エピローグ
百数十畳はあろうかと言う畳敷きの大広間。
その中心で頭を垂れる初老の男。
この国の宰相であるその男は、御簾の向こうで肘をつく月人に呼び立てられ、再び月宮御所を訪れていた。
「のう、葦原。ついぞこの間言った、病院の話じゃが」
「も、申し訳ございません! 必ず実行いたしますので、もう暫くの猶予を!」
男は畳に擦り付けるように深々と頭を下げる。
「そうではない。主に尋ねたい。お主はその病院とやら必要だと思うかの?」
「月之大神様の御心に反して必要なものなどございません」
怯えるようにそう言う男。
バゼットはその様子に男の心情を察して言葉を繋げる。
「儂を抜きに答えるがよい。主個人として必要と思うかが聞きたいのじゃ。それで儂は主に対する心情を変えぬと約束しよう」
「は……その、あの病院は近隣住民の強い要望によるもので、皆が求めるのならば必要なものであるかと愚考いたします」
恐る恐る言う男。
バゼットはそれを聞いて「ふむ」と頷いた。
「そうか、皆が必要と思うか。ならば、異なる方策を用いるべきは儂の方じゃな。よかろう、その病院とやら存続させるがよい」
「は……ですが、よ、よろしいのですか……」
「構わぬ。それが主達の出した答えなのじゃろうからな」
男はバゼットの意図が掴めぬという風にその場に凍り付いている。
「他意はない。呼びつけた用事はそれだけじゃ。もう下がってよいぞ」
「は、はいっ!」
恭しく座礼した後、男はそそくさと立ち去っていく。
「あらあら、うふふ。バゼット様が珍しいことをなさるから、逆に不安になってしまいましたのね」
男が立ち去り、バゼットが庭園を眺めはじめた頃、部屋の隅に控えていたバニー姿の風華が愉快そうに言った。
「儂は自らの在り方は変えられぬ。それでも皆の意見を取捨選択する程度はできよう。他者が居ると言うことは、変わると言うことなのじゃろうからな」
バゼットはしゃらんと袖口の鈴を鳴らすと、口元を隠して愉快そうに笑うのだった。
飾り付けられた路上を行き交う人々。
喧騒と共に流れる祭囃子。
屋台は地上の星の如く輝いて大地を照らす。
月人とは比べられぬ小さな人々が作り上げた様々な光が、主役である神輿が進む夜道を照らす。
それが降臨祭の風景だった。
そんな華やかな夜の世界の中で、明るい祭囃子におよそ似つかわしくない二人の男が仁王立ちして並んでいた。
「……んでだ、エクス。お前はどんな手品を使って月人に意見を呑ませた? アレは他者の意見を聞くようなタマじゃなかったぞ」
その片割れである烏丸はトレンチコートのポケットに手を突っ込んだまま、もう片割れであるエクスに尋ねる。
「別に特別なことはしていない。ただ話し合っただけだ」
腕組みをしたまま神輿を眺めて、エクスはぶっきらぼうに言う。
エクスの言葉はぶっきらぼうだったが、その顔は小さく笑みを浮かべていた。
「へいへい、そうかよ。ま、今回はこれ以上何もいわねぇ。だがな、次からは無茶するんじゃねぇぞ。テメェには意地張って守る相手が増えたんだからな」
烏丸はわしゃわしゃと髪をかくと、クイッと顎を動かす。
その先には夜店の前で楽しそうに語らうマキナと小百合の姿があった。
「分かってる。だが、無茶はお前の方が気をつけるべきだろう」
「ケッ、一言余分だねぇ、テメェは。言われなくても重々承知してるってんだよ。月宮庁に軟禁されてたせいで、カミさんにもこっ酷く罵られちまうしとんだ災難だぜ」
「そこは花束片手に"遅れたけれど結婚記念日おめでとう"とでも言っておけば大分違ったと思うんだがな。どんな感情も形にしなければ相手に伝わらんぞ?」
「……訂正してやる。テメェは一言余計どころか大きなお世話だ。さっさとお嬢ちゃん達の所にいっちまえ」
烏丸は鋭い目つきで睨み付けた後、シッシッとエクスを手で追い払う。
エクスはそんな烏丸の様子を見て愉快そうに笑った後、烏丸に背を向けて片手を上げた。
「あら、エクス。烏丸さんとのお話は終わったのね」
出店の射的で悪戦苦闘しながら小百合が言う。
「まあな。思ったより早かった」
エクスは必死で的に狙いをつけている小百合の後ろに立つと、小百合の姿を楽しそうに眺め始める。
小百合の撃ったコルク弾は次々と的の横を通り過ぎていく。
「おじさん、もう一回よ」
小百合は言いながらじゃらりと硬貨を台の上に置くと、新しいコルク弾を手に取った。
「エクス。また烏丸さんに余計なことを言ったんですね」
必死に射的をしている小百合を見ながら、マキナは横に居るエクスに言う。
「今回の場合は至って普通の親切心なつもりだったんだがな。ああ、小百合、熱くなるのはかまわんが、その体勢だとブレて余計に当たらんぞ。そのぺったんこな胸を台に押し付けておけ」
「間違いなく烏丸さんに余計なこと言ったわね。今の私に対してみたいに」
「ふむ、俺は余計なことを言ったつもりはないんだがな」
不敵に笑ってみせるエクスに、小百合はジトッとした視線で応酬する。
「っていうか、エクス? 私も少し慣れちゃっていたけれど、よくよく考えてみたら私に対するその弄り方、勝者の余裕よね」
「む、何がどうして勝者の余裕だ?」
「だってエクスはマキナさんでも全ての終わりでもあるんでしょう? つまりエクスもスタイル抜群で美人さんなのよね。それなら私のスタイルが貧相に見えても不思議はないわよねぇ」
ジトッとした目つきのまま、わざと刺々しく小百合は言ってみせる。
「な、何? 気に障るから止めて欲しいのなら普通に言え。烏丸だってお母さんが居るなら女の人だろう。それと何が違う」
思わぬ形の反撃にたじろぐエクス。
「そ、そうですよ、小百合ちゃん。それは酷い流れ弾です。私とエクスは別人設定ですからね、別人設定ですっ」
うんうんと首を大きく振ってエクスに同意するマキナ。
慌てふためく二人の様子は、小百合にとっても思わぬ光景だったようで、小百合は目を丸くしていたが、やがてぷっと吹き出して笑い始めた。
「っ、ふふ、ごめんなさい。二人がそこまで慌てふためくとは思って居なかったわ」
小百合はそう言って、エクスの助言に従って体を固定してコルク弾を放つ。
ポンッと快音を響かせたコルク弾は、棚に乗った的を大きく揺すって落とした。
「大丈夫、そんな余計な一言でも私は感謝しているわ。ありがとう」
景品を受け取った小百合はくるりと向き直ると、はにかんだ表情でエクスとマキナに景品を手渡す。
エクスとマキナは景品を眺めた後、お互いに見つめ合い、同時に小百合の方を向く。
「ありがとうございます。小百合ちゃん」
「ああ、礼を言う……」
マキナは笑顔で、エクスは照れるようにそう言うと、景品を大事そうにしまいこむ。
「取った景品をあげようと思ったのだけれど、二つ取るのに結構手間取っちゃったわ」
言って、小百合は二人を先導するように人混みを歩き出す。
「さあ、行きましょう。やりたいことを全部するには時間が足りないものね」
小百合は行き交う人々の中を軽やかな足取りで進んでいく。
「眩しいですね。小百合ちゃん、ううん、この世界が……」
「ああ、だから俺達は焦がれたのだろうな。道中である今この時に」
エクスとマキナはゆっくりと辺りを見回すと、楽しそうに先を行く小百合を追いかける。
二人の居るその場所は、いつか来る終わりなど感じさせないぐらい眩しく輝いていた。