」
握り締められた両手を俺も強く握り返した。
絶対に生きる。
俺の思いが伝わったのか、二人の手から伝わってきた震えは消え、気づけば俺の体の震えも止まっていた。
「行くぞ!」
神主さんを言葉を合図に呪文が唱え始められた。
お経の様な神仏に祈る言葉。
神主さんの後に続き俺たちも呪文を唱える。神主さんに言われた通り、生きたいと強く念じながら必死に呪文を唱えた。
直ぐに異変は起きた。
呪文が唱え始めると、結界の中央に置かれた絵がカタカタと動き始めた。
その動きは次第に大きくなっていき、遂には空中に飛び上がった。まるで魚が跳ねるように飛び上がっては落ちてを繰り返す。
風が吹き始めた。先程まで静かだった木々の枝葉が風に揺れ始めガサガサと葉と葉が擦れ合う音が響いた。
風はどんどん強くなり、歯の擦れる音もまるで土砂降りの雨を連想するような音で響き渡った。
そんな音に紛れ、氷に罅が入った様なピキピキという音が聞こえ始めた。
音の発生源は結界の中央。未だに跳ね続ける絵から聞こえてきた。どうやらそれは絵を囲う額縁に罅が入った音だった。
余談だが、御堂で俺が絵を叩きつけたり、足で踏む付けた時、あの絵は全くの無傷だった。多少の汚れはあっても、掠り傷一つ付いて無かった。神主さんが言っていた通り、物理的にこの絵を処分する事は不可能だとその時思い知らされた。
そんな絵に罅が入っている。呪文と結界が効いている。これは行けるかもしれない。
跳ね続ける絵が結界にぶつかる。見えない壁に遮られ、絵は敷かれた五芒星の外に行く事が出来ないでいた。
罅が入る音はどんどんハッキリと聞こえるようになってきた。それだけあの絵にダメージがあるのだ。
希望が見えて来た。
そう思った次の瞬間。
耳を劈く様な金切り声が轟いた。
突然の事に俺たちも神主さんも呪文を唱えるのを止めてしまった。
未だ結界は生きている。その結界の中で、絵が空中で静止していた。
不気味に空中で静止した絵の中で、女がこちらを鬼の形相で睨みつけていた。
その瞬間、この場にいる全員がゾクリと背筋に冷たいものを感じた。それが恐怖だという事は考えずとも理解できた。
「気を抜かないで! 続けますよ!」
神主さんの言葉で我に返り、俺たちはまた神主さんの後に続いて呪文を唱えた。
唸り声が轟く。あの女が、吠えている。
縁の糸で繋がっているからだろうか、女の感情が俺に伝わってくる。
怒っている。それも想像できない程激しく。まるで燃え盛る業火の様だ。
また体が震え出した。
大丈夫。自分に言い聞かせながら、俺は呪文を唱え続けた。
バキッと何かが砕ける音が聞こえた。
絵を囲う額縁が遂に砕けたのだ。
続いてバリンッと硝子が割れる音が響き渡った。それと同時に五芒星の一つが激しく燃え盛り灰となって消えていった。
結界の一つが破られた。
先程見えた希望が、また見えなくなりそうだった。
そんな俺の視界に黒靄が見え始めた。
あれだ。あの日部屋で見た靄だ。
靄はどんどん膨れ上がっていく。大きくなるに連れて結界が一つまた一つと破られていく。硝子の割られる音が響き、五芒星が燃えていく。
ヤバイヤバイヤバイ!
俺は焦り始めた。
残る結界は見た感じ五つ位だ。そんな事お構いなしに靄はどんどん大きくなっていく。
また一つ、結界が破られる。
「(頼む! 耐えてくれ!)」
俺は生きたいと念じながらそう強く祈った。
また一つ、結界が破られる。残り三つ。
「(頼む!!)」
必死に祈り続けた。
また一つ、結界が破られる。残り二つ。
「(生きたいんだ!! お願いだ!! 耐えてくれ!!)」
また一つ、結界が破られる。残り、結界は一つ。
「(お願いします! 神様仏様!! 助けてください!!)」
一際大きな音で硝子が割れる音が轟いた。
最後の結界が、遂に破られてしまった。
「(助けて!!!!)」
俺は心の中で叫んだ。
阻むものが消えた事で靄は大きな巨体を揺らしながら、俺の方へと手を伸ばしてくる。
もう駄目だ。諦めかけたその時、怨霊の呻き声が聞こえてきた。
力強く瞑った瞼を開いてみると、周りの仏像や形代、注連縄が結われた木々から光の糸が伸びていた。その糸は怨霊の体を幾重にも縛りつけて動きを封じていた。
まだ助かる可能性がある。
俺はそこから呪文を唱える言葉に力強い念を込めながら唱えた。
神主さんや両隣の二人も呪文を唱える言葉に一層力が籠る。
それが力となったかのように仏像たちから伸びる糸が大きく太くなっていった。そして怨霊の体を包み込んでいく。
『あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ』
唸り声が轟く。怨霊の感情が伝わてくる。苦しんでいる。今度こそ行ける!
ここが正念場だ。俺たちは一層力を込めて呪文を唱えた。
大綱程の大きさになった糸たちが怨霊を何重にも包み込んでいく。
もがき苦しんでいる。後一歩だ。
雁字搦めに、ミイラの様に全身を包み込み、縛り上げ、封じていく。
繭の様に包まれていった怨霊の体から、黒い煙が上がる。
「よし! 負の念が抜け始めた! もう少しだ!」
神主さんの言葉に今度こそ希望がハッキリと見えた。
最後の力を振り絞り、呪文を叫ぶように唱えた。
『あぁぁぁぁぁぁぁ……あぁぁぁ、あぁ…、あぁぁ……』
怨霊の声が弱弱しくなっていく。それと同時に黒煙が体のあちこちから噴き出す。
絞る様に糸が怨霊を締め上げていく。負の念が噴き出した為に怨霊の体がどんどん小さくなっていく。
周りの木々よりも大きかった巨体は、木々よりも小さくなっていき、仏像よりも小さく、そして遂には依り代だった絵よりも小さくなっていった。
噴き出した黒煙も出なくなり、辺りを騒がしていた風も吹き止み、辺りに静寂が戻った。
「……ふぅ、終わった」
呪文を唱えるのを止め、大きく息を吐いた神主さんは、疲れ切った様子でそう呟いた。
終わった。
助かった。
現実でないような浮遊感。だが、これは現実だ。
俺は生きている。
俺や他の二人も体から力が抜けていきその場にへたり込んだ。
喉がガラガラだ。必死で呪文を叫び続けたんだ。当たり前と言えば当たり前か。
三人で顔を見合わせ、生きている現実に笑い合った。
「俺、助かったんだな……」
「そうだよ。生きてるんだよ」
「私たち、一か八かの賭けに、勝ったのよ」
両手で頬を触る。続いて体、続いて足、生きている事を確かめるように何度も何度も繰り返し触る。
助かったんだ、俺……。
生きている喜びが、涙となって溢れ出す。
俺は泣き虫になったようだ。もう目が真っ赤にも拘らず、また涙が流れ出てくる。暫くは、泣けないだろうと思う。数週間分は泣いたのではないだろうか。
嬉し泣きする俺を皆が微笑まし気に見守った。
「よく頑張ったね。これで全ては終わった。君はもう死ぬことは無いよ」
神主さんは優しい口調でそう言った。
良かった。良かった。本当に良かった。
俺は、助かったんだ。
俺は生きられるんだ。
恐怖から解放された俺は、歓喜に打ち震えた。
しかし、ハッピーエンドは迎えられなかった。
突然辺りの仏像や形代、注連縄の木々が砕け散りっていった。陶器の割れる音、布の裂ける音、木々が砕け倒れる音が響き渡る。まるで災害に遭った様な惨状だ。
完全に気を抜いていた俺たちも神主さんも、突然の出来事に目を見開いた。
「まさか……」
神主さんの頬を嫌な汗が伝っていく。それはこの場にいる全員がそうだった。
結界が敷かれていた所の中央。野球ボール程の大きさに縮まった怨霊が封印された球。それが絵と同様に揺れ始める。
力を使い果たした俺たちは、その様を只黙って見ていた。
球は、まるで卵が割れるように罅が入り、罅が全身に走ると、爆発音が轟く。黒い突風が波の様に押し寄せ、俺たちはその突風に吹き飛ばされてしまった。
怨霊を封印した糸が粉々に砕け散り、ドス黒い靄をオーラの様に纏い、純白のドレスを纏った女が、こちらを見ながらそこに静かに佇んでいた。
あの女だ。
あの絵を描いた女。
怨霊の正体。
体がガクガクと震える。さっきので力を使い果たしおまけに腰が抜けてしまっている。逃げる事が出来ない。
「早く逃げるんだ!」
神主さんの切羽詰まった声が響き渡る。
その声に押され、友人と彼女が震える足で懸命に立ち上がり、へたり込んでいる俺の両手を掴み引き摺る様に後ろへと引っ張る。
その間も俺はあの女から目が離せないでいた。いや、あの女の視線が俺の視線を離さない。まるで女の視線が形となって俺の視線を掴んでいるようだ。
神主さんが呪文を唱え始める。
それをあの女は、まるで煩わしいと言わんばかりに右手を振るう。蚊でも追っ払う様なその仕草だけで、神主さんは車に衝突された様に女が振るった手の方に吹き飛んでいった。
吹き飛ばされた神主さんの体は大木に叩きつけられた。ガハッと神主さんの口から息と血が吐き出される。それっきり神主さんはピクリとも動かなくなってしまった。
あ、死んだ。その様を見て俺は直感でそう思った。
女は神主さんに見向きもしないで俺の方に歩み寄って来る。幽霊とは、ゆっくりと一歩一歩踏み締めるように歩くイメージがあった。それでいて瞬間移動してるのかと思う程、逃げる者を逃がさない。そんなイメージだったが、目の前にいる女はそれとは違う。早足気味に俺の方へと迫って来る。ゆっくり来られるのも恐ろしいが、こうやって足早に迫りくる様はもっと恐ろしい。
俺の全身を恐怖が駆け抜けて行く。
恐怖で歪んだ俺の顔を見て、女はあの悪魔の様な笑みを浮かべて嗤った。
「あ、あぁ、あぁぁ……」
恐怖に振るえて俺は意味の無い言葉が零れ出る。
「立って!! 逃げるわよ!!」
「急いで! 早く!!」
友人と彼女の叫び声が耳元で聞こえる。しかし、恐怖に支配された俺には、何の反応も反す事が出来なかった。
「クソッ! 彼を連れて早く逃げるのよ!!」
「ッ!? 駄目だ! 戻れ!!」
俺の左腕を引っ張っていた彼女は、俺の腕を離し女の方へと向かって行った。それを友人が必死の形相で呼び止めようと叫ぶ。
手遅れだった。木霊する叫びを聞きながら、彼女は女に向かって行き、女が纏う黒靄に飲み込まれ、消えてしまった。
俺の所為で、また一人死んでしまった。
絶望が俺の心を支配していく。
耳元で泣きじゃくる声が聞こえてきた。二人だけになってしまい、人の死を目の当たりにして、絶望的な状況に友人が泣いていた。
そんな友人に構わず、女は黙々とこっちに近づいて来ていた。俺が恐怖と絶望を感じている事を知っているのか、女はニヤニヤと満面の笑みで嗤っていた。
逃げると力の無い俺を必死に引きずりながら、友人は祠の所まで急いだ。そして何とか辿り着いた友人は祠に祈った。
「お願いします!! 助けてください!!」
泣きじゃくった声で祈りを叫ぶ。懇願しながら友人は祠に縋り付いた。
願えば神様が助けてくれる。溺れる者は藁をも掴む。助かる為なら何でもする。そんな必死な友人の姿を横目で見ながら俺は思った。俺の為に神主さんも彼女も死んだ。もしかしたら生きているかもしれないが、眼前の女の目が言っていた。殺したのだと。楽し気に嬉々として。
元はと言えば、俺がこの女の絵を買わなければ、あのフリーマーケットに行かなければ……。
もしもが俺の脳裏を駆け巡る。無い物ねだりだと分かっている。しかし、思わずにはいられない。己の愚行を思い返す事を。
友人だけは助けたい。俺の所為で巻き込んでしまった友人だけは、何としてでも助けてやりたい。
俺は震える体に鞭を打ち、必死に立ち上がる。
全身がガクガク震える。疲労と恐怖で極限状態の心身を奮い立たせ、必死に立ち上がる。
「お前の目的は、俺だろう。頼むから、他の奴には手を出さないでくれ」
震えながら俺は女に頼んだ。
それは嫌だと女が嗤う。
「あんた、恋人を探してるんだろう?」
その言葉に初めて女の笑みが消えた。
これは一か八かだ。女が激怒すれば俺は瞬時に殺され、友人も殺されてしまう。
「ごめんな、もう離れたりしない」
震える体を引き摺って、一歩一歩女に歩み寄って行く。
突然の俺の言動に友人が困惑している。
「お前じゃないと、やっぱり俺は駄目なんだ」
一歩一歩大地を確りと踏み締め、女に近づいて行く。
「好きだよ、愛してる」
精一杯の演技で俺は女を抱きしめ耳元で囁いた。
「ッ! 駄目だ!! 止めろ!!」
後ろで友人が叫んでいる。俺が何をしようとしているのか分かった様だ。
悪いが止める事は出来ない。俺に出来るのは、もうこれしかないんだ。
女がどう感じてどんな表情をしているのか分からない。
女の表情を伺う為に少し女から離れる。
その時、俺の視界に映ったのは、邪悪な笑みを浮かべる女の表情だった。その瞬間、俺は賭けに勝った。
女のか細い腕が俺を抱きしめる。か細い腕とは思えない程力強く抱きしめられる。まるで蛇が体に巻き付いているようだ。
苦しい。息が出来ない。
耳元で笑い声が聞こえる。女が嗤っている。女の感情が俺に流れ込んでくる。
嬉しいと喜んでいる。漸くだと歓喜している。今度は逃がさないと言っている。何処にも行かないでと泣いている。一人にしないでと懇願している。よくも捨てたなと怒っている。あの女は何処だと荒れ狂っている。また幸せな日々が戻って来ると安堵している。
そうか。これが女の想いか……。
走馬灯のように流れ込んできた女の想いを感じながら、俺は女と共に闇の中へと落ちて行った。
残された友人が何かを叫んでいる様だが、何を叫んでいるのか分からない。だが、無事である事だけは分かる。
良かった。俺は友人だけは助ける事が出来たようだ。
遠退いて行く意識の中、最後に俺が感じたのは、安堵だった。
その後、あの神社がどうなったのかは分からない。警察が来たのかもしれないし、来なかったのかもしれない。
友人はその後どうしただろう。元気にしてくれていれば幸いだ。
俺はというと、未だに闇の中を漂っている。
ん? 無事みたいだがって?
無事じゃないさ。俺はこの闇の中、自分の体があるのかないのかさえ分からないのだ。手も見えない、動かしている感覚さえ感じられない。言葉も聞こえない。あるのは、こうやって思考する事だけだ。
ここは正にあの女の想いそのものだ。どう言った経緯で恋人に出会ったのか、恋人の事をどれ程愛していたのか、その恋人を奪った女をどれ程恨んだか、等々まるで自分の感情の様に感じられるんだ。
あの女がこの絵を描いた切っ掛けは、やはり恋人を奪われたことが原因だった。そして分かれても好きで居続けた。だが、いつしか見返りの無い愛情は憎しみに変わった。復讐に燃える女は、呪い殺す事を思いついた。様々な文献や書物から独学で呪いを作り、自分の血、さらには何人もの人を殺して血を入手し、自分の血と絵の具を混ぜてあの絵を描いたのだ。呪いの道具として。
残念ながら、この女が作った絵はあの時消滅した。媒体が無ければ、具現化する事は出来ない。
しかし、神主さんも言っていただろう。
この世には数多のいわくつきの絵が存在すると。
だから、この女も滅びはしない。
今も、新たな依り代の中で、次の獲物を狙っているのだから……。
「完成した!! これぞ、私が求めた作品だ!!」
男は叫んだ。真っ赤な両手を天に掲げ、赤黒い液体の上に立ちながら、
男の周りにはズタズタにされたキャンバスが何枚も打ち捨てられている。
どうやらこの男は画家の様だ。
それも、“狂気的な創作意欲を持つ”。
「この絵画の名は……」
“怪画”
真っ白だったキャンバスは赤黒い絵の具でグチャグチャに絵が描かれている。それはブラックホールにも、爆発とも、落書きとも取れる様な絵だった。
……そう。これが“俺と彼女”の新しい依り代。
悪くない。寧ろ気に入った。
では手始めに、この男を喰らおうか。
彼女が自分を喰らった様に……。
END