黒ずくめの魔戒騎士   作:Hastnr

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4:【蒼筆】

 【蒼筆】

 

 

――――――

 

 ――状況を認識する。

 相手は一人。男性。

 昔に比べて大きく伸びた背丈と、日々の鍛錬と実戦の中で無駄なく鍛えあげられた堅く鋭い体格。

 整った顔立ちは、可愛らしいという形容詞がよく似合う。本人に言うと「褒められてる気がしない」と拗ねるので、最近は言わないようにしている。髪をもっともっと伸ばしたら、今でもギリギリ女の子で通るのではないかと思っている事は内緒。

 位置は約3m半先、障害物無し。互いに一礼を済ませ、一呼吸の後に臨戦態勢に移る。

 彼のお決まりである黒い魔法衣(ロングコート)、そして魔戒剣二振りは、共に離れた壁際に。握りしめた拳と共に左半身を軽く前に出し、右半身を僅かに引きこむ、踏み込みと格闘戦を意識した基本の構え。

 その姿は、上から下までどこをとっても黒い。ユイちゃん――首掛けの魔導具を外している今は、なおさら。

 彼の名は、桐ヶ谷和人。魔戒騎士――闇に生き、光を守る者。

 

 対する己はどうか。

 位置偽装用の簡易センサーユニット付き魔法衣(ギリースーツ)を被っていない以外は、いつも通り。動きやすさを重視した、タンクトップとショートパンツ状の装備の上に、落ち着いた色合いのフォレストグリーンをベースカラーにしたワンピースタイプの魔法衣。腹部から腰回りにかけて大きくカットを入れているおかげで、近接戦闘でも邪魔にならないし、デザインもいい。

 初っ端から武器を使う気にはなれず、お気に入り――1m以上の軸長を持つ超長軸魔導筆(アンチホラーライフル)は、魔戒剣の隣に置いた。

 騎士と法師、共に徒手空拳にして構えは相似。

 桐ヶ谷邸――森の中に建つ古い洋館。その地下にある石造りの訓練場で、私たちはじっと向かい合う。

 

「――自白するなら、今のうちだぞ。シノン」

「あら、何のことかしら?」

 

 わざとらしくとぼけてみせたけれど、和人の表情は微動だにしない。

 普段の力みのない穏やかな顔とも、(しとね)を共にしている時の少し意地悪な顔とも、ホラーと戦う時の怒りと信念が滾る顔とも違う、ゾクゾクする程に鋭く真剣な戦士の表情(カオ)。魂ごと貫かれそうなこの眼差しに向かい合えるのは、鍛錬相手(わたし)だけの特権。

 

「とぼけるなよ。昨日、俺の部屋に……いや。ベッドの中に、仕込んだだろ」

「誰を?」

「――明日奈を」

 

 構えられた和人の左腕が前方にすっと伸び、親指を除いた4本の指先が、くい、くい、と手前側に二度曲がる。『来い』という意図を示すそのジェスチャーは、レディーファーストのつもりか、あるいは挑発か――まあ、十中八九後者だろう。和人の問いかけに『何を?』と返さなかった時点で、先に挑発していたのはこちらなのだから。

 

「心外ね。私、明日奈にそんな事をけしかけた覚えは無いわよ」

「そうなのか? ……疑って悪かっ――」

「『部屋で待ち伏せしてみたら?』とは言ったけど」

 

 返答と同時に、石床の上を滑るような歩法で進み――。

 

 ――シノンは足音一つ立てぬまま、流水の如くするりと、そして大胆に間合いを詰める。ぐんと縮まった互いの距離は、男の黒い瞳の中に、碧衣の女の姿が映り込みそうなほど。

 

「やっぱり、シノンの入れ知恵か!」

 

 滑らかな動作で身を屈めたシノンの頭上から、和人の声が降る。ほんの一秒前までシノンの頭があった場所に放たれた宙を舞う回転蹴りが、ほんの一秒前まで和人の脚があった場所を狙った地を滑る回転蹴りが、互い違いに配置された歯車の様に今はもう何もない空間を抉りあう。そうして互いの一撃が共に空を切った次の瞬間、入れ替わるようにして和人は地を、シノンは天を狙って再び蹴りを放ち、絡み合わぬロンドを描く。

 

「なんでそんな事をした!?」

「しかたないでしょう! この4日、明日奈のあんな様子見せられ続けたら!」

 

 掴みかかってくる和人に体ごとダイブし、その黒い腕を支えに利用しながら、シノンは丹田――へその少し下付近を軸に、ちょうど6時を差した時計の針の様に体を伸ばすと、そのまま体を百八十度回転させ上下を逆にひっくり返す。そうして両足を騎士の首にひっかけると、体重移動と遠心力をフル活用して横方向に体をスイングさせ、和人を振り回しながら器用に脚の位置を変える。

 左足で和人の腰を踏むことで体を安定させつつ、右脚のふくらはぎと太腿で首を挟み込み、膝関節を使って完全にロックする。細い脚線が描く『美貌』が大胆にアピールされるその技は、言うなればネックシザース・アレンジ。

 気道は締めず、かといって容易に抜け出せないような絶妙な力加減で首を抑えつけ、動けなくなった和人の左肩に腰掛けるような体勢をとりながら、シノンはため息と共に上半身を傾ける。互いの顔と顔が思い切り近づき、今度こそ瞳の中に互いの顔が映り込む。

 普段はどうしたって見上げる構図になる和人の顔を、この技をかけている間は至近距離から見下ろす格好になるのが、どこか禁忌の味に似た嗜虐心をじくりと刺激する。

 

「知ってた? この数日、明日奈は限界もいいとこって感じだったのよ?

 お皿は割る。ケーキは焦がして炭にする。ハーブティーに紫蘇とミョウガと長ネギを淹れる。

 ユイちゃんのバイタル報告は悲惨なものばっかりだし……もう、見てるこっちが泣きそうよ」

「…………」

「『知らなかった』って顔ね。まあ、ここ最近、顔も見てない相手だもの。当然よね?」

 

 睫毛さえ絡み合いそうなほどに顔を近づけ、皮肉げに告げてやりながら、シノンは膝に込める力をほんの少しだけ強める。無駄な肉のないしなやかな脚が黒い騎士の首を挟みこむ。ここ数日、昼はゲートの封印、夜はトレーニングにかこつけ、まともに明日奈と話そうとしなかった男を詰るように。

 

「……仕方ないじゃないか。俺と会ったら、明日奈は……」

「ええ、わかってる。あなた、自分が明日奈と会ったら、またあんな風になるんじゃないかって心配してたんでしょう? ここ最近、顔にずっと書いてあったもの」

 

 澱の如く積もる苦悩。己への怒り。喪失への恐れ。口には出さぬ嘆き。その全てを自分の内に押し込め続けた男の首に脚をかけたまま、シノンは和人と間近で向かい合う。

 4日前のあの夜。何があったのかは、あの後意識を取り戻した明日奈自身から、そして最低限の事しか語ろうとしない和人から聞き出した。和人が口にした一言をきっかけに、明日奈がどうなったか。その詳細を。

 あの場に明日奈を送った張本人として、この件をどうにかする義務と権利がある――その想いを胸に、シノンは右足のロックを緩めるのと同時に、左脚で和人の胸板を踏み切り台代わりに踏みつけると、そのまま大きく飛び上がる。

 

「……で? 『あんな風』にはならなかったでしょう?」

「ならなかったけど……な! それはそれとして、だ!」

 

 追撃に放たれる、対空砲を思わせる急角度のハイキック。シノンはそれを揃えた両足の裏で受けると、びりびりと足を痺れさせる破壊力を自らの推進力に変えて数メートル先の壁際まで飛翔。空中で姿勢を整えると、固い壁に両足をつけ、そのまま滑るように床まで降り立つ。

 そうしてシノンが体勢を整えて視線を上げた時には、タイムラプスで写された夕日の中を伸びゆく影のごとく、既に和人が間合いを詰めてきている。

 

「誰かがいると思ってシーツめくったら、明日奈がいたんだぞ! 驚くだろ!」

 

 壁を背にし退路を絶たれたシノンに、容赦なく突き込まれる左の掌打。腕を叩きつけるようにしてその軌道をすんでの所で受け流した瞬間、掌打は間髪を入れず肘打ちにスイッチ。カウンターを放とうとしたシノンの腕を弾き、体勢を僅かに崩す。それは一秒にも満たぬ僅かな隙。なれど、この至近距離での交戦においては致命的な空隙。

 

「――はッ!!」

 

 左腕と入れ替わるように、繰り出されるのは鋭く重い右ストレート。

 空気すら固体に圧縮し、そのまま打ち砕いてしまいそうな一撃が、唸りをあげてシノンの顔――を僅かに外れる軌道を描き壁に突き刺さる。細いリボンで束ねた髪を掠め、頬のすぐ右に突き立つ黒い腕。背に触れる壁を通じて伝わる重厚な衝撃が、その尋常ではない威力を雄弁に物語っている。

 拳が獲物を捉える寸前、和人がその軌道を逸らしていなければ、今頃シノンは無事に済まなかった事は明白だ。

 

(ほんと……規格外よね、魔戒騎士って)

 

 ふぅ、と小さく息を吐き、シノンは体の力を抜く。言葉にするまでもなく伝わる降参のサイン。

 この程度の鍛錬で息を乱すほど、お互いヤワな鍛え方はしていない――だというのに、腕一本分の距離を挟んだ先にいる魔戒騎士が、わずかに肩を上下するほどに荒い息をしているのは、内に抱える動揺のせいか。

 

「私だって、まさか明日奈がそこまで大胆だなんて思ってなかったわよ。

 どうしたらあなたと話ができるかって聞かれて、部屋で待ち伏せするのが確実って教えたけど。

 ……本当に、それだけよ?」

 

 首をこてんと左側に軽く倒し、伸び切ったままの和人の右腕へ頬をよせながら、シノンは静かにつぶやく。力が抜けぬままの騎士の腕を、左手で数度撫でてやれば、固くしまった筋肉がゆっくりと解れていくのがわかる。

 やっとの脱力ついでに、腕を壁から離して引き戻そうとする動きを目敏く察知して肘のあたりを軽くつねってやると、和人は諦めたような表情を浮かべて蒼い瞳を見つめ返す。

 シノンの手と頭を預かったその腕を壁につけたまま。

 

「部屋……部屋か……。――なあ、シノン。『危ない』って思わなかったのか?」

「え? 例の症状についてなら大丈夫よ。お医者様も再発の可能性はまず無いって話だったし、

 ユイちゃんと一緒にこっちでも調べてみても、異常は全然――」

「そうじゃない。もし明日奈が俺と会って、またあんな風になるリスクがあるんなら、シノンは絶対に明日奈を止めてただろ?

 ……俺が言いたいのは、そっちじゃなくてさ」 

 

 首を横に振る和人。彼の意図する所が今ひとつ読みきれず、壁との間に挟まれたまま、シノンは怪訝な表情を浮かべる。

 

「昨日さ。どういう状況になってたのか、よーく考えてみろよ」

「……?」

「夜。密室。部屋の主は若い男(おれ)。ベッドの上には無防備な女性(あすな)。室内で二人きり。

 ……そんな状態だったんだぞ、昨日」

 

 伸ばされていた黒い腕が前触れもなく曲がり、互いの距離がぐっと縮まる。

 シノンの瞳の中に映り込んだ彼の表情を形容するなら、弱りきった獲物を捕食する寸前の狼。あるいは、捕らえた捕虜の運命を掌中に納める魔王。

 とうの昔に身も心も囚われ、迫りくる獣の牙から逃れる術を持たぬシノンの腰に、空いていた和人の左手がするりと回される。それはさながら気まぐれな野良猫を捕えて逃さぬ縛鎖の如く。

 

「考えなかったのか? 俺が力づくで、明日奈に――そういうこと(・・・・・・)をするかもしれないってさ」

 

 ほんの少し前まで見下ろしていた顔に見下ろされ、ほんの少し前まで拘束していた男に拘束されながら。シノンは彼の意図せんとするところをようやく察し、氷れる空から降る雪のように白く美しい頬を、かあっと赤く染める。

 『そういうこと』とはつまり、『普段ベッドの上でしていること(そういうこと)』に他ならぬわけで。

 

「ま、まさかとは思うけど……あなた……」

「もちろん、なにもしてない。明日奈が起きてる間も、眠ってからも。

 だけどさ……俺も、その。一瞬たりともそういう事を考えなかったかって言われると……」

「考えたの?」

「ああ」

「一瞬?」

「……八瞬、くらい」

「明日奈、病み上がりみたいなものよ?」

「知ってる」

「――ケダモノ」

「……仰る通りでございます」

 

 今更誤魔化してもしょうがないと言うかのように、ため息を吐きながら和人は素直に肯定する。

 朴訥ではあるが、それなりに紳士的な振る舞いは欠かさぬ男・桐ヶ谷和人。そんな彼の内にも、猛り狂う獣の如き牡の熱情と欲求が噴火を待つ溶岩の様に燃え滾っていることを、シノンは誰よりも――否、リズと同じくらいには知っている。どちらかと言えば、思い知らされていると言う方が正しいか。ほとんど夜毎に。

 攻めかかってきておきながら、和人はどこまでも己に非があると感じているのか、実に罰が悪そうな表情を浮かべている。その頬へ爪を立てるように細い指先を伸ばし、くすぐるくらいの強さでかりかりと引っ掻きながら、シノンはすぐ目の前にある黒い瞳と視線を絡ませた。

 

「――でも、『そういうこと』は何もしなかったんでしょう?」

「誓って」

「なら、それが答え。私、あなたが力づくで『そういうこと』をするような人じゃないってわかってるから。……ま、さっきの言い方は驚いたし、明日奈の行動はさすがに予想外だったけど」

 

 和人がシノンを信じているのと同じくらい、シノンも和人の事を信じている。だからこそ、時折こうやってちょっかいをかけたくなる。シノン自身、それを悪癖だと自覚できてはいるが、治そうにも治せないし、治す気もない。飼い猫が主に懐く事はあっても、その命令に従うことは無いように。

 蒼い髪の女の細い腰に回した腕に少しだけ力を加え、折れてしまわぬように優しく抱き寄せながら、和人は僅かにため息を吐く。

 

「シノン……もし、次に明日奈が同じことを言い出したら、部屋で待ち伏せさせるのだけはなんとしても止めてくれ。もちろん、俺も自制するけどさ……万が一にも、彼女を傷つけたくない」

「なら、明日奈とちゃんと顔を合わせて話をすることね。部屋に忍び込ませなくてもいいくらいに」

「そうするよ。……『虚憶片』のことも、あるしな」

 

 あの夜。和人が負わせた――負わせてしまったのかもしれない後遺症。その事実を、恐らくはベッドの上で明日奈から直接聞いたのであろう男の眉間に力が入り、眉と眉の間に自然と皺が寄る。

 思い悩む顔もそれはそれで魅力的ではあるが、彼がそういう顔をするような状況に追い込まれているというのは気分のいいものではない。ただでさえ、ホラーとの戦いに命を賭ける男なのだ。せめて日常にいる間は、なるべく安らぎだけを感じていて欲しい。

 言葉にする代わりに、力の篭った眉間へ中指でぴしりとデコピンを一つ。予想外の攻撃にきょとんとする和人の表情を眺めながら、シノンは両の瞼を閉じ、唇を突き出すように顔の角度を僅かに上げる。

 

「ん」

 

 10秒以内に何もしてこなかったら、もう一発喰らわせてやろう――シノンのその考えは、どうやら実行に移さずにすみそうだ。壁についていた黒い騎士の右手が、この後の行為に備えてシノンの後頭部に回り、透き通るような蒼髪を丁寧に撫でる。唇と唇を隔てていた邪魔な空間を他所へ弾き出すように、もともと近かった互いの距離が静かに縮まり、柔らかな感触と共に重なるべきものが重なる。

 啄みに似たふれあい。降り始めの、そして、もう少しで上がってしまう雨のように、規則性の無い間隔で幾度も与えられる優しく甘やかな感触。何度繰り返そうとも、繰り返す度に求めたさが増していくシンプルな愛情表現。

 

「……少しは、マシな顔に戻ったわね」

「おかげさまで」

 

 浅い睦み合いが、深い絡み合いに変わる寸前で、どちらからともなく唇を離した後。ようやくいつもの表情(かお)にもどった和人に、シノンは優しく微笑みかける。

 

「和人。あんまり、なんでもかんでも自分ひとりで抱え込もうとするのはやめなさい。

 あなたが困っている時や、苦しい時は……誰かに、素直に頼っていいんだから」

 

 『私に』と言いかける直前、僅かな気恥ずかしさに負けて『誰かに』と言い換えてしまった事は、どうやら和人に悟られずに済んだようだ。

 少しだけ意地悪な顔。騎士の使命に燃える顔。どこまでも真剣な顔。悩み惑う顔。吐き出さぬ苦しみを堪える顔。そのどれもを知った上でシノンは思う。やっぱり、彼に一番似合うのは、素直に笑っている時の顔だと。

 

「それじゃ。そろそろ第二ラウンド、始めましょ? さっきみたいに手加減してあげないけど」

「へえ……あれ、第一ラウンドだったのか。俺はてっきり、準備運動だと思ってたよ」

「あら、言ってくれるわね」

 

 不敵に笑う魔戒騎士。親愛の微笑みを騎士と同じ不敵な笑みへとシフトさせながら、シノンは法衣の胸元から魔導筆を引き抜き、霊獣の毛で作られた白い先端を突きつける。

 

「はっ!」

 

 一般的な魔戒法師が用いる物と同じ、片手で扱うサイズの魔導筆は、シノンが愛用する副武装(サイドアーム)

 シノンの声と同時に、その先端から雷光に似た眩しい輝きが迸り、至近距離にいた騎士の体が焼かれる――寸前。和人はシノンの体に回していた腕を解き、両足で床を蹴り飛ばし後方へ跳躍。空中で体勢を捻りながら魔導筆から放たれた術をかわし、訓練場の中央付近の床へ両足と片手をつけて伏せるような体勢で着地する。

 身を起こし、体勢を立て直す和人を視界に納めた後。シノンは視線をずらし、壁際にかけられた黒いロングコートを見つめると、軽く息を整えてから口を開く。

 

「――『ノゴメ』っ!」

 

 魔戒法師が唱える呪文に応え、黒いロングコート――和人の魔法衣が、まるで引き絞られた弓から放たれる矢のような速度で飛び、シノンの手元に収まる。魔戒法師が操る中でも、最もポピュラーな術のひとつ――『回収』の力が込もる術は、様々な物を手元に引き寄せることが出来る。

 鍛錬の時など、この呪文で不意をついて体勢を崩してやったことも少なくない。

 

「はい、どうぞ。私だけ武器を使うのはフェアじゃないでしょ?」

 

 立ち上がった和人に、シノンは魔法衣を投げ渡す。空中でふわりと広がった袖先を掴み、遠心力を活かしてくるりと回転させながら、和人が黒いロングコートに袖を通す。

 

「……これは、武器じゃないと思うんだけどな。シノン」

「あら、そう? だったら、魔戒剣を使う?」

「そうだな……第五ラウンドあたりまでシノンが保ったら、使わせてもらうよ」

 

 不敵に笑う和人が、『保たないと思うけどな』と言外に付け加えている事は百も承知。

 壁から数歩距離を取り、シノンは戦闘の構えを取り直す。最初と同じように左半身と腕を前に出し、右を少し引く基本の構え。ただ一つ違うのは、その右手に魔導筆を握っている事。

  魔導筆の先端に攻撃の光を宿らせ、シノンはまっすぐに和人を見つめる。

  黒い魔法衣をまとい、和人はまっすぐにシノンを見つめ返す。

 

「――じゃ、始めましょうか。『第二ラウンド』!」

「『第一ラウンド』だろ!」

 

 互いの瞳の中に映る、騎士の、法師の不敵な笑み。示し合わせたかのような同タイミングで、互いの表情が真剣なものスイッチした瞬間、シノンは弾かれたバネの様に前方へと飛び出し、和人もまた前方へと力強く踏み込む。

 これまでもそうしてきたように。これからもそうしてゆくように。二人きりの地下訓練場で、騎士と法師の一撃が交錯し、新たなラウンドの幕が上がった。

 

 

 

――――――

 

「――ぐっすりだね、ユイちゃん」

「ああ……本当にな」

 

 手入れの行き届いた、広いリビングの一角。

 ソファの上で横になり、すやすやと寝息を立てる愛娘(ホラー)・ユイ。その頭を膝に載せ、濡羽色の髪を優しく撫でる明日奈に同意を示しながら、和人は明日奈の隣に腰を下ろしていた。

 シノンを相手に『最終ラウンド』まで鍛錬を続けた後。バスルームで軽く汗を流し、まだシャワーを浴びているシノンと別れた和人を出迎えたのは、キッチンから漂う甘く爽やかな薫りと、リビングで寛ぐ二人の姿。

 そんな母娘の邪魔をするのも気が引けて、気付かれぬ内に離れようとした直後。偶然視線を上げた明日奈とばっちり目が合ってしまい――結局、今に至る。

 

「さっきまでね。ユイちゃんと一緒に、ケーキを作ってたの。

 甘さ控えめの、ベイクドチーズケーキ」

「チーズケーキか……なんだかいいニオイがすると思ったら、それか」

「うん。あ、まだ冷蔵庫で冷やしてる途中だから、つまみ食いしちゃダメだよ?」

「……はい。気をつけます」

 

 神妙に頷く和人の顔がツボにはまったのか、明日奈はくすくすと笑みを零す。

 約十数時間前、男の苦悩を大いに癒やすと同時に理性も大いに揺さぶった、女神のような、小悪魔のような笑み。至近距離から向けられるその笑みに明日奈は一切の他意を含めていないだろうに、勝手に別の意図を感じてしまう己がいることを和人は昨晩嫌というほど自覚させられていた。

 修行が足りない――ケーキの甘い香りの中に混じる、言葉では表しきれない明日奈自身のほのかな香りをすぐ側に感じながら、まだまだ『青い』黒の騎士は、心中で己を戒める。

 

「キリトくんのお家のキッチン、すっごく広い上に、いろんな設備も整っててびっくりしちゃった。

 キリトくんは、お料理はする方?」

「料理か……できなくもないけど、あんまり。食事面はリズかシノンに頼りっぱなしだったし……。

 『あんた、具なしパスタみたいな単純な物ばっかり作るから栄養が偏る』って言われてさ」

「ふふっ。確かに、それじゃあキリトくんにお料理は任せられないかもね。

 ダメだよー。せっかくいいキッチンがあるんだから、ちゃんと使ってあげなきゃかわいそうだよ」

「そこはほら、明日奈達に存分に使い倒していただいて……俺は食べる方専門で」

「調子いいんだから、もう。『SAO』の時だって、君……」

 

 はっ、と。和人の視界の中で、明日奈がわかりやすすぎる程にはっきりと息を呑み、言葉を詰まらせる。陽光を浴びて咲く花のような明るい微笑みに、ほんの一瞬だが影が落ちる。その瞬間を見逃すことができなかった己の動体視力が今だけは僅かに憎い。

 

「不思議だよね……前にも、キリトくんとね……こんな風に、一緒に過ごしていた気がするの。

 君がいて、ユイちゃんがいて……皆、終わりの見えないゲームの中に閉じ込められていて」

「明日奈……」

「……そんなこと、あるはずないのにね。私達、あの美術館で会ったのが初対面なのに」

 

 誤魔化すような照れ笑いを浮かべ、明日奈はくうくうと寝息を立てるユイの髪を指先で弄ぶ。

 『SAO』。そして『アインクラッド』。

 和人の知らぬ世界。明日奈の記憶の中にだけ存在する物語。

 3日前のあの夜――明日奈の頭のなかに、何の前触れもなく焼き付いた無数の記憶。『経験したはずのない記憶が突如増える』という、魔戒法師の側から見ても、現代医学の側からみても、原因も分からなければ前例もない症状。言うなれば、『記憶喪失』の真逆。

 MRIスキャンによって分かったのは、明日奈の脳内にあるニューロンに電気パルスに似た強い衝撃が走った形跡があったということ。何らかの『トラウマになる程に強烈な体験』によって、記憶を司る海馬に強力な信号が発生。その結果、脳が記憶を整理する過程で、本来の記憶の中にありえない架空の記憶が入り交じったのではないか――現代医学の専門家が下した判断は、そんな曖昧なものだった。

 

(『追憶片(ホロウ・フラグメント)』、か……)

 

 所在なさげにユイの髪を弄る明日奈を見つめながら、和人は心の中で呟く。

 『追加虚構記憶断片症』。

 略称『虚憶片(ホロウ・フラグメント)』と仮に名付けられた明日奈の症状は、未だに発生原因すら確定していない。唯一の救いは、海馬やニューロンが強い刺激を受けて活性化した事により、仮に同様の刺激が再度走ったとしても明日奈に影響をあたえることはほぼ無いという診断結果のみ。

 

(『ソードアート・オンライン(SAO)』……ゲームの中の死が、現実の死になる世界……。

 ……ありえない。どうしてそんなものが、明日奈の記憶の中に紛れ込んだんだ?)

 

 昨夜、シノンに唆されてベッドに潜んでいた榛の姫君。彼女が眠りにつくまでの暫しの間、和人は共に穏やかな時を過ごし、この数日顔を合わせていなかった分を取り戻すかのように、明日奈の話を聞き続けた。

 そのほとんどは、他愛もない日常の話。ユイと一緒にケーキを作ったら、見事に大失敗してしまったこと。リズと一緒に、素敵なティーセットを買いに行ったこと。シノンに教わりながら、魔戒法師が使う薬草でハーブティーを淹れてみたこと。大学で木綿季と会って、二人でカラオケにいったこと。

 数日分の思い出を語る楽しげな言葉の中に、時折、僅かな当惑と郷愁を含んだ声音が交じる事がある。それは『追憶片』――明日奈の中にある『SAO』に囚われ、『アインクラッド』で過ごした記憶に関わる話をする時。

 そして、その思い出の中にいる、黒の騎士――否。"黒の剣士"『キリト』の話をする時。

  

(……やっぱり、俺が巻き込んだせい……だよな)

 

 千の夜を過ごす間、王に寝物語を語り続けたシェヘラザードの如く、明日奈が少しずつ語ってくれた『SAO』の記憶。ゲームの中へあらゆる感覚が没入(フルダイブ)する世界。ゲームの死が現実の死に直結する世界。その思い出のディティールの一部は、今の明日奈を取り巻く状況と似たパーツで構成されていた。

 襲い来る魔獣(モンスター)。自らを母と慕う黒髪の愛娘(ユイ)。静かな森の中、大きな湖の近くに佇む家。鍛冶師として支えてくれていたリズベット。そして、白と黒の剣を振るい、世界が崩壊する時まで戦い続けた『黒の剣士』。全てがそっくりそのままでは無いにせよ、両者の間に共通点を見出さない方が困難だ。

 もし、明日奈の『トラウマになる程に強烈な体験』が、ホラーとの戦いに巻き込まれ、非日常の世界に足を踏み入れてしまった事であるのならば――『SAO』という架空の記憶と、明日奈を取り巻く現状に複数の共通点がある事も頷ける。

 とどのつまり、明日奈がこうなった原因は、ホラーとの戦いに巻き込んでしまった己にある――9割以上完成したジグソーパズルのように、手に入った情報を並べただけで描かれつつある結論が、無意識に組んだ両手の指に力を込めさせる。その様はまるで、祈りを神に捧ぐ迷い子の如く。

 

「キリトくん、怖い顔してる」

「……あ、ああ。悪い」

 

 思わずうつむきかけていた顔を上げれば、視線の先にあるのはこちらを心配そうに見つめる明日奈の顔。ほんの少し前、シノンに同じ事を指摘されたばかりだというのに、内心の懸念は表に出てしまっていたようだ。

 

「ね、キリトくん。今、『明日奈がこうなったのは、俺のせいだ』って、考えてるでしょ?」

「……よくおわかりで」

「わかるよ。顔にね、はっきり書いてあるんだもん」

 

 そう言われるだろうなと、和人は薄々予想していた。心配している相手に逆に心配される気まずさを隠すように、軽くため息をつく和人を見て、明日奈はくすりと笑う。

 

「あんまり気にしないで、キリトくん。……って言ったら、余計に心配するよね。君は。

 大丈夫だよ。私、キリトくんが思ってるより、辛く感じてないから」

「……なあ、明日奈。どんな感じなんだ? 

 その……自分の頭の中に、経験してないはずの思い出がたくさんある、ってのは……」

「うーん……ほんとのこと言うとね、あんまり悪い気はしてないの」

 

 ふわりとした微笑みに表情を蕩かせながら、明日奈は未だ表情が固いままの和人をまっすぐに見つめ返す。隣り合ってソファに座り、互いに見つめあうこの至近距離。無理をしているような顔ではない事は、言葉にして確かめるまでもなく。

 

「なんていうのかな……普通に学校に通っていた私と、『SAO』にいた私……二人分の『私』の思い出が一緒にあって、その二つが混ざり合わないまま一緒に存在してる……って言えばいいのかな。

 どっちも大切で、どっちも本当にあった事みたいな……不思議で、あったかい感じ」

「嫌じゃ、ないのか?」

「いやじゃないよ……だからね、キリトくん」

 

 解けぬ騎士の両手に、明日奈の両手が静かに重なる。

 

「私の記憶の事で、これ以上、自分を責めないで」

「それは……」

 

 無理だ、という言葉を押しとどめたのは、ふるふると首を横に振る明日奈の姿。優しさに満ちた否定と共に、重ねられた両手から彼女の思いまでもが伝わってくるような、そんな錯覚すら覚える。

 

「私が倒れたのも、私の中に『SAO』の記憶が生まれたのも……もしかしたらキリトくんの『せい』なのかもしれないけど……今、私がこうして生きていられるのは、キリトくんの『おかげ』。

 あの時、キリトくんがホラーから守ってくれたから、私はここにいられるの。

 だから……ね?」

 

 迷いも、憂いも、惑いもない真っ直ぐな視線。結城明日奈の祈りを受け取り、桐ヶ谷和人は未だ迷いながらもその瞳を見つめ返し、そして、頷いた。

 

「……やってみるよ。明日奈がそういってくれるなら」

 

 咎に許しを与える言葉。自責の念を包む微笑み。固く組み合わさっていた両の指に、明日奈の細い指先が触れ、その強張りを少しずつ緩ませていく。

 きっと、しばらくはこの罪悪感を引きずっていくことになるのだろう。

 即座に何もかもを切り替えられるほど、桐ヶ谷和人という人間は器用にできていない。コンマ数秒以下の迷いが死に直結するような命がけの状況ならばともかく、平時であれば尚更。できるのは、その先に目指すべきものがあると信じて努力(レベリング)を重ねていくことだけ。

 『それでいいよ』と、明日奈はこくりと頷いてくれる。いつか、彼女を平穏な日常――ホラーとも魔戒騎士とも関係のない、普通の人生に返すその日が来るより前にはもう少し器用になれると信じながら、和人もまた頷きを返す。

 ――それはそれとして。桐ヶ谷和人には、どうしても一つ、確かめておきたい事があった。

 

「……ところでさ、明日奈」

「なに? キリトくん」

「俺ってさ……そんなに色々、顔に出てる?」

「うん。すっごく」

 

 即答。首肯。悪意など欠片もないが故に、余計にウィークポイントを抉ってくる微笑み。

 この日、この時、この瞬間。桐ヶ谷和人は、己がポーカーフェイスという単語に一生縁のない存在であるということを悟る。思わずこぼれ出た深い溜め息と共に。

 

「そうかー……そんなにわかりやすいですか、俺……」

「もー、そんなに気にしなくてもいいのに。キリトくん。

 ほら、いつもむすーっとしてて何を考えてるのか全然わからないよりは、ずっといいと思うよ?」

「そんなもんかな……。いや、シノンにもさっき言われたんだよ。

 『考えてることが顔に書いてある』ってさ。……ああ、リズも前に言ってたっけ……」

「シノのん達も? ふふっ。やっぱり、キリトくんを見てるとそう思うんだね、みんな」

 

 くすくすと笑う明日奈の隣で、なんともばつの悪い顔をしながら、和人は片手で後頭部を掻く。

 魔戒騎士の鎧に、顔ごと頭部全体を覆う(ヘルム)がセットであってよかったと心底思う。ホラーにまで考えている事が筒抜けなんて事態は想像すらしたくない。

 

「……キリトくん」

「ん?」

 

 一瞬の黙考から意識を現実に戻せば、疑問符を浮かべた明日奈の顔がそこにあった。

 

「質問なんだけどね。キリトくんって、リズやシノのんと……」

「うん?」

「……ど」

「ど?」

「……ど、どれくらいの間、一緒に暮らしてるのかなー?」

「そうだな……5年……いや、今だとまだ4年半くらいになるのかな」

「4年半も……!」

 

 思いがけない問いに少し考えてから返答すれば、明日奈の顔に浮かんでいたクエスチョンマーク()が、エクスクラメーションマーク()に変わる。

 

「ま、魔戒騎士って……魔戒法師と一緒に暮らすのが、普通のことなの?」

「うーん……どうなんだろうな……」

「キリトくんも知らないの?」

「ああ。知り合いの騎士たちはみんなそんな感じだけど……参考にならないんだよな。

 事情が複雑だったり、そもそも結婚してたりするし……」

 

 かつて『綾の番犬所』の管轄域に所属していた、ある意味同僚とも呼べる騎士は、抱えている面倒な事情に引きずられ今は別の管轄へ。そして、騎士としての和人を鍛えた師匠は、魔戒法師を妻としていた。

 本来、和人に騎士としての常識を教えるべきだったはずの存在――先代の鎧継承者だった父、そして和人を産んだ母は、とうの昔にこの世にいない。

 綾の番犬所に他の魔戒騎士がいないこともあって、和人は普通の魔戒騎士がどんな生活をしているのか、ちゃんと知る機会は無かった。

 

「……あれ、4年前っていうと……キリトくんって、確か私の一つ下だから……15歳?」

「ああ。15の時に、魔戒騎士としてなんとか独り立ちはできたんだけどさ。

 ……まあ、なんだかんだあって、二人にはそれからずっと助けてもらってる」

 

 『魔導具を作る職人にして、魔戒騎士を影で支える錬金術師』。魔戒法師という存在に対して、魔戒の側に携わる者の多くはそんな認識を抱いている。無論、和人もそうだ。

 リズベット。そして、シノン。

 ホラーと渡り合えるほどの実力を持つ稀有な魔戒法師である二人が、公私を問わず支えてくれるおかげで、自分もなんとか魔戒騎士として戦い続ける事が出来ている――騎士と法師に未だ多くの爪痕を残す『仮面の男の大乱』を経た今も、二人への信頼が変わることはない。

 

「そうなんだ……二人共、キリトくんにとって大事な仲間(ひと)なんだね」

「ああ。……もしかして、これも?」

「うん、顔に書いてあるよ。……なんだか、うらやましいなあ。リズとシノのんが」

「うらやましい? どうして?」

 

 今度は、和人の方が疑問符を浮かべる側になった。その問いかけに対し、明日奈はわずかの間躊躇ってから口を開く。

 

「……笑わない?」

「ああ、もちろん」

「……え、『SAO』なら、私もキリトくんと一緒に戦って、君を守ってあげられたんだけど……、

 現実だと、キリトくんに守ってもらってばっかりだなー……って考えちゃったら、

 君をすぐ側で支えられるリズやシノのんが、なんだかうらやましいなあ……って……」

 

 熟した苺のように頬を赤らめ、視線を時折彷徨わせながら、明日奈はぽつぽつと言葉を紡ぐ。普段の綺麗さの上に、少女めいた可愛らしさが上乗せされている事に恐らく気づいていないであろう彼女から昨晩聞いた話を、和人は思い出す。

 曰く、『SAO』の世界では、明日奈は――『アスナ』は、細剣を操る戦士であり、高名な騎士団で副団長を務めていたらしい。《閃光》という二つ名まで持っていたそうなのだから驚きだ。

 この間といい、明日奈といい――己は『閃光』の『騎士』と意外な縁があるようだ。

 

「……俺もうらやましいよ。『SAO』のキリトが」

「え? どうして?」

「《閃光》のアスナと『SAO』にいたキリトは、『一番の親友』だったんだろ? 

 明日奈みたいな人が隣にいて、一緒に戦ってくれたんだ。安心して背中を任せられただろうし、

 ――きっと『SAO』で一番の幸せ者だったと思うよ」

 

 何をどうやったのかは想像すらも出来ないが、『SAO』のキリトは、明日奈のような才女と奇縁を得て、信頼関係を結んだと聞いた。時に剣を交え、時に互いを守り、やがて同じ騎士団に属する栄誉を授かり、最終的に『お互いに一番の戦友にして、かけがえのない親友』という関係になったらしい。

 仮想の世界で刻む日々の中でユイとも出会い、彼女の親代わりを努めるようになった事が切欠で、しまいには毎日のように同じ食卓を囲むようになったそうなのだからなんとも恐れ入る。

 

「……本当に、そう思う? 私が、キリトくんの……『親友』だったら、幸せだと思う?」

「ああ。少なくとも、明日奈の手料理を毎日のように食えてるヤツは、間違いなく幸せだ」

「もー。結局、ごはんの話なの?」

「仕方ないだろ。あんなに美味いシチューを作る明日奈が悪い」

 

 二つ名に劣らぬ眩しい笑みを浮かべる明日奈の隣で、堂々と開き直りながら和人は頷く。

 『戦友』という言葉を口にした瞬間、彼女の微笑みの中に、一瞬、戸惑いと悲しみが入り交じった感情の色が見えた気がした――が、彼女が解いてくれた悔悟と共に緩んだ反射神経は、その意図を読み解けるほどの反応速度を発揮しなかった。

 それを確かめるための問いを和人が口にするよりも、明日奈が言葉を紡ぐほうが早かった。

 

「じゃあ……もし、私が『これから毎日ずっと、キリトくんのためにごはんを作ってあげる』って言ったら、

 ……キリトくんは、幸せ?」

 

 超至近距離の閃光から放たれたのは、囁きの高速刺突(リニアー)。絶対回避不能距離からの一撃が、和人の聴覚を貫き、意思を守る理性の装甲を激しく揺さぶる。

 

「……顔に書いてないか、な」

「書いてあるよ。……でも、直接聞かせてほしいな。キミの口から」

 

 見ている者を例外なく蕩かし癒やす笑みを、桐ヶ谷和人に独り占めさせている榛の姫が口にした言葉――男女が逆なら『これから毎日、俺の為に味噌汁を作ってくれ』などという使い古されたプロポーズの言葉を彷彿とさせるそれを真正面から叩き込まれ、心臓が大きく跳ね上がるほどにどきりとさせられながら、和人は自惚れる事がないように努めて冷静さを保つ。

 結城明日奈にそんな意図は一切無い。そのはずだ。彼女はただ優しく、料理をするのが好きで――きっと、それだけだ。変に勘違いしてしまっては迷惑をかけるだけ。彼女の思い出の中にいる『一番の戦友』・『SAO』のキリトにも申し訳が立たない。

 そうだ。妙に考えすぎる必要もない。じっと答えを待つ明日奈と向き合いながら、和人は一瞬だけ呼吸を整える。単純にして明確な答えを口にするために。

 

「明日奈。俺は――」

 

 まさに、その瞬間だった。ドアノブが回る、がちゃりという音が和人の耳に届いたのは。

 その音を切欠に、部屋を支配していた形容し難い空気の魔法が途切れ、互いの吐息が混じり合うほどの距離に顔が近づいていた事が急に恥ずかしく思えてくる。

 慌てて居住まいを正す和人の動作に驚いたのか、あるいはドアの開く音に正気を取り戻したのか。膝まくらをしたままのユイを起こさないように気づかいながら、明日奈もまた和人同様に姿勢を正し、互いの間に不自然に自然な距離を取る。

 桜色の髪の魔戒法師がドアの向こうから顔を覗かせたのは、そんなタイミング。

 

「和人、そろそろゲートの封印に行きま……って、あらら。

 お邪魔しちゃったかしら?」

「「り、リズ!」」

 

 にたりと笑うリズに、寸分の互いもなく重なった声が飛ぶ。奇妙なシンクロに釣られて、思わず明日奈の方を見れば、彼女もまた同タイミングで和人の方に顔を向けてきており――ばっちりと絡み合った視線が更に気恥ずかしさを呼び、和人は慌てて視線を逸らす。言うまでもなく、明日奈も同様だった。

 

「息ぴったりねー、あんたたち」

「……そりゃどうも」

 

 にやりと笑うリズに八つ当たりじみた視線をぶつけながら、和人はソファから立ち上がる。首から下げた魔道具を指先でこんこんとつつき、眠っているユイの意識を魔導具側に呼び寄せてやれば、鋼色をした妖精の口元がかちかちと音を立てて動きはじめる。

 

「ユイ、仕事の時間だぞ」

『はい、パパ! 任せてください!』

「悪いな、寝てるとこ起こしちゃって。問題ないか?」

『大丈夫です、ずっと前から起きていましたから!』

「そうか。それなら――うん?」

 

 今、なにか。聞き捨てならないセリフが聞こえた気がする。

 そう感じたのは、和人だけでは無かったようだ。

 

「ね、ねえ。ユイちゃん。『ずっと前』って……いつから?」

 

 和人が首にかける魔道具と、膝の上で眠る黒髪の娘の間で視線を行ったり来たりさせながら、明日奈がおずおずと問いかける。その答えは和人も気になる所である。恐らくは、リズも。

 

『はい、ママ。ママが『ぐっすりだね』と言っていたあたりから――』

「――ほとんど最初からじゃない! もう、起きてるなら教えてくれてもよかったのに!」

 

 頬を真っ赤に染めた明日奈が、思わず大きな声を上げる。

 

『ごめんなさい、ママ。パパもママも、とってもいい雰囲気で、ママのバイタルも良好状態で安定していたので、これは私が干渉しないほうがよいかと判断しまして』

「い、いいの! そういう変な遠慮はしなくても!」

「へー、とってもいい雰囲気だったのねー。あたし、やっぱりお邪魔だった?」

「リズまで! もー! そんなんじゃないわよ!」

 

 娘と友人の挟撃に弄ばれ狼狽する明日奈。彼女を庇うべきだろうと思った和人だが、迂闊に口を挟めばそれこそ藪蛇になるのは目に見えている。さっさと切り上げさせるのが一番だと考え、和人はそのまま何事も無かったかのような顔で――そうなっているかどうかは別として――黒いロングコートに袖を通すと、扉のドアノブに手をかける。

 

「ほら、行くぞリズ。あんまり遅いとおいていくぞ」

「ちょっ、待ちなさいよ。あたしも行くっての。

 ……じゃあ、ごめんね明日奈。和人、しばらく借りていくから」

「う、うん……」

 

 適当なタイミングで明日奈をからかうのを切り上げさせ、和人は扉を開ける。レディーファーストを意識したわけではないがリズを先に行かせ、自分もその後に続こうとして、背後から聞こえてきた「キリトくん!」という声に呼び止められて振り返る。

 その視線の先にいるのは、ユイの体をソファに寝かせ、すっと立ち上がった明日奈の姿。

 

「明日奈?」

「いってらっしゃい、キリトくん。気をつけてね」

 

 頬の赤みはそのままに、ふわりとしたはなやかな笑みを浮かべ、明日奈は騎士を見送る。その隣に立つ者ではなく、その帰りを待つ者としての言葉にして、ささやかな祈り。

 

「ああ。いってきます、明日奈」

「ユイちゃんも、いってらっしゃい」

『はい! いってきます、ママ』

 

 明日奈に見送られる事に、こそばゆい暖かさを感じながら、和人は今度こそリビングを出る。玄関を出た先に続く、森の中の小道で待っているであろうリズに追いつくべく少しだけ歩調を速めながら。

 

 

 

――――――

 

 嘘をついた。

 結城明日奈は、嘘をついた。

 彼には『嘘をつかない』と誓わせておきながら、嘘をついた。

 『SAOで、アスナとキリトは一番の親友だった』なんて、嘘をついた。

 いけしゃあしゃあとそれを成し遂げてしまった己に嫌悪感を抱きながら、キリト達を見送ったあと。明日奈はキッチンに場所を移すと、キッチンテーブルの側に置かれたスツールに腰掛ける。

 手持ち無沙汰を誤魔化すために淹れる紅茶は、シノンから教わった、魔戒法師が使う薬草を少し使ったブレンドティー。ソーサーの上に置かれた白いティーカップの中に揺らめく薄紅の水面に、うつむく自分の顔が反射する。

 

(言えないよ……『SAOで、アスナとキリトは結婚してたんだよ』なんて……)

 

 ありえざる記憶。

 架空の思い出というにはあまりに生々しい、まるで全てを実際に体験してきたかのようなリアルな感覚の積層。喜びも悲しみも無数に存在する虚構の記憶達の中で、最も暖かいもの。

 一人の少女が、一人の少年と出会った。喜びも、悲しみも、怒りも、嘆きも、共に感じた。時に刃を交えてぶつかり合い、時に剣を以て命を守り合った。恋をした。結ばれた。死にゆく彼の為に自らの命を捧げた。そして、世界が砕け散る時を共に迎えた――そんな、遥かな記憶。

 結城明日奈は鮮明に覚えている。その、全てを。

 

「いえないよ~~~~~~~~!!」

 

 スツールに腰掛け、両足をぱたぱたと前後に動かしながら、明日奈はキッチンテーブルの上に突っ伏すと、顔を伏せたまま声を上げる。紅茶の入ったカップは器用に避けて。

 意識しないようにすればするほど意識してしまう。『SAO』での思い出も。この家に来てからのことも。昨日の夜から今日にかけて、自分が(半ば勢いに任せて)してしまった諸々も。

 考えないようにすればするほど考えてしまう。自分の中にあるこの想いが『SAO』の記憶を生んだのか。『SAO』の記憶がこの想いを生んだのか。

 

(――って、なんなのよー! 『想い』ってー!!)

 

 美術館で出会ったあの夜以来、時に明日奈をじくじくと苛み、時に明日奈をふわふわと心地よく包む想い。それが命を救われたことに対する『謝意』なのか、あり得ざる記憶への『懐古』なのか、あるいは全て『幻想』にすぎないのか、それとも、もっとシンプルで情熱的な――ともかく、それがなんなのかをはっきり見出すには、明日奈を取り巻く現状は特殊すぎる。

 

「……なにやってるの? 明日奈」

「しっ、シノのん!?」

 

 聞こえてきた声に驚いて顔を上げれば、蒼色の魔戒法師・シノのん――もとい、シノンと目が合う。風呂から上がってきたばかりなのか、いつもの魔法衣姿のまま、晴れた日の空のように蒼い髪をタオルで拭きつつ、怪訝な顔でこちらを見ている。

 

「どうしたの? 和人と喧嘩でもした?」

「しっ、してないよ! ちょっと、考え事をしてただけ」

「そ。ならいいんだけど」

 

 大きな冷蔵庫の扉を開け、シノンはミネラルウォーターのボトルを取り出すと、キャップを開けて中身に口をつける。500ml容量のボトルに入った透明な中身、その3分の1ほどをごくごくと飲んだあたりで口を離し、キッチンテーブルを挟んで明日奈の向かい側に座る。

 入浴剤か、それともシャンプーの香りだろうか。どこかで嗅いだ覚えのあるさわやかな香気が、シノンの方から微かに漂ってくる。

 

「シノのんは……お風呂?」

「ええ。和人のトレーニング相手になってたら、結構汗かいちゃって。

 魔戒騎士って体力がハンパじゃないから、手合わせの相手になるのも大変なのよ」

 

 そう言って、シノンはミネラルウォーターを更に一口。

 明日奈より少し年下の、見た目には普通の少女としか思えないシノンが、和人の――ホラーの体を殴って吹き飛ばし、その体を軽々と飛び越えるくらいはやってのける魔戒騎士(おとこ)のトレーニング相手を果たせるという事実がニワカには信じがたい。

 それくらい出来なければ、彼の隣に立って戦うことなど叶わないのだろう。

 

「……ねえ、シノのん」

「なに?」

「シノのんはどうして、キリトくんと…………一緒に戦っていこうって、決めたの?」

 

 口をついて出たのは、問おうと思っていた事とは少し別の内容。突然問いかけられて、一瞬きょとんとしていたシノンは、少しばかり間を置いてから口を開いた。

 

「どうしたの、急に」

「キリトくんにね、聞いたの。何年も前から、シノのんやリズに支えられてるって。

 それってやっぱり、魔戒法師としては普通なの?」

「……知りたい?」

 

 こくこくと首を縦に振る。

 

「なら、交換条件」

「交換条件?」

 

 問い返す明日奈に、シノンは静かに頷く。その表情は、新しいおもちゃを見つけた子供のようで。どんな条件を出してくるのか若干の恐怖を覚えながら、明日奈は続きを待つ。

 

「単純よ。私は明日奈が知りたいことを教える。その代わり、明日奈も私の質問に答えて。

 もちろん答えたくない質問は、パスしていい。……こういう条件でどうかしら?」

「……オーケー」

「じゃ、決まりね」

 

 にこりと微笑むシノンに、明日奈もまた微笑みを返す。交換条件というからどんなものを出されるかと思えば、交互に質問に答えていくだけの単純なもので安心する。

 ボトルの水をもう一口分飲んだあと、シノンが口を開く。

 

「さっきの質問――『普通なのかどうか』への答えだけど」

「うん、うん」

「半分はYES、半分はNO」

「半分?」

「そう。半分」

 

 予想外の答えに戸惑う明日奈に、どこか含みのある笑みを向けながらシノンは言葉を続ける。

 

「『法師が騎士を支える』のは普通のことよ。同じ魔物(ホラー)相手に戦う仲間だしね」

「そうだよね……じゃ、じゃあ。もう半分って?」

「いくら魔戒法師が魔戒騎士を支える存在だからって、それだけで同じ家に住んだりしないわ。

 1日2日ならともかく、4年以上も。――ねえ、明日奈。

 あなた本当は『どうしてシノのん(わたし)は和人と一緒に暮らしてるの?』って聞きたかったんじゃない?」

「……それは、シノのんの質問にカウントしていいの?」

「ええ、もちろん。それで……答えは?」

「…………YES」

 

 何もかも見透かしたような蒼い瞳に、降参と肯定の意を含んだ頷きを返す。「やっぱり」と、納得した声を漏らすシノンから目を逸らし、明日奈はすっかりぬるくなってしまった紅茶に口をつける。

 どうしてわかったのか――と問い返せば、それを質問にカウントされてしまいそうだと気付いて思いとどまる。いま聞きたいことは、それではない。

 明日奈は静かに答えを待つ。何を問いたいか、シノンはもう知っているのだから。

 自らの質問権を言葉にする代わりに、明日奈は視線でシノンを促す。

 

「約束したのよ。あいつと」

「約束?」

「『次に会った時、和人(あなた)が一人前の魔戒騎士になっていたら――』」

「……いたら?」

 

 勿体つけるように言葉を切り、シノンは再びボトルの水を口に含む。透明な液体を、ごくりと喉を鳴らして飲み干し、唇の端から零れ落ちそうになっていた水粒を、舌を伸ばしてぺろりと舐めとる。

 その挙措にじりじりとさせられながら、回答の続きを待つ明日奈にくすりと微笑みかけ、たっぷりと間を置いてからシノンは再び口を開く。

 

「――せっかくだし、昔話でもしましょうか。明日奈」

 

 

 

―――――

 

 それは、彼女がまだ11歳だった時のこと。

 それは、彼女がまだ『シノン』になる前のこと。

 それは、彼女がまだ『桐ヶ谷和人』の名を知る前のこと。

 

(まったく、なんで私がこんなこと……)

 

 右手に汗を拭くためのタオル。左手に冷えた薬茶を入れた水筒を携えて。

 シノン――『朝田詩乃』は、中天を僅かに過ぎた太陽からの光が差し込む山道を一人登っていた。

 茶色く染まった落ち葉の絨毯と、寂しさを塗り込んだ色をした木々が立ち並ぶ、人の気配無き山の中。詩乃を導くのは、注意しなければ見失ってしまいそうなほどに細い道。

 夏の暑さも、冬の寒さも縁遠いこの時期の空気を肌に感じながら山道を進むこと暫し。詩乃の視界にようやく、目的の場所が映る。ここに足を運ばせた原因である、彼の姿も。

 

「生きてる? 『クロ』」

 

 砂地の広場、その中央に四肢を投げ出し、仰向けに倒れ込んだままの少年に声をかけながら、詩乃はタオルを放り投げる。空中でふわりと広がった白いタオルが、そのまま少年の顔にかかる。頭から爪先まで黒一色の髪と訓練着で固められた中で、白いタオルがコントラストを描く。

 よほど痛めつけられたのか、歯車が錆びついた機械人形のように引っかかりを感じる動作で腕を上げ、少年は顔にかかったタオルをつかむ。

 そのまま数度、無造作に顔の汗を拭った後。少年はやっと上半身を起こす。

 

「……ああ」

 

 痛みをこらえながら、少年はタオルを伸ばしたままの右足の上に置く。

 『クロ』。

 黒髪。黒目。黒鉢巻の、黒ずくめ。詩乃よりひとつ年上の修行仲間。

 男なのが信じられないほどに可愛らしい顔立ちをした、いずれ魔戒騎士となる者。

 彼の額に結われた黒い鉢巻。後頭部から背にかけて長く伸びているその両端が動くたび、ときおり長い黒髪が伸びているような錯覚を作り出す。

 彼の名前を、詩乃は知らない。『クロ』というのは、あくまで仮の名。『黒い鉢巻』をしているから『クロ』。ただそれだけだ。

 同様に、クロも詩乃の名を知らない。

 未来の魔戒騎士の名を、魔戒法師になれるかまだわからない詩乃が知ってしまえば、後々厄介なことになるかもしれない。そんな懸念があるが故に、互いに名を明かさない。逆もまた然りだ。

 

「ん」

「ありがとう」

 

 詩乃がぶっきらぼうに差し出した水筒を、クロは空いている左手で受け取る。よほど喉が乾いていたのか、クロは蓋を勢い良く開けると、水筒に直接口を付け中身をごくごくと飲み干していく。そうして、詩乃が満タンに入れてきた冷茶の7割ほどを一気に喉へ流し込んだあと、ようやくクロは水筒から口を離した。

 

「悪いな、いつも。持ってきてくれて」

「仕方ないでしょ。お師匠様が持っていけって言うんだから」

 

 唇の端からこぼれた茶の雫を袖で拭いながら立ち上がるクロから視線を逸らし、詩乃は小さくため息をつく。

 一人前の魔戒法師になるべく、11歳の誕生日を機に魔戒法師である師匠のもとに弟子入りをしたあの日から数えて、そろそろ3ヶ月。師匠の家に住み込みながら、魔導筆の使い方を学び、術の操り方を学び、符の作り方を学び、当然体も鍛えるハードな修行生活を経て、少しは自信もついてきた。

 そんなある日だ。導師に連れられ、この黒ずくめがふらりとやってきたのは。

 

『今日からこいつが修行仲間になる。仲良くしてやれ、お嬢ちゃん』

 

 導師――詩乃から見ると、師匠の夫にあたるベテランの魔戒騎士。

 ホラーと戦う傍ら、普段は修練場にその身を置き、未来の騎士たらんとする子供達を鍛える務めに就いている導師が、なんの前触れもなく連れてきたのがクロだった。

 修行仲間が出来た事を、詩乃が嬉しく思わなかったと言えば嘘になる。自分で選んだ修練の道とは言え、たった一人で修行をこなす毎日が辛くないわけはなかったし、導師の言うとおり仲良くしようとも思った。

 ――出会って数時間後に、あんな事が起きるまでは。

 

「それで、10連敗した気分はどう?」

「……負けた前提かよ」

「当たり前でしょ。あんたが導師に勝てるわけないじゃない」

 

 詩乃の言葉にクロは憮然とした表情を見せる。

 この10日間、クロが導師を相手に倒れて動けなくなるまで手合わせを挑み続けている事を詩乃は知っている。勝つどころか、まともに一撃を叩き込むことすら出来ていないことも知っている。誰あろう、クロ自身に聞いたからだ。

 静かな山中に造られたこの砂地の訓練場で、朝早くからソウルメタルの剣戟音を響かせるのがクロの日課なら、クロが限界を迎える昼すぎ付近にタオルと茶を持って様子を見に行くのが詩乃の日課。

 詩乃自身がそうしたいわけではないのだが、師匠に言いつけられているのだから仕方ない。

 

「それで。今日はどうだったの?」

「……思いっきり飛び込んだんだ。導師の懐に」

「それで?」

「蹴っ飛ばされて、そのまま……負けた」

 

 訓練着についた砂を払いながら、クロは立ち上がる。その視線が向かう先は、詩乃――ではなく、そのざっと10メートルは後ろにある大木。おそらく、導師の蹴りで吹き飛ばされた先にあったのがあの木だったのだろう。樹の幹に背中から叩きつけられ、体勢を崩した所を攻め立てられるクロの姿が、ありありと想像できる。

 

「間合いは詰められるようになってきたんだ。次は……必ず」

 

 クロは詩乃の横を通り過ぎ、その木の根元にタオルと水筒を置くと手足を伸ばして軽くストレッチし、大木から少し離れたところに設置された木人形の前に立つ。右手に握るのは、ソウルメタル製の訓練用ショートソード――ではなく、両刃のロングソードを模して造られた木剣。その切っ先を木人形に向けて、クロは構えを取る。

 2メートルほど高さを持つ木の円柱に、人間の腕のように関節がついた棒をくっつけた訓練用ダミー。その胸部に刻まれた魔戒文字、そして魔戒法師の術が、構えを取ったクロに反応し、その腕をひとりでに動かし始める。

 

「――はっ!」

 

 袈裟斬り。突き込み。薙ぎ払い。

 木人形が二刀を操る剣士のごとく振るう両腕をかわしながら、クロは気合と共に木剣の刀身を叩き込んでいく。

 少し前まで、体格も経験も上の魔戒騎士にこれでもかと言うほど打ちのめされていたはずのクロ。だというのに、ほんのすこし休憩を挟んだけでまた戦えるようになるバイタリティに詩乃も最初は驚かされたものだが、10日も眺めていれば流石に慣れる。

 大樹の幹に背中を預け、詩乃は木人形を相手に鍛錬を続けるクロをじっと見つめる。ソウルメタルの金属音とは違う、木同士がぶつかりあう際のかんかんという音が耳に心地よい。騎士の卵の踏み込みが砂地を踏む音も、時折漏れる吐息の音も、同様に。

 

「ねえ、クロ」

「なんだ、よっ!」

 

 木人形と切り結ぶ手を止めること無く、クロが答える。

 突き込まれる木の腕を避けながら、木人形の首に右手の木剣を叩きつける。痛みに怯む事のない木人形がノータイムで繰り出してくる右腕の袈裟斬りを、切っ先を下に向けて斜めに傾けた木剣で受け流しつつ、クロはその場で地を蹴って跳躍。振り回される木人形の左腕、そして胴体へ、空中で連続蹴りを叩き込み着地する。

 

「あんた、どうしてここで修行してるの?」

「どうして、って――」

 

 木人形の右腕が、着地したクロの体を再度狙う。ぶんっ、と鋭く風を切る音と共に、地面と平行線を描きながら振るわれる低軌道の右腕。クロは地面に木剣を突き刺し、その直撃を阻止して立ち上がる。

 

「――決まってるだろ」

 

 姿勢を立て直したクロの頭部を狙い、木人形の右腕が横薙ぎに叩きつけられる。左腕同様の強烈な殴打を木剣で受け止め――たくとも、今の彼が手にする剣は一振りのみであり、その剣は地面に突き刺さったまま。交差させた両腕を体の横に回し、クロはかろうじて木人形の右腕を受け止める事には成功するが、その小さな体では威力を殺しきれず――結果、クロの体は弾かれ、宙へと打ち上げられる。

 あぶない――思わずそう叫ぼうとした詩乃を押しとどめたのは、誰あろうクロの叫び。

 

「魔戒騎士に、なるためだ!」

 

 横方向へ弾き飛ばされた勢いのまま、クロは空中で体を捻り、同時に突き刺した木剣の柄を右手で掴んで引き抜く。押しとどめられていた木人形の左腕が、抑えを失って右側へと振り抜かれていくのと同タイミングで、クロは手にした木剣を振るう。

 

「はあっ!!」

 

 空中にいる状態で右斜めへの袈裟斬り(スラント)を振り抜き、クロは木人形の首へ右手の木剣を一閃。軽快な打撃音と共に着地すると同時に、クロは下段へ構え直した木剣を一気に振り上げる。無防備となった胴体に垂直軌道の斬り上げ(バーティカル)が叩き込まれ、その衝撃で木人形が後ろに大きく傾ぐ。そこまでされて、木人形はようやくその動きを止めた。

 荒れる呼吸をゆっくりと整えてから、クロは天を指すように振り抜かれた木剣を背中に――ではなく、木人形から少し離れたところに置かれたケースへと戻す。そうして、訓練相手となった木人形に深く礼をし、傾いたその体を押して元の状態に戻したあと、ようやく詩乃の方に顔を向けた。

 

「修練場って知ってるだろ? 魔戒騎士の家の子供が集められて、資質を見極められる所」

「ええ」

「そこでの修行が終わった後にさ、導師に誘ってもらったんだ。

 『魔戒騎士になりたいなら、うちでしばらく修行しないか』って。だから、俺はここにいる」

 

 何年か前にホラーの強襲を受け、幾人もの子どもたちが喰われたという曰く付きの修練場。そこで魔戒騎士の子供達を指導するベテランこそ、クロの導師である魔戒騎士。

 ホラー狩り、そして修練場での仕事があるため、付きっきりでクロに教えているわけでは無いそうだが、それでも称号を持つほどの魔戒騎士に直接ぶつかっていけるのは貴重な経験であり、毎日が新しい発見の連続だとクロは言う。

 詩乃は足元に置いてあった水筒を持ち上げると、こちらに歩いてくるクロを狙って放り投げる。きれいな放物線を描いて飛ぶ水筒が向かう先は、ちょうどクロが上げた右手の中央。がしりと水筒をつかみ取ったクロは詩乃同様に木陰に入ると、その太い幹によりかかり、蓋を開けて中身に口を付けた。

 

「そうだったの。てっきり――わたしの裸をのぞき見するためだと思ってたわ」

「っう゛ぇっ!?」

 

 隣で茶を飲んでいたクロが盛大にむせる。暫しの間げほげほと悶えて、かろうじて吹き出さずに耐えきることに成功したクロは、深呼吸をしてなんとか落ち着きを取り戻す。

 

「い、いきなりなにを――」

「見たわよね?」

「はい」

「……」

「……たいへん、もうしわけありませんでした」

 

 じとりと横目で睨んでやれば、クロは表情を一気に気まずそうなものに変え頭を下げる。

 今にして思えば、あれは事故だった。不幸な事故ではあったのだ。

 10日前。導師に連れられて、クロがここにやってきた日のこと。

 ハードな鍛錬メニューを終え、熱い湯に浸かりながら一日の汗を流していたとき、詩乃は浴室の隣にある脱衣所に誰かが入ってきた気配を感じ取った。すりガラスがはめ込まれた扉越しに目を凝らして見れば、脱衣所で動いているのは自分と同じくらいの体躯をした真っ黒な影。つまり、クロ。

 自らと同じく『魔戒法師』を志す『女の子』がトレーニングを終えて汗を流しに来たのだろう。そう判断をした詩乃は、タオルを手に浴槽から上がり、洗い場で体を拭いてから脱衣所へと続く扉を開けた。

 ――そこから先は思い出したくない。何を見られて、何を見せられたのか、思い出したくない。

 ともかく、詩乃は理解した。

 クロは『女の子』などではないことを。

 己が致命的な判断ミスをしたことを。

 反射的に手が出ることを。

 

「避けたわよね?」

「はい」

「…………」

「……ほんとうに、ほんとうに、もうしわけありませんでした」

 

 片手に持ったタオルで体を隠しながら、咄嗟に繰り出した平手打ち(ビンタ)。それが顔面に直撃する寸前、クロはそれを最小限の動きで回避。直後、謝罪の叫びと共に、脱いだもの一式をひっつかんで脱衣所を飛び出していくクロを、詩乃は呆然と見送るほかに無かった。

 そうして、実に気まずい10日が過ぎた今。

 詩乃の目の前にいるのは、深々と頭を下げたままのクロ。親指と中指を曲げ、詩乃がそのつむじに向けて渾身のデコピンを叩き込むと、「いっでっ!」という声と共にクロが顔を上げる。

 

「……思い出したら、余計に腹が立ってきたんだけど」

「理不尽すぎる……」 

 

 打たれたつむじのあたりをぽりぽりと掻くクロを見ながら、どうしてやろうか思案を巡らせる。ふとその黒い体越しに、先程までクロと激闘を演じていた木人形の姿が映る。

 ――当てそこねたビンタの代わりを食らわせてやるには、ちょうどいい機会かもしれない。

 

「ねえ。悪いと思ってるなら、私の頼みを一つ聞いてくれない?」

「いいけど……頼むから『今からビンタするから避けるな』くらいで済ませてくれよな」

「そんな事言わないわよ。まあ、結果的には同じ事になるかもしれないけど」

「結果的には、って……」

 

 若干困惑した表情を浮かべるクロを手招きしながら、詩乃は木陰を出る。訓練場の中央部付近まできたところでクロをその場に停止させつつ、詩乃はそこから更に5,6歩ほど歩いたあと、くるりと振り向いて再びクロと向き合う。

 

「一戦、付き合いなさい」

「……はい?」

「手合わせよ、手合わせ。あんたみたいに剣は使えないから、素手で我慢してもらうけど」

「………………ジョークだよな?」

 

 真顔。

 あまりにも真顔。

 いくらなんでも、失礼に程がある。

 

「本気よ! 言っておくけど、私だって毎日鍛えてるのよ。

 あんたと手合わせするくらい、わけ無いんだから!」

 

 唖然とした表情のクロから適切に距離を取り、詩乃は戦闘の構えを取る。左腕と共に左半身を僅かに前に出し、右半身を引く基本の構え。本来は右手に魔導筆を握るべきなのだが、さすがに近接戦闘で筆を使えるほど扱いには熟達していないため、ここは素直に素手を選択する。

 

「……本当に、本気なんだな?」

「ええ」

「『やっぱりやめる』って言うなら、今のうちだぞ」

「それこそ冗談じゃないわ。あんたこそ、あとで吠え面かきたくなかったら、本気できなさい。

 女相手だからって甘く見てるんだったら、たっぷり痛い目みせてあげる」

 

 力強く言う詩乃に向けて軽くため息を吐きながら、クロは詩乃と同じ型の構えを取る。僅かに半身を引きながら、すっと構えられたその姿にこれといった不自然さやぎこちなさは見受けられない。木人形相手に見せたあの動きはあくまで剣ありきのものだと思っていたが、基礎的な体術もしっかり鍛えていたらしい。

 その事実に少しばかり驚きながらも、詩乃は構えを解くつもりはなかった。この10日、クロの動きはしっかり視界に捉えられていた。

 確かにクロの動きは早い。自ら放つ攻撃も、相手の攻撃に対する反応速度もいい線をいっている。それでも、あの程度の早さであれば対処できる。詩乃はそう判断していた。

 魔戒騎士と言っても、所詮は自分と大して変わらないひよっこ。剣を学ぶか、術を学ぶかの違いがあるだけで、あとは大差ない。むしろ、相手の動き方を知っている分、自分の方が有利かもしれない。

 この10日間、詩乃とてぼんやりと過ごしてきたわけではないのだ。

 

「そうか。じゃあ――手加減無しだ」

 

 ――そんな余裕は、一瞬で消えた。

 ぞくり、と。背骨の中にドライアイス製の氷柱を差し込まれたような、感じたことのない怖気が詩乃の思考を吹き飛ばす。魂を握りつぶすような視線が、詩乃の身体から自由を奪う。その視線の主は、もちろんクロ以外にありえない。

 

(これ……これが、クロ? 本当に?)

 

 ほんの数秒前まで隠しきれない人の好さを滲ませていたその顔から、今は一切の笑みが消えている。代わりにその顔を支配するのは、肌がぞくりと粟立つほどの恐怖すら覚える、鋭い真剣の如き表情。

 まるで何かのスイッチが入ったかのようなクロの雰囲気に、そして気迫に、完全に圧倒されている己をなんとか奮い立たせ、詩乃が無意識に下がりかかった腕を構え直した直後だった。

 

「いくぞ」

 

 クロは、ぽつりと呟き。

 一瞬の後、彼は詩乃の目の前にいた。

 

(……え?)

 

 文字通り、瞬き一つする間の出来事だった。

 訓練用の魔法衣に守られた腹部を打ち抜く、強烈な衝撃。

 体ごと後方に吹き飛ばされ、地面に叩きつけられるまでの僅かな間、詩乃にできたのはただ驚愕することだけだった。

 力づくで後方へのベクトルを与えられた肉体は、しばし上昇軌道を描いた後、重力に従って地面に叩きつけられる。その反動で一度大きくバウンドしたあと、打撃の威力を推進力にして砂地を滑っていく体が摩擦力の働きでようやく停止する頃になっても、詩乃には何が起きたのか完全には理解できていなかった。

 唯一わかるのは、腹部をじくじくと苛む痛み。強く打ち付けた背中は魔法衣による防護のおかげで何ともないというのに、みぞおちの辺りからは誤魔化しの効かない痕跡が響く。

 

「――おい、大丈夫か!?」

 

 仰向けに倒された体を起こすことも忘れ、呆然としたまま動けないでいる詩乃の視界に、慌ててかけよってきたクロの顔が映る。先程までの怜悧な表情はどこへやら、クロは焦燥を露わにしながら、倒れた詩乃の側に跪く。

 

「ごめん、やりすぎた! 頭とか打ってないか!?」

「……だ、大丈夫よ……たぶん」

 

 クロの腕に背を支えられながら、詩乃はようやく上半身を起こす。肉体への打撃よりもむしろ、理解のできない体験によって揺さぶられた精神のほうがよほどダメージが深い。

 

「……ねえ、クロ。今、なにしたの?」

「いや、なにって……。普通に間合いを詰めて……『掌打』っていうんだったかな。

 こんな感じで、手のひらをばしっと当てるやつをやったんだけど……」

 

 空いている方の手を開き、手のひらを僅かに前に出してクロは動作を再現する。その技も、間合いを詰める歩法も、木人形相手の手合わせでクロが使っているのを見た覚えはある。だというのに。

 ようやくはっきりしてきた思考の中で思い返す十数秒前の出来事と、これまで見てきた光景が結びつかない。

   

「……うそ、嘘でしょ?」

「嘘じゃない」

「絶対にうそよ! だって、『いつも』はあんなに早く動いてなかったじゃない!」

 

 思わず木人形の方を差してしまった詩乃の指先を、クロの視線が辿る。少しだけ間を置いてその意図を理解したクロは、詩乃の体についた砂を払いながら「ああ」と頷く。

 

「まあ、『いつも』はいろいろ考えながらやってるし」

「考え……?」

「もっと早くできないか、って。技後硬直(ムダ)の詰め方、攻め(カタ)の繋ぎとかをさ。

 そこら辺考えないようにして集中すれば、さっきくらいの早さで色々やれる。

 ……まあ、それでも導師には全然敵わないんだけどさ」

 

 困ったように笑うクロの顔を、詩乃はぽかんと口を開けたまま、ただ呆然と見上げる。

 数分前まで、自分と同じただのひよっこだと思っていた。性別が違うだけの、ただの子供だと思っていた。蓋を開けてみれば実態はどうか。

 たった一合、たったの一撃で理解する。理解させられてしまった。

 クロと己とでは、立っている場所が違う。見ている先が違う。(レベル)が違う。

 それも数段どころの話ではない。文字通り、桁違いだった。

 

「どうして……」

「ん?」

「どうして、クロは、そんなに……」

 

 背に回された腕と膝裏に回された手に軽々と持ち上げられ、先程までいた木陰に運ばれている事に気づく余裕すら無いまま、詩乃はただ胸中に浮かんだ疑問を言葉に替える。

 何を聞きたかったのかは、自分にもわからない。それでも、クロの方では途切れた言葉の先に続く部分を補完したらしい。

 

「どうしてって……これくらいできなきゃ一人前になれないから、できて当然っていうのかな……。

 これでも魔戒騎士の息子だし、ここに来る前もそれなりに鍛えてたしさ」

 

 ことも無げに言ってのけ、クロは詩乃の体を大樹によりかからせるようにしながら静かに地面へと降ろす。

 

「じゃあ、どうして自分の家で修行しないのよ? あんたのお父さんも、魔戒騎士なんでしょ?」

 

 きょとんとした顔のクロに向けて、詩乃は以前から抱いていた疑問をぶつける。

 魔戒騎士の家に生まれた子供は、父親を師と仰いで技を学び、ゆくゆくはその鎧を受け継ぐのが普通だと聞いたことがある。親子関係にない導師の所へ修行を受けに来たクロの事を、魔戒法師を志望する女の子だと詩乃が勘違いした原因もそれだ。

 その問いにクロが返答するまで、ほんの僅かな間があった。

 

「死んだよ」

 

 その答えに、詩乃が反応できるようになるまで、長い間が必要だった。

 

「――えっ?」

「死んだんだ。父さんも、母さんも」

 

 まるで、今日の天気でも話しているかのように。何でもないことであるかのように。平然と語るクロとは対象的に、詩乃はただ呆然とするのみ。これ以上、聞く必要は無い。問う必要はない。わかっているはずなのに、詩乃は彼の語る言葉を静止できない。

 

「――俺の母さんさ、ホラーの血を浴びたんだ」

「そんな……」

 

 ホラーの血を浴びる。それがどれだけ恐ろしいことか、見習いの魔戒法師である詩乃ですら知っている。ホラーの血に染まった人間は、ホラーにとって極上の餌となる。故に、生きている限りホラーに狙われ続ける。それだけならまだいい(・・・・・・・・・・)

 血を浴びてから100日が過ぎた後。血に染まりし者は、気を失うことすら許されない激痛の果てに、悪臭を放ち、醜く崩れ、獣の声を上げて死んでいく。それこそが、ホラーの血を浴びた者の末路。

 故に、魔戒騎士は『ホラーの血を浴びた者を斬る』という掟を背負う。そんな惨い最期を迎える前に、せめて人として楽に死なせてやるために。

 遠からぬ先に待つ死。慈悲として与えられる死。血に染まりし者に待つのは、いずれにしても自らの死のみ。その残酷な二者択一を回避するための手段は、たったひとつだけ。

 

「浄化は……『ヴァランカスの実』は、手に入らなかったの!?」

 

 自分ではそうと気づかないまま、詩乃は掴みかからんばかりの勢いで、クロに問いを投げかける。

 ホラーの血を浴びた者を救う唯一の手段。それこそが『ヴァランカスの実』と呼ばれる希少な果実。その果実を使うことでのみ、ホラーの血を浄化することが出来る。

 

「手に入ったよ」

「じゃあ、どうして!? あの実があれば、ホラーの血だって――」

「……血を浴びたのは、母さんだけじゃなかったんだ」

「どういう……」

 

 詩乃の頭のなかで、無意識に目をそむけ続けていた点と点が、破滅への予測線を描いた。その弾道を丁寧になぞるように、クロの口から言葉が放たれる。

 

「ホラーの血を浴びた時、母さんのお腹の中には子供がいて……その子も、ホラーの血に呪われた。

 だから、母さんは自分を浄化しなかった。子供を――俺を生かすために、自分の命を諦めたんだ」

 

 ヴァランカスの実ひとつにつき、浄化できるのはひとりだけ。救える命は、ひとつだけ。

 そんな事はわかっていた。ここにクロがいる事が何を意味するのか、それすらも。

 

「ホラーの血を接浴びたわけじゃない俺を浄化するのは、すごく無茶な話だったみたいでさ。

 生まれたばかりの俺を実で浄化するために、父さんと母さんは自分の命を使い尽くした。

 ――導師からは、そう聞いてる」

 

 彼の声音に重さはなく、彼の表情に陰りはない。もう、ケリのついたことだからと。きみ(詩乃)が気にすることじゃないと。

 だというのに、どうしてだろうか。訥々とクロが気遣ってくれる度に、逆に詩乃の心は締め付けられる。

 彼の、少しだけ乾いたその声が。救われてしまった重責に押しつぶされそうなその笑顔が。己が命の使いみちを見出してしまったその姿が、詩乃の胸中をどうしようもなくざわつかせる。

 

「俺は魔戒騎士になる。魔戒騎士になって、父さんと母さんの分までホラーを狩る。

 そうできなかったら……俺が生きてる意味なんて、どこにも無いからさ」

 

 決意と諦念。使命感と義務感。ただひたすらに前に進む事を己の存在定義に変えてしまった求道者。笑い手招く棺桶に身を投じる自殺志願者。

 人形のような顔立ちに様々なイメージを読み取れる複雑な表情を浮かべながら、クロは静かに語り終えると、再び木人形を相手に鍛錬を開始した。

 かん、かん、と。人の形をした木と、人――あるいは、人の形をした機構(システム)になろうとしている者――が奏でる響きの中。かけるべき言葉を見つけられないまま、詩乃はその光景を見つめ続けた。

 

 

 

――――――

 

「――そう、だったんだ……」

「ええ」

 

 詩乃――シノンは頷き、ティーカップに注がれた紅茶に口をつけた。

 彼女が静かに語った、クロ――桐ヶ谷和人が背負う過去の影(オリジン)。その内容は、明日奈の心の内を乱すには十分すぎる内容だった。

 白いソーサーの上に、ことりと小さな音を立てながらシノンはカップを置く。

 

「それから毎日、私は和人と手合わせをするようになったわ」

「毎日?」

「ええ。あの澄ました顔に、今度こそビンタでも食らわせてやろうと思ってね。

 『私に一本取られてるくせに、生きてる意味が無いとか言うなんて百年早いのよ』――って。

 ……半年かかっても、言えなかったけど」

 

 揺れる赤い水面の上に、シノンの顔が映り込む。

 

「クロは――あの頃の和人は、物凄く強かった。強くて、まっすぐで――すごく怖かった。

 ご両親の死を自分の責任だと感じて、それを償うために、ただひたすら強くなることだけを考えていて……いつか戦いの中で死ぬ事を望んでいるみたいに見えて、怖かった」

「そっか……だから、シノのんは……」

「ええ。だから、あいつがホラーに負けて死ぬより前に、私が負かしてやろうと思ったの。

 『あんたは悪くない』なんて、口で言っても効かなそうな奴だったから」

 

 その声音には、少しだけ悔しそうな色を滲ませつつも。和人の過去を語るシノンの表情は、どこかこそばゆく、そしてとても嬉しそうだった。

 

「あの頃の私は、あいつに追いつきたくて……ううん、おいていかれないようにするので、必死だった。

 結局、一回も勝てなかったけど――あいつは、どう思ってたのかしらね」

 

 

 

――――――

 

「――正直、必死だったよ」

『そうだったんですか? パパ』

「ああ。俺がなんとか勝ててたのは、状況が俺に有利だったからさ」

 

 コンクリート製の壁に背を向けるようにして立ちながら、桐ケ谷和人は首元に下げた魔導具・ユイの問いに対し、首を縦に振った。

 今日も今日とて、町に蔓延る邪気をため込んだオブジェを浄化してゲートを封じ終えて、『綾の番犬所』に寄ったあと。

 番犬所の神官・シリカより『リズさんと色々と打ち合わせたいことがある』と伝えられたのは、今から20分ほど前の事。

 

『乙女の会議は男子禁制です!』

『……だってさ』

 

 同席すべきかと迷った矢先に、当のシリカとリズにこう言われてしまっては、選択肢は一つしかない。

 結局、和人は番犬所の外――正確に言うと、番犬所へとつながる秘密の入り口がある場所のすぐ傍で、リズが出てくるのをぼんやりと待っていた。

 ただ待っているだけでは手持無沙汰ということもあり、どうしたものかと考え始めた矢先。同様に暇を持て余していたらしきユイに『パパはどうして、騎士になったのですか?』と聞かれ――しばしの間、ぽつぽつと昔話を続けてしまっていた。

 

「ユイ。俺がルナーケンと戦った時のこと、覚えてるか?」

『もちろんです。私とパパが、初めて会ったときのことですから』

「じゃあ、俺がルナーケンの『武器』に吹っ飛ばされた時の事は?」

『それも、覚えています。シノンさん、法術でパパのピンチを救ってくれたんですよね』

「ああ。あんな風に、シノンには今まで何度も助けられてるんだけどさ。

 ――初めて彼女に救けられたのも、俺が導師の所で修行してる頃だったな」

 

 それは、忘れえぬ記憶。

 幼さと決別した日の思い出。

 どうやら、リズはまだ番犬所から出てこないようだ。まだしばらくは暇な時間が続くことを予感し、桐ケ谷和人は昔話を続けることにした。

 

 

 

―――――

 

 転機。分水嶺。運命の訪れ。人生の境目となる重要な瞬間(クォーター・ポイント)

 たかだか12年しか生きていない『少年』の人生にも、それは幾度となく存在した。

 例えばそれは、実の両親の命を生贄に、この世に生を受けた時。

 『桐ヶ谷和人』の名を与えられた時。

 妹と共に剣道を始めた時。

 ホラーに遭遇し、蒼い鎧をまとう騎士に命を救われた時。

 ――己が魔戒騎士の系譜を持つ家に生まれた、血のつながらぬ子だと、義理の両親に教えられた時。

 騎士になると決めた時。

 憶にない瞬間もある。記憶から消せぬ瞬間もある。

 後に思い返せば、この日もまた、少年の人生を変える転機だった。

 

(……行くか)

 

 太陽がちょうど中天を指そうかという昼の頃。

 靴紐を結び終えた少年は立ち上がり、玄関の戸に手をかけ、無駄な音を立てぬよう静かにその扉を引く。山道に響くのは、時折微かに聞こえる鳥達の声と少年の足音だけ。何度も人が歩いたため、そこだけ草が枯れきった道を進みながら、少年が山の端へと続く下り勾配の道に入る直前。その視界に、ふと、いつもの訓練場と木人形の姿が映った。

 

(明日で、あの子ともお別れか……)

 

 この半年、毎日のように手合わせを重ねてきた相手。倒されても、倒されても、翌日にはまた立ち向かってきたタフな彼女。名も知らず、素性も知らず――なれども、間違いなく尊敬すべき存在。

 明日、彼女はこの地を離れ、『閑岱(かんたい)』へと旅立つ。そこは人里を遠く離れた秘奥の聖域にして、魔戒法師達の修行の地。その『閑岱に赴くだけの実力と資格あり』と、彼女の師匠が認めたのだ。行かぬ理由はどこにも無い。

 

(きっと、すごい魔戒法師になるんだろうな……あの子は)

 

 内心に想うは、純粋な事実。

 最初は徒手空拳のみによる組手だけだった鍛錬。やがて少年はソウルメタルの短剣を、少女は魔導筆と符術を操るようになり、その苛烈さは日毎に増していった。

 元から近接戦闘を主眼に置いていた少年とは異なり、魔導筆による法術(メインアーム)と、八卦符を用いた符術(サブアーム)を手に入れた彼女の成長は凄まじかった。

 まるで銃弾の如く飛び来る術。その嵐を真正面から受け続けながら、少年が辛うじて白星を重ねられたのは、あくまでインファイトを主眼においた手合わせだったからに他ならない。

 加えて、未だ完成の域に至っていない彼女の術が、最高速度に達するまで一定の距離を必要としたことが少年に味方した。

 15メートルまでなら、勝てる。20メートルまでなら、刺し違えて勝てる(・・・・・・・・)。それ以上の距離になれば、間合いに剣を届かせるより先に、少女の法術の弾丸が己の心臓を正確にぶち抜いているに違いないと、少年は理解していた。 

 そんな物思いに耽りながら、山道を進み続けること数時間。導師の家からも、訓練場からもだいぶ離れた所にある、古びた気配を放つ森の前まで来たところで、少年は一度足を止める。

 

「……」

 

 深く一礼をした後、少年は森の奥へと足を進めていく。

 青々とした葉を茂らせる木々の合間に敷かれた砂利で造られた道。それは、自然に形成されて出来るような物ではない。誰かの手が入った道を歩くこと暫し。少年の視界に、前方からやってくる人の姿が映る。

 外見で判断するに、老境に入る数歩手前の年齢だろうか。不思議な紋様が描かれた符を飾った杖を片手に持った男性が、足を止めて少年に会釈をする。

 

「こんにちは、お若い方」

「どうも、こんにちは」

 

 少年も同じように足を止めて挨拶を返す。悪い人間では無さそうだが、妙に油断のできない雰囲気を持つ壮年の男は、ニタリと笑いながら少年を見つめた。

 

「いやはや、珍しいですな。こんな寂れた所に、斯様にお若い方がいらっしゃるとは。

 見たところ……貴方様は、魔戒騎士の方とお見受けいたしましたが」

「いえ、まだ修行中の身です。あなたは……魔戒法師の方、でしょうか」

「いえいえ。私はただの墓守。魔戒騎士でも、魔戒法師でもない、ただの凡人にございます。

 ……して、本日は何ゆえこんな辺鄙な場所に?」

「墓参りです。……今日は、両親の命日ですから」

「……左様でしたか。でしたら、お気をつけあれ」

 

 飄々とした声音と、油断ならぬ笑みを浮かべていた表情。墓守の男のその二つが、不意に引き締まる。

 

「実は先日……この森にホラーが迷い込むという事がありましてな」

「ホラーが!?」

「はい。そのホラー自体は、魔戒騎士によって討伐されたのですが……それ以来、森に不穏な気配が渦巻いているような気がしましてな。何か、妙な事が起きそうな……嫌な予感がするのです」

 

 『何も無いとは思いますが、どうかお気をつけあれ』と言い残し、墓守は少年がやってきた方向へと去っていく。その後ろ姿にもう一度礼をし、少年は改めて目的地を目指す。そこまでの距離は決して短くは無かったが、少年が心構えを決めるには不十分すぎた。

 

「……来たよ。父さん、母さん」

 

 もうどこにもいない二人に向け、呟くような声と共に少年は祈る。

 砂利道が途切れた先にある、木々に囲まれた一角。背の低い草と、その合間合間にぽつぽつと咲く白い花が、天に戴く太陽から降り注ぐ光を全身に浴びている。

 その緑と白を絨毯にして突き立つのは、斜めに組み合わさった二枚の板を飾りとした木板で造られた墓標。ざっと二十はあろうかというその全てが、死した魔戒騎士――それも、称号を持たぬハガネの騎士達の為に造られた、弔いの標し。先程の墓守の男が置いていったのか、墓の前には白い花が供えられ、散った騎士達の魂を慰めている。

 その墓標達に名は刻まれず、どれが誰の墓を示すのかはわからない――ただ一つ、黒い柄を持つ剣が突き立った墓を除いては。

 

「これが、父さんの剣……」

 

 夜の闇を十重二十重に折り重ねて幾度も凝縮したような、漆黒の柄。その先に続くのは、鋼色をした細身にして両刃の刀身。その長い刀身の切っ先を地に突き刺し、柄を天に向けたその剣こそ、かつて少年の父が振るった剣。そして、少年がいつか背負わねばならぬ剣。

 

『坊主、お前が魔戒騎士の定めを背負う覚悟があるのなら――父の剣を引き抜き、持ち帰れ。

 それが俺がお前に与える、最後の試練だ。……ついでに、墓参りでもしてこい』

 

 昨日、導師より言い渡された指令を思い返しながら、少年は魔戒剣の前に立ち、その柄を両手で握りしめる。上下に重ねた左右の拳で包み込むように柄を握るその姿は、どこか祈りの姿に似ている。

 ――実際、それは祈りだった。少年を浄化するために命を使い尽くし、その反動で肉片一つ、骨一つ残さず消滅してしまった父母への祈り。たった二人の血縁者への祈り。

 少年の血縁者は、もうどこにもいない。今は亡き実の母も、少年同様、幼い頃に家族を亡くし、少年の叔母――義理の母の家に養子として引き取られた経緯があったと聞いている。故に、少年と今の家族の間に一切の血の繋がりは無い。

 彼に名を与え、ここまで育ててくれた今の家族を、少年は決して嫌っている訳ではない。むしろその逆だ。叔父(ちち)も、叔母(はは)も、従妹(いもうと)も、大切に想っている。

 ただ――だからこそ、割り切れないのだ。あの暖かな空間の中で、自分だけが赤の他人という事実が、少年の心に色濃い影を落としていた。

 

「……」

 

 握った拳へ、静かに力を込める。

 魔戒剣の刀身を形造る超金属・ソウルメタルは、使い手の精神によって自在に重量を変える。膂力だけでは決して持ち上げられぬ剣を操るべく、少年は精神を集中させる。

 

「……っ」

 

 魔戒剣は、微動だにしない。少年も、微動だにしていない。なれどその心身へ掛かる負荷の凄まじさは、少年の額から浮かぶ無数の汗と、拍動を早める心臓の音が証明している。それでも腕に込めた力は抜かず、意思を一点に集中させて、魔戒剣を振るう己の姿を思い描く。命尽きるその瞬間まで、ただひたすらにホラーを狩り続ける己の姿を。

 騎士の定めを背負う覚悟が、背負ってゆく資格が己にあると証明するために。己は生きていていいのだと証明するために、少年は魔戒剣を引き抜こうとする。

 なれど――その切なる祈りは、誰にも、何にも、届くことはない。

 かつて彼の父が振るった魔戒剣は、少年の意に従わず、引き抜くどころか僅かに動かすことすらも叶わない。

  

「……ぐッ!」

 

 がくりと膝を折り、魔戒剣の柄から離してしまった手を地に付けながら、倒れそうになった体を辛うじて支える。たった数分、剣を握って立っていただけだというのに、全身から汗が吹き出し、心臓は早鐘の様に激しい拍動を刻む。

 黒い髪を濡らす汗が地面に溢れ落ちていく中、少年はぜいぜいと荒れる呼吸をなんとか整えようとする。意地で持ち上げた視線の先にあるのは、その意に従わぬ鋭き刃。恐らくは少年が生まれ育ったのとほぼ同じ年月、こうして父母の墓と共に在り、風雨に晒されてきたはずのその刀身には、一点の曇もない。

 

(……一回くらいで、諦めてられないよな)

 

 両親の死と共に時が止まったかのようなその剣にもう一度挑むべく、少年は四肢に力を込めて立ち上がる。たかだか一度負けたくらいで倒れていては、導師にも、あの子にも合わせる顔が無い。

 手と膝についた土を払い落とすと、少年は姿勢を正し、荒れた呼吸を整える。

 柄に両手を掛け、静かに息を吐く。精神を集中し、剣を引き抜く姿を思い描く。両手で柄を握りしめ、力のベクトルを上方へ向ける。

 

「はぁっ……!」

 

 剣は重く、動く事は無い。

 イメージの中に描く姿とはまるで異なる現実が、そこにはあった。

 やがて、最初の挑戦と同様に汗が吹き出し、心臓が鼓動を早める。少年の肉体は負荷に耐えきれず、再び崩れ落ちる。

 それでも立ち上がり、挑み、倒れ――幾度も幾度も繰り返し続けること、既に50を越えて。

 

「は……ああ……」

 

 敗北を重ね、倒れ伏した肉体を、振り絞った意地で動かす。

 山の向こうへ沈んでいく太陽が放つ、オレンジ色の残光が微かに差し込む墓所の中で、憔悴し尽くした少年の表情が鋼色の刀身の中に映る。

 荒れた呼吸を整える余裕など既に尽き、少年は奥歯を噛み締めながら無理矢理その身を起こし、立ち上がる。

 改めて魔戒剣の柄に手を伸ばさんとしたその時。墓標が突き立つ地面より、突如として黒い靄のような物が、まるで崖に叩きつけられた大波の如く吹き上がる。

 

「なんだよ、これ!?」

 

 予想だにしない事態に口から混乱の叫びが飛び出す。その一方で、鍛錬を重ねた体は、たとえ疲労の極地にあろうとも無意識の内に宙返りしながら後方へと飛び、黒い霞から間合いを取って着地する。それとほぼ同時に、懐からソウルメタルの短剣を抜き放ち、構えを取る。

 僅かに右半身を引きつつ、短剣の切っ先を霞に向ける。牽制と防御を兼ねた左腕は、軽く肘を突き出すようにして心臓と平行となる位置に構える。

 企図するは相手の出方に合わせたカウンター。刺突、斬撃、両手持ちあるいは逆手への持ち替え、投擲。リーチの短さと引き換えにした短剣の利点――取り回しと切り替えの早さを最大限に活かすための構え。

 ――左腕を餌に、間合いに飛び込んできた相手の急所を穿つ、必死必殺の構えでもあるが。

 

(ホラーか? なんでこんな所に……!)

 

 少年が向ける警戒の視線の先で、吹き出した霞がはっきりとした形を成していく。

 夜の闇を幾重にも折り重ねたような漆黒。その黒が形造るのは、長身にして鍛えられた体格を持つ戦士の姿。恐らくは、男。ローブ――いや、魔法衣(コート)を思わせる衣服はそこかしこがぼろぼろに擦り切れ、目深に被ったフードのせいでその相貌を伺うことはできない。

 ただ、少年は気づいてしまった。

 

(……え?)

 

 その衣服は誰の為のものか。この場所は誰の為の場所か。その墓標の下に眠っていたのは誰かを思い出し、少年の脳裏に最悪の想像が駆け抜ける。

 ありえない。あってはならない。あってなどほしくない。想像通りの結末に比べたら、いっそホラーの方がまだマシだ。短剣を構えながら、誰にともなく必死に祈る少年の眼前で――悪夢は現実となる。

 

「うそ、だ……嘘だろ……」

 

 漆黒の化身が、地に突き刺さった魔戒剣の柄へと右手を伸ばし――造作もなく引き抜く。

 ぶんと力強く剣を振って十数年分の時の流れを払うと、黒い影は両手で柄を握り直し、するりと体の正面に構える。

 堂に入ったその構え、戸惑いも躊躇いもないその立ち姿は、まるで――。

 

魔戒騎士(とうさん)……なのか……!?」

 

 かすれかけた少年の声に応えるのは、影の騎士が振るう魔戒剣の一閃。

 切っ先を地に滑らせながら、下段から斜め上段方向への鋭い斬り上げ(スラント)。想定されうるの間合いの外から振るわれたその一撃が、目に見えぬ高速の衝撃波となって少年を襲う。

 

「ぐっ! あああっ!」

 

 半ば呆然とした状態ではあったが、導師との鍛錬で幾度も喰らった技だった事が幸いした。少年の身体は咄嗟に短剣を前に出し、その刀身を左手で抑えて盾代わりにすると同時にバックステップ。直後に襲来した衝撃波をソウルメタルの刀身で受けつつ、あえて剣圧を空中で受けて吹き飛ばされる事で身体へのインパクトを減衰させる。

 それでも両腕ごと砕かれそうな程に重い衝撃をなんとか耐えきり、その威力を推進力として利用すると、吹き飛ばされた先にあった木を踏切台代わりに蹴り飛ばして跳躍。

 影の騎士の追撃は、その直後。刹那の内に間合いを詰めた突進の如き刺突(レイジスパイク)が、少年が蹴ったばかりの木に突き刺さる。大人の両腕でも抱えきるには難しいほど太い幹が丸ごと抉られ、さっきまで一本の木(いのち)だったものが辺り一面に破片を撒き散らしながら幹と切り株に寸断される。支えを喪った大樹は、重力に従って一度真下に落ちて切り株を潰した後、そのまま周りの枝々を巻き込みながら倒れていく。

 

(なんで……なんで、父さんが、俺を……! 

 ……違う、違う違う! 父さんは死んだんだ! あれは違う!!)

 

 死の化身たる影の騎士が振るう最初の剣撃を辛うじてやりすごし、少年は息を荒らげながら着地する。

 呼吸同様、思考もまた大いに乱れていた。

 今、己が対峙している者は、森に迷い込んだホラーの気配を感じ、死の床より這い出た父の亡霊なのか。あるいは、斬られたホラーの怨念が形造る悪魔なのか。あるいは、自分は最初から悪夢を見ているだけなのか。

 その疑念を解消する暇すら無いまま、黒い騎士は静かに振り返りながら再び戦闘の構えを取る。右半身を僅かに引き、地面と平行になるように剣を上げる。長い刀身の先は、盾のように突き出された左腕の上に乗るような位置を取り、少年の心臓を狙う。

 その構えは、奇しくも少年のそれと同一。故に互いの差異がよりはっきりと浮かび上がる。

 短剣と長剣。子供と大人。生者と亡者。そして――未熟な騎士と、魔戒騎士。

 

「くっっそぉおおおッ!!」

 

 内に燃える激情を露わにしながら、少年は剣を手に駆ける。企図するは、前進加速を載せた重い刺突――に見せかけ、寸前で構えを僅かに変える。寝かせていた短剣の先が天を向くように起こしつつ、左肘の角度をきつくして引き込むように身体へ寄せた左手にも柄を握らせ、両手で構え直した短剣を思い切り振り下ろす。

 

「はあッ!!」

 

 十分に威力と体重の乗った上段からの一撃を、影の騎士は片手に持った魔戒剣で軽々と受け止め、無造作に弾き返す。

 反撃の軌道は上方から斜め下――首刈を意図して振るわれる剣筋を、少年は屈み込みながらの前進で回避。そのまま影の騎士の背後を取り、好機を逃さず左方向に振り抜く水平斬り(ホリゾンタル)を振るう。

 もし相手が常人であれば、この時点で胴を裂かれて終わっていただろう。ただ、魔戒剣の使い手が常人であるはずがない。少年が自身の後方に抜けた次の瞬間にはもう体勢を立て直していた影の騎士が、その場で体を回転させながら右方向に抜ける水平斬り(ホリゾンタル)を振るう。

 

(――速い!)

 

 二振りの魔戒剣が交錯し、甲高い金属音を放ちながら互いの剣筋をずらした直後。剣の使い手達が選択したのは、共に水平斬り二連撃(ホリゾンタル・アーク)、更に軸足とは逆の脚による中段蹴撃(ミドルキック)。2秒に満たぬ僅かな内に、鋼の刃に金属音を、鋼の如き肉体に激突音を奏でさせながら、生者と亡者は互いの技を互いの技で無力化しあう。

 そうして剣を交えること、更に一合。互いのちょうど中間、中段の位置で、二振りの刃が鍔迫り合う。ただ、傍目には互角に見えようが所詮は子供と大人、その膂力の差は歴然。少年が両手で押し込む渾身の刃を、影の騎士は相変わらず片手で止めている。

 クロの少年と、黒い大人。両者の間にあるのは、生と死を分ける文字通りの死線。鋼色をしたその境界線は、互いの筋力の差というシンプルな判定に従って、徐々に、徐々に、少年を死の側へ引き入れんと近づく。

 

(力比べじゃ、勝てない……このままじゃ押し切られる!

 ならいっそ……賭けてみるか!)

 

 死神が命を刈り取らんと迫りくるこの刹那。少年は両腕に込めた力を、敢えて緩める。

 その一瞬を逃す事無く、影の騎士の刃が押し込まれる。それと同タイミングで少年は両肘を曲げると、腕を身体の側に引き込みながら短剣の柄を上げ、切っ先を地に向けて思い切り傾ける。さながら時計の短針が文字盤の"5"を指す際のように大きく傾けられた剣が、影の騎士の膂力によって押し込まれる長剣の刃を受け流し、無数の火花を産みだす。

 

「はあッ!」

 

 地へと滑り落ちる長剣と入れ替わるようにして、少年はその場で跳躍。影の騎士の上方を取ると、フードに覆われた頭部めがけて魔戒剣を振り下ろす。

 重力加速を乗せた、ソウルメタルの短剣による必殺の垂直斬り(バーチカル)。それに対抗しうるソウルメタルの長剣は、ようやく地に深々と突き刺さった所。とてもではないが迎撃に間に合うようなタイミングではない。

 影の騎士を斬り裂く一撃が、決まる――そう、少年が確信した刹那。影の騎士は右手を柄から離すと同時に、左手を上方に向けて振るう。無手による破れかぶれの迎撃――そう見えたのも柄の間、影の騎士の左手の中に、騎士が現れた時と同じ漆黒の煌きが凝縮し、はっきりとした形を造る。

 

「なっ――ぐあぁッ!!」

 

 突如として顕れた漆黒の物体が、攻撃動作に入った少年の胴を打ち据える。防御不可能なタイミングでまともに攻撃を喰らった肉体は大きく吹き飛ばされ、騎士達の墓標を複数個なぎ倒しながら地面に叩きつけられる。

 

「……なんだよ、あれ……!」

 

 打たれた脇腹から発せられる痛みに苦しめられながら、少年は短剣を支えになんとか立ち上がる。

 その視界に映るのは、地に突き刺さった魔戒剣を悠々と右手で引き抜く影の騎士の姿。その左手に逆手で握られているのは、剣と対を為す存在。少年を打ち据え、宙より叩き落とした武具ならざる武具。

 

(あれは……魔戒剣の、鞘……?)

 

 柄、そして騎士同様、この世の闇を凝縮し尽くしたような黒色に染め上げられた飾り気の無い鞘。

 魔戒剣の刀身に比べると一回り大きいその鞘を、影の騎士は手の中でくるりと回し、鯉口より少し奥を握りながら逆手から順手へ持ち替える。

 右手に剣を、左手に鞘を。左右の手に共に武具を構えた、攻守一体にして常道を外れた戦闘技術(ユニークスキル)こそ――。

 

「まさか――二刀流!?」

 

 辛うじて戦闘の構えを取った少年へ、影の騎士は駆けつつ一気に間合いを詰める。

 振るわれた魔戒剣が放つのは、右斜め下から斬り上げる軌道を描く一撃。それに短剣の刀身を合わせ、滑らせながら受け流し、反撃――の選択肢を、本能的な怖気に従い捨て、バックステップ。直後、少年がいた空間を、左から振るわれた漆黒の一撃が薙ぐ。

 

(避けきっ――なっ!?)

 

 少年の右脇腹を強かに打ち据えていたはずの打撃を回避し、今度こそ反撃に転じようとした直後。離れた間合いを喰らい尽くす貪欲な踏み込みと共に、影の騎士が右の剣を振り下ろす。右肩ごと心臓までを斬り裂かんとする強烈なその一撃を、少年は咄嗟に短剣で受け止める。

 ソウルメタルの刃同士がぶつかり合い、少年の耳元で甲高い金属音を上げる。

 

(くそっ……隙がない!)

 

 鋭い三連撃(シャープネイル)をぎりぎりの所で受けきりながら、少年は内心で歯噛みする。右を受ければ左。左を避ければ右。絶え間なく振るわれる剣と鞘のコンビネーションには付け入る隙が無く、反撃の糸口どころか致命傷を避けるのが関の山。

 このままではジリ貧――肩口に近づき始めた長剣を、両腕で必死に押し返そうとしながら、少年は必死に打開策を探る。だが、彼が勝利の手段を見つけるよりも先に、影の騎士が動く。

 左を避ければ、右が来るように。右を受ければ――次に来るのは、左だ。

 

(しまっ……)

 

 右へと振り抜かれていた影の騎士の左腕が、水平軌道で再び振るわれる。魔戒剣に意識と両腕を持って行かれ、防御の手段を喪った少年の無防備な左胴へ、漆黒の鞘が叩きつけられる。

 着撃の直後、影の騎士はそのまま鞘を引き、体制を崩した少年の鳩尾を(こじり)――剣の切っ先側にあたる鞘の先端部――で突き穿つ。それは、背まで貫かんばかりの重い一撃。

 

「かはっ――」

 

 少年の体が「く」の字に折れ、横隔膜に伝わった衝撃が肺の空気を強制的に排出させる。過重なる三連撃(サベージ・フルクラム)――下段から上段へ垂直に振るわれた最後の一撃が、もはや抵抗できぬ少年の肉体を真後ろに弾き飛ばす。

 辛うじて意識こそ保っていたものの、受け身を取れるような体力はもはや残っていない。技の威力にされるがまま、その体は墓地を囲む大木の幹に叩きつけられる。

 反動と重力に従い、地面に滑り落ちようとした少年の体に向け、影の騎士は魔戒剣を投擲(シングルシュート)。弩より放たれた矢の如き速度で飛ぶ鋼の剣が、少年の左肩に切っ先からハバキまで深々と突き刺さり、その体を幹へと縫いとめる。

 

「――っ゛、あ――あ゛あ゛あ゛ぁぁぁあああああ!!!」

 

 こうなる前に意識を手放せなかったのは、不幸だったのかもしれない。

 裂かれた筋肉組織と、砕かれた骨の不快な感触。痛覚神経の中を奔る無数の信号が、少年には到底耐えきれぬ痛みの嵐となって襲い来る。縫いとめられたのがぎりぎり地に脚が付く位置にだったおかげで傷口に全体重が掛かる事は無いものの、それでも傷口からはどくどくと血があふれ出し、煉獄の炎に焼かれるような激しい痛みが脳神経を蹂躙する。

 身動きを封じられ、苦痛に呻く少年。その彼が取り落とした短剣を拾い上げ、影の騎士が静かに迫り来る。短剣のリーチで少年にトドメを刺せる距離にたどり着くまで、その足取りならばあと20歩。

 これを抜ければ、まだ助かる道はある――動きを封じる鉄杭へと繋がる黒い柄を、なんとか握った右手に残った力の全てを込めようとして、少年ははたと動きを止める。

 

(これを、引き抜く……?)

 

 生存を望むのならば、達成しなければならぬ必須条件。

 そのあまりの重さに、かけた手が止まる。

 

(……無理だ。できるわけ、ないだろ)

 

 そうだ。抜けるわけがない。

 この剣は彼を認めなかった。彼が騎士たりうる存在だと認めなかった。彼が生きるに足る存在だと認めなかった。

 剣が告げる。『お前に生きる価値はない』と。『お前はここで死ね』と。

 だから、きっと。父の亡霊がこの世にまろび出たのも、生きるに値しない少年に引導を渡すため。

 かつてその命を投げ打ってまで少年を救った存在(ちちおや)に、生きる事を否定されているのだ。ならば――これ以上、生き延びようとする必要がどこにあるのだ?

 

(ああ……もう、終わっても、いいよな)

 

 力を失った右腕が、柄を離れてだらりと垂れ下がる

 僅かに残った意地(プライド)が、少年を支えていた全てが、音を立て粉々に砕け散っていく。

 魔戒騎士になる事が、己の使命だと信じた。両親の犠牲が無駄ではなかった事を証明するのが、己の存在意義だと信じ続けてきた。二人分の命を喰らって生き延びた、一人――釣り合いの取れぬ天秤の片皿に、浅ましくしがみつき続けていい理由だと信じてきた。

 結局、そうはなれなかったのだ。

 少年の人生には、何の意味も無かった。

 なら、ここで終わるのも仕方ない。立ち続ける理由も、進み続ける理由も、もうどこにも無いのだから。

 

(……)

 

 諦めてしまえば、何もかもが楽になった。

 もう、辛い鍛錬を続ける必要もない。顔のない父母の悪夢に魘されて飛び起きる必要もない。騎士になれなかったらなどと考える必要もない。

 迫りくる安らかな終焉の足音を聞きながら、少年は目を閉じる。もう二度と、この目を開くことはないのだろう。草地を踏みしめ、少しずつ近づいてくる足音を感じながら、静かにその時を待つ。

 必殺の間合いまで、あと10歩――聴覚が伝える情報と、最後に見た光景から、少年は運命までの距離を測る。全てを諦めたこの状況でも、訓練の末に染み付いた癖だけはどうしても抜けないらしい。

 かさり、かさりと、草地を踏みしめる音が6度。視覚を封じた分、鋭敏になった聴覚が捉えるのは、短剣の刀身が振りかぶられるかすかな音。その後に続くのは、残り4歩の間合いを一気に詰める踏み込みの音と、致命の一撃が振り下ろされる風切り音。

 それこそが彼の無意味な人生を終わらせる、死の音。

 ――そうなるはずだった。

 

「……クロ?」

 

 聴覚が捉える。この場に響くはずのないその声を。

 驚愕に見開かれた視界が捉える。この場にはありえざるその姿を。

 いつものように白いタオルと水筒を携えた、未来の魔戒法師――少年がこの半年、拳を交え続けてきた少女。その視線が捉えるのは、肩に剣を突き立てられた少年と、少年の首間近に短剣を突きつける影の騎士の姿。

 

「クロ!」

「来るなっ! 逃げろ!!」

 

 少女が叫ぶ。

 少年の警告を無視し、少女は手にしていたタオルと水筒を投げ捨てると、右手に魔導筆を握り、左手の指の間に、八卦符を4枚握る。

 彼女は理解してしまったのだ。少年の命が、今まさに理不尽に奪われゆこうとしているのだと。その理不尽を許さない意志と、理不尽に抗うための力を持つ少女は、左手をシャープな軌道で振るい、握っていた八卦符をまとめて投擲する。

 宙を駆ける八卦符が光り輝き、殺意を込めた弾丸となって影の騎士を狙う。迫りくる法術の弾、その数4発。

 狙い過たず迫りくる殺意に対し、騎士の態度はただひたすらに悠然としていた。一発目を無造作に首を傾けて躱し、二発目と三発目は右の剣を軽く振るって切り払う。そして鞘を真上に放り投げると、最後の四発目を空いた左手でつかみ取り、紙屑か何かのように握りつぶす。

 戦場に――あるいは、処刑場に――乱入してきた少女を新たな獲物と見定め、影の騎士は風車のようにくるくると回転しながら落ちてきた鞘をつかみ取ると、静かな歩みで少女との間合いを狭める。その足取りはまるで、夏の日差しの中に現れる蜃気楼のごとく捉えようがなく、それでいて隙らしい隙がない。

 

「やめろッ! あんたの相手は俺だろう、父さんッ!!」

 

 辛うじて動く首を回し、離れゆく影の背に向けて少年は叫ぶ。無論、帰る声は無い。

 放たれ続ける光弾を悠々といなしながら、影の騎士は一歩、また一歩と少女との距離を詰めていく。己の得意とする術が通じないことに歯噛みしながら、少女はその場に立ち止まったまま、死の運び手に抗い続ける。

 その理由は、恐らく。

 

(俺を……助ける、ため……?)

 

 己を餌とし、影の騎士を少年の側より引き離す――脚を止め、通じない攻撃を繰り返すという、普段の彼女とは違いすぎるそのスタイルから、少年はその意を汲み取る。

 彼女は信じているのだ。影の騎士を引き離せば、少年が肩に突き刺さった剣を抜く機会が生まれると。

 彼女は知らないのだ。この剣は、少年には決して抜くことのできぬ剣だという事を。

 故に――彼女は、死ぬ。少年が生き延びると信じ、最後まで無駄な抵抗を続けた挙句、騎士の刃に命を絶たれるのだ。

 

(やめろ……やめてくれ……)

 

 ついに符も底を尽きたのか、魔導筆から放つ光弾で攻撃を続ける少女の姿と、その光弾を事もなげに払いのけながら一歩、また一歩と間合いを詰めていく影の騎士の姿が、最悪の論理的帰結を導き出す。

 

(また……また、俺のせいで、誰かが死ぬのか……!?)

 

 己がいたせいで、母は死んだ。

 己を救うために、父は死んだ。

 そして今、己を守るために、少女が死にゆこうとしている。

 少年のせいで、少年の弱さのせいで、また一つ、かけがえのない命が失われようとしている。

 

(そんな……そんなの……)

 

 鋭い痛みが、左肩から奔る。

 気付けばいつの間にか、右手が魔戒剣の柄を握っていた。

 心臓の拍動が腕を通し、魔戒剣を通し、痛みとなって少年を苛む。それでも、手は離さない。

 

(――認めない! 絶対に!)

 

 父母を失ったとき、少年は何も知らず、何も出来ぬ赤子だった。

 だが、今は違う。違うはずだと、叫ぶ何かがある。

 砕けたはずの魂の中で、熾火のように消えぬ何かがある。全てを諦めたはずの右手を、突き動かす何かがある。

 少年は再び、目を閉じる。安らかな永遠を待つためではなく、苦痛に満ちた一瞬を得るために。

 自らの内を顕したかのような暗闇の中で、少年は意識を集中する。深く息を吸い、吐き出し、荒れた呼吸を整える。

 

(この剣を、操るんだ)

 

 握りしめた硬い柄の感触と、刀身が突き刺さった傷口から伝わる痛みに、意識を集中する。

 そして、想像する。魔戒剣を引き抜く己の姿を。

 だが――それでは、足りない。魔戒剣は微動だにしない。

 

(まだだ……まだ、終わりじゃない)

 

 想像する。魔戒剣を引き抜き立ち上がる、己の姿を。

 想像する。魔戒剣を構え、影の騎士に立ち向かう、己の姿を。

 想像する。今まさに惨殺されんとする少女を守るため魔戒剣を振るう、己の姿を。

 少年の足掻きに――ソウルメタルが、応える。

 

「――はぁ゛、うッ!」

 

 それは1ミリにも満たぬわずかな距離、1秒にも満たぬわずかな瞬間。なれど、魔戒剣は動いた。少年の意志に従い、ソウルメタルの刀身は、確かに動いた。

 傍目から見ているだけでは決してわからない、かすかな変化。だが、それが勘違いでも、妄想でもない事は、傷口より響く鋭い痛みがはっきりと証明している。

 

(もっと……もっとだ……! 今のままじゃ、足りない……!)

 

 想像せよ、と。

 少年の心の内に巣食う影が問う。

 何のために剣を執るのか、誰がために剣を振るうのか。

 その答えを、その先にあるものを示してみせよと問う。

 

(俺は……俺が、魔戒剣を振るう理由は……)

 

 厳格な導師の姿をとった影が問う。

 生きるに足る理由が己にあると示すためか、と。

 

(…………違う)

 

 その姿すら知らぬ母の姿をとった影が問う。

 己を殺さんとする父の亡霊を斬るためか、と。

 

(……違う)

 

 壊れかけた少年の姿をした影が問う。

 騎士となりホラーと戦い続けた果てに擦り切れて死す事で父母に償うためか、と。

 

(違う)

 

 尊敬すべき少女の姿をした影が問う。

 殺されゆく運命にある少女の代わりに敵と刺し違えるためか、と。

 

(違う!)

 

 内なる影の問いに答える度に、傷口より激痛が走る。かつて少年が抱いていた答え、剣を執る意味、生きる理由。痛みと共にその全てを否定し尽くす。

 痛みを和らげるもの(ペイン・アブソーバー)などいらない。この痛みこそが、少年が生きている証。血にまみれながらでも、前に進まんとしている証なのだから。

 ――気付けば、曲げていたはずの右腕は限界まで伸びきっていた。

 閉じていた瞼を上げれば、血の赤を纏うソウルメタルの刃、そのハバキから刀身の半ばまでが、左の視界にはっきりと映っている。

 しかし、長い刀身を持つソウルメタルの剣は、未だ少年の体を大木の幹に縫い止め続けている。子供の域を出ない少年の腕では、これ以上剣を引き抜く事は叶わず、身動きも取れない。

 少年は、魔戒剣の柄から手を離し――両刃の刀身を、右手で思い切り握りしめた。

 

「っぐ――あああああああああ!! っうっ゛っがあああ゛あ゛あ゛あああ!!!!」

 

 筆舌に尽くしがたいほどの激痛が、容赦なく少年を襲う。

 皮が裂け、肉が斬られ、握りしめた指の隙間から新鮮な赤い血が噴き出す。

 武具として鍛造されたソウルメタルに触れた掌がじりじりと灼ける。

 それでも。

 

(それでも――)

 

 流れ出る血。止めどなく襲い来る痛み。理性は幾度となく限界を訴え、意識は苦痛に耐えかねて失神することを望む。

 それでも、少年は右手を離さない。砕けそうな程強く奥歯を噛みしめ、刃が食い込む右手を、前へ、前へと動かし続ける。

 砕けた左肩が、裂けた右手が、痛みを意味する無数の電気信号を送り続ける。その痛みを、欠片ほど残った意地でねじ伏せる。

 

(それでも、俺は――この剣を振るう!)

 

 痛みの中、内なる影が問う。

 星の光に彩られた漆黒の鎧をまとう、騎士の姿をした影が問う。

 何故その剣を抜くのかと問う。安らかな死を拒み、苦痛に満ちた生を選ぶ理由を問う。

 ――答えは、決まっていた。

 それは、生きる理由を得るためではなく。敵を斬るためではなく。死して償うためではなく。

 

(もう誰一人、見殺しにしないために!

 理不尽な死を与える者から、誰かを守り、戦い続けるために! 

 俺は――生きる! 生きて、魔戒騎士になる!)

 

 誰も死なせぬために、そして、誰かを守るために。少年は剣を執る。

 たとえ、それがどれだけ苦難と絶望、痛みと困難に満ちた道であろうと構わない。彼は今、ようやく決意したのだ。

 『守りし者』として、その道を進み続けると。

 そして――魔戒剣の切っ先は、ついにその姿を表した。

 

「ぐ、う゛っ゛……はあっ、はあっ……」

 

 ようやく自由を取り戻し、少年は崩れ落ちそうな膝を震わせながら両足で大地を踏みしめる。落着の衝撃で、傷ついた右手から一瞬力が抜け、握りしめていた魔戒剣が地面へと落ちる。

 剣が抜けた左肩の傷口からは血が流れ出し、右手の傷口からも相変わらず流血が続く。少年は額に巻いた黒い鉢巻きをむしり取るように外すと、その長い一端を口で噛んで抑えながら、右手の傷口へ乱雑に巻き付ける。

 きつく巻かれたそれは、包帯の代わりではなく血で柄が滑るのを防ぐためのもの。血の赤と布の黒に染まった手で、剣の柄をしっかりと握る。

 その手に重さを感じさせながらも、魔戒剣は至極簡単に持ち上がった。落下の衝撃で血が祓われ、鈍く輝く鋼の刀身が本来の姿を取り戻す。

 

「はあっ……」

 

 右手の痛みを堪え、少年は静かに息を吐きながら構えを取る。

 右半身を引き、左半身を前に出すその構えは、弛まぬ鍛錬の中で刻み込んだ基本の構え。

 少年は身を僅かに屈めながら、魔戒剣の刀身を地面と平行になるように傾ける。

 切っ先を向ける先は、影の騎士。

 その背に向け、駆ける。

 

「――っ!」

 

 敵は既に攻撃態勢。背を向けたその様は、まるで奇襲してくれと言わんばかり。心臓であれ、脳天であれ、首であれ――急所を狙うにはこれ以上ない絶好の機会。

 勝利へと続く10歩の間合いを四度の踏み込みで貪り尽くし、少年は最後の一歩で地面を蹴り飛ばして跳躍。影の騎士の背後上方を取り、右腕を振りかぶる。

 視界に映るは、影の騎士の無防備な脳天――そして、その向こうにいる少女の姿。打ち倒されて尻餅をつき、怯えた表情で騎士を見上げるあの子の姿。身を庇う細腕ごと、少女の頭蓋を砕くだけの威力を込めて振り下ろされようとしているのは、黒い鞘を握った影の騎士の左腕。

 これ以上無い勝機。二度と無い奇襲のチャンス。

 ――何を斬るべきかなど、迷うべくも無い。

 

「はあああああッ!!」

 

 咆哮が気力を生み、気力が傷ついた身体を動かす。

 腰の捻りに右腕の振り抜きを合わせ、更にソウルメタルの重量操作による遠心加速を載せる。動かぬ左肩から先をそのままカウンターウェイトとして用い、少年は自らの身体ごと舞うように回転しながら、魔戒剣に必殺の剣閃を描かせる。 

 その絶刃が狙うのは、影の騎士――その、左腕。

 鋼の円周軌道が、肘より僅かに内を一刀のもとに断つ。斬られた腕より先が、握ったままの鞘ごと慣性に従って明後日の方角に吹き飛んでいく。

 

「――しゃあッ!!」

 

 影の騎士を飛び越えて着地すると同時に、少年は右脚を軸に180度回転しながら水平軌道斬撃(ホリゾンタル)を振るう。金属同士の激突音が響き渡る中、斬撃を短剣の刃で受け止めた影の騎士がバックステップ。眼前の獲物を諦め、間合いを取ろうとするその姿は、少年がようやくもぎ取った優勢の証。

 

「逃がすかッ!!」

 

 回転の反動を生かしながら右腕を引いて、再度思い切り地を蹴る。その体勢から流れるように放たれるのは、突進の威力を載せた刺突(レイジスパイク)

 闇夜を駆ける一筋の流星の如き剣が、退きゆく影の騎士を追う。瞬時に縮まる相対距離の中、突き込まれる長剣の切っ先に、影の騎士は下段からの斬り上げをぶつける。

 過たず長剣の刺突軌道を逸らし、返す刃で振り下ろされる一撃を、少年もまた下段よりの剣閃でもって受け止める。

 長剣と短剣。二振りの刃が激突し、黒衣をまとう二人の騎士の間で鎬を削る。

 

「――あんたに……父さんに斬られて死ぬなら、それもいいと思ってた。

 どうせいつか死ぬんだったら、今ここで死んだって同じだと思ってた」

 

 脚を止め、剣を剣で封じ込めあう。

 目の前に相対するは黒い影。父親かもしれない、常識の埒外にある存在。

 その姿に――もしかしたら、かつての己自身に――静かな熱と共に語りかける。

 

「正直、心のどこかでは今でもそう思ってる……でもさ。やっぱり、嫌なんだよ」

 

 片腕無き騎士が、片腕を封じられた騎士を、その膂力で以て僅かに押し返す。踏みしめた地面を爪で抉るようにして、少年は抗う。

 退くわけにはいかない。何があろうと、退くわけにはいかない。彼はもう、背負ったのだから。

 

「今ここで俺が斬られたら、次に斬られるのは、きっとあの子だ。

 俺が弱かったせいで、死ななくていいはずの誰かが死ぬ……そんなのは、もうごめんだ」

 

 鍔迫り合う剣を支える右手に、混じり合う汗と血が伝う。

 

「――もうこれ以上、俺のせいで誰かを死なせない! 死なせてたまるか!

 理不尽に命を奪われる誰かが俺の側にいるなら、何があっても守ってみせる!!」

 

 臆病な過去を認め、わからぬまま怖がっていた不安を振り払う。ソウルメタルが形を為した確かな誓いを握り、苦しみに満ちた未来に手を伸ばすために。

 鳴り響く衝動(さけび)が、始まり(ちかい)の音に変わり――影の騎士は、気圧されたかのように、ほんの僅かにたじろぐ。

 そこに生まれたのは、一秒にも満たぬ僅かな隙。なれど、この至近距離での交戦においては致命的な空隙。

 

「だから――」

 

 伸し掛かるように振り下ろされていた剣を押し飛ばし、少年は影の騎士の胴に左の回し蹴りを叩き込む。そうして騎士の体勢が僅かに崩れた瞬間、更に追撃の右後ろ回し蹴りを放つ。

 脚撃二連の強襲によって、突進に十分なだけの間合いが開いた瞬間、少年は駆ける。構えは基本のそれとほぼ同様。ただ、右手の剣は肩の上まで大きく引き、刺突後の停止と回避を捨てて強く踏み込む。

 

「――あんたを」

 

 背にフル稼働のジェットエンジンを背負ったかのような急加速と共に、少年は飛ぶように進む。その剣が描くのは、魔竜すら打ち倒す重い一撃(ヴォーパル・ストライク)

 体勢を戻しきらぬ影の騎士が苦し紛れに振るった短剣を天高く弾き飛ばしながら、少年の剣が、騎士の腹部を深々と貫く。

 右腕に伝わる、はっきりとした手応え。

 体ごとぶつかるほどの勢いで叩き込んだ一撃が、墓の最奥部に生える木々へ縫いとめるかのように影の騎士を押し込む。その手応えは重い。なれど、影の騎士は未だ健在。彼を打ち倒す事を望むのなら、もう一撃、強力な技を叩き込む必要がある。

 どんな剣を振るえばいいかは、その目が覚えていた。その体に奔る痛みが覚えていた。

 

「ここで!」

 

 深く突き込んだ剣を、絞り出した最後の力で右水平に振り抜く。振り抜きの余勢を、そのまま右足を軸とした回転の動力に変えて少年はコマのように全身を回す。傷口から吹き出た血が花弁のように風に舞う中、回転が終端を迎える直前、少年は切っ先を下段に持っていき、垂直跳躍と共に振り上げる。

 左下段より奔る鋭い斬撃が、影の騎士の体を斬り裂く。そうして、振り上げた剣をそのまま右肩に担ぎ直しながら、少年は飛ぶ。決着を、決別を齎す、最後の一撃(ラスト・アタック)のために。

 

「斬る!!」

 

 担いだ魔戒剣に落下加速を載せ、渾身の力を込めて振り下ろす。

 過重なる三連撃(サベージ・フルクラム)――父が振るった剣技を、己の剣技と為して振るう。

 背負った覚悟と同じ程に鋭く重い決意の剣閃が、影の騎士を頭から胴まで縦一文字に斬り裂く。斬撃の余波を受け、背後にあった大木に深い裂け目が刻まれ、魔戒剣の切っ先が触れた地面が小さなクレーター状に抉れる。

 漆黒の肉体に、ソウルメタルの剣筋が産んだ光を描きながら――影の騎士は、顕れた時のそれを逆回しにするかのように、塵となって霧散し、消滅した。

 

(……終わっ……た……?)

 

 影の騎士。

 もしかしたら、父親だったかもしれないもの。

 その姿も、気配も、もうどこにもなく。残ったのは全身を襲う痛みと、耐え難い疲労。何かを斬り裂いた確かな手応え。

 

(ああ……終わった、のか……)

 

 遠くから、誰かが呼んでいる気がする。

 その声に応ずる余力すら失い、少年は地面に両膝をつくとそのまま倒れ込み――意識を暗闇の中へと手放した。

 

 

 

――――――

 

 次に少年が目を覚ましたのは、それから3日経った後のことだった。

 後から聞いた話によると、影の騎士と決着を付けたあと、自分は魔戒剣を固く握りしめたまま気絶していたらしい。

 なかなか帰ってこない少年を心配して墓地へとやってきて、影の騎士との戦闘に巻き込まれたという少女。彼女も少年を運び出そうと四苦八苦したらしいのだが、女性がソウルメタルの武具を操れるはずもなく。

 結局、少女は日頃携帯しているというありあわせの薬液で最低限の応急処置を施したあと、大急ぎで導師の家まで戻る途中、帰りが遅すぎる事を心配してやってきた導師と出会い――そうして、少年は無事に回収されたらしい。

 師匠の治療を受けながら目を覚ますまで3日。こうしてまともに動けるようになるまで更に1日を要した。

 

「……助かったよ」

「普通、逆じゃない? その台詞」

 

 少年の言葉に、少女が怪訝な顔をして振り返る。

 

荷物(これ)の話じゃなくてさ」

 

 左肩に担いだ荷物を軽く揺らしながら、少年は首を横に振る。

 彼と彼女が立っているのは、山道を下りた先にある分かれ道。修行場と、人里と、そして閑岱へと続く道が交差する三叉路。

 名も無き騎士達の墓地での戦い以来、延び延びになっていた彼女の旅立ち。本来ならとっくに閑岱についていなければいけない日取りなのだが、少年がちゃんと回復したのを確認してから旅立ちたいと少女自身が強く主張したため――というのは導師の弁であり、事実かどうかはだいぶ怪しいのだが――結局、出立は今日まで繰り下げとなっていた。

 その見送りと荷物持ちを兼ねて、少年は少女と共に山道を下ってきていた。

 

「助かったよ、この間は。君が来てくれなきゃ、俺は死んでた」

「それは私も一緒。あなたが戦ってくれなかったら、私は死んでた。

 ……この話、堂々巡りになるからやめましょって、昨日話さなかったかしら?」

「ああ、そうだな。だから、それとは別の話」

 

 その整った顔に当惑の表情を見せた少女に頷きながら、少年は改めて口を開く。

 

「あの時、俺さ。正直、ここで死んでもいいと思ってたんだ。

 魔戒剣も全然操れなかったし、父さんに殺されるんだったら――それでもいいと思ってた」

 

 あの影の騎士が、恐らくは父の亡霊であろう事は、もう彼女に話してあった。あの戦いの場で少年が口走ったことも聞こえていたらしく、それほどの驚きを以て迎えられる事はなかった。無論、荒唐無稽な話ではあるが、両親の墓から現れ魔戒剣を軽々と操ってみせた存在なのだ。そう解釈できてもおかしくないだけの余地はある。

 

「でも君が来てくれて、必死に戦っている姿を見たら……なんていうか、俺もこんなところで死んでられないって、思えてさ。

 ……そしたら、剣も操れた。だから、上手く言えないけど……助かった(・・・・)

 

 伝えるべき感謝の思いは無数にあれど、口下手な少年が伝えられたのはそのほんの一部でしかない。至極曖昧な言い方になってしまい、意図がどこまで伝わったのか自信はなかったが、少年にはこれ以上の言葉は思いつかなかった。

 

「……ふうん」

 

 少年の言葉にじっと耳を傾けていた少女は、不意に体を近づけると、少年の頬に手で触れた。

 

「なんだよ、いきなり」

「少しは、マシな顔になったわね」

「マシな顔って……どんなだよ」

「『生きてる意味がどこにもない』なんて、覚めきったこというようなヤツよりはマシな顔よ」

 

 昔の自分が言ったことを持ち出され、少年は思わず渋面を造る。その顔がおかしかったのか、少女はくすりと微笑むと、その頬から手を離した。

 

「ねえ、あんたの名前、教えて。もう『クロ』じゃないんだし」

 

 少女の細い指先が、少年の額を指し示す。

 この半年、いつも身につけていた黒い鉢巻は、先日の戦いで傷口に巻きつけた際に血まみれかつボロボロになってしまい、とてもではないが使い物にはならなくなってしまった。

 加えて、訓練生の証であるあの鉢巻を、魔戒剣を操れるようになった今も着け続ける必要もないだろうと導師に言われたこともあり、少年は額に鉢巻を巻くのをやめていた。

 彼女は間違いなく、立派な魔戒法師になるだろう。ならば、ここで己の名を明かしても何の問題もない。瞬時にそう判断し、少年はためらうことなく口を開いた。

 

「和人。桐ケ谷和人。それが、俺の名前」

「和人……うん、いい名前ね。あなたにぴったり」

「ありがとう。……それはそうと、さ」

「なに?」

「……まさか、俺にだけ個人情報開示させて終わる気か?」

 

 勢いに任せた言葉は、どこか挑発めいた響きを伴って口からこぼれ出た。その意図は割と正確に伝わったらしく、少女の唇の端が僅かに吊り上がり、どこかいたずら好きな子猫を思わせる笑みとなって返ってくる。

 

「あら、いいの? 私の名前を知ったら、あんた――」

「なるさ。誰にも文句を言わせない、一人前の騎士に。

 君が立派な魔戒法師になるのと同じように、俺だってなってみせる」

 

 かつて、生きる理由だと、生き続けていい理由だと思っていた儚い願い。

 その願いは今も変わらない。変わったのは、何の為にその夢を願うのかというほんの小さな部分。

 己の死を許すシルシを得るためでなく、誰かの生をつなぐために、夢を目指す。変わったのはたったそれだけだ。

 

「……詩乃。朝田、詩乃よ」

「そうか。……いい名前だ」

 

 少女は――朝田詩乃は、少しばかり照れくさそうに名前を教えてくれた。半年間、寝食を共にし、苦難を乗り越え、ようやく少年は、少女は、互いの名を知った。

 

「和人。私の名前を知ったからには、ちゃんと立派な騎士になりなさいよ。

 落ちこぼれたあんたの記憶消しにいくなんて、絶対にイヤよ」

「必ず一人前になるから、そんな心配するなって」

「いつまでに?」

「いつまでって、そうだな……『次に会うとき』までに、ってことで……どうかな?」

 

 曖昧な、そして、訪れるのかどうかもわからないタイムリミット。それは近くにはあらず、なれど、遠からず――そんな時間を経た先に訪れるだろうという根拠の無い予感が、和人にはなんとなくあった。よしんば、その予感が外れたのなら、こちらから会いに行けばいいだけだ

 詩乃は少しばかり迷ったあと、首を縦に振り、条件を呑んだ。――追加条件付きで。

 

「なれてなかったら、一生私の助手(スポッター)として働いてもらうから、そのつもりでいてね」

「……ジョークだよな?」

「本気よ」

 

 詩乃が向ける満面の笑みと共に、和人が背負う物がまた一つ増えた。

 

「……わかったよ。次に詩乃とあった時、俺が一人前になれてなかったら、助手でもなんでもなってやる」

「約束よ? あとで『忘れてた』なんて言うのは、ナシ」

「忘れないよ。たとえ、何年あとになっても」

 

 和人は右手を持ち上げ肩の後ろに持っていくと、拳を軽く握る。

 

「――こいつを抜く度に、君の事を思い出すからさ」

 

 握った拳でこん、こん、と。背負った魔戒剣の柄を、二度軽く叩く。

 12歳の体格には少し大きすぎるその長剣は、和人が受け継いだ魔戒剣。漆黒の鞘に収められた、和人が背負い続けてゆく誓い。永遠に消えることなき約束の証。

 この剣を抜く度に、きっと彼は思い出すだろう。救われたことを、そして、守りし者としての誓いを。

 

「だから、詩乃。君も修行をがんば……」 

 

 場所は異なるとも、共に修行の道を往く仲間に励ましの言葉を送ろうとした直後。

 相変わらず満面の笑みを浮かべたまま、詩乃は一切の事前動作無しでいきなり飛び込んできた――正確に言うのであれば、抱きついてきた。

 

「ふふっ」

「しししし詩乃!? 詩乃さん!? ぁ朝田さん!? なっなっ、何を!?」

 

 突然の行動に当惑し、和人は思わず素っ頓狂な声を上げていた。引き剥がそうにも左手と左肩で荷物を担ぎ、右手をちょうど上げていたタイミングで突っ込んでこられてはどうしようもない。

 無防備な和人の首に詩乃の両腕が回り、互いの頬をすり合わせられそうな程に距離が縮まる。

 超至近距離から奇襲を決めたせいか、妙に上機嫌そうな吐息を漏らしている詩乃。彼女が和人の耳元で囁くのは、問いかけへの答えなどではなく。

 

「ね、和人」

「はい? ああ、うん。どうした?」

「次に会った時、和人(あなた)が一人前の魔戒騎士になっていたら――

 ――私、あなたの《シルヴァ》になってあげる」

 

 その意図を和人が確かめるより早く。詩乃は和人が運んでいた荷物を引っ掴むと、抱きつくのをやめて体を離した。

 そうして、魔導具など今後の修行生活に必要な物が詰まった旅行鞄を両手に提げながら、朝田詩乃は遠き修行の地へと旅立っていった。

 振り返ることのないその背が見えなくなるまで見送り、和人もまた修行の地へと戻っていく。

 共に己を磨き、一人前となって再会する日のために。

 

 朝田詩乃と桐ヶ谷和人の道が再び交わるのは、これより数年後の話。

 

 なお。

 別れの間際、彼女が()土産(みやげ)爆弾発言(グレネード)を残していった事を彼が理解するのは、これから数時間後の話。

 

 

 

――――――

 

「――以上、昔話でした」

 

 そういって昔話を締めくくり、朝田詩乃――シノンは残り少なくなった紅茶を飲み干し、空になったティーカップをソーサーの上に静かに置いた。

 シノンが知っている事はそのまま、知らない部分は和人から聞いた内容を参考に、明日奈が淹れる紅茶を2杯もご馳走になりながら、つらつらと話を続けてしまった。

 

「結局、あいつは約束をきっちり守った。だから、私も約束を守った。

 ……助手にしてやれなかったのは、ちょっと残念だけど」

「シノのん……その、ね。聞きたいことが、いっぱいあるんだけど……」

「でしょうね。でも、次に質問するのは、私」

 

 と、言ったはいいものの。実際の所、今のシノンにはこれといって質問したいことがない。質問権を放棄してもいいのだが、自分で言い出した手前、そのルールを自分から曲げるのはなんだか釈然としない。

 しばし視線を巡らせ、キッチンの隅にある大きな冷蔵庫を見た時――ようやく、思いついた。

 

「ねえ、明日奈。冷蔵庫に、ホールのケーキがあったけど……。

 あれって、もしかして……明日奈の手作り?」

「えっ? うん、そうだよ。私とユイちゃんで一緒に作ったの」

 

 予想外の質問に目を丸くしながらも、明日奈はシノンの問いに答える。

 

(……今度、作り方を教えてもらおう)

 

 シノンは内心でひとりごちる。

 悔しいとすら思えないほど、明日奈の料理の(スキル)はいい。人並み以上に料理ができると自負していたが、悔しいとすら思えないほどに圧倒的な実力差があることを認めざるを得ない。恐らくはスイーツ作りも達人――いや、廃人級の腕前なのだろう。

 己とは立っている場所が違う――昔、黒ずくめの誰かに味わわされたのと同じ感情と、こんな所で再会してしまった事に内心で笑いながら、シノンは視線で明日奈を促す。

 自分の手番は終わったから、次をどうぞ、と。

 

「シノのん」

「なに?」

「――《シルヴァ》って、どういう意味?」

 

 明日奈が堂々とぶつけてきた質問は、シノンの想定通り。

 

「パス」

「え?」

「だから、パス。最初に言ったでしょ? 答えたくない質問は、パスしていいって」

 

 鋭い刺突に似た質問をひらりと躱しながら、シノンは席を立つ。生殺し状態で焦らされる事になった明日奈を少しばかり気の毒には思うが、その答えはもうすぐ向こうからやってくる。

 

「ま。私に聞かなくても、ユイちゃんに聞けば一発でわかるわよ。

 そろそろ、起きる(・・・)はずだから」

 

 若干疑うような顔をしながらも、素直にリビングに向かう明日奈と別れ、シノンは屋敷の玄関へと向かう。誰かが結界を通り抜けた反応があったのは、今から10秒ほど前。そろそろあの黒ずくめが帰ってくる頃だと思い、屋敷を取り囲む結界に少しばかり意識を向けておいて正解だった。

 

(……到着まで、125秒ってところね)

 

 少し目を離すと、誰かの為に無茶ばかりする黒い騎士。彼の《シルヴァ》となって歩む日々は、幼いころに描いていたものとはだいぶ違い、予想外なことだらけだが――それでも、大切な日々である事にかわりはない。

 もう少ししたら、ユイを連れてやってくるであろう明日奈の為に、少しだけ場所を開けてやりながら、朝田詩乃は――シノンは、どんな風に出迎えてやろうか考えながら、桐ヶ谷和人が帰ってくるまでの数十秒間を微笑みと共に過ごした。

 

 

 なお。

 結城明日奈が、シノンにはぐらかされた問いの答えを知ったのは、桐ヶ谷和人が帰宅する約20秒前のことである。

 

――――――

 

 

《シルヴァ》

 

 旧魔戒語で『家族』を意味する言葉。

 桐ヶ谷和人がかつて失ったもの。向き合ったもの。かけがえのないもの。

 

 

 4:【蒼筆】 終

 

――――――

 

 願いを込めて、鋼を()つ。

 祈りを込めて、刃を(つく)る。

 それが、明日を守る剣になると信じて。

 

 次回 【想剣】

 

 その手に掴め、闇を祓う光。

 

――――――

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