―――― 一つ目の雨粒は、誰の目に留まることもなく、屋敷の窓を叩いた。
「ドン・バンビーノ。お疲れ様でした。」
2000を超える部下を従えるまでに上り詰めたイラリアの怪物は、束の間の安息を迎えようとしていた。
「ああ、ご苦労。……いや、待て。」
「何か?」
「今夜は少し見張りを多めに立たせとけ。」
「と、言いますと?」
怪物は、記憶にこびり付いた無数の憎たらしい面々を思い返し、肉迫する危機を感じ取った。
「マリッジオの野郎が、裏切るかもしれん。」
怪物は人の顔を注意深く観察し、次の行動を予想する。それは、彼が家長である証の一つであり、一家がイラリア一と名を馳せるまでに至った根拠だった。
「……承知しました。」
男は部屋を後にすると、手近な若い連中を呼びつけ、非番の仲間を呼び寄せるように指示を出した。
バンビーノ一家の家長を支える男もまた、只者ではない。
幾多の組織の壊滅に手を貸し、政治家を暗殺してきた。だからこそ、彼は密猟者や裏切り者たちの手口をよくよく心得ていた。
その彼の目が窓の外を一瞥して映したものは、
「少なくとも、今夜、連中が仕掛けてくることはない」
「――――だが、雲行きは良くないな」
家長が見ている景色とは別のものだった。
その慧眼を称賛するように、二人目の来訪者は彼の下へと挨拶に赴くのだった。
―――― 二つ目の雨粒が男の頬に落ちる。
「どうかしたんですかい?」
「……いいや、何でもない。」
男は寒気を覚えていた。
たった一滴の雨が頬を嬲っただけだというのに、それは瞬く間に身体の中へと潜り込み、全身に冷たい足跡を残していくような不気味さがあった。
「俺は少しここを離れる。」
「何処まで?」
「気にするな。すぐに戻る。」
「ハァ」言葉を濁す上司に、経験の浅い青二才は気のない返事しかできない。それがまた、男の不安を煽った。
「お前らはそこいらの窓をよく見とけよ。怪しい影を見たら迷わず撃て。ポリだろうと女だろうと構うな。とにかく殺せ。……気ィ抜くんじゃねえぞ。」
戦争や抗争で磨き上げられた男の眼光は、小鳥のように囀ることしか知らない若人の顔に平手打ちを食らわせ、気を引き締めさせる。彼に逆らう者はいない。
そんな歯応えのない部下を見せられる度に、男が抱えるもう一つの不安は膨らんでしまうのだった。
「……直に荒れるな。」
シトシトと、無数の雨粒たちを連れてきた装甲車のような重厚な雲は、ゴロゴロと、今にも爆発して一帯を焼き尽くしてしまいそうな厭らしい瞬きを繰り返していた。
――――アナタ、もしかして焼かれたいのかしら?
男が、耳に届いたその声を最後まで聞くことはなかった。
「殺らなきゃ殺られる」それは犯罪組織の世界に限らず、人間という生き物たちの間で交わされた『暗黙の了解』だと男は知っていた。
……しかし、それは所詮、人間たちの間でのみ通用する理屈でしかない。
「……何だ…、テメエ。」
男の左手は電光石火のごとく懐へと走り、鉛色の凶器を取り出したまでは良かったが、それが結果に結びつくことはなかった。
「アンタ…、アタイのご主人に何をしようってんだい?」
男の背後をとった第一声に導かれて振り返ると、男の瞳に真っ先に飛び込んできたのは、人語を解する――――黒猫だった。
黒猫は、英国の使用人が着るようなモノトーンの、しかし、そこかしこにフリルで飾られたドレスを着て、場違いな乳母車を引き摺っている。
雨の中、フードも被らずに晒してなお、煌々と燃えるように赤い髪は、その幼い頭を動かす度に幽鬼のように揺れ動いた。
瑞々しい唇が開くたびに覗く牙は吸血鬼のように鋭く、飼い主の言葉に忠実な耳は風を孕んだ帆のように生気に満ちていた。そして、スカートの裾からはヘビのようにウネウネと動く二本の尻尾があった。
しかしそれは間違いなく、12、3の少女の姿をしていた。
数秒間、常軌を逸した光景に男の目は奪われてしまう。だが――――、
「小娘が……」
驚きこそすれ、怯むことはない。例え、引き金を引くはずだった人差し指が180度、逆方向に曲げられていたとしても、男は人差し指を中指に替えるだけだった。
「バカだね。」
今度こそ、鉛色の凶器は目前の黒猫に向かって火を噴いた。しかし、その凶弾が彼女を捉えることはなかった。
黒猫は、何事もないかのように、一歩、一歩と足音も立てずに男へと近付いていく。男は構わずに後退りながら荒れ狂ったドラゴンのように火を噴き続けた。
ところが、奇怪な黒猫はその悉くをまるで風のようにヒラリ、ヒラリと躱してしまう。
「アハハハ、どうしたのさ。当たらないよ。」
ドラゴンの肺が涸れると男はそれを捨て、鈍色の牙を引き抜き、躊躇なく黒猫の懐へと飛び込む。
当然、男の牙が彼女に届くことはない。
牙を避けた黒猫は、柔らかく、幼気な指先を男のそれに添える。そして次の瞬間には――しかし、あくまで優しく――、明後日の方向へ曲げているのだった。
だが、それは男の囮だった。
黒猫の視界から隠していた反対側の腕が、遂に彼女の腰を掴む……はずだった。
「こっちの人間はこんなにもドンくさいから、アタイは面白くないですよ。」
男が腕を伸ばした瞬間に、エチケットを知らないその腕は完全にへし折られていた。
そうして身軽な黒猫は、そこに佇むもう一人の女児の下へ駆け寄っていた。
「アナタにとっては詰まらないことなのかもしれないけれど、私やあの子にとって、これ以上の『喜劇』はないのよ。」
外套を羽織った少女が立っていた。
黒猫とは対照に、雨に濡れた毒々しい菖蒲色の髪は、その白くホッソリとした顔に張り付き、少女の生気を奪っているように見えた。
少女は黒猫の頭を撫でながら諭すと、待機を命じて男へと向き直った。
2、3歩、男へと歩み寄ると少女は小さく会釈をした。
「ごめんなさい、マナーのなっていない子で。でも、仕方のないことよね。だって……、猫なんですもの。」
薄く開けられた目は表情に乏しい。言葉を吐き出す薄い唇は殆ど動かない。まるで水死体のようだが、「喜劇」と口にした時、男の目には確かに彼女が笑ったように見えた。
その微笑みは、男に微塵の逃げ場も与えない『死』を受け入れさせるためだけに作られた仮面のようだった。
少女は血の涙を湛えているのかもしれない。脈打つ第二、第三の心臓のような真っ赤な瞳から、男は目を離すことができないでいた。
「テメエらか?近頃、この国の重鎮ばかりを潰して回ってるっていう化け物は。」
男の中にある不安は最早、その命を捧げた家族の末路にしか残されていなかった。
「あら、自分の命よりも、そんなことの方が気になるのかしら?」
言いながら、菖蒲の少女はドブネズミのような男の姿を改めてその目に映して、また薄く笑った。
「……本当にごめんなさい。私のペットがやり過ぎてしまったのよね。」
自分のせいにされた黒猫は抗議の声を上げた。
「アタイのせいじゃないですよ。コイツが弱過ぎるんです!」
菖蒲の少女がまた、飼い猫の不機嫌を執り成すと、ようやく男の質問に答え始めた。
「アラ・クポネ……それと、シャッキー・レチアーノだったかしら。まずまず悪くなかったわ。でも、私には少し諄かったかもしれない。あの晩、少し胃がもたれてしまったもの。」
男は、少女の言葉が比喩でないことを直感的に覚った。
「そりゃあ、そうだろうよ。アイツらは生粋の北っ子だ。毎日、毎日、マンマのオッパイがなきゃ満足しねえような野郎の肉なんて、俺なら臭いを嗅いだだけで胸焼けを起こしちまうからな。」
男は唾を吐きながら、知らず識らず少女を挑発していた。しかし、死体のように無表情な少女がそれに乗ることはない。逆に、彼女を満足させていた。
「お上手。だからこそ、今回はアナタを選んだのよ。」
「……まるで、サンピン扱いだな。」
男は『死』を覚悟してなお、『死』を待つしかない身体になってなお、少女たちを「殺す気」でいた。
すると少女は、息を吹き返すかのように恍惚の表情を浮かべながら、その小さな両肩を力一杯に抱き締めた。
「そうなのよ。その矛盾の滴るような赤身が、私の大好物なの。」
薄い唇が、仮面からハミ出るように、狂気の三日月を描いた。
――――食卓は、少女たちの無作法を隠すように、雨足を強くする
――――何も見えない
――――神も魔も、頬を叩くその正体を確認する暇もない